終の船
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ポーラータング号は基本は潜水をして航海をしているが、帆船の機能を活かして海上を進む時もある。潜水艦は海軍や他の海賊に見つかりにくいという利点はあるが、反面太陽の光を感じにくい海中で過ごすことの健康面での不安が大きい。そこを上手くクリア出来ているのは船長であるローが医者だということ、そしてクルー達がきちんとローの言うことを聞くからだろう。
そんな潜水艦での生活も一か月が経とうとしている。自分よりも船内での暇の潰し方や生活に慣れている船員達のおかげで、体調も崩さなければメンタル面も健康そのものだ。週に一度と言われていたローの診察も最近は他の船員達と同じく月に一度に変更になった。
最初はローとの会話の機会も減るので困ってしまうかと思っていたが、意外にも話しかけたら読んでいた本の手を止めてくれるし、向こうから話しかけてくる事もある。やはり戦闘面や女性関係に理解があるところは見せていて正解だったのかもしれない。だからといって一ヶ月と少しで認めて貰える様子もなく、最近は程々にやっていれば何とかなるだろうと思い始めていた。元々態度に関しては何も言われていないし、船員達との仲も良好だ。後はなるべく邪魔にならない様に、不快にさせない様にして、自分の中で考える他人の船に乗る時のルールさえ守っていれば、乗せていては貰えるだろう。
「あー…最悪だァ……」
「まぁ、おれらが悪いし……」
話し相手でも探そうと食堂まで来ると机に突っ伏しながら唸っている船員の姿が見えて首を傾げる。遠目にみても帽子を被っているからペンギンはすごく分かりやすい。確か今日は船内の設備チェックをすると言っていたはずだ。
「どうかしたの?」
「お、フィリィ! いい所に。おまえさ、何か作ってくれない?」
「えぇ?」
ちらりと時計を見ると時間は午後四時を過ぎた頃、この船の夕食はいつも午後七時なのであと一時間程経てば仕込みが始まるだろう。
「なんで?」
「実は昼飯食いっぱぐれてさ…さすがに夕飯まではなって……」
そういえばここに揃っている顔ぶれは今日の昼食の時間に食堂にはいなかった。軽いトラブルか何かとのことで途中で操舵手であるハクガンも呼び出されていた。その時におにぎりは持って出ていったが、確かに普段用意されているものと量が違うし、何よりトラブルの処理もあったのなら確実にエネルギー切れだろう。
ここでは食事の時間が決まっていて、それを一時間超過すると基本的に食べることは許されていない。夜食や島で買ったスイーツは黙認されているが、自分で用意が出来てかつ証拠隠滅まで出来ないと船長からの文句が飛んでくるのだ。健康的な生活を求めているのもあるが、その分用意される食事は全員の腹を充分に満たすものなので、ローからすると余分な物なのだろう。
「頼むよ! 片付けはおれらがやるし、何なら夕食の仕込みも代わるから!」
渋い反応のフィリィにペンギンは顔の前で手を合わせてそういう。他の船員達にもじっと見つめられて、ついキッチンの方を見る。食事を作る事はフィリィの中ではルールに反する。食事は船の中で一番の娯楽で、一番気が緩みやすい瞬間だ。その船の正規の船員でさえかなり信頼されている人間でないとキッチンに立つことは難しい。飲み物、食べ物は毒を混入させやすいし、扱いを間違えれば簡単に人が死ぬ食材だってある。
フィリィが仕込みに参加しているのもローの許可があっての事だ。それも作業はかなり限定的で、常に人目がある様にフィリィ自身も心がけている。もちろんペンギン達がそれを知らないのは分かっているし、頼られるのは純粋に嬉しい。たっぷりと悩んでからフィリィは渋々口を開いた。
「……私が何か作ったって言わない?」
「言わない!」
「絶対?」
「絶対言わない!」
作って貰えそうな雰囲気に他の船員達もうんうんと頷く。深々とため息を吐くとフィリィはもう一度全員の顔を見た。
「…二人前は作ってあげるから四人で分けて。それで後は夕食まで我慢してよ」
「やったー! ありがとうなフィリィ!」
「さっき自分で言ったんだから片付けもしてよ!」
勢いよくハグをしてきたペンギンの頬を軽く叩きながらフィリィはきちんと約束を復唱させる。誰にも言わないこと、片付けは自分たちですること、口約束なので絶対的な信用はないがそこは作ると決めてしまった自分にも責任があるだろう。ありがとうな! と肩を叩くペンギンに「もっと感謝してよね」と言葉を残すとフィリィは着ていたパーカーの袖を捲りながらキッチンに向かっていった。
その後ろ姿を見ながらペンギンは後ろからチクチクと刺さってくる視線に居た堪れなくなってくる。
「柔らかかったか?」
「おまえちょっと下心あったろ」
「いい匂いしそうだもんな〜 フィリィって」
口々に飛んでくる野次にそんなことないし…と小さく返しながらもう一度椅子に座る。
「実際ちょっといいな〜って思ってるだろ。おまえ」
「は?! 思ってねェ!」
「いーや、怪しいね」
確かに綺麗な顔をしているし、スタイルもいいのでそういう事を考えるクルーがいるのは理解できるが、自分は少し違う気がする。どちらかといえば妹に接するような感じだ。確かに今のはちょっと距離感を間違えたと思ったが、意外にも抵抗されなかったのでむしろ心配になった。それに雰囲気で言うなら入ってすぐの頃に酒場で隣りあって飲んでいた時のキャプテンとフィリィの方が怪しかっただろう。腰を抱いて出ていったからその後に何をしたか聞いたら、普通に宿に送っただけだと言われてしまったが。
そもそもここのクルー達は性欲処理はかなり適切な方だと思う。好みの異性の話はすれど、船内では欲を爆発させてイッカクやフィリィを加害するような話は聞いたことがない。その代わり島ではきちんとお店の女の子と遊んでいる。イッカクだって、クルーではなくちゃんとそういう店を使っているし。ペンギン自身店は利用したことがあるが、どちらかと言えば女の子とは一緒に酒を飲んで楽しく喋っていたいタイプだ。だからこそ、酒場でキャプテンとフィリィが飲んでいたのが気になった。
フィリィが海賊団に入りたいという意志を尊重しているから、キャプテンといい感じなのはそれはそれでアリな気がする。結果的に全くそんな事はなかった訳だが、嫉妬の感情なんて微塵も無かったのだから、やはりこれは妹扱いみたいなものだろう。
「フィリィもペンギンには懐いてるしな」
「最初から一緒にいるからだろ」
「そうかァ? 気が合うんだと思うけどな」
そんなに気心が知れた仲に見えているのか。恐らくシャチが最初距離を取っていたからそう見えるだけな気もするが、実際フィリィは何か分からないことや船内での困り事があると一番にペンギンに聞きに来る。そんな姿に悪い気がしないのも確かではあるが。
「まて。おれは余計な思考をおまえたちに植え付けられてる気がするぞ」
「気のせい、気のせい」
「あ〜 料理楽しみだなァ〜」
分かりやすく視線を逸らしたクルーにため息を吐きながら、ペンギンはキッチンから見えたフィリィの姿を目で追った。
***
「おぉ〜! 結構でっかい島だなァ〜!」
「港に船もいっぱいあるね!」
はしゃぐシャチとベポの声を隣で聞きながら、ローは海軍の船がないか目をこらす。到着早々に追いかけられるような面倒な展開はごめんだ。町の大きさにはしゃいでいるクルー達の方を見るとフィリィがじっと港を観察しているのが目端に映って視線を向ける。止まっている船の中に知り合いの船でもあったのだろうか。それにしてはあまりいい視線ではない気がする。また港の方に視線を戻してみるが、特に有名な海賊船も大きな商船や貿易船が止まっているわけでもなく、単純に船の量が多いだけだ。
港に到着するとすぐに元々決めていたメンバーで動き始める。買い出しや情報集めに分かれていくのを見ながら、甲板で眠り始めたベポにもたれるようにして腰を下ろす。船番は基本的に交代制だが、今日は気分が乗らない事もあってローが船番を申し出た。今回は海上の航海が続いたのでベポも睡眠が足りていないので留守番だ。
「フィリィはまた一人行動か?」
「うん。本でも買いに行ってくるよ」
船に降りてすぐのところで話しているのか、そんな会話が聞こえて軽く下を覗き込む。ペンギンと話し終わったフィリィは周りを見渡してから町の方へと入っていった。じっとその後ろ姿を見送りながら、妙な違和感に眉を寄せる。大きく警戒を解いたわけではないが、確かに最近はクルー達の空気が緩まったのもあって自分も流されかけていたのかもしれない。怪しいと思うなら着いていくべき場面ではあるが、船を放っておくわけにもいかない。
だが、単純にここまで大きな島に止まれたのも久しぶりなので、フィリィ自身が気を引き締めているだけという線も捨てられない。あれでも顔の割れた賞金首だ。生捕りのみとはいえ危害を加えられないわけではない。
さて、どうするか。悩みながらそっと空を見上げるとベポの寝息も相まって体を起こす気が削がれていった。
昼頃に到着した島の港は中々の大きさだった。大きな港のある島というのは大体が島外から来た船用の港の他に、島民が使う為の港というものが存在する。小さな漁船や休日に島民の誰かが海に出るための小舟まで様々な物が並んでいる。時間帯的にも流石に利用者は居らず、釣具でも入っていそうな木箱にフィリィは腰を下ろした。ポニーテールに結んでいた髪を解くと少し首元に暑さを感じる気がしたが、仕方ないだろう。今日は天気もいいし、島の季節は夏島の春も終わりの頃なので過ごしやすい。すっかり日が長くなっているのか、もうすぐ夕方の時間帯なのにまだまだ空は明るいままだ。
「うーん。暗くなってからの方がいいかなぁ…」
そんな独り言をこぼしながら島外からの船が止まっている港の方を見た。この後の予定を聞くのもすっかり忘れてしまったけど、いつも通りならば一旦船に集合した後に宿の場所を伝えてもらって、みんなで酒場で飲むことになるだろう。着いてすぐの買い出しは日持ちするものや備品だけなので大した整理もいらないはずだ。ログも何日ぐらいで溜まるのだろうか。町で聞けばよかったかもしれない。
自分の段取りの悪さにため息を吐くとカモメが飛んだのが見えて首を上げる。それと同時に走った首元の痛みに思わず声を出しながらすぐに首を下に向けた。
「いったぁ……うぇ、変なところ切れてる……」
思わず押さえた箇所にぬるりと血の感触がして怪我をしている事を悟る。これは一度きちんと体を触ってみた方がいいかもしれない。フィリィは自分の体を見下ろすと服を捲った。すぐに目に入ったお腹の大きな痣に思いっきり蹴りを入れられたことをじわりと思い出す。
大きな島は海賊船が止まることすら許容されている島が多い。土地としてきちんと整備されている所は襲うだけでもリスクが高い。よほど金に困っているか、物資を奪って逃げるだけの実力がある海賊しかそんな事はしないだろう。そんな中で平然と島を歩くことを許されている海賊達の警戒する先は、島の警備兵でも海兵でもなく賞金稼ぎ達だ。最近では島民の協力のもとで警備の役割を担っている賞金稼ぎも少なくない。だが、港がきちんとある様な島になると集まってきた海賊達を捕らえようと他の所から賞金稼ぎがやってくるのだ。そういう奴らは海賊と殆ど変わらないレベルで柄が悪くて厄介だ。
今までも島に着けば幾度となく遭遇してきたが、それはハートの海賊団に乗せてもらってからも変わらない。むしろ自分を人質にしてローの事を狙おうとしている奴らさえ居たほどだ。大抵は返り討ちに出来ていたが、今日の相手は厄介だった。初手に誘拐まがいに本屋で攫われ、路地裏で襲おうとしてきたのだ。フィリィの事を能力者だとは知らなかったのか簡単に脱出できたが、相手がグループだったこともあって多勢に無勢だった。しかも質の悪い事に生け捕りであるはずのフィリィを傷つける事に躊躇いがなかったのだ。そこは自分自身の考えが甘かったところでもあるが、おかげで傷だらけになってしまった。今までも軽い怪我をしなかったわけではないがここまでやられたのは久しぶりだ。しかもご丁寧に顔は無傷なあたりが苛立ってしまう。
「あ、スカート破れてる」
裾の辺りが軽く破れているのが見えて手を伸ばす。歩き辛さがあったのはこれが原因だったのか。柄が気に入ったロングスカートだったのだが、これではもう着ることはできない。破こうか結ぼうか悩んでいると、妙に背中の辺りが風に晒されている事に違和感を覚える。嫌な予感がしながらジャケットを脱ぐとすぐに目の前で広げた。明らかにバッサリとナイフで切られて穴の空いた服に思わず声を上げてしまう。
「嘘?! 破れてる! 気に入ってたの、に……」
大きな独り言の途中で不自然に陰った視界に言葉がゆっくりと止まる。真横から感じる圧に恐る恐る顔を上げれば、じっと自分を見下ろしてくるローの視線とぶつかった。ぞわりと鳥肌が立つのを感じながらジャケットを持っていた手を下げた。
「なんだその怪我は」
「えっと……賞金稼ぎに会って……」
「負けたのか」
「勝ちました……」
怪我の原因が油断とは恥ずかしいが、自分の甘さも理由の一つなので言い訳も出来ない。大人しく経緯を話せばローは何も言わずに静かに聞いた後で既に右腕に巻いてあった包帯に触った。
「こっちは?」
「あ、それは前ので……包帯は備品じゃなくて、ちゃんと自分で買ったやつだよ」
すぐに包帯の出処を付け加えたフィリィに自分に見つかって何をそんなに怯えているのかを察した。確かにローは怒ってはいるが、怪我をした事に怒っているのであって、フィリィが船内の備品を勝手に使ったのではないかという怒りでは無い。乗らせて欲しい、クルーにして欲しい、と言う割に妙なところで物分りがいい。一ヶ月も一緒に乗っていれば自分はもうここの一員だとでかい顔をしていてもおかしくはないのに。
金も最初はローが出したが、長く停泊する必要のある島でフィリィはアルバイトをして金を自分で調達してきていた。それで服や本を買ったりしていると聞いていたが、消毒液や包帯の方が高くつくだろう。包帯を解くと見えた傷はまだ新しい。動いたからか赤くなっているその切り傷を見ながらローは声をかける。
「いつ怪我した」
「前の、島で…」
「これも賞金稼ぎか」
「たぶん違うかな」
その一言だけで大体何が起こったかの察しはつく。前の島はそこまで大きい町は無かったが治安が悪かった。イッカクもさすがに一人で歩く気にはなれないと言っていたし、フィリィに関しても一人で出ていったので心配する声もあったが、何事もなかったように帰ってきたので気にかけていなかった。
黙って包帯を巻き直すと船が止まっている方向に足を向ける。ここで言い合うより手当てをしながら色々と話す方が効率がいいだろう。
「……歩けるか」
「うん。ちょっと待ってね」
ジャケットを着直して、破れたスカートを結んでしまおうと裾を持ち上げる。一連の動作の先で見えた足首の痣にローの中でイラついた気持ちが込み上げた。明らかに人に掴まれたような痕だ。離れていた足を一歩フィリィに近づけると、鬼哭を押し付けるように持たせる。訳もわからぬまま受け取ったのを確認するとフィリィを抱き上げた。
「ろ、ロー?」
「大人しくしてろ」
言われた通りに大人しくなったフィリィは緊張しているのか体を硬くして俯いてしまう。大きな傷は無いが切り傷や痣が多いのは相手の方が人数が多かったからだろう。翼を使って飛んで逃げる事もできたはずだが、あの能力は目立つので逆効果だ。それにフィリィはこちらの不利益になる事を嫌っている。迷惑を掛ければ掛けるほど、自分が船に置いてもらえる確率が減っていくからだ。
普通の海賊船ならそうなのかもしれない。ハートの海賊団はドライだが、薄情なわけではない。どんな経緯であれ船に乗っている以上は好意的に接するし、怪我をしたり風邪を引けば面倒だってみる。そもそも万人に好かれるのは絶対に不可能だ。フィリィも理解しているはずだし、印象を良くしたいのも分かるが、今までの行動はあまりにも『自由』とは遠いのでは無いだろうか。フィリィの真意が見えないので何とも言えないが。
「フィリィ?! 怪我してるの?! 大丈夫?」
「うん。そんな痛く無いから平気」
船まで戻ってくると船番をしていたベポが心配そうにフィリィを覗き込む。笑って答える顔が強がりで無いことが分かったのか、ベポは「キャプテンにちゃんと見てもらってね」と付け加えた。そのまま船内に入ろうとするローにフィリィは慌てて服を掴んで止める。
「もういいよ。歩けるから」
その言葉を無視したままローは診察室までくるとベッドの方にフィリィを座らせる。鬼哭を受け取って近くに立て掛けるとそのまま足元にしゃがんで痣を見た。骨に問題は無いようだが、触ると痛むのか眉を寄せる顔にまた少しイラつく。どう考えても掴んで引き摺られたりする様な力のかかり方が無いとこうはならない。
「歩けるなんてよく言ったな」
「あそこまでは普通に歩いたから」
いけると思ったんだけど。と小さくなっていく声を聞きながら道具を出すために立ち上がる。冷静になってきたのなら他の傷もすぐに痛みだすだろう。
「服は全部脱げ」
「えっ」
「スキャンすればどうせ分かるが、どっちがいい」
能力を使わせる方がローの手がかかることをすぐに察したのか「脱ぎます…」と小さく零すと大人しく服を脱ぎ始める。下着だけの姿になっても恥も躊躇いもないのは医者としてはやりやすくて助かるが、あまりにも警戒心が無いように見えて眉を寄せる。どこに行ってもこんな風だったのだろうか。
「怪我させられただけか」
順番に手当てをしながら問いかけられた言葉にフィリィは少し考える。物を取られたのかとか情報を渡したのかとか、色々と解釈は出来るがこの場合は体は無事かという感じだろうか。
「うん」
「本当だろうな」
「こんな時に嘘つかないよ」
笑って言ってみるがどうにも通用していない気がしてすぐに黙ってしまう。時計の秒針が進む音と、道具を触る音しか聞こえなくなって、居た堪れない気持ちになる。ローの怒りの先がよく分からない。手当てをしてくれているという事は備品を勝手に使ったのかと疑っているわけでは無いようだし、体の心配もしてくれている。それなら、怪我を隠した事に関してだろうか。医者として自分の認知していない怪我人を乗せているのは気に入らないとか。
ぐるぐると思考は回るが答えは出ない。いつの間にか下に落ちていた視界にローの手が映ってハッとする。
「どこか痛むのか」
そのまま顔を見るように手に持ち上げられた視線がローと合う。最近はよく目が合うようになった。目が合えば大体の感情ぐらいは分かるものかと思っていたが、案外難しい。
「……ごめんなさい」
「何に対してだ。それは」
「分からない、けど。怒っているような気がするから」
細められた目はそのまま首元を見るように視線がズレた。髪を触る手の動きに首元の傷が見えたのかと察して髪を退けた。
察しの良い動きも言動も、クルーの為にと動く姿勢も、悪い事だとは思わない。だが、ローの前でだけそれが顕著に表れる。邪魔にならない様に、不快にならない様に。そうやってフィリィに動かれるのが無性に気に入らない。
「おまえのそれは、ただの献身だ。自己犠牲だけが人間関係を作るわけじゃないだろ」
言いながら傷口を触った指先の刺激が痛くて顔を歪める。血を拭って消毒をするのに耐えていると軽いノックの後で診察室の扉が開く。
「キャプテーン。木箱で手を切っちゃったので絆創膏を……って、フィリィ?!」
自分の手元を見ながら入ってきたペンギンは顔を上げた瞬間に驚いたように足を止める。ローの居場所を聞いただけだったので、まさかフィリィがいるとは思わなかった。しかも見るからに傷だらけで、手当ての最中なのか下着姿だ。
「取り込み中だ」
「で、ですよね…」
「自分で傷口洗って消毒しろ」
ちらりとペンギンの方に視線を向けて傷を確認するとローは指示を出してまたフィリィの方に視線を戻した。残りは腹部の打撲と鎖骨の辺りの切り傷だ。ジャケットを切り裂いていた背中の傷は服が邪魔をしたのか引っかき傷程度なので処置はいらない。
痛いと騒ぎながらも消毒まで済ませたペンギンが「終わりました…」と近くまで来る。すっぱりと切れた手のひらはかなり痛むだろうが切り口が綺麗な分治るのも早いだろう。
的確に手当てをするローの手元を見ているとペンギンと目が合う。怪我の状態が気になるのか見つめてくる視線に居心地が悪くなって下を向いた。鎖骨に付けられた傷に髪が触れてずきりと痛む。手当てが終わった傷もじくじくと蝕むような痛さと熱を持ってきた。その痛みと一緒に心臓まで早くなったような感覚に陥ってくる。それなりの痛みも熱も、慣れたものだと思っていたのだが。考えながら俯いたままでいるとペンギンに声を掛けられた。
「結構酷くやられたな」
「うん。ちょっと油断しちゃって」
へらりと笑えば「ふーん」とトーンの低い返事が飛んでくる。なんとも言えない空気感に心臓が変な音を立てている気がする。何か間違っただろうか。言葉が変だっただろうか。船に乗ってすぐ、診察を受けた時も似たような気持ちになった気がする。言葉の出てこないもどかしさと、何を言えば正解なのかが分からない感覚。自然と視線を下に向けているとぱちんと手を弾くような音がする。
「終わったぞ」
「いった! 優しくしてくださいよ!」
「うるせェ サッサと戻れ」
痛みで発生した熱を冷ます様に息を吹きかけながらペンギンは診察室から出て行った。扉の閉まる音を聞いていると鎖骨の辺りに手が伸びて来る。髪を退ける指先を見つめていると声が落ちてきた。
「おまえも、あれぐらい言えばいいだろ」
「……痛い、って?」
「文句も、意見も、他の奴らには言うだろ」
腹部の打撲を触るローを見る。帽子のせいで目が見えなくても今のは言葉だけで、何となく察せる気がした。
「拗ねてる?」
「……なんでそうなる」
どう考えても違うだろう。と言いたげな顔を向けた後、ため息を吐くとローは着ていたパーカーを脱いでフィリィに被せる。そのまま薬棚から解熱剤を出すとフィリィの手に投げた。
「今日はこのままそれ飲んで部屋で大人しくしてろ」
手を洗うローの後姿を見ながら薬とローを交互に見る。どういえば正解だろうか。と頭で考え始めてからすぐに首を振って思考を飛ばす。
「ありがとう」
「……何に対してだ」
「手当てしてくれたから?」
「ふっ……何で疑問形なんだよ」
ローにつられて顔が緩むのと同時に腹部の傷が痛んだ気がして、軽く触った。
+++
その日の夜、ローの指示でいつもとは違い船の甲板で上陸後の宴が行われていた。フィリィは騒ぐ船員たちを見ながら半分酔ってきたイッカクの話に相槌を打つ。最初は唯一の女性船員というのもあって色々と相談していたが、今となってはそんな打算的な考えがなくてもよく話す仲だ。イッカクの考え自体がフィリィの中にはない物も多いので、話は聞いていて楽しい。少し物言いがストレートすぎる時はあるが。
「あ、そうだ。これ飲む? 今日店でおまけしてもらったのよね~」
「え! それ結構高いやつじゃ…」
「そうそう。他の奴には内緒ね」
こそこそと話しながらイッカクは瓶の封を切った。今日はローに「酒は絶対飲むな」と言われている。実際に今飲んでいる物もただのジュースでアルコールの成分は入っていない。だが今目の前で封の開いた酒は金額も美味しさも身に染みて知っている。誘惑と揺れながら一口だけならバレないだろうか、と悪い部分が顔を出す。そして、そんな風に悩んでいる最中に「飲むでしょ?」なんて瓶を向けられたら頷くしかない。
差し出されたフィリィのジョッキにイッカクが瓶を近付けようとした時、フィリィの背後から伸びて来た手がジョッキを覆った。びっくりして動きを止めるとフィリィの隣にはいつの間にかキャプテンが座っていた。肩を組むように伸ばしたであろう腕の長さを「持て余してるなぁ」と酔った脳で見ているとキャプテンはジョッキを覆っていた手でフィリィの頬を摘まんで引っ張った。
「飲むな。といったはずだが?」
「い、いたい! いたい! ごめんなさい!」
「お、キャプテンがまたフィリィ口説いてる」
揶揄うように飛んできた声に睨みを効かせるが、ペンギンもシャチも酔っているのか全く効果がない。そもそもこの二人にキャプテンの牽制が効いた所は見たことが無い。どこまでいってもじゃれ合いのレベルだという信頼関係もあるのだろう。
「一度だって口説いた覚えはねェ」
「え~? でもこの前腕組んで歩いてませんでした?」
「それ、誰かと見間違えてるでしょ」
「あら、じゃあ遊び相手? キャプテンにしては珍しいですね」
この場に居る酔っぱらい率の高さにローはため息を吐きながらも、見られた相手を脳の中で考える。恐らく女の情報屋だろう。確かに黒い髪で身長もフィリィと似ていた気がする。香水の匂いが鬱陶しかったが、かなりいい情報と引き換えに一日いう事を聞いていた。流石に面倒な言動も多かったので夜まで一緒には居なかったが。
「あれは……」
「まあキャプテンなんて入れ食い状態でしょうし、娼館の女の子なんて狙わなくてもいいんでしょうけど」
「やっぱりキャプテンレベルになると店の子に好きになられちゃったりするんですか?」
「キャプテン普段遊んでるのとか見ないのによっぽどいい子だったんですね~」
口々に盛り上がる酔っぱらい達の勢いに自然と反論する気が失せる。そのままあそこの島はレベルが高かっただの、値段が高いだのと話始めた声を軽く聞き流しながら酒に口を付ける。隣にいるフィリィは酔った姿に呆れながらも、飛び火はして来なかったからか呑気に笑っていた。
「……おまえが医者の言う事破るとはな」
「う…ごめんなさい。誘惑に負けちゃって」
そこまで酒好きというわけではないだろうが、やはり美味しい物には目がないらしい。今日の怪我は全部服の中に隠してしまえるものばかりだったので、知っているのはローとペンギンだけだろう。周知する必要はないとロー自身判断しているし、フィリィもそれは望んでいないだろう。
フィリィの肩に置いたままだった腕を退けるとそのまま腰に手を回してみる。特に何の疑いもなく、こちらを見て首を傾げるだけの姿をじっと見た。黒い瞳に緩く赤い色の混じった目と、赤にグラデーションのかかっていく黒髪はさっき思い出した情報屋より随分良く見えた。……もしかして、自分も相当酔っているのだろうか。
「どうしたの?」
「……眠る前に熱が上がるようなら薬を出してやる。貰いに来い」
「うん。ありがとう」
手を解くと床に置いたままだったジョッキを手に取る。空になったままだったそこにイッカクが置き去りにしていた酒を注いだ。
そんな潜水艦での生活も一か月が経とうとしている。自分よりも船内での暇の潰し方や生活に慣れている船員達のおかげで、体調も崩さなければメンタル面も健康そのものだ。週に一度と言われていたローの診察も最近は他の船員達と同じく月に一度に変更になった。
最初はローとの会話の機会も減るので困ってしまうかと思っていたが、意外にも話しかけたら読んでいた本の手を止めてくれるし、向こうから話しかけてくる事もある。やはり戦闘面や女性関係に理解があるところは見せていて正解だったのかもしれない。だからといって一ヶ月と少しで認めて貰える様子もなく、最近は程々にやっていれば何とかなるだろうと思い始めていた。元々態度に関しては何も言われていないし、船員達との仲も良好だ。後はなるべく邪魔にならない様に、不快にさせない様にして、自分の中で考える他人の船に乗る時のルールさえ守っていれば、乗せていては貰えるだろう。
「あー…最悪だァ……」
「まぁ、おれらが悪いし……」
話し相手でも探そうと食堂まで来ると机に突っ伏しながら唸っている船員の姿が見えて首を傾げる。遠目にみても帽子を被っているからペンギンはすごく分かりやすい。確か今日は船内の設備チェックをすると言っていたはずだ。
「どうかしたの?」
「お、フィリィ! いい所に。おまえさ、何か作ってくれない?」
「えぇ?」
ちらりと時計を見ると時間は午後四時を過ぎた頃、この船の夕食はいつも午後七時なのであと一時間程経てば仕込みが始まるだろう。
「なんで?」
「実は昼飯食いっぱぐれてさ…さすがに夕飯まではなって……」
そういえばここに揃っている顔ぶれは今日の昼食の時間に食堂にはいなかった。軽いトラブルか何かとのことで途中で操舵手であるハクガンも呼び出されていた。その時におにぎりは持って出ていったが、確かに普段用意されているものと量が違うし、何よりトラブルの処理もあったのなら確実にエネルギー切れだろう。
ここでは食事の時間が決まっていて、それを一時間超過すると基本的に食べることは許されていない。夜食や島で買ったスイーツは黙認されているが、自分で用意が出来てかつ証拠隠滅まで出来ないと船長からの文句が飛んでくるのだ。健康的な生活を求めているのもあるが、その分用意される食事は全員の腹を充分に満たすものなので、ローからすると余分な物なのだろう。
「頼むよ! 片付けはおれらがやるし、何なら夕食の仕込みも代わるから!」
渋い反応のフィリィにペンギンは顔の前で手を合わせてそういう。他の船員達にもじっと見つめられて、ついキッチンの方を見る。食事を作る事はフィリィの中ではルールに反する。食事は船の中で一番の娯楽で、一番気が緩みやすい瞬間だ。その船の正規の船員でさえかなり信頼されている人間でないとキッチンに立つことは難しい。飲み物、食べ物は毒を混入させやすいし、扱いを間違えれば簡単に人が死ぬ食材だってある。
フィリィが仕込みに参加しているのもローの許可があっての事だ。それも作業はかなり限定的で、常に人目がある様にフィリィ自身も心がけている。もちろんペンギン達がそれを知らないのは分かっているし、頼られるのは純粋に嬉しい。たっぷりと悩んでからフィリィは渋々口を開いた。
「……私が何か作ったって言わない?」
「言わない!」
「絶対?」
「絶対言わない!」
作って貰えそうな雰囲気に他の船員達もうんうんと頷く。深々とため息を吐くとフィリィはもう一度全員の顔を見た。
「…二人前は作ってあげるから四人で分けて。それで後は夕食まで我慢してよ」
「やったー! ありがとうなフィリィ!」
「さっき自分で言ったんだから片付けもしてよ!」
勢いよくハグをしてきたペンギンの頬を軽く叩きながらフィリィはきちんと約束を復唱させる。誰にも言わないこと、片付けは自分たちですること、口約束なので絶対的な信用はないがそこは作ると決めてしまった自分にも責任があるだろう。ありがとうな! と肩を叩くペンギンに「もっと感謝してよね」と言葉を残すとフィリィは着ていたパーカーの袖を捲りながらキッチンに向かっていった。
その後ろ姿を見ながらペンギンは後ろからチクチクと刺さってくる視線に居た堪れなくなってくる。
「柔らかかったか?」
「おまえちょっと下心あったろ」
「いい匂いしそうだもんな〜 フィリィって」
口々に飛んでくる野次にそんなことないし…と小さく返しながらもう一度椅子に座る。
「実際ちょっといいな〜って思ってるだろ。おまえ」
「は?! 思ってねェ!」
「いーや、怪しいね」
確かに綺麗な顔をしているし、スタイルもいいのでそういう事を考えるクルーがいるのは理解できるが、自分は少し違う気がする。どちらかといえば妹に接するような感じだ。確かに今のはちょっと距離感を間違えたと思ったが、意外にも抵抗されなかったのでむしろ心配になった。それに雰囲気で言うなら入ってすぐの頃に酒場で隣りあって飲んでいた時のキャプテンとフィリィの方が怪しかっただろう。腰を抱いて出ていったからその後に何をしたか聞いたら、普通に宿に送っただけだと言われてしまったが。
そもそもここのクルー達は性欲処理はかなり適切な方だと思う。好みの異性の話はすれど、船内では欲を爆発させてイッカクやフィリィを加害するような話は聞いたことがない。その代わり島ではきちんとお店の女の子と遊んでいる。イッカクだって、クルーではなくちゃんとそういう店を使っているし。ペンギン自身店は利用したことがあるが、どちらかと言えば女の子とは一緒に酒を飲んで楽しく喋っていたいタイプだ。だからこそ、酒場でキャプテンとフィリィが飲んでいたのが気になった。
フィリィが海賊団に入りたいという意志を尊重しているから、キャプテンといい感じなのはそれはそれでアリな気がする。結果的に全くそんな事はなかった訳だが、嫉妬の感情なんて微塵も無かったのだから、やはりこれは妹扱いみたいなものだろう。
「フィリィもペンギンには懐いてるしな」
「最初から一緒にいるからだろ」
「そうかァ? 気が合うんだと思うけどな」
そんなに気心が知れた仲に見えているのか。恐らくシャチが最初距離を取っていたからそう見えるだけな気もするが、実際フィリィは何か分からないことや船内での困り事があると一番にペンギンに聞きに来る。そんな姿に悪い気がしないのも確かではあるが。
「まて。おれは余計な思考をおまえたちに植え付けられてる気がするぞ」
「気のせい、気のせい」
「あ〜 料理楽しみだなァ〜」
分かりやすく視線を逸らしたクルーにため息を吐きながら、ペンギンはキッチンから見えたフィリィの姿を目で追った。
***
「おぉ〜! 結構でっかい島だなァ〜!」
「港に船もいっぱいあるね!」
はしゃぐシャチとベポの声を隣で聞きながら、ローは海軍の船がないか目をこらす。到着早々に追いかけられるような面倒な展開はごめんだ。町の大きさにはしゃいでいるクルー達の方を見るとフィリィがじっと港を観察しているのが目端に映って視線を向ける。止まっている船の中に知り合いの船でもあったのだろうか。それにしてはあまりいい視線ではない気がする。また港の方に視線を戻してみるが、特に有名な海賊船も大きな商船や貿易船が止まっているわけでもなく、単純に船の量が多いだけだ。
港に到着するとすぐに元々決めていたメンバーで動き始める。買い出しや情報集めに分かれていくのを見ながら、甲板で眠り始めたベポにもたれるようにして腰を下ろす。船番は基本的に交代制だが、今日は気分が乗らない事もあってローが船番を申し出た。今回は海上の航海が続いたのでベポも睡眠が足りていないので留守番だ。
「フィリィはまた一人行動か?」
「うん。本でも買いに行ってくるよ」
船に降りてすぐのところで話しているのか、そんな会話が聞こえて軽く下を覗き込む。ペンギンと話し終わったフィリィは周りを見渡してから町の方へと入っていった。じっとその後ろ姿を見送りながら、妙な違和感に眉を寄せる。大きく警戒を解いたわけではないが、確かに最近はクルー達の空気が緩まったのもあって自分も流されかけていたのかもしれない。怪しいと思うなら着いていくべき場面ではあるが、船を放っておくわけにもいかない。
だが、単純にここまで大きな島に止まれたのも久しぶりなので、フィリィ自身が気を引き締めているだけという線も捨てられない。あれでも顔の割れた賞金首だ。生捕りのみとはいえ危害を加えられないわけではない。
さて、どうするか。悩みながらそっと空を見上げるとベポの寝息も相まって体を起こす気が削がれていった。
昼頃に到着した島の港は中々の大きさだった。大きな港のある島というのは大体が島外から来た船用の港の他に、島民が使う為の港というものが存在する。小さな漁船や休日に島民の誰かが海に出るための小舟まで様々な物が並んでいる。時間帯的にも流石に利用者は居らず、釣具でも入っていそうな木箱にフィリィは腰を下ろした。ポニーテールに結んでいた髪を解くと少し首元に暑さを感じる気がしたが、仕方ないだろう。今日は天気もいいし、島の季節は夏島の春も終わりの頃なので過ごしやすい。すっかり日が長くなっているのか、もうすぐ夕方の時間帯なのにまだまだ空は明るいままだ。
「うーん。暗くなってからの方がいいかなぁ…」
そんな独り言をこぼしながら島外からの船が止まっている港の方を見た。この後の予定を聞くのもすっかり忘れてしまったけど、いつも通りならば一旦船に集合した後に宿の場所を伝えてもらって、みんなで酒場で飲むことになるだろう。着いてすぐの買い出しは日持ちするものや備品だけなので大した整理もいらないはずだ。ログも何日ぐらいで溜まるのだろうか。町で聞けばよかったかもしれない。
自分の段取りの悪さにため息を吐くとカモメが飛んだのが見えて首を上げる。それと同時に走った首元の痛みに思わず声を出しながらすぐに首を下に向けた。
「いったぁ……うぇ、変なところ切れてる……」
思わず押さえた箇所にぬるりと血の感触がして怪我をしている事を悟る。これは一度きちんと体を触ってみた方がいいかもしれない。フィリィは自分の体を見下ろすと服を捲った。すぐに目に入ったお腹の大きな痣に思いっきり蹴りを入れられたことをじわりと思い出す。
大きな島は海賊船が止まることすら許容されている島が多い。土地としてきちんと整備されている所は襲うだけでもリスクが高い。よほど金に困っているか、物資を奪って逃げるだけの実力がある海賊しかそんな事はしないだろう。そんな中で平然と島を歩くことを許されている海賊達の警戒する先は、島の警備兵でも海兵でもなく賞金稼ぎ達だ。最近では島民の協力のもとで警備の役割を担っている賞金稼ぎも少なくない。だが、港がきちんとある様な島になると集まってきた海賊達を捕らえようと他の所から賞金稼ぎがやってくるのだ。そういう奴らは海賊と殆ど変わらないレベルで柄が悪くて厄介だ。
今までも島に着けば幾度となく遭遇してきたが、それはハートの海賊団に乗せてもらってからも変わらない。むしろ自分を人質にしてローの事を狙おうとしている奴らさえ居たほどだ。大抵は返り討ちに出来ていたが、今日の相手は厄介だった。初手に誘拐まがいに本屋で攫われ、路地裏で襲おうとしてきたのだ。フィリィの事を能力者だとは知らなかったのか簡単に脱出できたが、相手がグループだったこともあって多勢に無勢だった。しかも質の悪い事に生け捕りであるはずのフィリィを傷つける事に躊躇いがなかったのだ。そこは自分自身の考えが甘かったところでもあるが、おかげで傷だらけになってしまった。今までも軽い怪我をしなかったわけではないがここまでやられたのは久しぶりだ。しかもご丁寧に顔は無傷なあたりが苛立ってしまう。
「あ、スカート破れてる」
裾の辺りが軽く破れているのが見えて手を伸ばす。歩き辛さがあったのはこれが原因だったのか。柄が気に入ったロングスカートだったのだが、これではもう着ることはできない。破こうか結ぼうか悩んでいると、妙に背中の辺りが風に晒されている事に違和感を覚える。嫌な予感がしながらジャケットを脱ぐとすぐに目の前で広げた。明らかにバッサリとナイフで切られて穴の空いた服に思わず声を上げてしまう。
「嘘?! 破れてる! 気に入ってたの、に……」
大きな独り言の途中で不自然に陰った視界に言葉がゆっくりと止まる。真横から感じる圧に恐る恐る顔を上げれば、じっと自分を見下ろしてくるローの視線とぶつかった。ぞわりと鳥肌が立つのを感じながらジャケットを持っていた手を下げた。
「なんだその怪我は」
「えっと……賞金稼ぎに会って……」
「負けたのか」
「勝ちました……」
怪我の原因が油断とは恥ずかしいが、自分の甘さも理由の一つなので言い訳も出来ない。大人しく経緯を話せばローは何も言わずに静かに聞いた後で既に右腕に巻いてあった包帯に触った。
「こっちは?」
「あ、それは前ので……包帯は備品じゃなくて、ちゃんと自分で買ったやつだよ」
すぐに包帯の出処を付け加えたフィリィに自分に見つかって何をそんなに怯えているのかを察した。確かにローは怒ってはいるが、怪我をした事に怒っているのであって、フィリィが船内の備品を勝手に使ったのではないかという怒りでは無い。乗らせて欲しい、クルーにして欲しい、と言う割に妙なところで物分りがいい。一ヶ月も一緒に乗っていれば自分はもうここの一員だとでかい顔をしていてもおかしくはないのに。
金も最初はローが出したが、長く停泊する必要のある島でフィリィはアルバイトをして金を自分で調達してきていた。それで服や本を買ったりしていると聞いていたが、消毒液や包帯の方が高くつくだろう。包帯を解くと見えた傷はまだ新しい。動いたからか赤くなっているその切り傷を見ながらローは声をかける。
「いつ怪我した」
「前の、島で…」
「これも賞金稼ぎか」
「たぶん違うかな」
その一言だけで大体何が起こったかの察しはつく。前の島はそこまで大きい町は無かったが治安が悪かった。イッカクもさすがに一人で歩く気にはなれないと言っていたし、フィリィに関しても一人で出ていったので心配する声もあったが、何事もなかったように帰ってきたので気にかけていなかった。
黙って包帯を巻き直すと船が止まっている方向に足を向ける。ここで言い合うより手当てをしながら色々と話す方が効率がいいだろう。
「……歩けるか」
「うん。ちょっと待ってね」
ジャケットを着直して、破れたスカートを結んでしまおうと裾を持ち上げる。一連の動作の先で見えた足首の痣にローの中でイラついた気持ちが込み上げた。明らかに人に掴まれたような痕だ。離れていた足を一歩フィリィに近づけると、鬼哭を押し付けるように持たせる。訳もわからぬまま受け取ったのを確認するとフィリィを抱き上げた。
「ろ、ロー?」
「大人しくしてろ」
言われた通りに大人しくなったフィリィは緊張しているのか体を硬くして俯いてしまう。大きな傷は無いが切り傷や痣が多いのは相手の方が人数が多かったからだろう。翼を使って飛んで逃げる事もできたはずだが、あの能力は目立つので逆効果だ。それにフィリィはこちらの不利益になる事を嫌っている。迷惑を掛ければ掛けるほど、自分が船に置いてもらえる確率が減っていくからだ。
普通の海賊船ならそうなのかもしれない。ハートの海賊団はドライだが、薄情なわけではない。どんな経緯であれ船に乗っている以上は好意的に接するし、怪我をしたり風邪を引けば面倒だってみる。そもそも万人に好かれるのは絶対に不可能だ。フィリィも理解しているはずだし、印象を良くしたいのも分かるが、今までの行動はあまりにも『自由』とは遠いのでは無いだろうか。フィリィの真意が見えないので何とも言えないが。
「フィリィ?! 怪我してるの?! 大丈夫?」
「うん。そんな痛く無いから平気」
船まで戻ってくると船番をしていたベポが心配そうにフィリィを覗き込む。笑って答える顔が強がりで無いことが分かったのか、ベポは「キャプテンにちゃんと見てもらってね」と付け加えた。そのまま船内に入ろうとするローにフィリィは慌てて服を掴んで止める。
「もういいよ。歩けるから」
その言葉を無視したままローは診察室までくるとベッドの方にフィリィを座らせる。鬼哭を受け取って近くに立て掛けるとそのまま足元にしゃがんで痣を見た。骨に問題は無いようだが、触ると痛むのか眉を寄せる顔にまた少しイラつく。どう考えても掴んで引き摺られたりする様な力のかかり方が無いとこうはならない。
「歩けるなんてよく言ったな」
「あそこまでは普通に歩いたから」
いけると思ったんだけど。と小さくなっていく声を聞きながら道具を出すために立ち上がる。冷静になってきたのなら他の傷もすぐに痛みだすだろう。
「服は全部脱げ」
「えっ」
「スキャンすればどうせ分かるが、どっちがいい」
能力を使わせる方がローの手がかかることをすぐに察したのか「脱ぎます…」と小さく零すと大人しく服を脱ぎ始める。下着だけの姿になっても恥も躊躇いもないのは医者としてはやりやすくて助かるが、あまりにも警戒心が無いように見えて眉を寄せる。どこに行ってもこんな風だったのだろうか。
「怪我させられただけか」
順番に手当てをしながら問いかけられた言葉にフィリィは少し考える。物を取られたのかとか情報を渡したのかとか、色々と解釈は出来るがこの場合は体は無事かという感じだろうか。
「うん」
「本当だろうな」
「こんな時に嘘つかないよ」
笑って言ってみるがどうにも通用していない気がしてすぐに黙ってしまう。時計の秒針が進む音と、道具を触る音しか聞こえなくなって、居た堪れない気持ちになる。ローの怒りの先がよく分からない。手当てをしてくれているという事は備品を勝手に使ったのかと疑っているわけでは無いようだし、体の心配もしてくれている。それなら、怪我を隠した事に関してだろうか。医者として自分の認知していない怪我人を乗せているのは気に入らないとか。
ぐるぐると思考は回るが答えは出ない。いつの間にか下に落ちていた視界にローの手が映ってハッとする。
「どこか痛むのか」
そのまま顔を見るように手に持ち上げられた視線がローと合う。最近はよく目が合うようになった。目が合えば大体の感情ぐらいは分かるものかと思っていたが、案外難しい。
「……ごめんなさい」
「何に対してだ。それは」
「分からない、けど。怒っているような気がするから」
細められた目はそのまま首元を見るように視線がズレた。髪を触る手の動きに首元の傷が見えたのかと察して髪を退けた。
察しの良い動きも言動も、クルーの為にと動く姿勢も、悪い事だとは思わない。だが、ローの前でだけそれが顕著に表れる。邪魔にならない様に、不快にならない様に。そうやってフィリィに動かれるのが無性に気に入らない。
「おまえのそれは、ただの献身だ。自己犠牲だけが人間関係を作るわけじゃないだろ」
言いながら傷口を触った指先の刺激が痛くて顔を歪める。血を拭って消毒をするのに耐えていると軽いノックの後で診察室の扉が開く。
「キャプテーン。木箱で手を切っちゃったので絆創膏を……って、フィリィ?!」
自分の手元を見ながら入ってきたペンギンは顔を上げた瞬間に驚いたように足を止める。ローの居場所を聞いただけだったので、まさかフィリィがいるとは思わなかった。しかも見るからに傷だらけで、手当ての最中なのか下着姿だ。
「取り込み中だ」
「で、ですよね…」
「自分で傷口洗って消毒しろ」
ちらりとペンギンの方に視線を向けて傷を確認するとローは指示を出してまたフィリィの方に視線を戻した。残りは腹部の打撲と鎖骨の辺りの切り傷だ。ジャケットを切り裂いていた背中の傷は服が邪魔をしたのか引っかき傷程度なので処置はいらない。
痛いと騒ぎながらも消毒まで済ませたペンギンが「終わりました…」と近くまで来る。すっぱりと切れた手のひらはかなり痛むだろうが切り口が綺麗な分治るのも早いだろう。
的確に手当てをするローの手元を見ているとペンギンと目が合う。怪我の状態が気になるのか見つめてくる視線に居心地が悪くなって下を向いた。鎖骨に付けられた傷に髪が触れてずきりと痛む。手当てが終わった傷もじくじくと蝕むような痛さと熱を持ってきた。その痛みと一緒に心臓まで早くなったような感覚に陥ってくる。それなりの痛みも熱も、慣れたものだと思っていたのだが。考えながら俯いたままでいるとペンギンに声を掛けられた。
「結構酷くやられたな」
「うん。ちょっと油断しちゃって」
へらりと笑えば「ふーん」とトーンの低い返事が飛んでくる。なんとも言えない空気感に心臓が変な音を立てている気がする。何か間違っただろうか。言葉が変だっただろうか。船に乗ってすぐ、診察を受けた時も似たような気持ちになった気がする。言葉の出てこないもどかしさと、何を言えば正解なのかが分からない感覚。自然と視線を下に向けているとぱちんと手を弾くような音がする。
「終わったぞ」
「いった! 優しくしてくださいよ!」
「うるせェ サッサと戻れ」
痛みで発生した熱を冷ます様に息を吹きかけながらペンギンは診察室から出て行った。扉の閉まる音を聞いていると鎖骨の辺りに手が伸びて来る。髪を退ける指先を見つめていると声が落ちてきた。
「おまえも、あれぐらい言えばいいだろ」
「……痛い、って?」
「文句も、意見も、他の奴らには言うだろ」
腹部の打撲を触るローを見る。帽子のせいで目が見えなくても今のは言葉だけで、何となく察せる気がした。
「拗ねてる?」
「……なんでそうなる」
どう考えても違うだろう。と言いたげな顔を向けた後、ため息を吐くとローは着ていたパーカーを脱いでフィリィに被せる。そのまま薬棚から解熱剤を出すとフィリィの手に投げた。
「今日はこのままそれ飲んで部屋で大人しくしてろ」
手を洗うローの後姿を見ながら薬とローを交互に見る。どういえば正解だろうか。と頭で考え始めてからすぐに首を振って思考を飛ばす。
「ありがとう」
「……何に対してだ」
「手当てしてくれたから?」
「ふっ……何で疑問形なんだよ」
ローにつられて顔が緩むのと同時に腹部の傷が痛んだ気がして、軽く触った。
+++
その日の夜、ローの指示でいつもとは違い船の甲板で上陸後の宴が行われていた。フィリィは騒ぐ船員たちを見ながら半分酔ってきたイッカクの話に相槌を打つ。最初は唯一の女性船員というのもあって色々と相談していたが、今となってはそんな打算的な考えがなくてもよく話す仲だ。イッカクの考え自体がフィリィの中にはない物も多いので、話は聞いていて楽しい。少し物言いがストレートすぎる時はあるが。
「あ、そうだ。これ飲む? 今日店でおまけしてもらったのよね~」
「え! それ結構高いやつじゃ…」
「そうそう。他の奴には内緒ね」
こそこそと話しながらイッカクは瓶の封を切った。今日はローに「酒は絶対飲むな」と言われている。実際に今飲んでいる物もただのジュースでアルコールの成分は入っていない。だが今目の前で封の開いた酒は金額も美味しさも身に染みて知っている。誘惑と揺れながら一口だけならバレないだろうか、と悪い部分が顔を出す。そして、そんな風に悩んでいる最中に「飲むでしょ?」なんて瓶を向けられたら頷くしかない。
差し出されたフィリィのジョッキにイッカクが瓶を近付けようとした時、フィリィの背後から伸びて来た手がジョッキを覆った。びっくりして動きを止めるとフィリィの隣にはいつの間にかキャプテンが座っていた。肩を組むように伸ばしたであろう腕の長さを「持て余してるなぁ」と酔った脳で見ているとキャプテンはジョッキを覆っていた手でフィリィの頬を摘まんで引っ張った。
「飲むな。といったはずだが?」
「い、いたい! いたい! ごめんなさい!」
「お、キャプテンがまたフィリィ口説いてる」
揶揄うように飛んできた声に睨みを効かせるが、ペンギンもシャチも酔っているのか全く効果がない。そもそもこの二人にキャプテンの牽制が効いた所は見たことが無い。どこまでいってもじゃれ合いのレベルだという信頼関係もあるのだろう。
「一度だって口説いた覚えはねェ」
「え~? でもこの前腕組んで歩いてませんでした?」
「それ、誰かと見間違えてるでしょ」
「あら、じゃあ遊び相手? キャプテンにしては珍しいですね」
この場に居る酔っぱらい率の高さにローはため息を吐きながらも、見られた相手を脳の中で考える。恐らく女の情報屋だろう。確かに黒い髪で身長もフィリィと似ていた気がする。香水の匂いが鬱陶しかったが、かなりいい情報と引き換えに一日いう事を聞いていた。流石に面倒な言動も多かったので夜まで一緒には居なかったが。
「あれは……」
「まあキャプテンなんて入れ食い状態でしょうし、娼館の女の子なんて狙わなくてもいいんでしょうけど」
「やっぱりキャプテンレベルになると店の子に好きになられちゃったりするんですか?」
「キャプテン普段遊んでるのとか見ないのによっぽどいい子だったんですね~」
口々に盛り上がる酔っぱらい達の勢いに自然と反論する気が失せる。そのままあそこの島はレベルが高かっただの、値段が高いだのと話始めた声を軽く聞き流しながら酒に口を付ける。隣にいるフィリィは酔った姿に呆れながらも、飛び火はして来なかったからか呑気に笑っていた。
「……おまえが医者の言う事破るとはな」
「う…ごめんなさい。誘惑に負けちゃって」
そこまで酒好きというわけではないだろうが、やはり美味しい物には目がないらしい。今日の怪我は全部服の中に隠してしまえるものばかりだったので、知っているのはローとペンギンだけだろう。周知する必要はないとロー自身判断しているし、フィリィもそれは望んでいないだろう。
フィリィの肩に置いたままだった腕を退けるとそのまま腰に手を回してみる。特に何の疑いもなく、こちらを見て首を傾げるだけの姿をじっと見た。黒い瞳に緩く赤い色の混じった目と、赤にグラデーションのかかっていく黒髪はさっき思い出した情報屋より随分良く見えた。……もしかして、自分も相当酔っているのだろうか。
「どうしたの?」
「……眠る前に熱が上がるようなら薬を出してやる。貰いに来い」
「うん。ありがとう」
手を解くと床に置いたままだったジョッキを手に取る。空になったままだったそこにイッカクが置き去りにしていた酒を注いだ。