呪いの池に落ちたら人生変わったんだが

「ただいま帰りました」

引き戸の古風な玄関を開けて僕は一歩後ろに下がる。そして、

「おかえりなさい」

という言葉を聞くと同時に柄杓で冷たい水をバシャリとかけられた。




****

ここは東都の米花町という街。
とある家に僕は居候している。

家主は堂遊殊太という立派な体格の男性だ。この家は空手の道場を開いている事もあって伝統的な日本家屋の家である。
都内にこれだけの敷地と庭を持つのだからもしかしたら資産家なのかもしれない。

どうして僕が居候になったかというと、それは日本海溝よりも深い理由がある。

その日は何もかもがついてなかった。
朝からタイヤはパンクしてた、新しいスーツに醤油のシミがついた、庁舎のエレベーターは全部修理中で使えなかった、正直使えないと思っていた上司からネチネチと文句を言われた、昼飯を食べに行ったらこだわりランチはもう無かった、午後のポアロでは客のクレームで梓さんの代わりに水をかけられた(まあそれはいいとしても)、とにかくその日は何もかもがついてない日だったのだ。

そして極めつけが夜の事件だ。
秘密裏に追い掛けていた容疑者を捉えるべく僕は公安部隊とは離れて行動していた。
その過程でとある家の敷地内に迷い込んだのだ。随分広い敷地の古風な日本家屋な屋敷だった。庭も広く、大きい木も沢山あって容疑者もそちらへ逃げた気がして僕も後を追った。
庭の奥まで来た辺りで犯人らしき人影を見掛けたのでとっさに後ろから羽交い締めにしようと飛びかかった。

が、

腕を掴まれ僕の体は宙に浮き、そのまま池の中に投げ落とされてしまったのだ。

バシャン!!

と、暗闇に大きな水音を立てて僕は池に落ちた。そこまで深くはない池だったのですぐに浮き上がったのだがそこにいたのは、

「お?あんた誰だ」

それが堂遊殊太さんだった。犯人らしき人影はこの家の主人だったのだ。僕は完全に誤ったと思い、すぐに謝罪を口にしたのだが…

「すみませ……え??」

声が高かった。僕の声じゃない。え!?

「何だお嬢ちゃん、こんな所で何してるんだ。ほら、出てこい」
「お嬢ちゃん??え!?」

殊太さんに引っ張り上げられた僕は更に驚いた。背が低い??腕も手も細くて頼りないぞ!そして俯いた瞬間目に入ったのは自分にはあるはずのないまろやかな双丘。

「は!?なんで!?胸ーー!?」

思わず触ってみるが紛れもなくそれは女の胸だった。何で自分に胸がついてるんだーー!!!!

「あぁ、あんた今日は娘溺泉だったか…」
「どうなってるんだこれは!?何で女の胸が!?」
「この池はな呪われてるんだ。まあ落ちたもんは仕方ない、説明してやるから着いてきな」
「呪われてる!?」

どんな呪われ方をしたら性転換するんだ!どう考えてもおかしいだろ!!
僕は殊太さんの後を警戒しながら着いていくと、そこは母屋だった。

「今日は娘がいなくてな、着替えも出してやれないがまあこれで拭いてくれ」

とタオルを差し出されたので遠慮なく借りる事にした。

「朝になれば風呂を沸かしてやれる、それまで俺の服で良ければ着てろ」

そう言って渡されたのは何故か道着。もう何がなんだか分からない…。どうなってるんだ…と頭を抱えた。とりあえず服を脱いだがやはり体は女になっていて、あるべき物が無くなっているし無いはずのものが二つもある!

今だ混乱したまま服を着替えると鏡の前に立つ。あーーーー、意外と胸が小さいな。顔が童顔で違和感なくて良かった…じゃない!!良いわけないだろ!!
僕が一人で打ちひしがれているとそこに声がかかった。

「おう着替えたか、茶でも淹れながら話してやる。着いてきな」
「折角ですがお茶は結構です。訳を説明かてもらいましょうか」

僕が通されたのは広い庭を見渡せる和室だった。その真ん中に座卓があり、座布団が敷かれてある。僕は勧められるがまま腰を下ろした。

「ところであんた、あそこで何してたんだ?」

そう聞かれて、はっと僕は当然の事を忘れていた。どう考えても最初は僕の不法侵入から始まってる事じゃないか。

「実は僕は私立探偵なんです。追い掛けていた対象者がここに逃げ込むのが見えたので僕も追って来た次第です。しかし不法侵入だと言われれば申し開きも出来ません」
「ほー、探偵さんね。それで?追い掛けていた奴っていうのは見つけたのかい?」
「いえそれが…どうやら人違いをしていたようです」
「俺とそいつを間違えたっていう訳か」
「そうです。それに関してはお詫びします、すみませんでした」
「いや俺もつい投げちまったからおあいこだろうよ。よりによってあの池とはなぁ」

そう、その池だ。あの池の正体を問い正さなければ!

「あの池が呪われていると仰いましたね!?それは僕が女になったのと何か関係があるんですか!?」
「まあ茶でも飲みな、長くなるからな」

殊太さんはそれから長い長い話をした。
元々は中国の呪泉郷という場所にあった池のこと。そこには沢山の池があって、それぞれに呪いがかけられていたということ。
僕が落ちたのは娘溺泉、若い女性が溺れて死んだ時の呪いで落ちたら若い女になってしまうのだという。

「うちの池はじいさんが昔その呪泉洞ってとこからわざわざ水を運んで作らせた池でな。日本ではもうここだけだ」
「その呪いを解く方法はあるんですか!?」
「男に戻りたいのか?」
「当たり前です!!僕は女じゃない!」
「似合ってるけどな」
「とにかく困るんです。仕事もあるし大体突然性転換したってどう説明するんです!?」
「まあなー、まあ元に戻る方法が無い訳じゃないんだが」
「あるんですね!?」

あるっちゃあるが、と殊太さんは言った。

「あんたが落ちたのは娘溺泉、だから女になった。男溺泉てのもあってな、そこに落ちると男になるんだ」
「じゃあその池にまた落ちれば男に戻れるんですね!?」
「まあそうなんだが話はそう簡単じゃない」
「どういう事ですか?」
「うちにある池はあれ一つだ、あんたが落ちたあの池だけだ」

…………は?何だって?

「……では他の池はどこに?」
「ない。中国の呪泉郷も今は枯れてるらしいからな、実質今はここだけだ」


「無いーーー!?!?」


思い切り叫んだ僕(女)を殊太さんはまあまあ、と諌める。

「まあ人の話は最後まで聴け。池は一つだが中身は日替わりでな、毎日入れ替わるらしい」
「日替わり!?池の水が!?」
「正しくは呪いが、だ。今日は娘溺泉だったが明日はまた違う呪いがかかってるだろう。あんたは運がいいぞ?」

良いわけないだろう!!女になったんだぞ!!

「何しろ人間だ。動物や化け物になる鈍いもある。若い女で良かったじゃないか」
「良いわけないでしょう!そりゃ動物よりはマシなだけで!!それで男に戻れる池はいつ出るんですか!?」
「分からん」

分からんーー!?!?

「規則性はないようだ。明日かもしれんが来年かもしれん。ただ毎日変わるのは確かだ」
「何だそれ…………」

僕はあまりのショックに項垂れた。落とした視線の先にはさっきまで無かった柔らかい二つの胸。それを見て更に頭を抱えた。

「まあそう気を落とすことはない。一時的に呪いを解く方法はあるからな」
「あるんじゃないですか!!今すぐ教えて下さい!!」
「教えてやる、ただ今はその準備が足りない。朝になれば娘が戻る、その時に教えてやる。俺はどうもあれの操作が苦手でな」

外はもう夜明けが近い。ここは一旦この人の要求を呑んで元に戻る方法を聞いてから対処すべきだ。問題は多いがどうやら悪人ではないようだしな。

「分かりました、ではここで待たせて下さい」
「おう、適当に休んでくれ」

殊太さんはそう言うと自分の部屋へ戻って行った。一人残された僕は部屋の隅で庭の奥、呪いの池を眺めていた。
どうしてこんな事になったんだ、あの池は何なんだ、呪いって何だよ、女になってどうするんだよ…。
今は一時的でも元に戻る方法を聞くしかないか…そう思いながら僕はそっと目を閉じた。


***


暖かい…、ふとそう思って目が覚めた。

「しまった…!」

いつの間にか寝てしまったようだ。僕の上には毛布がかけられていた。外を見るとすっかり陽は昇っている。僕は慌てて毛布を畳むと廊下を見渡した。

「お、起きたか。どうだ飯食うか?」
「それはどうでもいいです!それで!?呪いを解く方法はどうなったんですか!」
「まあそう焦るな。ちゃんと準備はしてる」

殊太さんはずずーっと味噌汁を飲み干すと食卓の上にお椀を戻し、手を合わせた。作法としては好ましいが今はそれどころではない。

「昨日あんたが脱いだ服あるだろ?あれ今洗濯してるからな、風呂が沸いたら入ってくれ」
「風呂なんてどうでもいいんですけど!」
「入れば分かるさ。言ったろ、準備が必要だって」

とにかく風呂に入れば分かると言われて僕は仕方なくまた脱衣場に向かった。
確かに洗濯機が回っているし風呂場からは湯気が込み上げてるのが見てとれた。
そんな気分では無かったが準備がと言われれば入るしかないか…。これで何も変わらなかったら少々強引にでも詰め寄るしかないか。

僕が(女)借りた道着を脱いでいるとコンコン、とドアを叩く音がした。

「はい」
「すみません、ちょっと中に入りたいんですが大丈夫ですか?」

女の人の声だった。そうか娘さんがどうこう言ってたな。半裸の状態だったがそういえば僕も女だったな…と思って開き直ってどうぞ、と声をかけた。
ガラガラ、と開けられた扉の向こうにいたのは若い女の人だった。そして足元には何故か黒豚がいた。豚!?

「ごめんなさい失礼しますね」

黒髪の、ふんわりした女性だった。
僕(女)の側を気にする事なく通り過ぎると(女だから当たり前か)、脱衣場の戸棚からタオルを幾つか出してここに置いておきますね、と言った。

「これを使って下さい。父が無理にひきとめたそうですみません」
「いえ、こちらこそ見ず知らずの僕にお風呂まで貸してもらうことになって…」
「いいんですよ、困っていらっしゃったみたいですから。ではごゆっくり」

はあ、と僕が申し訳なさそうに言うと彼女の足元にいた黒豚が急に騒ぎ出した。ブヒブヒ、というよりはクルクル、といった声で僕の回りを走り回っている。そして僕の足に前足をぶつけてきてはよじ登ろうとしていた。見た目はかわいいのだが何にしても豚は豚だ。

「こらダメよ。お客様なんだから」

ごめんなさいね、というと彼女は僕にガッチリとしがみついている黒豚を無理矢理ひきはがすと彼女は普通に出て行った。

「何だったんだ…」

まあいいかと思い僕は風呂場に入った。
池に落ちて体が冷えきっていたので温かい湯はありがたかった。
シャワーのお湯を出す。



「う……わあぁぁぁぁぁぁーーーーーーっ!!!」



何なら女になった時より驚いた。

「お……お……」

男に戻ってる!?!?!?

驚き過ぎて言葉にならない僕は風呂場の鏡を擦って自分の姿を確かめた。

「男だ…!!」

やった!男に戻ってる!!僕は慌てて風呂場を出ようとドアを開ける。

「あの、何か…………!!!!」
「……………っ!!!!」

そこにいたのはさっき僕にタオルを貸してくれた彼女で、対して僕(男)は全裸だ。
目の前の彼女の視線が顔から下まで下がって、そしてまた顔に戻る。そうだろうな、それが一般的な確認動作だと思う。



「…っ、ひ…」
「待って下さい、落ち着いて、僕は決して怪しい者では…」



「きゃあぁぁぁぁぁぁーーー!!」



それは僕の叫び声より大きく響いただろう。僕は未必といえ若い女性の前で裸を晒す羽目になってしまった。

***

「いやぁ、すまなかったなあ。娘がそこにいるとは思わなかったんでな」

僕は慌ててやってきた殊太さんにまた風呂場に押し戻され、娘だという彼女を避難させてから頭を下げられる事になった。

「いえ僕も動転して大声を上げてしまったので非はありますし、逆に娘さんには申し訳なかったといいますか…」

何はともあれ男に戻れたのだからよしとすべきだ。何故急に男に戻ったのかは未だに不明だが。

「あの池の事だがな、湯を被ると元の姿に戻る事が出来るんだ」
「えっ………だからさっき、」

風呂に入れと頻りに言われてお湯を沸かす準備があるからと待たされたのか。
何だ!呪いなんて大袈裟な!お湯を被ればもとに戻るなら簡単じゃないか!

「それなら最初からそう言ってくれれば僕もこんなに動揺しなくて済みましたよ…」

ホッとして肩の力が抜けた。理屈は分からないがとにかく良かった。

「それなら僕はそろそろ帰ります。長々とお邪魔してすみませんでした。着替えは後日…」

と言ったところでコップの水をかけられた。


バシャッ!!


冷たい…!突然何するんだ!

「だから呪いなんだ。水を被るとあんたの場合はまた女になる」

ポタポタと溢れる雫がまた僕の膨らんだ胸の間を落ちていくのが見えた。

「…ええええぇーー!?」

確かにさっきまで男に戻っていた体がまた女になっていた。声も当然高い。

「…じゃあまたお湯を被れば…」
「ああ、男に戻れる。が、また水を被ると女になるぞ」
「何なんだ一体!!!」

「どうかされました?」
「ああ琴世、客人はお帰りになるそうだ」
「そうですか、まだお洋服は乾いてませんがお持ちになります?」

淡々と、飄々と対応されて逆に僕は唖然とした。帰れる訳がない、このおかしな呪いをどうにかするまで帰れる訳がないだろう!!

「……ません」
「ん?」
「帰りませんよ!呪いを解くまで帰れません!」
「帰らないと言われてもなぁ」
「もしかしたら明日男に戻れる池が現れるかもしれないんですよね!?」
「まあそうだな」
「毎日ここに来ます、毎日確認する必要が僕にはあります!」
「毎日って言われても、なあ?」

僕は何としても早く呪いを解きたい。こんな中途半端な体でゼロとしても組織としても障害となるのは冗談じゃない。そして知られる訳にはいかないからだ。

「グゥー!」
「あらくーちゃん、ダメよまたお客様のところに行ったりして」

また黒豚が僕の足にしがみついていた。この豚、余程僕の事が好きなんだな。ちょっとつり目でかわいいやつだが今はお前に構っている余裕は無いんだ、僕には成さねばならぬ事がある。

「うちはこの通り俺と娘の二人暮らしでな、若い男に毎日出入りされるのは世間体も悪いが父親としても許可は出来ん」
「それは確かにその通りなんですが…!僕はこう見えて警察官です。怪しい者ではありません、むしろ危機管理としても防犯対策になります」
「防犯対策と言われてもなぁ」

何なら僕は警察手帳まで見せたが納得されてない。探偵なんて言ったからか…!
また黒豚が僕の腕をよじ登ってくる。この豚相当僕の事が好きだな?分かった分かった、だが後にしてくれ。今は大切な人生の岐路に立っているんだ。

「くーちゃん。くーちゃんたら本当にあなたの事を気に入ったみたい」

琴世さんが僕(女)のすぐ近くまでやってきた。そしてまた僕にしがみついて離れないつり目の黒豚を抱っこして離した。
すると黒豚は満更でもないのか琴世さんの僕(女)より豊満な胸に押し付けられていた。…何か敗けた気がして悔しいな。

「お名前は?」
「え?」
「あなたのお名前は?」

琴世さんに尋ねられて、僕は初めて名乗っていないことに気付いた。

「降谷零です」

何故か琴世さんの腕の中で黒豚が飛び跳ねた。安室と名乗っておこうかと思ったがさっき警察手帳見せてしまったことに気が付いてここはもう腹を括るしかないと僕は本名を名乗った。

「ただ外では安室透という名で通しています。それは仕事上での通例なので」
「女性でいる間は零さんでも構いませんか?」
「ああ…まあ、そうですね。不本意ながらこの状態では別人みたいなものですし」

琴世、と殊太さんがその真意を問い正した。

「うちの中では女性の体で居てくれるなら私は別に構いません。くーちゃんもこんなに懐いているし。この子がこんなに懐くなんて本当に珍しいから、きっといい人なんだと思って」
「まあ確かにな。女のそれならいいか」
「良かった…ありがとうございます、じゃあ僕毎日こちらにお邪魔しますね!」

ものすごく大変なルーチンになるだろうがそれは仕方のない事だ。部下の一人でも張り付けておこうか…。

「それならいっそここに住んだらいい。部屋は幾らでもあるし、女でいるという約束だけ守れるならそうしろ。その方が早いし今更一人増えたところで変わらん」
「えっ?」
「そうですね、服や着替えなら私が用意しますよ。それともお持ちです?」
「おも…お持ちではないです」

当たり前だろう、持ってたら怖い。そうか…全くもって不本意だが女物が必要になるわけだな。くそっ!屈辱だ…!

「スタイルがいいからきっと何でも似合うわ、楽しみ」
「楽しみ!?」
「はっはっは、じゃあそういう事で決まりだな。帰ったら女になって、朝出掛ける前に男に戻ればいい。池の様子は毎日観察出来るように近くの部屋が丁度空いてる、そこを自由に使ってくれ」

ああ、何だか大変な事になってきたぞ。

「改めて俺はこの家の主人の堂遊殊太だ。こっちは娘の琴世。それからペットの黒豚、他にも色々いるんだがまあそれはいずれ分かる」
「この子はくーちゃんです。零さんの事がとても気に入ったみたい」
「豚に好かれるなんて初めてですけど…」
「グゥングゥン!」
「ほらやっぱり。警戒心の強い子なんですけどこんなに気に入る人がいたなんて。良かったわね、くーちゃん」

琴世さんのペットだというその黒豚は本当に僕の方を見てもがいている。豚に好かれても仕方ないんだが…。

「とりあえずもう一回お風呂に入ってきて良いですか…?」

疲れた、本当に疲れた。
僕の体はこれから男と女、1/2ずつ。
事情を知っている人の元にいるのは安心でもあるだろう。それに何よりあの池の水を水質検査しなければならない。まさかとは思うが組織の怪しい実験の賜物であるかもしれない。諸々を判断するとここに住んで潜入しておけば調査はしやすくなるな。
女の体でいるのは実に不本意だが、ここはやはり腹を括ろう。



「降谷零、今日からお世話になります」

そうして僕の奇妙な生活は始まった。




続く

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