終の船
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「はい、これ。今日の分ね」
「ありがとうございます」
女将さんから貰ったお金を受け取ると今日の仕事は終了だ。そんな生活を続けてもうすぐ五日、この島には一週間滞在している事になる。段々と仕事の内容にも慣れてきたし、力仕事を平然とこなすフィリィに店の人達からの評判も上々だ。イッカクには強く釘を刺されたのもあって店の人達への警戒を怠ってはいないが、今のところそんな素振りは全くない。
お疲れ様です。と挨拶をしてから裏口を出て路地を歩いていると後ろからついて来る気配を感じて意識を向ける。ここ二日程同じ気配がコソコソと仕事終わりに自分を追いかけて来ている。海軍がいるという情報は無いし、今のところローも賞金稼ぎには一度も狙われていない。どうしたものかと考えてはいるが、足音は少ない割に追いかけるのは苦手なのかいつも簡単に路地を通って巻くことが出来る。
着いて来ていない事を視線でも確認してから大通りに出る。あまり土地勘が無いのだろうか。だとしたら他の海賊団の人間か、賞金稼ぎの可能性もある。相手の素性が分からない以上、こちらからも対策が取りずらい。特別命を狙ってくるような視線ではないのも頭を悩ませている。
―― ローにも注意しといた方がいいのかな
相手が賞金稼ぎだった時の事を考えて伝えておくという判断も出来る。だが、不確定な情報を渡されるのをローは嫌いそうだ。
うーん。と頭を悩ませながら歩いていると「おい」と声をかけられた後、肩を引き寄せられる。思わず体を固くするが、すぐ横を子供が駆け抜けて行ってぶつからないようにしてくれたのだと察した。落ち着いて状況の整理ができる頃には引き寄せられた相手も誰か分かっていた。
「ありがとう。ロー」
「考え事をしながら歩くな」
少し呆れた表情にごめんね。と返すと体の重心を戻す。離れていく腕と同時に香った甘い匂いに一瞬眉を顰めそうになる。とろりと鼻に絡みついて来るような匂いは明らかに男性が纏わせて似合うものではない。濃い匂いだな。と考えながらローに笑顔を向けた。
「町で会うなんて珍しいね」
「あァ、少しな。おまえは帰りだろう」
「うん」
「付き合え」
そういわれて足を進めて行く方向に半歩遅れて着いていく。鬼哭も持っているので情報収集かと思っていたが、遊んできた帰りなのだろうか。深い詮索をするつもりは無いが、あまりイメージが無いといってもモテるという船員達からの言葉もあるのでそれなりに遊んでいるのかもしれない。ローが隣で鬼哭を軽く抱え直す。その動作と同時にまた香った匂いに顔を見られていないのをいい事に眉を寄せた。毒を感知できる分、濃い匂いは脳に響く。ローは近くで吸い込みすぎてすっかり慣れてしまったのだろうか。頭が痛くなってしまわないように、匂いの中の成分をひとつづつ考えていると嫌な予感がしてローの袖を引く。
「待って」
「どうした」
そのまま通りの邪魔にならないように端まで寄るとロー胸の辺りに鼻を寄せる。相手の女性は自分と同じぐらいの身長だったのだろうか、そこが一番匂いが濃い。
ローは急なことに思わず手をさ迷わせる。袖は掴まれたまま抱き着くにしてはおかしな状況に混乱するが、通りを行く人達から見れば女が男に縋っている様に見えるだろう。すぅ、と空気を取り込む音がして、やっと自分の匂いを嗅いでいるのだと察した。軽く鬼哭を握りしめると夢中になっているフィリィの手を袖から外した。
もう一度。と自分の中に取り込んだ匂いから先程まで持っていた疑問に納得がいってすっきりしていると、どくどくとローの心臓を音が聞こえて顔を上げた。じっと見てくる視線から自分のやった事の愚かさにようやく気づく。
「随分熱烈だな」
「え、あ、……っ違うよ!」
慌てて身を離そうとしたが腰に手が回っていてそれは叶わない。怒っているのか、呆れているのか分からない視線にどうしていいか分からずに腰に回っている腕を触った。通りを歩いていく人からチラチラとたまに刺さる視線が痛い。脳の中を無人島であった出来事が駆けていく。「口説いてる」なんて言葉を使わなければこんな時に出てくる事も無かっただろうに。
「何が違うんだ」
「ペ、ペンギンとシャチとはこれぐらいで接しちゃうから、おかしくなってて……」
イッカクも似たようなものだが、同性なのでカウントはされないだろう。あの二人とは仲良くなり始めてから感情が昂った時に自然とハイタッチをしたり、ハグをしたり、疲れた時にもたれかかる事もある。他の船員とも距離は保っているつもりなだけでもしかしたら同じかもしれないが、そもそもハートの海賊団のメンバーは仲良くなると距離が近い。もちろんそこにお互いへの親愛はあっても下心がないと分かっているからこそだが。
―― あれ、というかなんで言い訳してるんだっけ?
この状況もそれと同じだと思えばいい。ただそれだけの事だ。ペンギンとハグをするのと、シャチと肩を組むのと同じことでは無いのだろうか。そもそも船員たちの事はローが一番理解しているんだから、ローからの冗談を同じように冗談で返せばいいのに、何故か言葉のままに捉えてしまった。変な勘違いをされたくない。と一瞬でも浮いた気持ちにどうして? と考え出した所でローとまた目が合った。ふっと笑ってきた視線に顔が急激に熱くなる。
「あっ……」
動揺した声と一緒に急に赤く染まった頬にローは目を丸くする。触れ合っている体は少し熱が上がって、そのまま顔を隠す様に下を向いた。
「……」
「わ、私、やっぱり帰る!」
腕で突っぱねる様に体を離せば簡単に距離が空く。逃げられないようにされていたのではなく、逃げたくないと自分が勝手に思っていたのではないかと思考が繋がると耳まで熱くなってしまう。
「話があるなら今度聞くから!」と早口に言って逃げてしまった後姿をローは呆然と見つめる。行き場を失った手を一度握ってから首元を触る。手元に反して熱い温度に目を細めると深々と息を吐いた。
途切れ途切れの呼吸のまま部屋に駆け込むと扉を閉めてそのまま座り込む。大きく息を吸いながら少しは冷めただろうかと触った頬の熱が変わらない事に呻き声を上げる。膝を抱えて息を整え終わるとじんわりと思考が冷静になってきた。ローには匂いの事もすっかり伝え忘れてしまったが、脳内はそれどころではなかったので許して欲しい。そもそも遊んだ帰りならば伝えたところで意味はなかったかもしれない。
纏わせていた匂いの成分の中に催淫効果が含まれていた。適量の香水にはそもそも人を魅力的に見せる効果もあるがそこに催淫効果を混ぜれば夜の誘いがしやすくなる。この島の夜の女性の中ではもしかしたら一般的に使われているのかもしれない。違法な程に匂っているものではなかったし、中毒性のあるようなものではないので大丈夫だろう。ローの相手をした女性は随分と気合いが入りすぎていたようだけど。
―― あぁ、まずい
冷静なフリをしながら香水の事を考えても、その奥にある風景を想像してしまっていけない。侵食して来る嫌な気持ちに見ないフリをしようと首を振ってみる。自分と同じように腰を抱かれたんだろうか。香水が移るぐらいだから距離はもっと近かったかもしれない。それも長時間、一緒に居たのだろう。
「あー! だめだ……」
ぐしゃぐしゃと髪を混ぜるとまた少し気持ちが落ち着いた。これは気付いてはいけない感情な気がする。ローに持つのは親愛で良いはずだ。好きの気持ちは「キャプテンとして」でなければいけない。視界の中で揺れる乱雑なままの髪の毛に目を細めているともたれ掛かっていたドアをノックされて体が揺れる。
「おーい、フィリィ。クリオネが晩飯の準備手伝ってほしいって」
少し重たい腰を上げて扉を開くとペンギンに「うわっ」と声を上げられる。
「髪の毛ぐしゃぐしゃじゃん」
撫でるように整えてくれるぎこちなさに笑っていると嗅ぎなれた洗剤の匂いが漂ってくる。「嫌な事でもあったのか?」と心配する声に首を横に振った。ペンギンを見上げると納得いかなさそうな顔と目が合う。そうだ。催淫効果のあるものを吸ったから、自分もそんな風に勘違いを起こしてしまったのかもしれない。
「準備だっけ。すぐに行くって言っておいて」
「わかったよ」
絡まって跳ねている髪を直してくれた指先にありがとう。と言葉を落とすとドアを閉める。ゆっくりと息を吐くと悪い物が全て抜けていくような感覚にほっとした。
+++
「なァ、誰かキャプテンどこ行ったか知らねェ?」
夕食の席で飛んできた一言にそれぞれ視線を合わせる。決まった席で食べているので穴があればすぐに分かるが、今回は特に分かりやすい。ベポの右隣でフィリィの左隣。ぽっかりと空いた席はローがいつも座っている場所だ。
「フィリィなら知ってるんじゃない?」
ベポの一言に何人かの視線がこちらを向いた。すぐに反論が出そうになったのをジャガイモを飲み込んで押さえつけてから言葉を出す。
「知らないよ。……あ、でも帰りに町で会った」
「じゃあいつものやつかな」
ありがとな。と一言もらって下げられていく食事を見送る。「いつもの」という事は船員たちの中では慣れた行動なのだろうか。その辺りの理解はさすがにまだ進んでいない。少し考えてからジャガイモをもう一つ皿から取ろうとして、じっと見て来る視線とぶつかった。
「何?」
「……なァベポ、なんでフィリィなら知ってるって思ったんだ?」
問いかけを無視してベポに話しかけるシャチにムッとしてから食事を口に運ぶ。今日の肉じゃがの味付けはかなり好みだ。
「だってフィリィからキャプテンの匂いするし」
「っ、ぐ……げほっ」
詰まらせて咳込むのを「大丈夫?」と背中を擦ってくれるベポに「ベポのせいだ」とも言えずに水を飲む。喉はすっきりとしたが鼻の辺りにツンとした痛みを感じる。
「キャプテンとなんかあったのか?」
「ないよ。ちょっと喋っただけ」
「ホントか~?」
「本当です! それに女の人連れてたし、遊びに行ったんでしょ」
これは実際に見たわけではないが、嘘ではないだろう。揶揄ってくるシャチにちょっとムキになりすぎてしまっただろうか。変に思われたくない一心で返答してしまったがニヤニヤ笑うシャチに絶対逆効果だったとすぐに察する。
「いつもの放浪癖だと思ってたんだけど遊びに行ってたのか。珍しい」
「海賊慣れしてる女の子も多そうだしなァ」
近くで聞いていた船員たちの言葉を耳に入れながら自分を落ち着かせるように息を吐く。ベポに擦ってくれたお礼を言ってからまた食事を再開した。
粗暴なだけが海賊ではないが、町に暮らす人たちに比べて雑な一面があるのは確かだろう。女遊びとなれば「金を出した」「一晩買ってやった」と言って好き勝手やる確率は高いし、顔や言動は怖いしで高いお店ならNGを出している女性も少なくはない。この町は長期間海賊が停泊することは当たり前で、それによって稼いでいる一面もある。だからこそ自然と客も海賊が多いので慣れている女性が多いのだろう。
海賊の危ない雰囲気が好きだという女性はいるが、さすがにローの様に顔の良さと同時で備わっているタイプは珍しい。だからいつかの様に女性に誘われて、そのまま気分が乗ったのかもしれない。じわりと染み出て来た気持ちをご飯と一緒に飲み込んだ。これではいけない。と少し気持ちが焦るのも感じる。
ごちそうさまでした。と一言呟いてから重ねた食器をキッチンまで運ぶ。既にちらほらと食べ終わった船員がいるのか、重ねられた食器が流し台の中に置かれていて水をかけながら自然とスポンジに手が伸びた。洗剤を付けて泡立てながら水を止めて一つずつ洗っていく。スポンジと皿の擦れる音を聞きいていると段々とさっきまでの考え事が頭の中で流れてくるようで手を止めた。
「あれ? フィリィ? 今日当番だったっけ」
急に聞こえた船員の声に驚いて手に持っていた皿が滑り落ちる。割ってしまうと焦って手を伸ばすのと同時にシンクに叩きつけられた皿が割れて破片が手の平に刺さった。
「いっ…」
「うわ! ごめん! おれが急に声かけたから!」
「大丈夫。私もぼーっとしてた」
笑って見せてから手に付いた泡を流す。破片に突っ込んだ形になってしまったので思ったより深く刺してしまったのか血が止まらない。新品の布を渡しながら謝ってくる船員に大したことは無い。と首を振る。患部を圧迫すると何となく痛みも血の流れもマシになった気がした。後片付けと洗い直しになってしまった皿を任せてしまう事を謝ると血が垂れてしまわないように注意しながら自分の部屋へと向かった。
救急セットは有るので何とかなるだろう。手は血が派手に出るので余計な心配をかけてしまった。部屋まで戻って処置を終えると考えすぎて重たくなってきた頭をベッドに投げ出した。すっかり見慣れた天井を見ながら電気の光を隠す様に腕で顔を隠す。
明日になったらいつも通りに戻れるはずだ。今日は少し混乱してしまっただけ。頭の中でそう考えながら目を閉じる。ローだって急にこんな気持ちを向けられて迷惑に違いないし、自分の目的は船に乗った先にあるのだ。ゆっくりと目を開けて体を起こすと切ったばかりで痛む手を庇うようにしてベッドから立ち上がった。
「ありがとうございます」
女将さんから貰ったお金を受け取ると今日の仕事は終了だ。そんな生活を続けてもうすぐ五日、この島には一週間滞在している事になる。段々と仕事の内容にも慣れてきたし、力仕事を平然とこなすフィリィに店の人達からの評判も上々だ。イッカクには強く釘を刺されたのもあって店の人達への警戒を怠ってはいないが、今のところそんな素振りは全くない。
お疲れ様です。と挨拶をしてから裏口を出て路地を歩いていると後ろからついて来る気配を感じて意識を向ける。ここ二日程同じ気配がコソコソと仕事終わりに自分を追いかけて来ている。海軍がいるという情報は無いし、今のところローも賞金稼ぎには一度も狙われていない。どうしたものかと考えてはいるが、足音は少ない割に追いかけるのは苦手なのかいつも簡単に路地を通って巻くことが出来る。
着いて来ていない事を視線でも確認してから大通りに出る。あまり土地勘が無いのだろうか。だとしたら他の海賊団の人間か、賞金稼ぎの可能性もある。相手の素性が分からない以上、こちらからも対策が取りずらい。特別命を狙ってくるような視線ではないのも頭を悩ませている。
―― ローにも注意しといた方がいいのかな
相手が賞金稼ぎだった時の事を考えて伝えておくという判断も出来る。だが、不確定な情報を渡されるのをローは嫌いそうだ。
うーん。と頭を悩ませながら歩いていると「おい」と声をかけられた後、肩を引き寄せられる。思わず体を固くするが、すぐ横を子供が駆け抜けて行ってぶつからないようにしてくれたのだと察した。落ち着いて状況の整理ができる頃には引き寄せられた相手も誰か分かっていた。
「ありがとう。ロー」
「考え事をしながら歩くな」
少し呆れた表情にごめんね。と返すと体の重心を戻す。離れていく腕と同時に香った甘い匂いに一瞬眉を顰めそうになる。とろりと鼻に絡みついて来るような匂いは明らかに男性が纏わせて似合うものではない。濃い匂いだな。と考えながらローに笑顔を向けた。
「町で会うなんて珍しいね」
「あァ、少しな。おまえは帰りだろう」
「うん」
「付き合え」
そういわれて足を進めて行く方向に半歩遅れて着いていく。鬼哭も持っているので情報収集かと思っていたが、遊んできた帰りなのだろうか。深い詮索をするつもりは無いが、あまりイメージが無いといってもモテるという船員達からの言葉もあるのでそれなりに遊んでいるのかもしれない。ローが隣で鬼哭を軽く抱え直す。その動作と同時にまた香った匂いに顔を見られていないのをいい事に眉を寄せた。毒を感知できる分、濃い匂いは脳に響く。ローは近くで吸い込みすぎてすっかり慣れてしまったのだろうか。頭が痛くなってしまわないように、匂いの中の成分をひとつづつ考えていると嫌な予感がしてローの袖を引く。
「待って」
「どうした」
そのまま通りの邪魔にならないように端まで寄るとロー胸の辺りに鼻を寄せる。相手の女性は自分と同じぐらいの身長だったのだろうか、そこが一番匂いが濃い。
ローは急なことに思わず手をさ迷わせる。袖は掴まれたまま抱き着くにしてはおかしな状況に混乱するが、通りを行く人達から見れば女が男に縋っている様に見えるだろう。すぅ、と空気を取り込む音がして、やっと自分の匂いを嗅いでいるのだと察した。軽く鬼哭を握りしめると夢中になっているフィリィの手を袖から外した。
もう一度。と自分の中に取り込んだ匂いから先程まで持っていた疑問に納得がいってすっきりしていると、どくどくとローの心臓を音が聞こえて顔を上げた。じっと見てくる視線から自分のやった事の愚かさにようやく気づく。
「随分熱烈だな」
「え、あ、……っ違うよ!」
慌てて身を離そうとしたが腰に手が回っていてそれは叶わない。怒っているのか、呆れているのか分からない視線にどうしていいか分からずに腰に回っている腕を触った。通りを歩いていく人からチラチラとたまに刺さる視線が痛い。脳の中を無人島であった出来事が駆けていく。「口説いてる」なんて言葉を使わなければこんな時に出てくる事も無かっただろうに。
「何が違うんだ」
「ペ、ペンギンとシャチとはこれぐらいで接しちゃうから、おかしくなってて……」
イッカクも似たようなものだが、同性なのでカウントはされないだろう。あの二人とは仲良くなり始めてから感情が昂った時に自然とハイタッチをしたり、ハグをしたり、疲れた時にもたれかかる事もある。他の船員とも距離は保っているつもりなだけでもしかしたら同じかもしれないが、そもそもハートの海賊団のメンバーは仲良くなると距離が近い。もちろんそこにお互いへの親愛はあっても下心がないと分かっているからこそだが。
―― あれ、というかなんで言い訳してるんだっけ?
この状況もそれと同じだと思えばいい。ただそれだけの事だ。ペンギンとハグをするのと、シャチと肩を組むのと同じことでは無いのだろうか。そもそも船員たちの事はローが一番理解しているんだから、ローからの冗談を同じように冗談で返せばいいのに、何故か言葉のままに捉えてしまった。変な勘違いをされたくない。と一瞬でも浮いた気持ちにどうして? と考え出した所でローとまた目が合った。ふっと笑ってきた視線に顔が急激に熱くなる。
「あっ……」
動揺した声と一緒に急に赤く染まった頬にローは目を丸くする。触れ合っている体は少し熱が上がって、そのまま顔を隠す様に下を向いた。
「……」
「わ、私、やっぱり帰る!」
腕で突っぱねる様に体を離せば簡単に距離が空く。逃げられないようにされていたのではなく、逃げたくないと自分が勝手に思っていたのではないかと思考が繋がると耳まで熱くなってしまう。
「話があるなら今度聞くから!」と早口に言って逃げてしまった後姿をローは呆然と見つめる。行き場を失った手を一度握ってから首元を触る。手元に反して熱い温度に目を細めると深々と息を吐いた。
途切れ途切れの呼吸のまま部屋に駆け込むと扉を閉めてそのまま座り込む。大きく息を吸いながら少しは冷めただろうかと触った頬の熱が変わらない事に呻き声を上げる。膝を抱えて息を整え終わるとじんわりと思考が冷静になってきた。ローには匂いの事もすっかり伝え忘れてしまったが、脳内はそれどころではなかったので許して欲しい。そもそも遊んだ帰りならば伝えたところで意味はなかったかもしれない。
纏わせていた匂いの成分の中に催淫効果が含まれていた。適量の香水にはそもそも人を魅力的に見せる効果もあるがそこに催淫効果を混ぜれば夜の誘いがしやすくなる。この島の夜の女性の中ではもしかしたら一般的に使われているのかもしれない。違法な程に匂っているものではなかったし、中毒性のあるようなものではないので大丈夫だろう。ローの相手をした女性は随分と気合いが入りすぎていたようだけど。
―― あぁ、まずい
冷静なフリをしながら香水の事を考えても、その奥にある風景を想像してしまっていけない。侵食して来る嫌な気持ちに見ないフリをしようと首を振ってみる。自分と同じように腰を抱かれたんだろうか。香水が移るぐらいだから距離はもっと近かったかもしれない。それも長時間、一緒に居たのだろう。
「あー! だめだ……」
ぐしゃぐしゃと髪を混ぜるとまた少し気持ちが落ち着いた。これは気付いてはいけない感情な気がする。ローに持つのは親愛で良いはずだ。好きの気持ちは「キャプテンとして」でなければいけない。視界の中で揺れる乱雑なままの髪の毛に目を細めているともたれ掛かっていたドアをノックされて体が揺れる。
「おーい、フィリィ。クリオネが晩飯の準備手伝ってほしいって」
少し重たい腰を上げて扉を開くとペンギンに「うわっ」と声を上げられる。
「髪の毛ぐしゃぐしゃじゃん」
撫でるように整えてくれるぎこちなさに笑っていると嗅ぎなれた洗剤の匂いが漂ってくる。「嫌な事でもあったのか?」と心配する声に首を横に振った。ペンギンを見上げると納得いかなさそうな顔と目が合う。そうだ。催淫効果のあるものを吸ったから、自分もそんな風に勘違いを起こしてしまったのかもしれない。
「準備だっけ。すぐに行くって言っておいて」
「わかったよ」
絡まって跳ねている髪を直してくれた指先にありがとう。と言葉を落とすとドアを閉める。ゆっくりと息を吐くと悪い物が全て抜けていくような感覚にほっとした。
+++
「なァ、誰かキャプテンどこ行ったか知らねェ?」
夕食の席で飛んできた一言にそれぞれ視線を合わせる。決まった席で食べているので穴があればすぐに分かるが、今回は特に分かりやすい。ベポの右隣でフィリィの左隣。ぽっかりと空いた席はローがいつも座っている場所だ。
「フィリィなら知ってるんじゃない?」
ベポの一言に何人かの視線がこちらを向いた。すぐに反論が出そうになったのをジャガイモを飲み込んで押さえつけてから言葉を出す。
「知らないよ。……あ、でも帰りに町で会った」
「じゃあいつものやつかな」
ありがとな。と一言もらって下げられていく食事を見送る。「いつもの」という事は船員たちの中では慣れた行動なのだろうか。その辺りの理解はさすがにまだ進んでいない。少し考えてからジャガイモをもう一つ皿から取ろうとして、じっと見て来る視線とぶつかった。
「何?」
「……なァベポ、なんでフィリィなら知ってるって思ったんだ?」
問いかけを無視してベポに話しかけるシャチにムッとしてから食事を口に運ぶ。今日の肉じゃがの味付けはかなり好みだ。
「だってフィリィからキャプテンの匂いするし」
「っ、ぐ……げほっ」
詰まらせて咳込むのを「大丈夫?」と背中を擦ってくれるベポに「ベポのせいだ」とも言えずに水を飲む。喉はすっきりとしたが鼻の辺りにツンとした痛みを感じる。
「キャプテンとなんかあったのか?」
「ないよ。ちょっと喋っただけ」
「ホントか~?」
「本当です! それに女の人連れてたし、遊びに行ったんでしょ」
これは実際に見たわけではないが、嘘ではないだろう。揶揄ってくるシャチにちょっとムキになりすぎてしまっただろうか。変に思われたくない一心で返答してしまったがニヤニヤ笑うシャチに絶対逆効果だったとすぐに察する。
「いつもの放浪癖だと思ってたんだけど遊びに行ってたのか。珍しい」
「海賊慣れしてる女の子も多そうだしなァ」
近くで聞いていた船員たちの言葉を耳に入れながら自分を落ち着かせるように息を吐く。ベポに擦ってくれたお礼を言ってからまた食事を再開した。
粗暴なだけが海賊ではないが、町に暮らす人たちに比べて雑な一面があるのは確かだろう。女遊びとなれば「金を出した」「一晩買ってやった」と言って好き勝手やる確率は高いし、顔や言動は怖いしで高いお店ならNGを出している女性も少なくはない。この町は長期間海賊が停泊することは当たり前で、それによって稼いでいる一面もある。だからこそ自然と客も海賊が多いので慣れている女性が多いのだろう。
海賊の危ない雰囲気が好きだという女性はいるが、さすがにローの様に顔の良さと同時で備わっているタイプは珍しい。だからいつかの様に女性に誘われて、そのまま気分が乗ったのかもしれない。じわりと染み出て来た気持ちをご飯と一緒に飲み込んだ。これではいけない。と少し気持ちが焦るのも感じる。
ごちそうさまでした。と一言呟いてから重ねた食器をキッチンまで運ぶ。既にちらほらと食べ終わった船員がいるのか、重ねられた食器が流し台の中に置かれていて水をかけながら自然とスポンジに手が伸びた。洗剤を付けて泡立てながら水を止めて一つずつ洗っていく。スポンジと皿の擦れる音を聞きいていると段々とさっきまでの考え事が頭の中で流れてくるようで手を止めた。
「あれ? フィリィ? 今日当番だったっけ」
急に聞こえた船員の声に驚いて手に持っていた皿が滑り落ちる。割ってしまうと焦って手を伸ばすのと同時にシンクに叩きつけられた皿が割れて破片が手の平に刺さった。
「いっ…」
「うわ! ごめん! おれが急に声かけたから!」
「大丈夫。私もぼーっとしてた」
笑って見せてから手に付いた泡を流す。破片に突っ込んだ形になってしまったので思ったより深く刺してしまったのか血が止まらない。新品の布を渡しながら謝ってくる船員に大したことは無い。と首を振る。患部を圧迫すると何となく痛みも血の流れもマシになった気がした。後片付けと洗い直しになってしまった皿を任せてしまう事を謝ると血が垂れてしまわないように注意しながら自分の部屋へと向かった。
救急セットは有るので何とかなるだろう。手は血が派手に出るので余計な心配をかけてしまった。部屋まで戻って処置を終えると考えすぎて重たくなってきた頭をベッドに投げ出した。すっかり見慣れた天井を見ながら電気の光を隠す様に腕で顔を隠す。
明日になったらいつも通りに戻れるはずだ。今日は少し混乱してしまっただけ。頭の中でそう考えながら目を閉じる。ローだって急にこんな気持ちを向けられて迷惑に違いないし、自分の目的は船に乗った先にあるのだ。ゆっくりと目を開けて体を起こすと切ったばかりで痛む手を庇うようにしてベッドから立ち上がった。