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DC夢 沖矢、赤井バージョン


彼とは二ヶ月前に知り合った。

それはいつも行く図書館だった。
私はいつものように同じ棚に向かって新作を確かめた。それは図書館でも奥の方であり、壁にずらりと並んだ国内外の推理小説を扱うコーナーだった。

私はいつからかその人が居るのに気が付いた。明るい髪の、背の高い男の人。
常連らしく決まったコーナーを見ているらしい。何故それが分かったかというと、私も同じコーナーを回っているからだ。

それが何度か続いた後、不意に声をかけられた。彼は沖矢昴と名乗った。

「いつも貴女を見かけていたんです。このコーナーで。推理小説がお好きですか?」

と聞かれた。とても柔らかでにこやかに。

「ここの図書館の蔵書は充実していますからね。僕もよく来るんです」

「そうなんですか、よくお見かけするなと思ってました」

私も気になっていたと正直に伝えると沖矢さんはよろしかったらお茶でも、と私を誘った。

「好きなミステリーは何ですか?」

「古典物を最近は読みます。ポーやルブラン、クリスティも」

「それならとっておきの店がありますよ」

行き着けだという喫茶店に入ると小学生たちが賑やかに沖矢さんを取り囲んだ。

「彼等は少年探偵団なんですよ、とても優秀なんです」

「少年探偵団て、あの…?」

「そう、江戸川乱歩のあれを思い浮かべた貴女はマニアですね」

明智小五郎の助手、小林少年。私は思わずふふ、と笑った。

「どこかの怪盗と対決でもなさってるんですか?沖矢さんは」

「僕ではありませんよ、ホームズは彼です」

ホームズまで出てきた。そういえば沖矢さんの手にはコナン・ドイルの本が。

「こんにちはお姉さん、沖矢さんが言ってた“気になる人”ってお姉さんのことかな?」

「気になる人?」

「コナン君、推測だけで物事の結論を出してはいけませんね」

「証拠ならあるよ!お姉さんのバッグには推理小説、しかも帯に図書館のタグ、沖矢さんと一緒に来た、しかも沖矢さんが楽しそうにしてるからボクてっきりそうなのかなって!」

私は少年から視線を沖矢さんに移した。沖矢さんはバツが悪そうに参りましたね、と呟いた。

「私も気になってましたよ。結構な頻度で見かけてたので。本当に(本が)お好きなんですね、私も(本が)好きですよ」

ピッターーン、と空気が固まった。

あれ?私何か変なこと言ったかな…。
固まった空気を打ち壊したのは女の子の声だった。

「良かったじゃない、お似合いよ」

「灰原さん、それは」

沖矢さんは困ったようにその女の子を見つめた。

「あら大事な事よ、共通の価値観を持つっていうのはね。彼女でしょ、あなたが図書館の美女って言ってたのは」

図書館の美女?と私は首を捻った。多分私ではないと思うがどういう事かと沖矢さんを見上げると耳を赤くして口を押さえた沖矢さんがいた。

「えっ……と、?」

「何でもないです。本当です、彼らが何か誤解してるみたいで。まあとにかくどうぞ」

「ありがとうございます」

「ねえねえ、お姉さんミステリー好きなの?ホームズは好き?」

「やめなさいよ江戸川君、あなたが出しゃばると上手くいくものもいかなくなるわ。こういう時は若い二人にさせてあげるものなのよ。さあ行くわよ」

女の子はやけに大人びた言動で他の小学生たちも引き連れて喫茶を出ていく。出ていく際に沖矢さんに一言、これは貸しよと言って。

「お知り合いなんですか?」

「隣の住人なんです。オーダーはどうしますか?…と、これは失礼、お名前をお聴きしていませんでしたね」

「あの少年がホームズで彼女はアイリーン・アドラーですね?面白いです、私はそうですね…じゃあメアリーで!」

ブブッ!!っと沖矢さんが派手に水を噴き出した。その後もゴホゴホと噎せている。

「大丈夫ですか?」

「そ、その名前は大変問題があります。まさか本名ではありませんよね!?」

と、沖矢さんが必死に食い付いてくるので私はまさか、と答えた。

「ワトソン夫人の名前ですよ、ご存知かと思ってました。私の名前は文代(ふみよ)です」

「文代さんとは…!これはなるべくしてなったお名前ですね」

明智小五郎の妻と同じ名前。父の趣味でそうなったのだが、沖矢さんもその意味が分かったらしい。

「いっそそれならクリスとか可愛い名前が良かったと思うときもあります」

「いえいえ、文代さん、とても素敵なお名前です。そうですか、お名前と佇まいがこれほどまでに一致しているのも奇跡ですね」

「それはつまり顔立ちが平凡という事ですよね。大丈夫です、自覚はありますので」

私の顔立ちは和風で目鼻立ちもそこまでハッキリしていないし、華やかなドレスよりは着物が似合ってしまういわゆる日本人顔だ。髪も今は黒に近いし、真っ直ぐ伸ばしているから余計にそう見えるのかもしれない。

「とんでもない、謙遜なさっているのなら不必要ですよ。僕は素直にあなたに惹かれました。図書館でよくお会いしたのも声をかけたのも偶然ではありません」

そうだったの?と私は顔を上げた。

「こう言ってしまうと嘘臭く聴こえてしまうかもしれませんが、何度かお見かけするうちに一目惚れをしてしまいまして」

「一目惚れ、ですか?」

「南館は天井まで採光窓で覆われています。推理小説の棚はその東側、僕があなたを見かける度にあなたの横顔が西陽に照らされていてとても美しかった。…すみません、こんな事を言うと引かれてしまいますね」

沖矢さんは照れたように謝った。それが少し可愛く見えて、私はそんなことはないと首を振った。だって男の人にそんな風に好意を持ってもらったのは初めてかもしれない。

「文代さんさえ良ければこうして時々僕とお茶を楽しみませんか?趣味も合いそうですし」

「勿論です。でも私、つまらない女だと思いますよ?」

「ご自分の評価を見誤らない方がいいですね、あなたはとても魅力的な女性です」

何だか急に褒め尽くされて私も顔が熱くなってきた。こそばゆい、というか少し恥ずかしくてくすぐったい。

私はそうして沖矢さんとお茶友達になった。時々まだ図書館で会う時はお互いの好きな本を語り合い、ポアロで待ち合わせをしてティータイムを楽しむ事も増えた。

そんな事を何回か繰り返すと、私はある日沖矢さんの住んでいる家の事を教えてもらった。

「えっ!蔵書がそんなに!?」

「文代さんならお気に召すと思うんですが、如何ですか?」

「行ってもいいんですか?是非見てみたいです!」

「構いませんよ、家主には許可を取りました。本も読んでもらえなくては意味がない」

沖矢さんの誘いを私は喜んで了承した。最近は沖矢さんの車の助手席に乗る事に何の躊躇いもなく乗っている。今もそうだ。

「文代さん、恋人でもない男の車にそう簡単に乗ってはいけませんよ。どこへ連れ去られるか分からないでしょう?」

「え?」

「今も僕とこんな密室な車内で二人きりだ」

そ、そう言われればそうだが、私はもうすっかり沖矢さんに気を許していたし警戒なんてしていない。

「間違っても僕以外の男の車には乗らないで下さいね」

いつになく低い声で沖矢さんが言う。私は気を付けます、と返した。もしかして遠慮無しに乗る私に失礼だぞと遠回しに言っているのかもしれないと思った。私は今度から遠慮しなきゃ…と思った。

そして案内された工藤邸には、想像以上の図書室があった。まるで小さな図書館だ。個人でここまで充実した蔵書は早々無い。

「すごい…」

「家人の許可は取ってあります。お好きな本を読んで下さっていいそうですよ」

「本当ですか!?すごい…!」

下から上までビッシリと並んだ本。私は大英博物館を思い出した。あの素晴らしい本の景色。シェイクスピアも執筆したというあの空間を。私はふふ、と笑った。

「お気に召しましたか?」

「ええとても。ロンドンを思い出しました。大英博物館です、小さい頃向こうに住んでいたのでよく通ったのを思い出しました」

「そうでしたか、」

やはり…と小さな声で沖矢さんが何かを呟いた気がしたが聞き取れなかった。

「子供の頃は父によくせがんで連れて行ってもらったんです。あの空間がとても好きで…って、すみません行ったことない人には何だか分からないですよね」

「僕もイギリスに行ったことはあります。British Museumは僕も好きですよ」

「不思議です、ここは全然違うのに同じ空気がします」

「ここの家主は小説家なんです。紙とインクの匂いが…」

沖矢さんの声が耳に入らないほど私は本に夢中になっていた。あらゆる背表紙、革張りの装丁、その中でもやはり推理小説に関する物が多かった。ポーやドイルの本も。

私が後ろを見向きもしなくなってからどれくらい時間が経ったのか、気が付いたら外は夜で真っ暗になっていた。
私は焦って慌てて書斎を出た。

「沖矢さん!すみません!」

こんな時間までお邪魔をしてしまって!とリビングに向かうと、沖矢さんは何故かキッチンから現れた。

「夕食が出来てますよ。冷めてしまう前に、さあどうぞ」

「いえでも、まさか頂く訳には」

「集中していらっしゃったようなので声はかけませんでしたが、もうそれなりの時間ですし。お腹空いてませんか?」

「お腹、」

空いてるかも、と思った瞬間ぐぅ~と鳴った。イヤだ、すごく恥ずかしい。

「いつもは一人なんですが今日は文代さんも居て下さってますしつい張り切ってしまいました。どうぞ、シチューは自信があるんです」

「…本当だ、すごくいい匂いです」

さあさあ、という沖矢さんと空腹に負けた私は呆気なくテーブルについた。
沖矢さんの手作りシチューはとても美味しくて、でも具材が大きくて、とても楽しかった。そのままリビングでワインを勧められ、グラスを空にした頃沖矢さんが私の隣に座った。

「文代さん」

はい、と私は返事をした。

「恋人でもない男と二人きりで家にいて、食事をしてワインを飲む。しかもこんな夜更けに。…それがどういう事だか分かりますか?」

「…………そうですよね、いつまでも…。帰ります」

私がいけない、と思って立ち上がろうとした時だった。不意にぐい、と手を引かれて倒れた。わっ!と思ったが、私は沖矢さんに引き寄せられていた。

「そうじゃない、そうじゃないんですよ」

「沖矢さ…」

「あなたに好意を持っている男の元に一人で来てはいけないという事だ。少なくとも僕はこのままあなたを返したくない」

間近で、鼻が触れそうな近距離で沖矢さんの顔を見てしまった。いつもは閉じられている瞳が開いて、翡翠のような色の瞳が…。
翡翠?
あれ?この目はどこかで…

「逃げないんですか?このままでは触れてしまいますよ、…唇に」

「…どこかで前にお会いしましたか?」

ピク、と沖矢さんが反応した。

「何故、そう思われました?」

顔は遠くなるどころか角度を変えてより近くなった。

「沖矢さんの目が翡翠色で…」

あの近すぎませんか、と私は顔を伏せて言った。すると沖矢さんはふっ、と笑った。

「近くしてるんです」

可愛いですね、と耳元で囁く。ひどく甘い痺れが背中を駆け上がった。
どうしよう、本当にどうしよう、と慌てていると不意に沖矢さんが私から放れた。

「…自制が効かなくなりそうなのでこの辺でやめておきます。車で送りますね」

「え…あ、はい…」

急に失った体温が何だか寂しく感じた。
ボーッとしている私をよそに沖矢さんは車のキーを取りに行ってしまった。
そのままあっさりと家まで送られた私は最後までボーッとしていただろう。

あんなに読んだ本の内容もすっかり抜け落ちてしまった。
その日は寝るまでボーッとし続け、眠ったのかどうかも分からなかった。
思い出されるのは至近距離で見つめた沖矢さんの顔と、溶かされてしまうんじゃないかと思うほど甘い声。

私は火照る顔を埋めるようにして枕を抱いて寝た。

***************

それから何度か同じ図書館で沖矢さんに会ったが、前のようにポアロに寄っておしゃべりをすることはなくなった。

私は急にどうしたんだろう、と思って沖矢さんに聞こうと思ったがまるで何かを期待しているように思われて、自分からは何も言い出せなかった。

もしかしてあの日、私の態度は失礼だったのかも…と思い至った。
あんなに時間を忘れて居続けて、しかもご飯まで食べて、しまいには車で送らせてしまった。
図々しかったな…さすがに、と思った。

ちゃんと謝っておこうかと何度かポアロに寄ってみた。でも沖矢さんには会えなかった。考えてみたら連絡先すら知らなくて、私は単にからかわれたんだと思うようになった。
それが出会ってから2ヶ月くらい経った今だった。


「文代さん、顔色が悪そうですけど大丈夫ですか?」

はっ、と顔を上げるとポアロの店員さんの安室さんがいた。
ポアロの奥で本を読んだまま少し意識が飛んでいたみたいだった。

「ちょっと睡眠不足で、ごめんなさいもう閉店の時間ですよね」

「大丈夫ですよ、ちょっと待ってて下さい」

安室さんはそう言うとカウンターの奥に戻っていった。
最近睡眠不足というか、眠りが浅いのは昔の夢を見るようになったからだ。
あの工藤さんの家の書斎に入って感じたあの感覚、あれが昔の記憶に触れるきっかけになった。

私があのロンドンの大きなLibraryに行くと時々見かけた黒髪のキレイな顔の男の子。子供なのに難しそうな本を読んでたな、その男の子もあんな翡翠色の目をしていた。

ああ、また沖矢さんの事を思い出してる。
もう忘れなきゃ。

「こちらをどうぞ。梅昆布茶ですよ」

「梅昆布茶?」

「そう、とてもリラックスしてよく眠れるんです。僕からのサービスですから」

「温かい…」

ちゃんとお代は払いますと言ってから一口飲んだ。温かくて、じんわりと優しい味だった。確かにリラックス出来そうですと伝えると安室さんはそれは良かったです、と答えた。

「最近元気が無さそうだなとは思ってましたけど、体調悪いようなら駅まで送りますよ?うーん、文代さんが嫌でなかったら家の側まで送ります。電車に乗れそうな顔色じゃないな」

「いえいえ!そこまでして頂く訳には!」

「大丈夫ですよ文代さん!安室さんなら送り狼にはならないですから。ついでに明日の仕込みの材料買ってきて下さいね!」

梓さんはしっかりしてるなぁ、と感心した。だから大丈夫ですよと言われたのでじゃあついでにお願いしますと答えた。

安室さんの車は白のスポーツカーだった。
助手席に座ると車内には爽やかな香りが。
前に乗った沖矢さんの車は煙草の匂いがしたなと思い、またダメだと思った。

「本当に具合が悪そうですね、もし気持ち悪くなったら言って下さいね」

「ありがとうございます、本当に」

「最近文代さんの元気がなかったのはもしかして…何か悩み事ですか?」

悩み事、悩み事かなあ。何だかずっと頭が切り替えられなくてグズグズしちゃうのは。気になるのに踏み出せない、忘れたいのに忘れられない、そんな感じだ。

「なるほど、それはまさしく恋ですね」

「恋!?………ですかね?」

「恋煩いはお医者様でも草津の湯でも、と言いますし。うーん……もしかしてそれは、沖矢さんですか?」

「えっ!!」

私は必要以上に驚いて軽く飛び上がった。

「ははは、当たりですね。僕こう見えても私立探偵なので」

「どうして………私そんなに分かりやすかったですか?」

「論理的帰結ですよ、ここのところお二人が揃ってポアロに来ませんでしたからね」

「名探偵ですね。本当にポアロみたい」

私が感心すると安室さんは嬉しいな、と笑った。優しい人だなと思った。

「探偵さん、誰にも言わないで下さいね。もう忘れようと思ってるので」

「探偵には守秘義務がありますから安心して下さい。もっといい人が文代さんなら出会えますよ」

慰められてしまった。でも少し気持ちが軽くなったのも確かで、家の近くまで来た所でお礼を言った。

「ありがとうございました。何だか少し楽になったような気がします。また今度改めてお礼をさせて下さい」

「お礼なんて結構ですがポアロには来て下さいね。またミステリー談義をしましょう、コナン君と一緒に」

安室さんは丁寧にドアを開けてくれてどうぞ、と手を差し出してくれた。私は素直にその手を取った。

「では気を付けて」

「はい、ありがとうございました」

安室さんにお礼言って車が立ち去るのを見送ってから私は自宅へ向かうべく後ろを振り返った。

するとうちの玄関の前に人影が。

「………沖矢さん?」

何故かそこにいたのは沖矢さんだった。

「僕以外の男の車には乗らないでほしいと言いましたよね?」

「…見てたんですか」

「あなたに話しておかなければならないと思って来たんですが、中に入れてもらえますか?」

沖矢さんはいつものにこやかを微塵も見せないで淡々と私に言った。玄関の目の前で今更帰ってくれとも言えず、私はとりあえずお茶くらい出すべきかと思い中へどうぞと促した。

私が玄関を開けると開いたドアを沖矢さんが後ろ手に閉める。ガチャ、と鍵をかけて。

「すみません、狭くて散らかっていますけどどうぞ、お茶を淹れますね」

リビングを少し片付けて沖矢さんにどうぞと勧めた。しかし沖矢さんはキッチンに立った私のすぐ後ろに立った。

「あの、今お茶を…」

「あなたは誰にでも気を許すんですか?こんな夜に知らない男の車に乗って家まで送らせ、またこうして男を家に招き入れた」

沖矢さんは後ろから私を囲うようにシンクの縁に手をかけた。私は後ろも横も逃げ場はない。

「安室さんは親切で送ってくれただけです。それに…」

「それに?」

沖矢さんの口が私のすぐ耳元にあって、彼が何か喋る度に私は耳から痺れてくるようだった。

「待っていて下さったのにただ追い返すのもどうかと…」

「ホー、なるほど。それはお優しい事だ」

沖矢さんはそう言うと私の耳にふっ、と息を吹きかけた。私はビクッと体を震わせた。逃げようにも体は囲われているし、沖矢さんも何だか怒っているように思えた。

「言いましたよね?あなたに好意を持つ男と二人きりになるのは危険だと。それとも僕を誘っているんですか?」

誘っ…、誘ってるとはどういう事だ。
私は何でこんな風に言われてしまうんだろう、また呆れられて馬鹿な女だと思われるのだろうか。
やっと忘れようと決めたのに。

そう思うと悔しくて、でも忘れられなかった自分が惨めで涙がこみ上げた。

「も…、帰って下さい」

「文代さん」

「帰って!」

悔しくてこみ上げた涙を見せたくなかった。何で今頃会いに来たの、何で今頃また私を掻き乱すの。肩を震わせた私に沖矢さんは察したのか背後から退いた。
そして今度は私の横に立って、こちらを向いてと私の手を取った。

「泣かせるつもりじゃなかった、すまない。君が他の男と二人でいるのが許せなかっただけだ」

口調が違う、沖矢さんてこんな喋り方だった?沖矢さんは私の目元を指で拭った。

「本当は全てが片付いてから話すつもりだった。その為に色々手を回していて時間がかかった。正体を明かすのは君にリスクがかかるからな」

「どういう…」

何を言ってるんだろう。私の涙は行き場を無くした。すると沖矢さんはハイネックのシャツの首をぐい、と下げた。

「これは変声機だ。これを押すと声が変わる」

ピッと押すと確かに沖矢さんの声が変わった。私は、は?と声に出していた。

「それからこれはウィッグだ、マスクも眼鏡も偽物だ」

さらに髪の毛と顔を剥がすと中から全く別人が現れた。黒髪の、翡翠色。

「え?」

「訳があって普段は沖矢という男に変装して生活している。こっちが本来の俺だ、赤井秀一と言う。これが俺だ」

赤井秀一と名乗った人は沖矢さんとは全くイメージの違う人だった。声も低い。
でも瞳の色だけは同じ翡翠色。

「目の色は同じ…」

「君にまだ教えていないことがあった」

まだあるんですか?と私は言った。

「沖矢昴は偽物だが君に伝えた好意は本物だ。俺も偽物の皮を被ったまま君に触れたくはなかった。そのせいで時間がかかったが、どうか許してほしい」

よく分からないが、まだよく分からない。

「私はてっきりからかわれたんだと…。図々しい女だと呆れたんだって」

「まさか!君は昔から思い違いが多いな」

昔から?

「ああ、君は覚えていないかもしれないが昔会っている。ロンドンのMusiumで」

覚えていないか?俺はシェイクスピアを読んでいた、と彼は言った。

「えっ!えっ、えっ!?あの、あの子が?あなたなんですか!?」

「君はあの頃から本が好きだったんだな。ここの図書館で君を見かけた時は確信が持てなくて俺は何度も確かめようとしたんだ。書斎で君が昔話をした時にはっきり君だと分かったよ」

「うそ…あのちょっと生意気で大人ぶってたあのキレイな子が!?えー?」

「酷い言われようだな。まあそういう事だ。沖矢は俺だし俺は俺だ」

そうだったんですか…と私は呆然とした。
横ではお湯が沸いてピーと音を立てている。

「そこで、だ。俺はこの姿で君に会いたかったし触れたかった。出来れば拒んでほしくないんだが」

「そ、それは…」

「沖矢がいいなら癪だがそうしてもいい。君が俺のものになってくれるなら」

「私は、」

沖矢さんが好きだったんです、と言った。そして目の前の人にはこう言った。

「あなたの事はまだよく知らないので、よく教えてもらわないと…」

「教えてやろう、いくらでも」

目の前の人は不適にそう言って、その表情はまさに沖矢さんと同じもので、同じ眼差しで…。

動けなくなった私の代わりにその人はコンロの火を止めた。




「Who Ever Loved, That Loved Not at First Sight」

“誠の恋をする者は、みな一目で恋をする”



「シェイクスピアは正しかったな」

私の理性が残っている内に聴いた言葉はそれが最後であり、そして始まりだった。





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終わり
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