終の船
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事を探るにしても準備と逃げる算段は必要だ。ログが溜まる前にこの島を飛び出すのはリスクがあるし、無駄に他の船員達に迷惑をかけるわけにはいかない。今後の事を話し合った時、目的の人物に対して情報が欲しいのは「自分のため」だとローは何度も言っていた。それだけで船員達を下手に巻き込みたくないのは痛い程分かる。フィリィも働かせてもらっている店に何か影響が出るのは望んでいない。それ故にログが溜まりきる三日前程から本格的に踏み込む予定だった。だった、はずなのだが。
ふぅ。と息を吐いたことをため息だと思ったのか捻るようにして掴まれている手首にさらに力が込められたのが分かる。自分よりも少し視線の高い男に目を向けると怒りの滲んだ目が見下ろして来ていた。何がそんなに我慢ならなかったのだろう。怒り関しては幾分か向けられる事に耐性がある。じっと内側を覗き込むような視線を向ければ、根負けしたかのように男の視線が揺れた。
いつものように働き終わって船への道のりを歩き始めてすぐの事だった。急に走るように近づいて来た男に捕まった。殺意は感じないので逃げようと思えばいつでも逃げられる状況だ。接触してしまったからにはきちんと対応しなければならない。
「お店を、辞めるって本当ですか」
「……元々期間は決めていたので」
最初の約束より少し早まったものの女将さんは理解を示してくれたし、明日には辞めるつもりだった。そもそも娼館で働く女性でもないのにこんな質問をぶつけられるのもおかしな話だ。もしかして見張りずらくなるからだろうか。
「あの男について行くんですか」
その言葉にすぐにローの事だと分かった。ローと話をした後から仕事が終わるとローが店の近くまで迎えに来ている事が何度かあった。毎日後ろをつけて来ていたのなら、その姿も見ているはずだ。
だが、フィリィがこの町に来たのは約二週間前、働き始めたのも同時期。ずっと酒屋で働いていたわけでもないのにどうしてそんな事を聞くんだろうか。確かにフィリィの事を海賊だと知るのは町民では二人しかいない。町に住んでいる女が海賊に誑かされているとでも思っているのだろうか。そういえばフィリィが働き始めた少し後からこの男に担当者が変わったことを女将さんに聞いた。
答えを言わないフィリィに焦れたのか距離を詰めて来た男に嫌悪感が増して後ろに下がる。そうはいっても後ろは壁で距離が空いたと言っても些細なものだ。ぶつぶつと何かを言っているのを聞きながら、情報を抜くのは諦めようかという気持ちが浮いて来る。この状況だと催眠をかけるのも難しい。
「何をしてる」
殺意の籠った声に背筋が伸びた。男も同じだったのか近づいて来ていた顔が離れていき、声のした方を見る。
「ロー…」
「何をしてる。と聞いてるんだが」
何も言わずに自分を睨むばかりの男にローはもう一度問いかける。怯んではいるようだが何かをぶつぶつと繰り返すばかりで動く気配がない。手首を握る力が緩まることもなく、意外にも隙がない。仕方がないので力づくで抜け出そうとした瞬間、男がフィリィの手を掴んだまま走り出す。急な事に引かれるままに体が動いた。
「”ROOM”」
舌打ちを一つ零してからすぐに能力を発動させる。近くにあった木箱とフィリィの居場所を入れ替えると、急な事によろけた体を支えてやる。「ありがとう」と申し訳なさそうに笑う顔を見てから男の方に目を向けた。
「くそ…!」
やけくそなのか、元からそのつもりだったのか、蓋の付いた試験管のようなものをジャケットから取り出すとこちらに向かって投げつけて来る。距離的に体には届かなかったがすぐ近くの地面にぶつかって音を立てて割れた。中身の液体は空気に触れた瞬間に何か音を立てているが、ローの視線はすぐに男に向いた。走り去っていく後姿に追いかけようと一歩踏み込んだローの前にフィリィがすぐに回り込む。
「待って! 追いかけないで」
焦りと冷静さを混ぜたような声とローの口と鼻を塞ぐように手を持って来たフィリィに熱くなっていた気持ちが落ち着く。投げられたものが何かの薬品だったのだろう。男と反対方向に背中を向けるとすぐにその場を離れた。
フィリィが「もう大丈夫」という所で足を止める。それと同時にその場に崩れるようにしゃがみ込んでしまった体に肝が冷えた。背中を支えるように体に触れれば少しだけ熱を持っているのが分かる。
「話せるか」
「うん。ちょっと先が痺れてるだけ」
すぐ抜けると思う。とへらりと笑ったフィリィに眉を寄せる。あの瞬間は明らかにローの判断が悪かった。普段ならもっと冷静に対処できたはずだ。怒りの感情が明らかに勝っている状況でも体は上手くコントロールできるものだと思っていたが、フィリィに迫る男を見た瞬間に全て飲まれてしまっていた。
近くの木箱に体を座らせてやるとお礼を言ってまた微笑んでくる。痺れと一緒に何か効果があるのか緩く震える手元に視線を落とす。男に強く掴まれていたのか左の手首が赤くなっている。
「悪い。もっと冷静になるべきだった」
「ううん。何か掴めたかもしれない相手だもん。仕方ないよ」
少しだけマシになってきたのか足を動かすフィリィの手を取る。手首は赤くはなっているが特に痣にはならないだろう。触ると震えがあるのがよく分かる。表情は平然としているし顔色も悪い訳ではない。確認ついでに手首で脈を取るがこちらも特に問題は無い。
「……おまえも、ドフラミンゴを倒したいのか」
先日の出来事に返すような問いかけにフィリィは目を瞬かせる。フィリィがロシナンテと関係があって殺された恨みがあるのなら、ローについて回るのも、ローがドフラミンゴを倒したいことを察せたのも自然な事だろう。実際理由としてはそれが普通なのかもしれない。
「似たようなものかな」
「どういう意味だ」
「んー やりたい事は同じだけど、少し違う?」
自分でも首を傾げるフィリィにローはまたかとため息を吐く。考えている事を伝えるのが下手な割に端折って話すので分かりずらくなる。特に目的に関しては最初の頃からそうだった。何か感覚で決めているのか、それともコラさんが深く関わっているのか。
細かく話聞けばきっとフィリィは話してくれるだろう。知りたいと思う気持ちはあるが「どうして知りたいと思うのか」という理由に整理がつかない。さっきもそうだ。どうして自分は冷静な判断が出来なくなるほど、怒ってしまったのだろう。もうとっくにクルーと同じように考えているのは分かっているのだが。
「ロー?」
「……痺れはどうだ」
「もう歩けるよ」
まずは船に戻った方が良い。男から接触があったことを考えると色々と考え直さなければならない事もある。フィリィの手を取って立たせるといつも通りに歩き出した足取りにほっとした。本人が話していた通り確かに耐性はあるのだろう。だが痺れや毒の反応は素直に体に出るようならその特技に頼る気にはなれない。
「……さっきの男、やっぱり裏には繋がってると思う」
吸い込んだ薬の匂いも、その効果も、やり口にも覚えがある。ただ、自分の思い描く人物がドフラミンゴと手を組むのは考えずらい。裏社会でのし上がれるほどの人物の相棒にはなるには知識不足だ。実際に自分も該当する人物に執着される覚えはあってもねじ伏せられた記憶はない。さっきの薬も量が多かったので痺れはあったがすぐに元に戻った。見知った顔のクソ科学者ならばもっと殺意を持ったものを作るだろう。
「この町の裏は知れても、求めてるところに繋がりはしないかも」
「何かの手掛かりになるのなら調べる価値はあるが……」
下手に踏み込めば変なものを吊り上げる危険性があるのが裏社会だ。そのまま船員もろとも潰されたらたまったものではない。結果的に考えることは増えたが、ローはもう船から出ない方が良いという判断をフィリィに下したいらしい。
「でも、明日で最後だし……」
「あの男が明日も来るなら厄介だ。何されるか分かったもんじゃねェ」
ローの言葉が自分を気遣うような言い方に聞こえて思わず口を閉ざす。嬉しさと同時に湧いて出そうな気持に緩く首を振る。押し込めた後に出したお礼の言葉にはローからの返答は無かった。
***
翌日、酒屋に顔を出して事情を説明したい。というフィリィの気持ちをローはあっさりと理解してくれた。海賊という立場を理解してくれているのか、何も言わずに送り出してくれた女将さんには酒を買い込むことでけじめをつける形になった。酒屋を出てからはロー、ベポ、ペンギン、シャチと共に出航するための準備を進める為に町に買い物に出る。三週間近く滞在していると大体の店の位置や良い店、悪い店の区別もついて来た。船員にも媚薬や睡眠薬の事は話してあるので今のところ節度を守って遊べているのかトラブルの話は聞いていない。
「あとは日持ちする食材の手配かな」
「何だかんだあっという間だったなァ」
メモを見ながら話すペンギンとシャチの後ろをローと並んで歩く。後ろを着いて来るベポの姿は普通の町ではどうしても目立ってしまうが、特に驚いている人が居ない辺りを見ると町に住む人たちも滞在している海賊を覚えているか、噂が回っているのだろう。確かに何もしなくても難癖付けて暴力に走る海賊も中にはいるだろうし、そういう独自の情報網があるのかもしれない。
そういえばペンギンとシャチが町中で武器を持って歩いているのは初めて見るかもしれない。ローは一人の行動が多いので帯刀は常だが、他の船員たちはナイフを仕込んでいる程度だ。治安が悪い町ならまだしもこの島では今まで必要なかったはずだ。ローと一緒に居る時は常に持っているのだろうか。
この町は大通り以外は人が少ない。なので海賊がかち合って喧嘩になるのも大通りから逸れた道ばかりだ。住民も理解があってか急いでいる時以外は使わないのだろう。今も店を出てから歩いている道は数える程度しか人とすれ違っていない。
ぼーっとしながら歩いていると後ろから自分を呼ぶ声がして我に返る。その瞬間、路地から伸びて来た手を慌てて振り払った。
「大丈夫?!」
「うん。ありがとう、ベポ」
庇うように手を伸ばして来るベポにお礼を言う。前々から思っていたがベポは随分耳が良い。ミンク族の特徴はあまり詳しくないがそれも特性の一つなのだろうか。
周りに一斉に増えた気配に目を向ける。銃や剣を構える姿は海賊だが、身綺麗な姿には違和感を覚える。賞金稼ぎでもないとすると、正体は一つしかないだろう。ローを見れば一瞬眉を寄せてからすぐにいつものポーカーフェイスに戻る。計画を狂わせてしまった申し訳なさが胸にぼんやりと浮かんできた。
「おい、女は殺すなよ」
「もちろん。分かってるさ」
周りの男たちを睨みつけるようにして路地から出て来た男はフィリィの事を散々追い回していた見知った顔だ。自分たちを囲むように体制を整えると男たちはニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる。確かに数では圧勝だろう。お互いに武器を構えて完全に睨み合いになる。先に声を出したのはローだった。
「目的は」
「お前の首とそこの女だ。女は渡せばそこの兄ちゃんが懸賞金以上の金をくれるって言うんでな」
ぺらぺらと話す声に耳を傾けながら男をじっと見る。昨日の行動からしてまだ服の中に何かの薬品を仕込んでいる可能性は高い。それに向こうはこちらが裏を探ろうとしていることは知らないようだ。ローの首はきっと男の焚き付けだろう。羽織っていたカーディガンの袖口からするりと一枚羽を出す。ベポの体で向こうからは見えていないはずだ。昨日とは状況が違う。それにここまで来ると何かローの役に立っておかないと自分の気も済まなかった。
「素直に差し出せば満足か?」
「そいつは困った。おれ達は随分楽して大金を手に入れられるみたいだな」
男たちが一斉に笑うのと同時にシャチとペンギンが飛び掛かるように武器を振り下ろす。合図と言わんばかりに始まった戦闘の様子をちらりと見てから、庇ってくれていたベポの手をすり抜けて男の前に立つ。ベポの引き留める声が一瞬聞こえたが、すぐに他の男が飛び掛かってきたのか言葉は途切れた。
易々と自分の手の届く範囲にフィリィが来たことに男の口元に笑みが浮かぶ。揺れるような視線にフィリィは一度眉を寄せる。目が合っているようで、合っていない。言動はどことなく不自然で独り言が多い。こんな風に人を自分の手駒のように作り変えてしまう男を一人、知っている。フィリィは男の余裕な表情に更に滑り込むように微笑んで見せる。油断している方が、催眠にはかかりやすい。
「私と話をしましょう」
フィリィが出して来た羽が男の目の前でゆらりと炎の様に揺れる。動揺を見せて一つ、瞬きをした次の瞬間には男の目は虚ろな色に染まっていた。
「持ってる武器を全部見せて」
その言葉に男は素直に自分のジャケットを捲って見せた。ナイフと拳銃、それと薬品の入った瓶が二つ。後ろの戦いにも気を配りながら男の持っていた瓶に手を伸ばす。人数で攻めてきた事は称賛に値するが、ローの戦闘は多人数相手だとほぼ負けなしだ。ペンギン、シャチ、ベポに関しても息が合うのでこういう状況には強い。
「あなたの後ろにいる人物は誰?」
「……Dr.エガール」
聞き覚えしかない名前に思わず舌を打ってしまいそうになる。瓶を二つとも回収すると男を気絶させる。中身は確認しなくても分かる代物だが、男に持たせておくよりはいいだろう。ずっと様子を窺っていたのか遠慮もなく後ろから捕えようと手を伸ばして来た男の腕を振り払って鳩尾に蹴りを入れる。瓶をポケットの中にしまっていると気絶するには至らなかったのかよろよろと起き上がる姿に体を向けた。
「あれ、思ったよりガッツあるね」
微笑むフィリィに男は悔しそうに歯を食いしばる。一撃だけで力の差は充分理解できたのだろう。明らかに押されているのはマフィアの男たちの方だ。接近戦はきついと踏んだのか銃を取り出している男もいるがローの能力の前では無意味に等しい。それに普段は戦闘も少ないような町のマフィアと賞金首の海賊とでは経験値が比べ物にならない。
傷をつけるなという指示でも出ているのか素手で向かってくる男たちを簡単に追い払っていると走って近づいて来る気配に目を向けた。暗くて見えずらい路地裏を移動する気配に誰かが応援を呼んだのはすぐに察することが出来た。最初の自分の無警戒さを反省しながらフィリィはローの方に視線を向ける。これ以上増えられると面倒なことになる。その前にローに状況を伝えて脱出するのが一番いい。地の利は向こうにあるがローの能力ならば上手く巻けるはずだ。
頭でそこまで考えて、ローの方に体を向ける。出そうとした言葉とはまた違う状況が見えて、口を開くよりも早く、フィリィの体は動いていた。ローが背中を向けている方向の路地から銃口がいくつも伸びている。ローとの間に体を滑り込ませると数人が躊躇って銃口を逸らすのが見えた。
「フィリィ!」
シャチの痛々しい悲鳴が響くのと同時に羽とは違う赤色が散るのが見える。視線の端で捉えただけの情報にペンギンは脳が一気に処理を止めたことを察した。銃の音、硝煙の匂い、地面に染みる赤色に脳が冷めて、すぐに煮えていく。
敵側にも波の様に動揺が広がる。捕まえるべき女を殺してしまったかもしれないという動揺だ。
「おい! 殺したら意味ないんだぞ!」
その言葉に近くにいたペンギンが容赦なく男の腹を刺した。また違う赤色が地面を染めるのをシャチは刀を握り直しながら見ていた。指先が少し、震えている。キャプテンにもフィリィにも気付いていたのに、自分は銃口に気付くことが出来なかった。撃たれた瞬間、飛び散った赤色をズレたサングラスから鮮明に見てしまっていた。
「”シャンブルズ”」
ローの冷静な声が響くのと同時に駆け寄ろうとしていたベポは景色が変わったことに驚く。変わったと言ってもペンギンとシャチが近づき、ローが離れた場所にいる。状況を判断しようと周りを見渡すとペンギンの腕の中にぐったりとしたフィリィが抱きかかえられているのが見える。その代わりとでも言うように槍がフィリィが倒れていた場所に転がっていた。
「走れ。すぐに追いかける」
有無を言わさぬ指示に三人の背が伸びる。熱くなりすぎている頭を必死に落ち着かせながらペンギンが港の方に足を向けた。シャチもベポも何かを言いたいのを抑え込むように唇を噛むと必死に足を動かし始めた。
フィリィの体から零れ出る赤色を見ない様にしながら足を動かし続ける。今のこの状態がキャプテンに治せるものなのかどうかも自分たちには分からない。とにかく言われた通り早く船まで行かなければ。その気持ちだけが三人を前に進めていた。
「ペン、ギン……」
ぎゅっと自分のつなぎを握ってくる手と一緒にじわりと赤が染みる。自分の顔を見る瞳は霞んでいるのか少し焦点が合っていない。いつもと違って暗く見える赤みがかった瞳になぜだか、フィリィが散々ブラックジョークとして話していた研究所での生活が頭を過る。
「ッおい、喋るな」
「ロー、は…?」
「おまえのおかげで元気すぎるぐらい元気だよ」
走り出す最中聞こえた男たちの断末魔を思い出す。自分たちですら見たくないと思ったのだ、あの場に居たほとんどの人間は無事では済まないだろう。
「よかった」
安心したのかまた目を閉じたフィリィを見て随分頭が冷えて来た事をペンギンは自覚する。港はすぐそこだが、自分たちに出来ることはしなければキャプテンが助けたいものも助けられない。
「シャチ、船に連絡しろ。オペ室開けてもらえ。ベポ! 泣いてないでキャプテンが出航って言ったら出来るように頭動かしとけよ!」
ペンギンの言葉に返事になっていない言葉を発するベポにシャチは状況に構わず笑いが漏れる。ペンギンの判断もキャプテンを信頼しているからこそだ。ポケットからすぐに子電伝虫を取り出すと船に繋げる。誰かが電話に出る頃には冷静に状況を説明できるようになっていた。
ふぅ。と息を吐いたことをため息だと思ったのか捻るようにして掴まれている手首にさらに力が込められたのが分かる。自分よりも少し視線の高い男に目を向けると怒りの滲んだ目が見下ろして来ていた。何がそんなに我慢ならなかったのだろう。怒り関しては幾分か向けられる事に耐性がある。じっと内側を覗き込むような視線を向ければ、根負けしたかのように男の視線が揺れた。
いつものように働き終わって船への道のりを歩き始めてすぐの事だった。急に走るように近づいて来た男に捕まった。殺意は感じないので逃げようと思えばいつでも逃げられる状況だ。接触してしまったからにはきちんと対応しなければならない。
「お店を、辞めるって本当ですか」
「……元々期間は決めていたので」
最初の約束より少し早まったものの女将さんは理解を示してくれたし、明日には辞めるつもりだった。そもそも娼館で働く女性でもないのにこんな質問をぶつけられるのもおかしな話だ。もしかして見張りずらくなるからだろうか。
「あの男について行くんですか」
その言葉にすぐにローの事だと分かった。ローと話をした後から仕事が終わるとローが店の近くまで迎えに来ている事が何度かあった。毎日後ろをつけて来ていたのなら、その姿も見ているはずだ。
だが、フィリィがこの町に来たのは約二週間前、働き始めたのも同時期。ずっと酒屋で働いていたわけでもないのにどうしてそんな事を聞くんだろうか。確かにフィリィの事を海賊だと知るのは町民では二人しかいない。町に住んでいる女が海賊に誑かされているとでも思っているのだろうか。そういえばフィリィが働き始めた少し後からこの男に担当者が変わったことを女将さんに聞いた。
答えを言わないフィリィに焦れたのか距離を詰めて来た男に嫌悪感が増して後ろに下がる。そうはいっても後ろは壁で距離が空いたと言っても些細なものだ。ぶつぶつと何かを言っているのを聞きながら、情報を抜くのは諦めようかという気持ちが浮いて来る。この状況だと催眠をかけるのも難しい。
「何をしてる」
殺意の籠った声に背筋が伸びた。男も同じだったのか近づいて来ていた顔が離れていき、声のした方を見る。
「ロー…」
「何をしてる。と聞いてるんだが」
何も言わずに自分を睨むばかりの男にローはもう一度問いかける。怯んではいるようだが何かをぶつぶつと繰り返すばかりで動く気配がない。手首を握る力が緩まることもなく、意外にも隙がない。仕方がないので力づくで抜け出そうとした瞬間、男がフィリィの手を掴んだまま走り出す。急な事に引かれるままに体が動いた。
「”ROOM”」
舌打ちを一つ零してからすぐに能力を発動させる。近くにあった木箱とフィリィの居場所を入れ替えると、急な事によろけた体を支えてやる。「ありがとう」と申し訳なさそうに笑う顔を見てから男の方に目を向けた。
「くそ…!」
やけくそなのか、元からそのつもりだったのか、蓋の付いた試験管のようなものをジャケットから取り出すとこちらに向かって投げつけて来る。距離的に体には届かなかったがすぐ近くの地面にぶつかって音を立てて割れた。中身の液体は空気に触れた瞬間に何か音を立てているが、ローの視線はすぐに男に向いた。走り去っていく後姿に追いかけようと一歩踏み込んだローの前にフィリィがすぐに回り込む。
「待って! 追いかけないで」
焦りと冷静さを混ぜたような声とローの口と鼻を塞ぐように手を持って来たフィリィに熱くなっていた気持ちが落ち着く。投げられたものが何かの薬品だったのだろう。男と反対方向に背中を向けるとすぐにその場を離れた。
フィリィが「もう大丈夫」という所で足を止める。それと同時にその場に崩れるようにしゃがみ込んでしまった体に肝が冷えた。背中を支えるように体に触れれば少しだけ熱を持っているのが分かる。
「話せるか」
「うん。ちょっと先が痺れてるだけ」
すぐ抜けると思う。とへらりと笑ったフィリィに眉を寄せる。あの瞬間は明らかにローの判断が悪かった。普段ならもっと冷静に対処できたはずだ。怒りの感情が明らかに勝っている状況でも体は上手くコントロールできるものだと思っていたが、フィリィに迫る男を見た瞬間に全て飲まれてしまっていた。
近くの木箱に体を座らせてやるとお礼を言ってまた微笑んでくる。痺れと一緒に何か効果があるのか緩く震える手元に視線を落とす。男に強く掴まれていたのか左の手首が赤くなっている。
「悪い。もっと冷静になるべきだった」
「ううん。何か掴めたかもしれない相手だもん。仕方ないよ」
少しだけマシになってきたのか足を動かすフィリィの手を取る。手首は赤くはなっているが特に痣にはならないだろう。触ると震えがあるのがよく分かる。表情は平然としているし顔色も悪い訳ではない。確認ついでに手首で脈を取るがこちらも特に問題は無い。
「……おまえも、ドフラミンゴを倒したいのか」
先日の出来事に返すような問いかけにフィリィは目を瞬かせる。フィリィがロシナンテと関係があって殺された恨みがあるのなら、ローについて回るのも、ローがドフラミンゴを倒したいことを察せたのも自然な事だろう。実際理由としてはそれが普通なのかもしれない。
「似たようなものかな」
「どういう意味だ」
「んー やりたい事は同じだけど、少し違う?」
自分でも首を傾げるフィリィにローはまたかとため息を吐く。考えている事を伝えるのが下手な割に端折って話すので分かりずらくなる。特に目的に関しては最初の頃からそうだった。何か感覚で決めているのか、それともコラさんが深く関わっているのか。
細かく話聞けばきっとフィリィは話してくれるだろう。知りたいと思う気持ちはあるが「どうして知りたいと思うのか」という理由に整理がつかない。さっきもそうだ。どうして自分は冷静な判断が出来なくなるほど、怒ってしまったのだろう。もうとっくにクルーと同じように考えているのは分かっているのだが。
「ロー?」
「……痺れはどうだ」
「もう歩けるよ」
まずは船に戻った方が良い。男から接触があったことを考えると色々と考え直さなければならない事もある。フィリィの手を取って立たせるといつも通りに歩き出した足取りにほっとした。本人が話していた通り確かに耐性はあるのだろう。だが痺れや毒の反応は素直に体に出るようならその特技に頼る気にはなれない。
「……さっきの男、やっぱり裏には繋がってると思う」
吸い込んだ薬の匂いも、その効果も、やり口にも覚えがある。ただ、自分の思い描く人物がドフラミンゴと手を組むのは考えずらい。裏社会でのし上がれるほどの人物の相棒にはなるには知識不足だ。実際に自分も該当する人物に執着される覚えはあってもねじ伏せられた記憶はない。さっきの薬も量が多かったので痺れはあったがすぐに元に戻った。見知った顔のクソ科学者ならばもっと殺意を持ったものを作るだろう。
「この町の裏は知れても、求めてるところに繋がりはしないかも」
「何かの手掛かりになるのなら調べる価値はあるが……」
下手に踏み込めば変なものを吊り上げる危険性があるのが裏社会だ。そのまま船員もろとも潰されたらたまったものではない。結果的に考えることは増えたが、ローはもう船から出ない方が良いという判断をフィリィに下したいらしい。
「でも、明日で最後だし……」
「あの男が明日も来るなら厄介だ。何されるか分かったもんじゃねェ」
ローの言葉が自分を気遣うような言い方に聞こえて思わず口を閉ざす。嬉しさと同時に湧いて出そうな気持に緩く首を振る。押し込めた後に出したお礼の言葉にはローからの返答は無かった。
***
翌日、酒屋に顔を出して事情を説明したい。というフィリィの気持ちをローはあっさりと理解してくれた。海賊という立場を理解してくれているのか、何も言わずに送り出してくれた女将さんには酒を買い込むことでけじめをつける形になった。酒屋を出てからはロー、ベポ、ペンギン、シャチと共に出航するための準備を進める為に町に買い物に出る。三週間近く滞在していると大体の店の位置や良い店、悪い店の区別もついて来た。船員にも媚薬や睡眠薬の事は話してあるので今のところ節度を守って遊べているのかトラブルの話は聞いていない。
「あとは日持ちする食材の手配かな」
「何だかんだあっという間だったなァ」
メモを見ながら話すペンギンとシャチの後ろをローと並んで歩く。後ろを着いて来るベポの姿は普通の町ではどうしても目立ってしまうが、特に驚いている人が居ない辺りを見ると町に住む人たちも滞在している海賊を覚えているか、噂が回っているのだろう。確かに何もしなくても難癖付けて暴力に走る海賊も中にはいるだろうし、そういう独自の情報網があるのかもしれない。
そういえばペンギンとシャチが町中で武器を持って歩いているのは初めて見るかもしれない。ローは一人の行動が多いので帯刀は常だが、他の船員たちはナイフを仕込んでいる程度だ。治安が悪い町ならまだしもこの島では今まで必要なかったはずだ。ローと一緒に居る時は常に持っているのだろうか。
この町は大通り以外は人が少ない。なので海賊がかち合って喧嘩になるのも大通りから逸れた道ばかりだ。住民も理解があってか急いでいる時以外は使わないのだろう。今も店を出てから歩いている道は数える程度しか人とすれ違っていない。
ぼーっとしながら歩いていると後ろから自分を呼ぶ声がして我に返る。その瞬間、路地から伸びて来た手を慌てて振り払った。
「大丈夫?!」
「うん。ありがとう、ベポ」
庇うように手を伸ばして来るベポにお礼を言う。前々から思っていたがベポは随分耳が良い。ミンク族の特徴はあまり詳しくないがそれも特性の一つなのだろうか。
周りに一斉に増えた気配に目を向ける。銃や剣を構える姿は海賊だが、身綺麗な姿には違和感を覚える。賞金稼ぎでもないとすると、正体は一つしかないだろう。ローを見れば一瞬眉を寄せてからすぐにいつものポーカーフェイスに戻る。計画を狂わせてしまった申し訳なさが胸にぼんやりと浮かんできた。
「おい、女は殺すなよ」
「もちろん。分かってるさ」
周りの男たちを睨みつけるようにして路地から出て来た男はフィリィの事を散々追い回していた見知った顔だ。自分たちを囲むように体制を整えると男たちはニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる。確かに数では圧勝だろう。お互いに武器を構えて完全に睨み合いになる。先に声を出したのはローだった。
「目的は」
「お前の首とそこの女だ。女は渡せばそこの兄ちゃんが懸賞金以上の金をくれるって言うんでな」
ぺらぺらと話す声に耳を傾けながら男をじっと見る。昨日の行動からしてまだ服の中に何かの薬品を仕込んでいる可能性は高い。それに向こうはこちらが裏を探ろうとしていることは知らないようだ。ローの首はきっと男の焚き付けだろう。羽織っていたカーディガンの袖口からするりと一枚羽を出す。ベポの体で向こうからは見えていないはずだ。昨日とは状況が違う。それにここまで来ると何かローの役に立っておかないと自分の気も済まなかった。
「素直に差し出せば満足か?」
「そいつは困った。おれ達は随分楽して大金を手に入れられるみたいだな」
男たちが一斉に笑うのと同時にシャチとペンギンが飛び掛かるように武器を振り下ろす。合図と言わんばかりに始まった戦闘の様子をちらりと見てから、庇ってくれていたベポの手をすり抜けて男の前に立つ。ベポの引き留める声が一瞬聞こえたが、すぐに他の男が飛び掛かってきたのか言葉は途切れた。
易々と自分の手の届く範囲にフィリィが来たことに男の口元に笑みが浮かぶ。揺れるような視線にフィリィは一度眉を寄せる。目が合っているようで、合っていない。言動はどことなく不自然で独り言が多い。こんな風に人を自分の手駒のように作り変えてしまう男を一人、知っている。フィリィは男の余裕な表情に更に滑り込むように微笑んで見せる。油断している方が、催眠にはかかりやすい。
「私と話をしましょう」
フィリィが出して来た羽が男の目の前でゆらりと炎の様に揺れる。動揺を見せて一つ、瞬きをした次の瞬間には男の目は虚ろな色に染まっていた。
「持ってる武器を全部見せて」
その言葉に男は素直に自分のジャケットを捲って見せた。ナイフと拳銃、それと薬品の入った瓶が二つ。後ろの戦いにも気を配りながら男の持っていた瓶に手を伸ばす。人数で攻めてきた事は称賛に値するが、ローの戦闘は多人数相手だとほぼ負けなしだ。ペンギン、シャチ、ベポに関しても息が合うのでこういう状況には強い。
「あなたの後ろにいる人物は誰?」
「……Dr.エガール」
聞き覚えしかない名前に思わず舌を打ってしまいそうになる。瓶を二つとも回収すると男を気絶させる。中身は確認しなくても分かる代物だが、男に持たせておくよりはいいだろう。ずっと様子を窺っていたのか遠慮もなく後ろから捕えようと手を伸ばして来た男の腕を振り払って鳩尾に蹴りを入れる。瓶をポケットの中にしまっていると気絶するには至らなかったのかよろよろと起き上がる姿に体を向けた。
「あれ、思ったよりガッツあるね」
微笑むフィリィに男は悔しそうに歯を食いしばる。一撃だけで力の差は充分理解できたのだろう。明らかに押されているのはマフィアの男たちの方だ。接近戦はきついと踏んだのか銃を取り出している男もいるがローの能力の前では無意味に等しい。それに普段は戦闘も少ないような町のマフィアと賞金首の海賊とでは経験値が比べ物にならない。
傷をつけるなという指示でも出ているのか素手で向かってくる男たちを簡単に追い払っていると走って近づいて来る気配に目を向けた。暗くて見えずらい路地裏を移動する気配に誰かが応援を呼んだのはすぐに察することが出来た。最初の自分の無警戒さを反省しながらフィリィはローの方に視線を向ける。これ以上増えられると面倒なことになる。その前にローに状況を伝えて脱出するのが一番いい。地の利は向こうにあるがローの能力ならば上手く巻けるはずだ。
頭でそこまで考えて、ローの方に体を向ける。出そうとした言葉とはまた違う状況が見えて、口を開くよりも早く、フィリィの体は動いていた。ローが背中を向けている方向の路地から銃口がいくつも伸びている。ローとの間に体を滑り込ませると数人が躊躇って銃口を逸らすのが見えた。
「フィリィ!」
シャチの痛々しい悲鳴が響くのと同時に羽とは違う赤色が散るのが見える。視線の端で捉えただけの情報にペンギンは脳が一気に処理を止めたことを察した。銃の音、硝煙の匂い、地面に染みる赤色に脳が冷めて、すぐに煮えていく。
敵側にも波の様に動揺が広がる。捕まえるべき女を殺してしまったかもしれないという動揺だ。
「おい! 殺したら意味ないんだぞ!」
その言葉に近くにいたペンギンが容赦なく男の腹を刺した。また違う赤色が地面を染めるのをシャチは刀を握り直しながら見ていた。指先が少し、震えている。キャプテンにもフィリィにも気付いていたのに、自分は銃口に気付くことが出来なかった。撃たれた瞬間、飛び散った赤色をズレたサングラスから鮮明に見てしまっていた。
「”シャンブルズ”」
ローの冷静な声が響くのと同時に駆け寄ろうとしていたベポは景色が変わったことに驚く。変わったと言ってもペンギンとシャチが近づき、ローが離れた場所にいる。状況を判断しようと周りを見渡すとペンギンの腕の中にぐったりとしたフィリィが抱きかかえられているのが見える。その代わりとでも言うように槍がフィリィが倒れていた場所に転がっていた。
「走れ。すぐに追いかける」
有無を言わさぬ指示に三人の背が伸びる。熱くなりすぎている頭を必死に落ち着かせながらペンギンが港の方に足を向けた。シャチもベポも何かを言いたいのを抑え込むように唇を噛むと必死に足を動かし始めた。
フィリィの体から零れ出る赤色を見ない様にしながら足を動かし続ける。今のこの状態がキャプテンに治せるものなのかどうかも自分たちには分からない。とにかく言われた通り早く船まで行かなければ。その気持ちだけが三人を前に進めていた。
「ペン、ギン……」
ぎゅっと自分のつなぎを握ってくる手と一緒にじわりと赤が染みる。自分の顔を見る瞳は霞んでいるのか少し焦点が合っていない。いつもと違って暗く見える赤みがかった瞳になぜだか、フィリィが散々ブラックジョークとして話していた研究所での生活が頭を過る。
「ッおい、喋るな」
「ロー、は…?」
「おまえのおかげで元気すぎるぐらい元気だよ」
走り出す最中聞こえた男たちの断末魔を思い出す。自分たちですら見たくないと思ったのだ、あの場に居たほとんどの人間は無事では済まないだろう。
「よかった」
安心したのかまた目を閉じたフィリィを見て随分頭が冷えて来た事をペンギンは自覚する。港はすぐそこだが、自分たちに出来ることはしなければキャプテンが助けたいものも助けられない。
「シャチ、船に連絡しろ。オペ室開けてもらえ。ベポ! 泣いてないでキャプテンが出航って言ったら出来るように頭動かしとけよ!」
ペンギンの言葉に返事になっていない言葉を発するベポにシャチは状況に構わず笑いが漏れる。ペンギンの判断もキャプテンを信頼しているからこそだ。ポケットからすぐに子電伝虫を取り出すと船に繋げる。誰かが電話に出る頃には冷静に状況を説明できるようになっていた。
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