終の船
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フィリィがポーラータング号に乗ってから一週間が経った。キャプテンからは「しばらく一緒に船に乗る」とだけ紹介されたが、クルーが増えた様なものだと認識している奴がほとんどだろうとシャチは考えている。だがキャプテンは新しいクルーを紹介する時とは違ったし、全員に配っているつなぎも渡していない。
キャプテンとどんな会話をしていたかはペンギンは教えてくれなかったが、気にかけ方を見ていれば何となくの状況は察することが出来た。クルーでもなければ次の島までの乗り合いでもない。そんな不思議な存在にほんの少しだけ、距離感を測り損ねているような気もしている。
話をするにも誰かと一緒なことが多いので、フィリィをあまり知らないというのもあるが、多分問題はそれだけではない。
「フィリィ。今日夕食の下拵え手伝ってくんない?」
「うん。いいよ」
「なぁフィリィ。お前がこの前言ってた酒の名前なんだっけ」
「地酒のやつ? あれ他の島じゃ飲めないんだよね」
「ベポ、昨日寝惚けながら書いてた海図。ここの部分間違ってるよ」
「え?! あ〜本当だ!」
あまりにも、馴染みすぎではないか? ベポはともかく、他のクルーもたった一週間一緒にいただけで随分と仲良くなっている気がする。確かに人形の様な可愛い顔をしている割には、さっぱりした性格で話もしやすい。ニコニコ笑って話すから、気を許してしまうのも分かる気がするけど。
うーん。と唸りながら遠巻きに他の皆とわいわい話している姿を見ていると、ペンギンが隣に腰掛けてくる。
「なんだ? フィリィが気になるのか?」
「すっげぇ馴染んでるな。と思って」
「あいつ他の海賊船にも乗ったことあるみたいだからな」
処世術ってやつじゃないか。とペンギンは話す。料理も出来る、海図も分かる、酒もそこそこ、海賊に理解があって、人当たりがいい。確かに、どんな船に乗っても大体は上手くいくだろう。
「キャプテンとお前ぐらいだろうな。ちょっと距離置いてるの」
「あー、食事の時隣に座らせてたし警戒してんだろうなとは思ってた」
ハートの海賊団の中で船長であるローが一番強いことは当たり前の事実だが、他でもないその船長が乗せると決めたのなら何かあった時に責任を取るのも自分であるべきだと思っているのだろう。食事中は気も緩むので確かに警戒の仕方としては正しい。
シャチの中では警戒は無いものの、町で見た時の第一印象が不思議な心地がしたのもあって二人きりで話すまでにはなっていない。ペンギンは最初に一緒にいたのもあってか、そこそこ本人にも懐かれているみたいだが。
「なーんか変な感じすんだよな。同じ人間じゃねぇみたいな」
「その感覚。半分ぐらい合ってると思うぞ」
ケラケラと笑うペンギンにはぁ?と訳が分からぬまま声を出していると、フィリィが「何の話してるの?」と言いながら目の前に座った。どうやら他のクルーは今日の当番の為に散っていったらしい。
「お前の話だよ」
「おい!」
「大丈夫だって」
そのままペンギンはフィリィにローと自分に話した事をシャチにも話すように促した。なんの躊躇いもなく話す姿に面食らいながらも、自分の感覚に納得のいったシャチは目の前で話すフィリィに妙な距離を感じることが無くなった気がした。隠してはいないとはいえ、本人の事情を聞けば多少は理解をした気になれる。知らなければ、このまま不思議な女だと思うままだっただろう。だからといって頭が混乱するのもまた当然だろう。Dr.ベガパンクの娘? 人造人間? 人造悪魔の実?全くもって処理が追いついていないが、それはこれから噛み砕いていくしかない。
「で。お前は結局うちに入ったって事でいいのか?」
「うーん。仮加入かな。ローさんに認められるまでは乗ってるだけって感じ」
乗ってるだけ。とは言っても船内の仕事はやってくれているし、この前見つけた小さな無人島では一緒に散策もした。その時の動き方を見た感じ、戦闘だってできるタイプだろう。期間も決まっていないのに認められるまで乗る。という意思も固いようだし、何か本人の中で大きな目標でもあるのだろうか。
「おい」
そのまま何気なく三人で話していると、食堂の入口からローが声をかけてくる。その呼び掛けにフィリィはすぐに自分の事だと気付いたのか、ペンギンとシャチに一言声をかけてから席を立つ。ローの所まで行くと診察の時間だと短く伝えられたようだ。
何か話してから去っていく二人の後ろ姿を見つめてからペンギンとシャチはどちらともなく視線をぶつけ合った。
「フィリィの理解が高いのか、キャプテンが分かりやすいのか、どっちだと思う?」
「前者かな」
***
「相変わらず高ぇ体温だな」
「こればっかりはどうしようもないかな」
聴診器を当てやすい様に服を捲りながら苦笑いを浮かべる。悪魔の実を食べるまでは平均的な体温だったが、炎を扱う実だった事もあってか高い体温にすっかり変わってしまった。髪も目も元は真っ黒だったが赤い色が出てきたし、体質だけではなく姿にも影響が出た。まあ世の中には食べた者の体型ごと変えてしまうような実も存在するらしいから、自分の変化は不思議なものではないだろう。
「体調に変化は」
「特になにも」
カルテに書き込む手元を見ながら答えれば、書きかけていたペンがピタリと止まった。不思議に思って顔を上げるが、被っている帽子の影になっていて目元がよく見えない。
「ロシナンテ中佐と言っていたな」
「うん」
「海軍にいた時に出会ったのか」
またペンを動かし始めたローをじっと見つめる。ただでさえ無表情な事が多いから、出来れば目を見て話したいのだが。聞き辛い事なのか、こっちを見てくれる様子は無い。
ローとロシナンテの間に何があったのかは最早目の前にいる男からしか聞くことは出来ないが、自分の知っている事と雰囲気から察するに相当の恩があるのだろう。それは自分にも通ずるところがある。
「私、ほとんど海軍の人達に育てられたの。パパも勉強見てくれたりはしてたけど、どっちかというと何か作る方が好きな人だし、それが仕事だったから」
だからといって愛情が無かったとも思わないが、そもそも人を育てられる人ではない。自然と研究員や海軍の人間が代わる代わる面倒を見てくれる事が多くなって、結果的に実験体として扱われることも沢山あった。その扱いを受け続けているうちに幼い頃は感情が欠如したロボットの様な子供になっていた。
「あるお偉いさんがそんな私のこと気にかけてくれててね。その関係で知り合ったの。……変な人だなぁって思ったよ」
くすくす笑うフィリィの顔をちらりと見る。出会い方が違えば第一印象も違う。海賊でないコラさんを知らないからこそ興味があった。軍人としてのロシナンテ中佐に。
「何も無いところで転ぶし、タバコで書類は燃やすし、電伝虫は逃がすし、銃に水はぶっかけるし。でも、皆にすごく好かれてた」
情に厚い人だったと今ならはっきり分かる。懐に入れた相手に何かあれば苛烈になる事はあれど、何事にも真っ直ぐで海軍に向いているなと何度も思った。優しい人なのも、すぐに分かった。フィリィに興味を持ったのは彼がきっと子供が好きだったから。そして感情のない自分を哀れに思ったからだろう。自分の事を構う彼に何かの実験に使うのかと聞いて、怒られた時の事は今でもすぐに思い出せる。
「一年ぐらいかな。ずーっと構ってくれてたんだけどね。ある日何も言わずにいなくなっちゃった」
自分と彼を引き合わせてくれたお偉いさんは長い任務に出たとだけ教えてくれた。その頃、自分は悪魔の実を食べてようやく彼の教えてくれた自由を理解し始めていたのに。彼が死んだのを知ったのも、かなり時間が経ってからだった。言い辛そうに教えてくれた彼の親代わりだったそのお偉いさんは、黙り込むフィリィに彼が向かった最後の任務のことを教えてくれた。
「オペオペの実を食べた人物が最後にロシナンテさんと関わりがあったかもしれないってその人は言ってた」
ペンを止めて話を聞いていたローは言葉を切ったフィリィの方を見る。やっと合った目線に微笑む表情にはどことなく、安心の気持ちが浮かんでいた。
「ずっと探してたの。あなたのこと」
フィリィが何度か言った『自由』という言葉を反芻しながらローは緩やかに目を細める。最初に話した時も、自由を教えてもらったと言っていた。感情のない実験体としての存在に自由がないであろう事は想像に容易い。その言葉の本当の意味が分からないことも。
「あなたと会ったら、ロシナンテさんの事を話して、それで終わりのつもりだったけど……気が変わったの」
一週間この海賊団にいて、益々ここのクルーになりたいと思うようになった。船長であるローに認めて貰えないなら周りから固めてやろうと船員達に積極的に関わった部分も最初はあったが、雰囲気の良さや各々の得意分野での専門知識の高さにすっかり惚れ込んでしまっていた。何よりもハートの海賊団のクルーは船長であるローをかなり慕っている。人望のある船長の海賊船は幾度となく見てきたが、基本は強さへの憧れだ。圧倒的な暴力や剣技、戦略。自分もそんな風になりたい。その強さに認められたい。そんな船が海賊船には多い。
だがハートの海賊団は少しだけ違った。ローの事をかっこいい、強い。と言うことはあっても、根本の敬う気持ちはその知識や優しさに向いている。それはきっとローも同じなのだろう。いつも隣で食事をしているからこそ見える。会話に積極的に入っていなくても、ローのクルーを見る目は優しさと愛がある。
―― 私も、あんな風に誰かを愛して、愛されたい
自分の経験がない感情を知ることも自由には必要な事だ。それを感覚で理解出来た時、また一つ選択肢が増える。フィリィはそんな風に考えていた。家族愛というものは自分も明確に受け取ったことは無いし、自分と父親のそれは平均的なものとは違うと理解している。だからこそ、ここで家族愛という愛情を理解したいという気持ちが強い。
ローが自分を疑う気持ちもよく分かる。元はと言えば軍にいた人間で、狙われているのすら演技なのかもしれないのだから。それは自分の身を、仲間を、守るには充分すぎる不信感だ。さすがに一週間では気持ちは動かないだろうことはフィリィにも分かっていた。だがローは自分とは必要以上に喋らないからこの時間も貴重だ。さて、どうしようか。自分からも何か聞いてみようかと口を開きかけて、壁を挟んで聞こえる足音にすぐ口を閉じた。ローも気づいたのか扉の方に目を向ける。
「キャプテン! 海軍の軍艦だ!」
「……戦闘準備をしろ。すぐにいく」
言いながら立ち上がると近くに立て掛けてあった鬼哭を手に取る。座ったままのフィリィを見下ろせば、ばたばたと走っていくクルーを見送っていた。
「手伝う?」
「お前が向こう側じゃないならな」
なら行かなきゃね。と笑うとフィリィは早足で診察室を出たローの後ろを着いていった。
+++
ローは甲板に出るともうすぐ大砲の射程距離に入ろうとしている軍艦を見て舌打ちをした。帆船としての機能はあるが、速度でいうと明らかに向こうの方が早い。戦闘準備の指示を出したからか、クルー達もそれぞれ準備をして甲板に集まっている。ローがどう判断するかを待っている状態だ。
「戦うの?」
「誰かさんのせいで物資が少し不安なんでな」
前回の島からの出航が急だった事もあって、食料面で多少の不安がある。次の島が近ければ良かったのだが意外にも道のりが長い。飢えはこの広い海で一番の敵だ。苛立ちや不安のマイナスな精神状態を簡単に呼び出してしまう。それは仲間割れにも繋がるし、船全体の空気が悪くなるのは避けたい。それに戦うにしても問題は誰が乗っているかだ。下手に怪我をする事になるなら、どうにかして逃げ切った方がいい。
軍艦をじっと見つめていたフィリィは片手で目元に日影を作る。今日は雲もなく天気がいい。気候は春だが少し強い日差が邪魔だ。フィリィは普通の人間よりは目がよく見える。これもまた悪魔の実で人体に変化が出た結果だが、普通の鳥類程目がいいわけではない。何もかも能力者と言うには中途半端だが、このぐらいの距離なら難なく軍艦の詳細を観察することも出来た。
「あれ、巡回船だね。この辺の近くに支部があるんじゃないかな」
「分かるのか?」
「うん。見分けられるようになってるの」
フィリィは言いながら着ていたジャケットを脱いで甲板に捨てる。背中の大きく開いたタンクトップ一枚になると体を解すように肩を回した。
「私が先に突っ込むよ」
「……ならその間に近づくか。潜水して近づいた方が早いな」
ローがクルーに指示を出すのを聞きながら、フィリィは甲板の手すりに足をかける。同時に背中から広がった大きな翼に一瞬クルーの言葉が止まった。フィリィが普段ポケットに入れている羽とは違って赤の強い翼は周りの目を奪う。ハッとしてすぐに走り出したクルーに置いて行かれるようにシャチとペンギンはぼーっとフィリィの背中を見つめる。
「殺しはするなよ。無駄な殺生は嫌いだ」
「はーい」
のんびりとした返事の後、フィリィは大きく翼を動かす。大きな風を発生させた体は真っ直ぐ海軍の軍艦に向かっていく。
海に出てからの数年間、今まで色々な能力者を相手に戦ってきたことがあるが、動物系の能力者は少なかった。ましてや普通の悪魔の実で言うならトリトリの実は五種しか存在しない。完全な鳥型にはなれないとはいえ、珍しさからシャチとペンギンは飛んでいく後ろ姿に見惚れていた。
「おい。二人ともぼーっとしてないで中に入れ。近づいたら乗り込むぞ」
ローの言葉にやっと我に返ると二人は返事をしてすぐに中に入る。潜水の準備は既に完了していたのか、扉を閉めた瞬間に海の中へと沈んで行く船体に身を任せる。
正直、このままフィリィを置いていくという選択も可能なはずだが、それをしないのはキャプテンも少しは絆されているということなのだろうか。どう思っているかなんて言葉にして貰わないと分かりはしないが、そうだといいな。と思いながらペンギンはちらりと隣で壁にもたれるキャプテンを見た。
基本的に優秀な狙撃手がいない限りは速度を持って飛んでいる鳥を撃ち落とすのは難しい。それが的の大きな人間だとしても同じことだ。空の青色に反する様な色をしている翼はよく目立つが、海兵達は砲撃や銃では撃ち落とせないと判断して、乗り込んでくる状況に備えて準備をする。
フィリィが率先して乗り込むと言い切ったのにはいくつか理由がある。まず、海兵達は新兵ですら生け捕りのみの指名手配者の顔は覚えるようにと上からお達しを受けている。何かの際にうっかり殺してしまいました。なんていうのはもちろん通用しないので、もしもの状況を避けるためだ。それ故にフィリィに対しては海兵達は強く出ることは出来ない。もちろん相手が強ければ捕まる可能性はあるが、帆に誰の名前も入っていない巡回船にフィリィが負けるような海兵が乗っていることはない。
それにローに対して役に立つところを見せておかないと、という気持ちもあった。親が親なだけに知識を求められがちだが、フィリィ自身の脳は至って平凡だ。だが、戦闘においてはそれなりに役に立つという自信がある。あの場で自分から囮になるような事を言って、ローがどう出るかも気になったのでいい機会だった。長らく人との戦闘は避けていたし、最近は隠れてばかりで体を動かしたい気持ちもある。さっきの様子だとさすがにこのまま置いて行かれるようなことは無さそうなので、時間稼ぎと準備運動をさせて貰うことにしよう。
甲板にふわりと着地したフィリィを警戒する様に海兵達が見つめる。数人が顔と名前が一致したのかようにハッとして、上官の指示を待っていた。勝手に手を出して万が一があっては責任問題になってしまう。
「"炎羽の"フィリィだな。ハートの海賊団に入ったのか?」
「うーん。ちょっと乗らせて貰ってるだけってところかな」
まだ正式に認められていない間に余計な事は言えない。自分を海賊団に入れたとなると、ローに対する注目度も上がるだろう。多分だが、そういう勝手は好きでは無いはずだ。翼をしまいながらズボンのポケットを探る。羽を一枚手に取ると鋭い声が飛んできた。
「大人しく投降する気は」
「ない」
フィリィがそういった瞬間に海兵の一人が捕縛用の刺股を突いてくる。空を突いたあと甲板を刺した刺股はフィリィの蹴りで簡単に役目を終えてしまった。驚く海兵も鳩尾への蹴りでノックアウトして武器に変えた羽をナイフの様に構える。比較的若い海兵が多いのか全員少し躊躇いが見える。恐らくだが軍艦による威嚇だけのつもりだったのだろう。こちらとしてはこの戦力は感覚を取り戻すのに丁度いい。
斬りかかってくるのを見ながらさらに後ろに控えている海兵達の様子を伺う。銃を使って来る気配は今のところない。当たり所が悪ければ死んでしまう武器だ。脅し以外には使えないと判断したのだろう。簡単に刀を受け流しながら囲むように陣形を取ろうとしている海兵に視線を飛ばす。進路を阻む様にナイフを投げると、刺さった部分から火が上がって焦る声が聞こえた。そのまま翼を広げると怯むように数歩下がったのが分かってフッと笑みを浮かべた。
こちらから明確に傷付ける意思は示していないが、一歩機嫌を損なえば殺されるのかもしれないという危うさを感じているのだろう。殺してはいけない海兵側とどちらでもいいフィリィとでは戦いに躊躇いが出るのも頷ける。
ふと、先頭で向き合う海兵と目が合う。支給された服も帽子も何もかも新しい。実戦すらも初めてなのだろう。震える様に揺れる刀の切っ先を見ながらフィリィは真っ直ぐに海兵に向かう。周りも何かする気なのかと手を出しては来ない。刀のすぐそばで立ち止まれば先程よりも震えているのがよく分かる。これが少しでも触れれば物理的に人を傷つける武器だという理解はあるのだろう。フィリィの顔を見た後、ふらふらと定まらなかった視線は刀の切っ先で止まった。あと一歩。フィリィが踏み込めば胸に刀が簡単に刺さる。そんな距離で海兵は息と一緒に何かをごくりと飲み込む。
「刺さないの? 今出来たら、あなた英雄になれるかもよ」
そう言いながら刀の峰を撫でるように指を滑らせる。あまりにも自然な動作に周りの海兵達も息を飲む。おもむろに刃の方にするりと手を返した瞬間、動揺する様に刀が揺れた。腕の内側にある柔らかい皮膚を刀が傷つける。決して深い傷では無いが、赤く滲む血を見た瞬間に膝からがくんと崩れ落ちた海兵をフィリィは見下ろした。
「何してる! 早く捕らえろ!」
飛んできた上官からの声に周りで呆然と見ていた海兵達はハッとして刀を握り直して、向かってくる。
訓練と実戦は緊張感が圧倒的に違う。特に海賊相手ともなれば殺すか殺されるかの戦闘になる事がほとんどだ。一瞬の迷いや戸惑いで簡単に命を落とす。ただでさえ海に出て海賊に会えば死ぬか奪われるかの世界だ。気絶を狙って向かってくる相手ぐらいはねじ伏せられないと、今後の昇進なんて夢のまた夢だろう。
少しは戦闘経験もある海兵も混じっているが、その程度ではフィリィの相手になるわけもない。上官である男は目の前の生け捕り対象の懸賞金が上がっていく意味を実感する。自分でも死ぬ気で行かねば確実に捉えることは難しいだろう。脳の中で弾き出された結果を元に男はすぐに声を飛ばした。
「支部に連絡を入れろ!」
「はい!」
その声を聞き逃すわけもなく、伝達の為に船の中に戻ろうとする海兵を見た。そのフィリィの視線に気づいて立ち塞がる敵を簡単に沈めると、持っていたナイフを投げる為にくるりと手元で回す。飛ぼうかと動かした翼はすぐに何かの気配に気づいて止まった。その少しの躊躇いを見逃さなかったのか斬りかかってきた海兵の刀をフィリィは受け止めた。
「今のは良かったんじゃない」
余裕そうに笑っていうフィリィに悔しがるような表情を浮かべた海兵の意識は次の瞬間には暗闇に沈んでいた。今のでまた少し戦意を失ったのか攻撃を渋る海兵達の後ろから悲鳴に近いざわめきが聞こえる。確認の為に振り返った海兵は自分の上半身が何故かそのまま回転して後ろを向いたことに驚く。自分の腹の辺りを見れば何故か胴体がすっぱりと切れていた。ぐらりと支えを失うように傾いた上半身に思わず踏ん張ろうと足に力を入れるが、その力に支えられることも無く、体は甲板に投げ出された。だが不思議なことに痛みは感じず、自分の思った通りに下半身も動く。その不可解な現象への混乱がじわじわと海兵達に広がっていた。
いつの間に飛んだのかフィリィは海兵達を真っ二つに切った男の隣に降りる。船内に繋がる扉も崩れていはいないが歪な形をしていた。
「私ごと切ろうとしたでしょ!」
「切れてないならいいだろ」
ローは文句を言ってくるフィリィを軽くあしらうと周りを見渡した。自分が切った海兵はそう多くは無い。甲板に倒れているのはこの軍艦に乗っていた半数はいるだろうか。見た限り手応えのある相手がいなかったとはいえ、今までの時間を考えるとその辺の海賊団で船長や幹部をやっていても充分すぎるぐらいだ。
「おい、すぐに戻れないようにその辺に引っ付けとけ」
「アイアイ、キャプテン!」
一緒に乗り込んできていたクルー達にそういうとローは一人の海兵の首を甲板の手すりにつける。既にどうにもならないことは分かっているのか、他の海兵達と違いこちらを睨んでくるだけだ。
フィリィは海兵の体と追いかけっこが始まっている甲板を見渡す。探していたものが見つかるとゆっくりと足を進める。フィリィが離れたのを見ながら海兵は口を開いた。
「あの女を加入させたのか。トラファルガー・ロー」
「勝手に乗ってるだけだ。今のところ害はないんでな」
「乗せていても得などないだろう。海軍に引き渡してくれないか。今大人しく渡せば、ハートの海賊団の船は見逃すと約束をしよう」
ローはフィリィの後ろ姿を見てすぐに視線を戻す。こんな提案は他のところでも何十回と繰り返されていただろう。それを今までフィリィがどうやって回避してきたかは分からない。そもそも海軍は何が目的でフィリィを追いかけているのだろうか。ベガパンクの娘だと言うだけでここまで必死になる必要があるのだろうか。それともフィリィが人造人間だから?
尽きない疑問をぽつぽつと頭の中で並べたあとでローはフッと笑いを浮かべる。コラさんの事を聞くだけで満足いくだろうと思っていたが、どうやら本人のこともまだ聞く必要があるらしい。上手く行けば海軍内部の話だって聞けるだろう。有難いことに、向こうからこの海賊団を離れる気は無いようだ。
「……悪いが、欲しいなら自分で奪ってみせろ。あいにくこっちは海賊でな、簡単に自分の船の物を渡すわけにはいかない」
ぐっと言葉を詰まらせた後、もう一度開こうとした口を頭ごと縦に半分に切る。刀を鞘に収めると一人の海兵の近くにしゃがみこんでいるフィリィに近づいた。後ろから覗き込めば、まだ若そうな新兵がフィリィの羽を握って気絶していた。羽はロウソクの様にゆっくりと燃えているが、甲板を燃やしている様子はない。
「あ、話終わった?」
「……あぁ。それは催眠か?」
フィリィは頷くともう一度海兵を見たあとで立ち上がる。先程までローが話していた海兵は口がパクパクと動いてはいるが、切られたせいで言葉にはなっていない。あの様子を見るに交渉は決裂したのだろう。ということは自分はもうしばらく船に乗せてもらえるというわけだ。
「なんの催眠だ」
「さっき色々あったからね」
言いながら腕の内側を見せるフィリィには切り傷が出来ていた。さほど深くはないのか血は滲んでいるが、流れている訳では無い。この海兵に切られたのだろうか。
「おまえのは期限があるんだろ」
「うん。まあ…気休めだよ。こんな事で辞めちゃったら可哀想でしょ?」
「相手は海軍だぞ」
ローはそう言いながらフィリィの腕を掴んで傷口を見る。軍の兵士が毒を使うわけもないが、特にそういった反応は肌にも出ていない。
人を守る仕事に就いているのだから、任務中に悪人を傷つけることは少なからずある。確かにそこで辞めてしまう海兵もいるのだろう。捕まえるだけが軍の仕事では無いし、時には民間人すら捕縛や処理の対象になる。それに気持ちがついていかないのも、人間としては正常だ。今ここで、期限付きの催眠で和らげたところでその内ダメになるだけだろう。
「あとで消毒するから診察室に来い」
「……私のこと海軍に売らなくて良かったの?」
五千万ベリーだよ。と言うフィリィを見つめ返すと掴んでいた腕を離す。
「こっちが奪いに来たのに取られてちゃ世話ねぇだろ」
「え! それって認めてくれたってこと?」
「心配しなくてもおまえは乗り合いの人間だ」
「なんだぁ…」
残念そうにする顔に背を向けると積荷を物色し始めた船員達の方に足を向けた。
+++
海軍から奪った食料は船員たちの手で倉庫に運び込まれた。その増えた食糧を数える仕事をフィリィは自分から名乗り出ていた。ローには自分のせいで食料に難があると聞かされていたし、何より自分は他の船員たちと違って日替わりの当番の中には組み込まれていない。それなら手が空いている者がやる方が効率的だろう。
全て確認し終えて紙に書き込むと、固まった肩を解すために大きく上に伸びる。同時に大きなため息も吐き出すと少し体が解れた様な気分になった。こつこつと数を数える作業はどうにも肩に力が入って得意では無い。胡座をかいていた足も投げ出せば、作業の終わりがさらに実感できた気がした。
「終わったか? お疲れさん」
聞こえた声に見上げるように視線を上げればシャチがひらひらと手を振ってから隣に座る。
「ほら、これ」
「拾ってくれてたの? ありがとう」
シャチは軽く畳んだジャケットをフィリィに渡す。甲板に脱ぎ捨てたままだったことは覚えていたので、てっきり海に流されたとでも思っていたが、どうやらシャチが拾って持っていてくれたらしい。お気に入りではあったので手元に戻ってきたのは嬉しい限りだ。
「おまえって服の下いつもそんな感じなの?」
「うん。翼に触ると燃えちゃうから」
直接炎が出ている訳では無いが、翼に触れた物や人は燃えてしまう。そこにフィリィの意識は関係しないので、あまり他人との近接的な共闘には向いていなかったりもする。昔乗っていた海賊船で近くで戦っていたクルーの服を燃やしてしまって、かなり怒られた事もあった。
「絶妙に不便だなぁ。おまえの能力」
「人工的かつ不完全だからね」
人が作った人間が、人が作った悪魔の実を食べたのだ。不便ばかりでも仕方が無いと思っている。それにフィリィ自身が望んで食べたのであって、無理矢理に能力者にされた訳では無いので不満もない。
今みたいに簡単に手の内を明かしたり、自分の事情を話したり、警戒心を微塵も感じさせない姿にシャチは話を聞きながら考え込む。フィリィは本気でここのクルーになりたいのだろう。だからこそ聞かれたことには素直に答えて、船の中での仕事もきちんとこなす。これを分かっているから他のクルーも快く迎え入れたのだろう。自分も歩み寄ってフィリィに対する理解を少しだけ始めた今となっては悪い奴では無いことだけは分かる。
「そういえば、夕飯の支度始まるんじゃないか」
「あ! そうだ! 戻らなきゃ!」
慌てて立ち上がってジャケットを羽織ると、もう一度シャチにお礼を言ってフィリィは食料庫を出ていった。忙しない足音を見送りながら、シャチはため息を吐いてぶら下がっている電球を見上げた。
キャプテンとどんな会話をしていたかはペンギンは教えてくれなかったが、気にかけ方を見ていれば何となくの状況は察することが出来た。クルーでもなければ次の島までの乗り合いでもない。そんな不思議な存在にほんの少しだけ、距離感を測り損ねているような気もしている。
話をするにも誰かと一緒なことが多いので、フィリィをあまり知らないというのもあるが、多分問題はそれだけではない。
「フィリィ。今日夕食の下拵え手伝ってくんない?」
「うん。いいよ」
「なぁフィリィ。お前がこの前言ってた酒の名前なんだっけ」
「地酒のやつ? あれ他の島じゃ飲めないんだよね」
「ベポ、昨日寝惚けながら書いてた海図。ここの部分間違ってるよ」
「え?! あ〜本当だ!」
あまりにも、馴染みすぎではないか? ベポはともかく、他のクルーもたった一週間一緒にいただけで随分と仲良くなっている気がする。確かに人形の様な可愛い顔をしている割には、さっぱりした性格で話もしやすい。ニコニコ笑って話すから、気を許してしまうのも分かる気がするけど。
うーん。と唸りながら遠巻きに他の皆とわいわい話している姿を見ていると、ペンギンが隣に腰掛けてくる。
「なんだ? フィリィが気になるのか?」
「すっげぇ馴染んでるな。と思って」
「あいつ他の海賊船にも乗ったことあるみたいだからな」
処世術ってやつじゃないか。とペンギンは話す。料理も出来る、海図も分かる、酒もそこそこ、海賊に理解があって、人当たりがいい。確かに、どんな船に乗っても大体は上手くいくだろう。
「キャプテンとお前ぐらいだろうな。ちょっと距離置いてるの」
「あー、食事の時隣に座らせてたし警戒してんだろうなとは思ってた」
ハートの海賊団の中で船長であるローが一番強いことは当たり前の事実だが、他でもないその船長が乗せると決めたのなら何かあった時に責任を取るのも自分であるべきだと思っているのだろう。食事中は気も緩むので確かに警戒の仕方としては正しい。
シャチの中では警戒は無いものの、町で見た時の第一印象が不思議な心地がしたのもあって二人きりで話すまでにはなっていない。ペンギンは最初に一緒にいたのもあってか、そこそこ本人にも懐かれているみたいだが。
「なーんか変な感じすんだよな。同じ人間じゃねぇみたいな」
「その感覚。半分ぐらい合ってると思うぞ」
ケラケラと笑うペンギンにはぁ?と訳が分からぬまま声を出していると、フィリィが「何の話してるの?」と言いながら目の前に座った。どうやら他のクルーは今日の当番の為に散っていったらしい。
「お前の話だよ」
「おい!」
「大丈夫だって」
そのままペンギンはフィリィにローと自分に話した事をシャチにも話すように促した。なんの躊躇いもなく話す姿に面食らいながらも、自分の感覚に納得のいったシャチは目の前で話すフィリィに妙な距離を感じることが無くなった気がした。隠してはいないとはいえ、本人の事情を聞けば多少は理解をした気になれる。知らなければ、このまま不思議な女だと思うままだっただろう。だからといって頭が混乱するのもまた当然だろう。Dr.ベガパンクの娘? 人造人間? 人造悪魔の実?全くもって処理が追いついていないが、それはこれから噛み砕いていくしかない。
「で。お前は結局うちに入ったって事でいいのか?」
「うーん。仮加入かな。ローさんに認められるまでは乗ってるだけって感じ」
乗ってるだけ。とは言っても船内の仕事はやってくれているし、この前見つけた小さな無人島では一緒に散策もした。その時の動き方を見た感じ、戦闘だってできるタイプだろう。期間も決まっていないのに認められるまで乗る。という意思も固いようだし、何か本人の中で大きな目標でもあるのだろうか。
「おい」
そのまま何気なく三人で話していると、食堂の入口からローが声をかけてくる。その呼び掛けにフィリィはすぐに自分の事だと気付いたのか、ペンギンとシャチに一言声をかけてから席を立つ。ローの所まで行くと診察の時間だと短く伝えられたようだ。
何か話してから去っていく二人の後ろ姿を見つめてからペンギンとシャチはどちらともなく視線をぶつけ合った。
「フィリィの理解が高いのか、キャプテンが分かりやすいのか、どっちだと思う?」
「前者かな」
***
「相変わらず高ぇ体温だな」
「こればっかりはどうしようもないかな」
聴診器を当てやすい様に服を捲りながら苦笑いを浮かべる。悪魔の実を食べるまでは平均的な体温だったが、炎を扱う実だった事もあってか高い体温にすっかり変わってしまった。髪も目も元は真っ黒だったが赤い色が出てきたし、体質だけではなく姿にも影響が出た。まあ世の中には食べた者の体型ごと変えてしまうような実も存在するらしいから、自分の変化は不思議なものではないだろう。
「体調に変化は」
「特になにも」
カルテに書き込む手元を見ながら答えれば、書きかけていたペンがピタリと止まった。不思議に思って顔を上げるが、被っている帽子の影になっていて目元がよく見えない。
「ロシナンテ中佐と言っていたな」
「うん」
「海軍にいた時に出会ったのか」
またペンを動かし始めたローをじっと見つめる。ただでさえ無表情な事が多いから、出来れば目を見て話したいのだが。聞き辛い事なのか、こっちを見てくれる様子は無い。
ローとロシナンテの間に何があったのかは最早目の前にいる男からしか聞くことは出来ないが、自分の知っている事と雰囲気から察するに相当の恩があるのだろう。それは自分にも通ずるところがある。
「私、ほとんど海軍の人達に育てられたの。パパも勉強見てくれたりはしてたけど、どっちかというと何か作る方が好きな人だし、それが仕事だったから」
だからといって愛情が無かったとも思わないが、そもそも人を育てられる人ではない。自然と研究員や海軍の人間が代わる代わる面倒を見てくれる事が多くなって、結果的に実験体として扱われることも沢山あった。その扱いを受け続けているうちに幼い頃は感情が欠如したロボットの様な子供になっていた。
「あるお偉いさんがそんな私のこと気にかけてくれててね。その関係で知り合ったの。……変な人だなぁって思ったよ」
くすくす笑うフィリィの顔をちらりと見る。出会い方が違えば第一印象も違う。海賊でないコラさんを知らないからこそ興味があった。軍人としてのロシナンテ中佐に。
「何も無いところで転ぶし、タバコで書類は燃やすし、電伝虫は逃がすし、銃に水はぶっかけるし。でも、皆にすごく好かれてた」
情に厚い人だったと今ならはっきり分かる。懐に入れた相手に何かあれば苛烈になる事はあれど、何事にも真っ直ぐで海軍に向いているなと何度も思った。優しい人なのも、すぐに分かった。フィリィに興味を持ったのは彼がきっと子供が好きだったから。そして感情のない自分を哀れに思ったからだろう。自分の事を構う彼に何かの実験に使うのかと聞いて、怒られた時の事は今でもすぐに思い出せる。
「一年ぐらいかな。ずーっと構ってくれてたんだけどね。ある日何も言わずにいなくなっちゃった」
自分と彼を引き合わせてくれたお偉いさんは長い任務に出たとだけ教えてくれた。その頃、自分は悪魔の実を食べてようやく彼の教えてくれた自由を理解し始めていたのに。彼が死んだのを知ったのも、かなり時間が経ってからだった。言い辛そうに教えてくれた彼の親代わりだったそのお偉いさんは、黙り込むフィリィに彼が向かった最後の任務のことを教えてくれた。
「オペオペの実を食べた人物が最後にロシナンテさんと関わりがあったかもしれないってその人は言ってた」
ペンを止めて話を聞いていたローは言葉を切ったフィリィの方を見る。やっと合った目線に微笑む表情にはどことなく、安心の気持ちが浮かんでいた。
「ずっと探してたの。あなたのこと」
フィリィが何度か言った『自由』という言葉を反芻しながらローは緩やかに目を細める。最初に話した時も、自由を教えてもらったと言っていた。感情のない実験体としての存在に自由がないであろう事は想像に容易い。その言葉の本当の意味が分からないことも。
「あなたと会ったら、ロシナンテさんの事を話して、それで終わりのつもりだったけど……気が変わったの」
一週間この海賊団にいて、益々ここのクルーになりたいと思うようになった。船長であるローに認めて貰えないなら周りから固めてやろうと船員達に積極的に関わった部分も最初はあったが、雰囲気の良さや各々の得意分野での専門知識の高さにすっかり惚れ込んでしまっていた。何よりもハートの海賊団のクルーは船長であるローをかなり慕っている。人望のある船長の海賊船は幾度となく見てきたが、基本は強さへの憧れだ。圧倒的な暴力や剣技、戦略。自分もそんな風になりたい。その強さに認められたい。そんな船が海賊船には多い。
だがハートの海賊団は少しだけ違った。ローの事をかっこいい、強い。と言うことはあっても、根本の敬う気持ちはその知識や優しさに向いている。それはきっとローも同じなのだろう。いつも隣で食事をしているからこそ見える。会話に積極的に入っていなくても、ローのクルーを見る目は優しさと愛がある。
―― 私も、あんな風に誰かを愛して、愛されたい
自分の経験がない感情を知ることも自由には必要な事だ。それを感覚で理解出来た時、また一つ選択肢が増える。フィリィはそんな風に考えていた。家族愛というものは自分も明確に受け取ったことは無いし、自分と父親のそれは平均的なものとは違うと理解している。だからこそ、ここで家族愛という愛情を理解したいという気持ちが強い。
ローが自分を疑う気持ちもよく分かる。元はと言えば軍にいた人間で、狙われているのすら演技なのかもしれないのだから。それは自分の身を、仲間を、守るには充分すぎる不信感だ。さすがに一週間では気持ちは動かないだろうことはフィリィにも分かっていた。だがローは自分とは必要以上に喋らないからこの時間も貴重だ。さて、どうしようか。自分からも何か聞いてみようかと口を開きかけて、壁を挟んで聞こえる足音にすぐ口を閉じた。ローも気づいたのか扉の方に目を向ける。
「キャプテン! 海軍の軍艦だ!」
「……戦闘準備をしろ。すぐにいく」
言いながら立ち上がると近くに立て掛けてあった鬼哭を手に取る。座ったままのフィリィを見下ろせば、ばたばたと走っていくクルーを見送っていた。
「手伝う?」
「お前が向こう側じゃないならな」
なら行かなきゃね。と笑うとフィリィは早足で診察室を出たローの後ろを着いていった。
+++
ローは甲板に出るともうすぐ大砲の射程距離に入ろうとしている軍艦を見て舌打ちをした。帆船としての機能はあるが、速度でいうと明らかに向こうの方が早い。戦闘準備の指示を出したからか、クルー達もそれぞれ準備をして甲板に集まっている。ローがどう判断するかを待っている状態だ。
「戦うの?」
「誰かさんのせいで物資が少し不安なんでな」
前回の島からの出航が急だった事もあって、食料面で多少の不安がある。次の島が近ければ良かったのだが意外にも道のりが長い。飢えはこの広い海で一番の敵だ。苛立ちや不安のマイナスな精神状態を簡単に呼び出してしまう。それは仲間割れにも繋がるし、船全体の空気が悪くなるのは避けたい。それに戦うにしても問題は誰が乗っているかだ。下手に怪我をする事になるなら、どうにかして逃げ切った方がいい。
軍艦をじっと見つめていたフィリィは片手で目元に日影を作る。今日は雲もなく天気がいい。気候は春だが少し強い日差が邪魔だ。フィリィは普通の人間よりは目がよく見える。これもまた悪魔の実で人体に変化が出た結果だが、普通の鳥類程目がいいわけではない。何もかも能力者と言うには中途半端だが、このぐらいの距離なら難なく軍艦の詳細を観察することも出来た。
「あれ、巡回船だね。この辺の近くに支部があるんじゃないかな」
「分かるのか?」
「うん。見分けられるようになってるの」
フィリィは言いながら着ていたジャケットを脱いで甲板に捨てる。背中の大きく開いたタンクトップ一枚になると体を解すように肩を回した。
「私が先に突っ込むよ」
「……ならその間に近づくか。潜水して近づいた方が早いな」
ローがクルーに指示を出すのを聞きながら、フィリィは甲板の手すりに足をかける。同時に背中から広がった大きな翼に一瞬クルーの言葉が止まった。フィリィが普段ポケットに入れている羽とは違って赤の強い翼は周りの目を奪う。ハッとしてすぐに走り出したクルーに置いて行かれるようにシャチとペンギンはぼーっとフィリィの背中を見つめる。
「殺しはするなよ。無駄な殺生は嫌いだ」
「はーい」
のんびりとした返事の後、フィリィは大きく翼を動かす。大きな風を発生させた体は真っ直ぐ海軍の軍艦に向かっていく。
海に出てからの数年間、今まで色々な能力者を相手に戦ってきたことがあるが、動物系の能力者は少なかった。ましてや普通の悪魔の実で言うならトリトリの実は五種しか存在しない。完全な鳥型にはなれないとはいえ、珍しさからシャチとペンギンは飛んでいく後ろ姿に見惚れていた。
「おい。二人ともぼーっとしてないで中に入れ。近づいたら乗り込むぞ」
ローの言葉にやっと我に返ると二人は返事をしてすぐに中に入る。潜水の準備は既に完了していたのか、扉を閉めた瞬間に海の中へと沈んで行く船体に身を任せる。
正直、このままフィリィを置いていくという選択も可能なはずだが、それをしないのはキャプテンも少しは絆されているということなのだろうか。どう思っているかなんて言葉にして貰わないと分かりはしないが、そうだといいな。と思いながらペンギンはちらりと隣で壁にもたれるキャプテンを見た。
基本的に優秀な狙撃手がいない限りは速度を持って飛んでいる鳥を撃ち落とすのは難しい。それが的の大きな人間だとしても同じことだ。空の青色に反する様な色をしている翼はよく目立つが、海兵達は砲撃や銃では撃ち落とせないと判断して、乗り込んでくる状況に備えて準備をする。
フィリィが率先して乗り込むと言い切ったのにはいくつか理由がある。まず、海兵達は新兵ですら生け捕りのみの指名手配者の顔は覚えるようにと上からお達しを受けている。何かの際にうっかり殺してしまいました。なんていうのはもちろん通用しないので、もしもの状況を避けるためだ。それ故にフィリィに対しては海兵達は強く出ることは出来ない。もちろん相手が強ければ捕まる可能性はあるが、帆に誰の名前も入っていない巡回船にフィリィが負けるような海兵が乗っていることはない。
それにローに対して役に立つところを見せておかないと、という気持ちもあった。親が親なだけに知識を求められがちだが、フィリィ自身の脳は至って平凡だ。だが、戦闘においてはそれなりに役に立つという自信がある。あの場で自分から囮になるような事を言って、ローがどう出るかも気になったのでいい機会だった。長らく人との戦闘は避けていたし、最近は隠れてばかりで体を動かしたい気持ちもある。さっきの様子だとさすがにこのまま置いて行かれるようなことは無さそうなので、時間稼ぎと準備運動をさせて貰うことにしよう。
甲板にふわりと着地したフィリィを警戒する様に海兵達が見つめる。数人が顔と名前が一致したのかようにハッとして、上官の指示を待っていた。勝手に手を出して万が一があっては責任問題になってしまう。
「"炎羽の"フィリィだな。ハートの海賊団に入ったのか?」
「うーん。ちょっと乗らせて貰ってるだけってところかな」
まだ正式に認められていない間に余計な事は言えない。自分を海賊団に入れたとなると、ローに対する注目度も上がるだろう。多分だが、そういう勝手は好きでは無いはずだ。翼をしまいながらズボンのポケットを探る。羽を一枚手に取ると鋭い声が飛んできた。
「大人しく投降する気は」
「ない」
フィリィがそういった瞬間に海兵の一人が捕縛用の刺股を突いてくる。空を突いたあと甲板を刺した刺股はフィリィの蹴りで簡単に役目を終えてしまった。驚く海兵も鳩尾への蹴りでノックアウトして武器に変えた羽をナイフの様に構える。比較的若い海兵が多いのか全員少し躊躇いが見える。恐らくだが軍艦による威嚇だけのつもりだったのだろう。こちらとしてはこの戦力は感覚を取り戻すのに丁度いい。
斬りかかってくるのを見ながらさらに後ろに控えている海兵達の様子を伺う。銃を使って来る気配は今のところない。当たり所が悪ければ死んでしまう武器だ。脅し以外には使えないと判断したのだろう。簡単に刀を受け流しながら囲むように陣形を取ろうとしている海兵に視線を飛ばす。進路を阻む様にナイフを投げると、刺さった部分から火が上がって焦る声が聞こえた。そのまま翼を広げると怯むように数歩下がったのが分かってフッと笑みを浮かべた。
こちらから明確に傷付ける意思は示していないが、一歩機嫌を損なえば殺されるのかもしれないという危うさを感じているのだろう。殺してはいけない海兵側とどちらでもいいフィリィとでは戦いに躊躇いが出るのも頷ける。
ふと、先頭で向き合う海兵と目が合う。支給された服も帽子も何もかも新しい。実戦すらも初めてなのだろう。震える様に揺れる刀の切っ先を見ながらフィリィは真っ直ぐに海兵に向かう。周りも何かする気なのかと手を出しては来ない。刀のすぐそばで立ち止まれば先程よりも震えているのがよく分かる。これが少しでも触れれば物理的に人を傷つける武器だという理解はあるのだろう。フィリィの顔を見た後、ふらふらと定まらなかった視線は刀の切っ先で止まった。あと一歩。フィリィが踏み込めば胸に刀が簡単に刺さる。そんな距離で海兵は息と一緒に何かをごくりと飲み込む。
「刺さないの? 今出来たら、あなた英雄になれるかもよ」
そう言いながら刀の峰を撫でるように指を滑らせる。あまりにも自然な動作に周りの海兵達も息を飲む。おもむろに刃の方にするりと手を返した瞬間、動揺する様に刀が揺れた。腕の内側にある柔らかい皮膚を刀が傷つける。決して深い傷では無いが、赤く滲む血を見た瞬間に膝からがくんと崩れ落ちた海兵をフィリィは見下ろした。
「何してる! 早く捕らえろ!」
飛んできた上官からの声に周りで呆然と見ていた海兵達はハッとして刀を握り直して、向かってくる。
訓練と実戦は緊張感が圧倒的に違う。特に海賊相手ともなれば殺すか殺されるかの戦闘になる事がほとんどだ。一瞬の迷いや戸惑いで簡単に命を落とす。ただでさえ海に出て海賊に会えば死ぬか奪われるかの世界だ。気絶を狙って向かってくる相手ぐらいはねじ伏せられないと、今後の昇進なんて夢のまた夢だろう。
少しは戦闘経験もある海兵も混じっているが、その程度ではフィリィの相手になるわけもない。上官である男は目の前の生け捕り対象の懸賞金が上がっていく意味を実感する。自分でも死ぬ気で行かねば確実に捉えることは難しいだろう。脳の中で弾き出された結果を元に男はすぐに声を飛ばした。
「支部に連絡を入れろ!」
「はい!」
その声を聞き逃すわけもなく、伝達の為に船の中に戻ろうとする海兵を見た。そのフィリィの視線に気づいて立ち塞がる敵を簡単に沈めると、持っていたナイフを投げる為にくるりと手元で回す。飛ぼうかと動かした翼はすぐに何かの気配に気づいて止まった。その少しの躊躇いを見逃さなかったのか斬りかかってきた海兵の刀をフィリィは受け止めた。
「今のは良かったんじゃない」
余裕そうに笑っていうフィリィに悔しがるような表情を浮かべた海兵の意識は次の瞬間には暗闇に沈んでいた。今のでまた少し戦意を失ったのか攻撃を渋る海兵達の後ろから悲鳴に近いざわめきが聞こえる。確認の為に振り返った海兵は自分の上半身が何故かそのまま回転して後ろを向いたことに驚く。自分の腹の辺りを見れば何故か胴体がすっぱりと切れていた。ぐらりと支えを失うように傾いた上半身に思わず踏ん張ろうと足に力を入れるが、その力に支えられることも無く、体は甲板に投げ出された。だが不思議なことに痛みは感じず、自分の思った通りに下半身も動く。その不可解な現象への混乱がじわじわと海兵達に広がっていた。
いつの間に飛んだのかフィリィは海兵達を真っ二つに切った男の隣に降りる。船内に繋がる扉も崩れていはいないが歪な形をしていた。
「私ごと切ろうとしたでしょ!」
「切れてないならいいだろ」
ローは文句を言ってくるフィリィを軽くあしらうと周りを見渡した。自分が切った海兵はそう多くは無い。甲板に倒れているのはこの軍艦に乗っていた半数はいるだろうか。見た限り手応えのある相手がいなかったとはいえ、今までの時間を考えるとその辺の海賊団で船長や幹部をやっていても充分すぎるぐらいだ。
「おい、すぐに戻れないようにその辺に引っ付けとけ」
「アイアイ、キャプテン!」
一緒に乗り込んできていたクルー達にそういうとローは一人の海兵の首を甲板の手すりにつける。既にどうにもならないことは分かっているのか、他の海兵達と違いこちらを睨んでくるだけだ。
フィリィは海兵の体と追いかけっこが始まっている甲板を見渡す。探していたものが見つかるとゆっくりと足を進める。フィリィが離れたのを見ながら海兵は口を開いた。
「あの女を加入させたのか。トラファルガー・ロー」
「勝手に乗ってるだけだ。今のところ害はないんでな」
「乗せていても得などないだろう。海軍に引き渡してくれないか。今大人しく渡せば、ハートの海賊団の船は見逃すと約束をしよう」
ローはフィリィの後ろ姿を見てすぐに視線を戻す。こんな提案は他のところでも何十回と繰り返されていただろう。それを今までフィリィがどうやって回避してきたかは分からない。そもそも海軍は何が目的でフィリィを追いかけているのだろうか。ベガパンクの娘だと言うだけでここまで必死になる必要があるのだろうか。それともフィリィが人造人間だから?
尽きない疑問をぽつぽつと頭の中で並べたあとでローはフッと笑いを浮かべる。コラさんの事を聞くだけで満足いくだろうと思っていたが、どうやら本人のこともまだ聞く必要があるらしい。上手く行けば海軍内部の話だって聞けるだろう。有難いことに、向こうからこの海賊団を離れる気は無いようだ。
「……悪いが、欲しいなら自分で奪ってみせろ。あいにくこっちは海賊でな、簡単に自分の船の物を渡すわけにはいかない」
ぐっと言葉を詰まらせた後、もう一度開こうとした口を頭ごと縦に半分に切る。刀を鞘に収めると一人の海兵の近くにしゃがみこんでいるフィリィに近づいた。後ろから覗き込めば、まだ若そうな新兵がフィリィの羽を握って気絶していた。羽はロウソクの様にゆっくりと燃えているが、甲板を燃やしている様子はない。
「あ、話終わった?」
「……あぁ。それは催眠か?」
フィリィは頷くともう一度海兵を見たあとで立ち上がる。先程までローが話していた海兵は口がパクパクと動いてはいるが、切られたせいで言葉にはなっていない。あの様子を見るに交渉は決裂したのだろう。ということは自分はもうしばらく船に乗せてもらえるというわけだ。
「なんの催眠だ」
「さっき色々あったからね」
言いながら腕の内側を見せるフィリィには切り傷が出来ていた。さほど深くはないのか血は滲んでいるが、流れている訳では無い。この海兵に切られたのだろうか。
「おまえのは期限があるんだろ」
「うん。まあ…気休めだよ。こんな事で辞めちゃったら可哀想でしょ?」
「相手は海軍だぞ」
ローはそう言いながらフィリィの腕を掴んで傷口を見る。軍の兵士が毒を使うわけもないが、特にそういった反応は肌にも出ていない。
人を守る仕事に就いているのだから、任務中に悪人を傷つけることは少なからずある。確かにそこで辞めてしまう海兵もいるのだろう。捕まえるだけが軍の仕事では無いし、時には民間人すら捕縛や処理の対象になる。それに気持ちがついていかないのも、人間としては正常だ。今ここで、期限付きの催眠で和らげたところでその内ダメになるだけだろう。
「あとで消毒するから診察室に来い」
「……私のこと海軍に売らなくて良かったの?」
五千万ベリーだよ。と言うフィリィを見つめ返すと掴んでいた腕を離す。
「こっちが奪いに来たのに取られてちゃ世話ねぇだろ」
「え! それって認めてくれたってこと?」
「心配しなくてもおまえは乗り合いの人間だ」
「なんだぁ…」
残念そうにする顔に背を向けると積荷を物色し始めた船員達の方に足を向けた。
+++
海軍から奪った食料は船員たちの手で倉庫に運び込まれた。その増えた食糧を数える仕事をフィリィは自分から名乗り出ていた。ローには自分のせいで食料に難があると聞かされていたし、何より自分は他の船員たちと違って日替わりの当番の中には組み込まれていない。それなら手が空いている者がやる方が効率的だろう。
全て確認し終えて紙に書き込むと、固まった肩を解すために大きく上に伸びる。同時に大きなため息も吐き出すと少し体が解れた様な気分になった。こつこつと数を数える作業はどうにも肩に力が入って得意では無い。胡座をかいていた足も投げ出せば、作業の終わりがさらに実感できた気がした。
「終わったか? お疲れさん」
聞こえた声に見上げるように視線を上げればシャチがひらひらと手を振ってから隣に座る。
「ほら、これ」
「拾ってくれてたの? ありがとう」
シャチは軽く畳んだジャケットをフィリィに渡す。甲板に脱ぎ捨てたままだったことは覚えていたので、てっきり海に流されたとでも思っていたが、どうやらシャチが拾って持っていてくれたらしい。お気に入りではあったので手元に戻ってきたのは嬉しい限りだ。
「おまえって服の下いつもそんな感じなの?」
「うん。翼に触ると燃えちゃうから」
直接炎が出ている訳では無いが、翼に触れた物や人は燃えてしまう。そこにフィリィの意識は関係しないので、あまり他人との近接的な共闘には向いていなかったりもする。昔乗っていた海賊船で近くで戦っていたクルーの服を燃やしてしまって、かなり怒られた事もあった。
「絶妙に不便だなぁ。おまえの能力」
「人工的かつ不完全だからね」
人が作った人間が、人が作った悪魔の実を食べたのだ。不便ばかりでも仕方が無いと思っている。それにフィリィ自身が望んで食べたのであって、無理矢理に能力者にされた訳では無いので不満もない。
今みたいに簡単に手の内を明かしたり、自分の事情を話したり、警戒心を微塵も感じさせない姿にシャチは話を聞きながら考え込む。フィリィは本気でここのクルーになりたいのだろう。だからこそ聞かれたことには素直に答えて、船の中での仕事もきちんとこなす。これを分かっているから他のクルーも快く迎え入れたのだろう。自分も歩み寄ってフィリィに対する理解を少しだけ始めた今となっては悪い奴では無いことだけは分かる。
「そういえば、夕飯の支度始まるんじゃないか」
「あ! そうだ! 戻らなきゃ!」
慌てて立ち上がってジャケットを羽織ると、もう一度シャチにお礼を言ってフィリィは食料庫を出ていった。忙しない足音を見送りながら、シャチはため息を吐いてぶら下がっている電球を見上げた。