三服の香り(伊勢七緒)
1.70地区白菊
京楽隊長は、女性に甘い言葉をかけ、触れる事に躊躇が無い。副隊長の私にも、遠慮なく触れてくる。ぶっ叩いても、ぶっ叩いても、懲りることは無い。
けれど、これだけ触られ続けると、あの人の『癖』に気づいてきた。
私に触れる前に、一回息を吸う。
殆ど聞こえる事の無い、小さな呼吸音。
何故なのかは分からない。
何もかもを、笑顔の裏に隠されてしまう。
あの人の事で分かっているのは、母が何か大切な物を渡していた人、だと言う事と、時々、いつも吸うキセルの葉とは違う香りを付けている、と言う事。
「な、な、お、ちゅわ〜ん。ほらー、書類終わらせたよーん。これでお酒を……あれ?」
京楽が執務室の扉を開けると、そこには三席の円成寺しかいなかった。
「あれ?七緒ちゃんは?」
「副隊長なら、流魂街に行かれましたぞ」
「流魂街?また何でそんな所に」
「70地区の白菊で、魂魄同士の衝突が観測されたと地獄蝶が飛んできまして。あれはうちの管轄ですからな……て、あれ?京楽隊長?」
円成寺が言い終わる前に、京楽は執務室から姿を消した。
京楽が執務室に顔を出す前に、七緒は北流魂街70地区白菊についた。
廃屋が立ち並び、顔色の悪い住人達が、警戒したように七緒を観察していた。
集落の外れにくると、風に乗って血の臭いと霊圧が届いた。魂魄同士の諍いの決着がついたのだろうか、と七緒は血の臭いのする方に急いだ。
血の臭いと霊圧の元は、荒野だった。
草が斑に生えるその場所は、血で赤く染まっていた。辺りには、肉塊に成り果てた死体が、何体も転がっていた。
その真ん中に男が一人、七緒に背を向けて立っていた。からし色の、派手な着物を着ている。手には刀を持ち、短く切られた髪は、白髪の中に黒髪が混ざっていた。彼から、強い霊圧を感じた。
「あなたは……」
七緒が声をかけようとした瞬間、後頭部に衝撃が走り、七緒は意識を失った。
タバコの匂いに気が付き、七緒は目を覚ました。眼鏡が無いらしく、視界がボヤケた。
「目が覚めたかい」
低く、ややかすれ気味の声がしてそちらを向くと、先程目にした、からし色の着物が目に入った。
七緒は急いで起き上がると、臨戦態勢で目を細めて辺りを見回した。髪が解けており、頬に髪が当たった。
「何も見えないのかい?ほら、君の眼鏡だ」
男は七緒の手を握り、眼鏡を握らせた。手の皮が硬かった。
少し動揺しながらも、七緒は眼鏡をかけた。
目の前には、からし色の着物を着た初老の男がいた。男は優しい目つきで、薄い唇は笑みを浮かべいた。京楽と同じ様に、口周りに無精髭を生やしているが、何故かこの男からは清涼感が感じられた。髪を短く切り、前髪を垂らしているせいかもしれない。
自分に何が起こって、何故この場にいるのか理解できていない様子の七緒の為に、男はキセルを手に取り、説明を始めた。
「……僕の組と、別の組の、抗争があったんだ」
男の声は、耳をくすぐる様な不思議な響きがあった。どっしりと重厚感があり、何故か安心できた。だが、声色とは逆に、話の内容は随分物騒だった。
ようするに、ヤクザ同士の抗争だ。この男は、さしずめ組長みたいなものだろうか?
「もうすぐで終わりそうな時に、君が来た。死神にビビった向こうの奴が、君に石を投げてね。僕らじゃないから、恨まないでほしい」
男は伏し目がちに謝り、キセルに火をつけた。嗅いだことのある匂いな気がした。
「……ワザワザ、運んでくださったんですか?」
「傷ついた女の子を、放っておけるわけないだろ」
男は口元だけで笑い、キセルを口元に持っていくと、軽く吸った。関節が目立つ細い指には、キセルが良く映えた。七緒は思わず、男の所作に見入った。男は、七緒の視線に気付いたようだが、直ぐに目を伏せた。
「頭……一応、治して見たけど、痛むかい?」
ハッとして後頭部を触ると、傷も痛みも無かった。代わりに、男の霊圧が残っていた。
気を失う程、強くあたったのに…。
「何故あなたが回道を……」
男は煙をフゥッと出すと、優しげな目で七緒を見つめた。その目には、初老の男性特有の色香が漂っており、七緒は息を呑んだ。
「……霊力があるんだ、僕。昔、知人に習ってね。君が投石に気づけなかったのも、僕の霊力のせいだろう。悪かった」
「今は感じられませんが……コントロールが出来るんですか?」
「そうだよ。僕は、随分長生きだからね」
男はキセルの灰を盆に捨てると、立ち上がって七緒に手を差し出した。
「……送っていくよ。君、ここは初めてだろう?」
「何故初めてと……」
「行っただろ、随分長生きだって。僕は、君を知らない。霊圧も含めて」
七緒はおずおずと手を差し出し、男の手を握った。男のペースに乗せられている感じが否めなかった。
七緒が立った瞬間、男は七緒の腰に手を回し、差し出された手を握ったまま、七緒の目を見つめた。
「……この地区は、女の子が来るような所じゃない。もう、刀も持たずに来てはいけないよ」
男は真剣な顔つきでそういうと、七緒から手を離した。
「ついておいで」
男は部屋の扉に手をかけ、七緒を呼んだ。だが、七緒の息は詰まり、声が出なかった。あまりにも妖艶な男の空気に、完全にあてられていた。
男は扉を開けたまま、七緒を待っていた。七緒は大きく息を吸うと、早足で男を追った。
廊下を歩いて行くと、大きな玄関があり、屈強な男が立っていた。
「お客様のお帰りだ。草履を」
「へい!」
男の指示で、七緒の草履りが出され、七緒は土間に座って草履の紐を結んだ。男は裸足のまま、地面に降りていた。
「行こうか」
草履の紐を結び終わったタイミングで、男はまた手を差し出した。
七緒はまた男の手を握り立ち上がると、男の後ろについていった。
今までいた場所は、流魂街70地区にはありえない屋敷で、今は広い庭を歩いていた。庭と言っても、木の塀で囲まれているだけで、草木の一本も無かった。庭のあちこちに、刀や弓を持った男達がおり、この妖艶な男が通る度に、深く頭を下げていた。やはり、ヤクザの組長なのだろう。
よく無事でいられたな、と思いながら塀の外に出ると、横目に黒い塊が見えた。
そちらを見ようとした瞬間、目を蓋がれた。硬い皮膚の感触がこめかみに当たり、さっき握った男の手だと分かった。
男は眼鏡の上から七緒の目を塞ぎ、七緒の頭に口づけをするかのように話しだした。
「君の様な綺麗な子が、見ていいものじゃない」
頭の先から足の先まで、痺れるような感覚が七緒を襲った。
「真っ直ぐ、前を見て進むんだ。いいね……?」
七緒が小さく頷くと、男は手を離し、また歩き出した。今度は脇を見ることなく、男の後について行った。
分かる道まで来ると、七緒は男を引き止めた。
「ここからは、分かります。ありがとうございました」
男は立ち止まり、振り向くと、七緒の頭に手を置いた。
「白菊で起きた抗争は、寒山によって制圧された」
「寒、山…?」
「僕の名だ。隊長に伝えてくれ、八番隊副隊長」
七緒が不思議そうに寒山を見上げると、彼は七緒の左腕にある腕章に指を当てた。
「あなたは?何者ですか…?」
七緒の質問に、寒山は答える代わりに、着物の合わせを開いた。
両脇から胸に向かって、びっしりと、入れ墨が入っていた。
普通なら怖がる所なのだろうが、さらけ出された寒山の肌を見て、七緒の体温が上がり、思わず目をそらした。京楽の胸毛を見てもなんとも思わないのに、色白の体毛の薄そうな寒山の肌は、別物だった。
寒山は着物を着崩したまま、着物の中で腕を組んだ。
「ほら、暗くならないうちに帰りな」
寒山に促されたが、七緒はその場で頭を下げた。
「助けていただいて、ありがとうございました。あと、送っていただいて」
「もう来たらいけないよ」
寒山はそれだけ言って、背を向けて去って行った。
七緒も直ぐに走り出し、精霊艇に急いだ。
頭の中には、ずっと寒山の声が響いて、手には、あの硬い皮膚の感触が残っていた。
京楽隊長は、女性に甘い言葉をかけ、触れる事に躊躇が無い。副隊長の私にも、遠慮なく触れてくる。ぶっ叩いても、ぶっ叩いても、懲りることは無い。
けれど、これだけ触られ続けると、あの人の『癖』に気づいてきた。
私に触れる前に、一回息を吸う。
殆ど聞こえる事の無い、小さな呼吸音。
何故なのかは分からない。
何もかもを、笑顔の裏に隠されてしまう。
あの人の事で分かっているのは、母が何か大切な物を渡していた人、だと言う事と、時々、いつも吸うキセルの葉とは違う香りを付けている、と言う事。
「な、な、お、ちゅわ〜ん。ほらー、書類終わらせたよーん。これでお酒を……あれ?」
京楽が執務室の扉を開けると、そこには三席の円成寺しかいなかった。
「あれ?七緒ちゃんは?」
「副隊長なら、流魂街に行かれましたぞ」
「流魂街?また何でそんな所に」
「70地区の白菊で、魂魄同士の衝突が観測されたと地獄蝶が飛んできまして。あれはうちの管轄ですからな……て、あれ?京楽隊長?」
円成寺が言い終わる前に、京楽は執務室から姿を消した。
京楽が執務室に顔を出す前に、七緒は北流魂街70地区白菊についた。
廃屋が立ち並び、顔色の悪い住人達が、警戒したように七緒を観察していた。
集落の外れにくると、風に乗って血の臭いと霊圧が届いた。魂魄同士の諍いの決着がついたのだろうか、と七緒は血の臭いのする方に急いだ。
血の臭いと霊圧の元は、荒野だった。
草が斑に生えるその場所は、血で赤く染まっていた。辺りには、肉塊に成り果てた死体が、何体も転がっていた。
その真ん中に男が一人、七緒に背を向けて立っていた。からし色の、派手な着物を着ている。手には刀を持ち、短く切られた髪は、白髪の中に黒髪が混ざっていた。彼から、強い霊圧を感じた。
「あなたは……」
七緒が声をかけようとした瞬間、後頭部に衝撃が走り、七緒は意識を失った。
タバコの匂いに気が付き、七緒は目を覚ました。眼鏡が無いらしく、視界がボヤケた。
「目が覚めたかい」
低く、ややかすれ気味の声がしてそちらを向くと、先程目にした、からし色の着物が目に入った。
七緒は急いで起き上がると、臨戦態勢で目を細めて辺りを見回した。髪が解けており、頬に髪が当たった。
「何も見えないのかい?ほら、君の眼鏡だ」
男は七緒の手を握り、眼鏡を握らせた。手の皮が硬かった。
少し動揺しながらも、七緒は眼鏡をかけた。
目の前には、からし色の着物を着た初老の男がいた。男は優しい目つきで、薄い唇は笑みを浮かべいた。京楽と同じ様に、口周りに無精髭を生やしているが、何故かこの男からは清涼感が感じられた。髪を短く切り、前髪を垂らしているせいかもしれない。
自分に何が起こって、何故この場にいるのか理解できていない様子の七緒の為に、男はキセルを手に取り、説明を始めた。
「……僕の組と、別の組の、抗争があったんだ」
男の声は、耳をくすぐる様な不思議な響きがあった。どっしりと重厚感があり、何故か安心できた。だが、声色とは逆に、話の内容は随分物騒だった。
ようするに、ヤクザ同士の抗争だ。この男は、さしずめ組長みたいなものだろうか?
「もうすぐで終わりそうな時に、君が来た。死神にビビった向こうの奴が、君に石を投げてね。僕らじゃないから、恨まないでほしい」
男は伏し目がちに謝り、キセルに火をつけた。嗅いだことのある匂いな気がした。
「……ワザワザ、運んでくださったんですか?」
「傷ついた女の子を、放っておけるわけないだろ」
男は口元だけで笑い、キセルを口元に持っていくと、軽く吸った。関節が目立つ細い指には、キセルが良く映えた。七緒は思わず、男の所作に見入った。男は、七緒の視線に気付いたようだが、直ぐに目を伏せた。
「頭……一応、治して見たけど、痛むかい?」
ハッとして後頭部を触ると、傷も痛みも無かった。代わりに、男の霊圧が残っていた。
気を失う程、強くあたったのに…。
「何故あなたが回道を……」
男は煙をフゥッと出すと、優しげな目で七緒を見つめた。その目には、初老の男性特有の色香が漂っており、七緒は息を呑んだ。
「……霊力があるんだ、僕。昔、知人に習ってね。君が投石に気づけなかったのも、僕の霊力のせいだろう。悪かった」
「今は感じられませんが……コントロールが出来るんですか?」
「そうだよ。僕は、随分長生きだからね」
男はキセルの灰を盆に捨てると、立ち上がって七緒に手を差し出した。
「……送っていくよ。君、ここは初めてだろう?」
「何故初めてと……」
「行っただろ、随分長生きだって。僕は、君を知らない。霊圧も含めて」
七緒はおずおずと手を差し出し、男の手を握った。男のペースに乗せられている感じが否めなかった。
七緒が立った瞬間、男は七緒の腰に手を回し、差し出された手を握ったまま、七緒の目を見つめた。
「……この地区は、女の子が来るような所じゃない。もう、刀も持たずに来てはいけないよ」
男は真剣な顔つきでそういうと、七緒から手を離した。
「ついておいで」
男は部屋の扉に手をかけ、七緒を呼んだ。だが、七緒の息は詰まり、声が出なかった。あまりにも妖艶な男の空気に、完全にあてられていた。
男は扉を開けたまま、七緒を待っていた。七緒は大きく息を吸うと、早足で男を追った。
廊下を歩いて行くと、大きな玄関があり、屈強な男が立っていた。
「お客様のお帰りだ。草履を」
「へい!」
男の指示で、七緒の草履りが出され、七緒は土間に座って草履の紐を結んだ。男は裸足のまま、地面に降りていた。
「行こうか」
草履の紐を結び終わったタイミングで、男はまた手を差し出した。
七緒はまた男の手を握り立ち上がると、男の後ろについていった。
今までいた場所は、流魂街70地区にはありえない屋敷で、今は広い庭を歩いていた。庭と言っても、木の塀で囲まれているだけで、草木の一本も無かった。庭のあちこちに、刀や弓を持った男達がおり、この妖艶な男が通る度に、深く頭を下げていた。やはり、ヤクザの組長なのだろう。
よく無事でいられたな、と思いながら塀の外に出ると、横目に黒い塊が見えた。
そちらを見ようとした瞬間、目を蓋がれた。硬い皮膚の感触がこめかみに当たり、さっき握った男の手だと分かった。
男は眼鏡の上から七緒の目を塞ぎ、七緒の頭に口づけをするかのように話しだした。
「君の様な綺麗な子が、見ていいものじゃない」
頭の先から足の先まで、痺れるような感覚が七緒を襲った。
「真っ直ぐ、前を見て進むんだ。いいね……?」
七緒が小さく頷くと、男は手を離し、また歩き出した。今度は脇を見ることなく、男の後について行った。
分かる道まで来ると、七緒は男を引き止めた。
「ここからは、分かります。ありがとうございました」
男は立ち止まり、振り向くと、七緒の頭に手を置いた。
「白菊で起きた抗争は、寒山によって制圧された」
「寒、山…?」
「僕の名だ。隊長に伝えてくれ、八番隊副隊長」
七緒が不思議そうに寒山を見上げると、彼は七緒の左腕にある腕章に指を当てた。
「あなたは?何者ですか…?」
七緒の質問に、寒山は答える代わりに、着物の合わせを開いた。
両脇から胸に向かって、びっしりと、入れ墨が入っていた。
普通なら怖がる所なのだろうが、さらけ出された寒山の肌を見て、七緒の体温が上がり、思わず目をそらした。京楽の胸毛を見てもなんとも思わないのに、色白の体毛の薄そうな寒山の肌は、別物だった。
寒山は着物を着崩したまま、着物の中で腕を組んだ。
「ほら、暗くならないうちに帰りな」
寒山に促されたが、七緒はその場で頭を下げた。
「助けていただいて、ありがとうございました。あと、送っていただいて」
「もう来たらいけないよ」
寒山はそれだけ言って、背を向けて去って行った。
七緒も直ぐに走り出し、精霊艇に急いだ。
頭の中には、ずっと寒山の声が響いて、手には、あの硬い皮膚の感触が残っていた。
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