三服の香り(伊勢七緒)
5.蛇の男
次の日、七緒は髪をおろしたまま出勤した。
髪留めを寒山から返してもらうのを、すっかり忘れていた。あれはスペアだった為、もう替えが無かった。
珍しい七緒の出で立ちに、色んな人が声をかけた。みんな褒めてくれたが、心境の変化に突っ込んでくる人もいた。
恋でもしたのか、と。
半分は正解だった。寒山が、綺麗だと褒めてくれた姿で居たい気持ちもあった。
おろした髪を褒められる度に、七緒の中に寒山との秘密が蘇り、優越感に似た満足感が体を満たした。
「おんやぁ、髪をおろしたの。かわいいじゃない」
隊首室で七緒を見て、開口一番に京楽も褒めてくれた。七緒は眼鏡を押し上げ、京楽を見た。
「流魂街に、髪留めを忘れて来てしまいまして」
七緒は敢えて、『落とした』ではなく、『忘れた』と言った。いつもセクハラする癖に、保護者面をする京楽への当て付けだった。
案の定、京楽の顔が一瞬で強張った。
「流魂街に、行っていたのかい?」
「何故京楽隊長に、私のプライベートを話す必要があるんですか?」
喧嘩腰だが、七緒の内心は勝ち誇っていた。
何時までも、子どもじゃない。あなたに言えない事をしても、責められる言われはない。
「何処に行っていたの」
七緒の反論を無視して、京楽は突っ込んで聞いてきた。恐らく、寒山の事は予想がついているのだろう。
何もかもが奔放な寒山に、女が近づくのが危険な事は、七緒だって理解できる。京楽が心配するのも分かる。だが、今の七緒に、京楽の心配はお節介以外の何物でもなかった。
火傷しようが、傷つこうが、私の勝手だ。
「放っておいてください」
七緒は京楽に背を向けて、足を踏み出した。
「ならなんで、僕に、流魂街に言ったなんて言ったんだ」
京楽が七緒の腕を掴んだが、七緒はその手を振り払った。
「あてつけです!!あなたが、何時までも私を子どもの様に扱うから!!!私は、死神で、副隊長です!!心配される筋合いはありません!!!」
悲しげな京楽の顔が見えたが、七緒は無視して隊首室を出て行った。
その夜、七緒は浴衣を風呂敷に包んで、流魂街に向かった。夜の流魂街が危険な事は百も承知だが、勢いに任せて精霊艇を飛び出した。
こうして集中すると、寒山の霊圧は遠くからでも分かった。
七緒は走って、寒山の霊圧の元まで急いだ。
寒山は、昨日と同じ家にいる様だった。
だが、一人じゃ無かった。
家の中から、叫ぶような女の喘ぎ声が聞こえた。それに合わせて、肌を打ち付ける、湿った衝撃音………。
何が行われているのか、見なくても分かる。
七緒は立ち尽くし、思わず風呂敷を落とした。
そしてそのまま風呂敷を拾うこと無く、来た道を走って戻った。
京楽に子ども扱いをされて、あんなにも腹がたったのに、大人の情事を目の前にしたら、恐怖で立ちすくんでしまった。
自分の幼稚さを、嫌でも認識させられた。
惨めで、悔しかった。
弄ばれたと思ったが、それでも会いたいと願ったのは、紛れもなく、自分。
寒山の奔放さは、こうなる前から知っていた。
恨む事はできない。
それからしばらく、七緒は髪を降ろして過ごした。寒山への未練は、簡単には断ち切れなかった。
鏡で自分を見る度に、寒山に触れられた感触を思い出した。
あまりにも、妖艶すぎた。
声も、体も、行動も。
寒山の背中の蛇は、寒山そのものだった。
蒸し暑い夕方、寒山は上半身を脱いで、木陰で座ってキセルを吸っていた。
「やあ。今日は髪をおろして来たね」
七緒は寒山に近寄り、立ったまま彼を見下ろした。
「……浴衣を、返さなくて、すみませんでした」
寒山はキセルを盆に置いて、七緒を見上げた。
「返ってきたよ。家の前で拾った」
虚ろな目をしている七緒を見て、寒山は口元だけで笑った。
「その目、いいね。とても、綺麗だよ」
情事を聞かれていたのを、寒山は気にもとめず、それどころか、嫉妬に沈む七緒を見て、喜んでいるのが分かった。
そうか、これが、この人のやり方なんだ。
そうは思っても、七緒はすでに離れられなくなっていた。
綺麗だと言われると、泣き出したい程に嬉しかった。
「今日はどうした?春水の話を聞きたい?」
前回の別れの時を忘れた様に、寒山は七緒に笑いかけたが、直ぐに嘘だと分かった。言わせる気だ。七緒が引けないのを、分かっているのだ。
「……秘密を、作りに………」
恐怖なのか、緊張なのか、七緒の声は震えた。
寒山の目は優しいが、その奥に暴力性を宿していた。人を支配する事に、喜びを感じる男なのだろう。
ヤクザなんだ。初めから分かってた。
京楽への当て付けなんて、幼稚な事をした自分を呪った。
寒山は立ち上がり、七緒の手を握った。
「今まで僕は、優しかった?」
思考を麻痺させるような声で、寒山は七緒に尋ねた。七緒の手は震えていたが、寒山から目が離せなかった。声が出せず、七緒は小さく頷いた。
「優しいままで、いてほしい?それとも、僕の、全てが見たい?」
寒山は、七緒の手を自分の胸に当てた。
この胸に頬をあて、この腕に抱きしめられた感触が、嫌でも蘇り、理性に反して、本能は寒山を求めた。
「………わ、たし…………」
答えを言いかけた所で、口を塞がれた。
目の前にいる寒山の目が、嬉しそうに見開かれた。
「この子に、何をしたの。寒山」
「……春水」
次の日、七緒は髪をおろしたまま出勤した。
髪留めを寒山から返してもらうのを、すっかり忘れていた。あれはスペアだった為、もう替えが無かった。
珍しい七緒の出で立ちに、色んな人が声をかけた。みんな褒めてくれたが、心境の変化に突っ込んでくる人もいた。
恋でもしたのか、と。
半分は正解だった。寒山が、綺麗だと褒めてくれた姿で居たい気持ちもあった。
おろした髪を褒められる度に、七緒の中に寒山との秘密が蘇り、優越感に似た満足感が体を満たした。
「おんやぁ、髪をおろしたの。かわいいじゃない」
隊首室で七緒を見て、開口一番に京楽も褒めてくれた。七緒は眼鏡を押し上げ、京楽を見た。
「流魂街に、髪留めを忘れて来てしまいまして」
七緒は敢えて、『落とした』ではなく、『忘れた』と言った。いつもセクハラする癖に、保護者面をする京楽への当て付けだった。
案の定、京楽の顔が一瞬で強張った。
「流魂街に、行っていたのかい?」
「何故京楽隊長に、私のプライベートを話す必要があるんですか?」
喧嘩腰だが、七緒の内心は勝ち誇っていた。
何時までも、子どもじゃない。あなたに言えない事をしても、責められる言われはない。
「何処に行っていたの」
七緒の反論を無視して、京楽は突っ込んで聞いてきた。恐らく、寒山の事は予想がついているのだろう。
何もかもが奔放な寒山に、女が近づくのが危険な事は、七緒だって理解できる。京楽が心配するのも分かる。だが、今の七緒に、京楽の心配はお節介以外の何物でもなかった。
火傷しようが、傷つこうが、私の勝手だ。
「放っておいてください」
七緒は京楽に背を向けて、足を踏み出した。
「ならなんで、僕に、流魂街に言ったなんて言ったんだ」
京楽が七緒の腕を掴んだが、七緒はその手を振り払った。
「あてつけです!!あなたが、何時までも私を子どもの様に扱うから!!!私は、死神で、副隊長です!!心配される筋合いはありません!!!」
悲しげな京楽の顔が見えたが、七緒は無視して隊首室を出て行った。
その夜、七緒は浴衣を風呂敷に包んで、流魂街に向かった。夜の流魂街が危険な事は百も承知だが、勢いに任せて精霊艇を飛び出した。
こうして集中すると、寒山の霊圧は遠くからでも分かった。
七緒は走って、寒山の霊圧の元まで急いだ。
寒山は、昨日と同じ家にいる様だった。
だが、一人じゃ無かった。
家の中から、叫ぶような女の喘ぎ声が聞こえた。それに合わせて、肌を打ち付ける、湿った衝撃音………。
何が行われているのか、見なくても分かる。
七緒は立ち尽くし、思わず風呂敷を落とした。
そしてそのまま風呂敷を拾うこと無く、来た道を走って戻った。
京楽に子ども扱いをされて、あんなにも腹がたったのに、大人の情事を目の前にしたら、恐怖で立ちすくんでしまった。
自分の幼稚さを、嫌でも認識させられた。
惨めで、悔しかった。
弄ばれたと思ったが、それでも会いたいと願ったのは、紛れもなく、自分。
寒山の奔放さは、こうなる前から知っていた。
恨む事はできない。
それからしばらく、七緒は髪を降ろして過ごした。寒山への未練は、簡単には断ち切れなかった。
鏡で自分を見る度に、寒山に触れられた感触を思い出した。
あまりにも、妖艶すぎた。
声も、体も、行動も。
寒山の背中の蛇は、寒山そのものだった。
蒸し暑い夕方、寒山は上半身を脱いで、木陰で座ってキセルを吸っていた。
「やあ。今日は髪をおろして来たね」
七緒は寒山に近寄り、立ったまま彼を見下ろした。
「……浴衣を、返さなくて、すみませんでした」
寒山はキセルを盆に置いて、七緒を見上げた。
「返ってきたよ。家の前で拾った」
虚ろな目をしている七緒を見て、寒山は口元だけで笑った。
「その目、いいね。とても、綺麗だよ」
情事を聞かれていたのを、寒山は気にもとめず、それどころか、嫉妬に沈む七緒を見て、喜んでいるのが分かった。
そうか、これが、この人のやり方なんだ。
そうは思っても、七緒はすでに離れられなくなっていた。
綺麗だと言われると、泣き出したい程に嬉しかった。
「今日はどうした?春水の話を聞きたい?」
前回の別れの時を忘れた様に、寒山は七緒に笑いかけたが、直ぐに嘘だと分かった。言わせる気だ。七緒が引けないのを、分かっているのだ。
「……秘密を、作りに………」
恐怖なのか、緊張なのか、七緒の声は震えた。
寒山の目は優しいが、その奥に暴力性を宿していた。人を支配する事に、喜びを感じる男なのだろう。
ヤクザなんだ。初めから分かってた。
京楽への当て付けなんて、幼稚な事をした自分を呪った。
寒山は立ち上がり、七緒の手を握った。
「今まで僕は、優しかった?」
思考を麻痺させるような声で、寒山は七緒に尋ねた。七緒の手は震えていたが、寒山から目が離せなかった。声が出せず、七緒は小さく頷いた。
「優しいままで、いてほしい?それとも、僕の、全てが見たい?」
寒山は、七緒の手を自分の胸に当てた。
この胸に頬をあて、この腕に抱きしめられた感触が、嫌でも蘇り、理性に反して、本能は寒山を求めた。
「………わ、たし…………」
答えを言いかけた所で、口を塞がれた。
目の前にいる寒山の目が、嬉しそうに見開かれた。
「この子に、何をしたの。寒山」
「……春水」