スタンリー・ハムニカ(はむ様)
【二人ぼっちの幸せ】
「アラン。ただいま」
俺は紙の買い物袋を両手に、人間界の小さな我が家に帰り、ベッドに上半身を起こしているアランに声をかける。
『いらっしゃい、エリック!』
部屋に行った時、飛び付くように歓迎してくれたいつかのアランが思い浮かぶ。だけど今のアランは、澄んだ黄緑の瞳で正面の壁にかかったエリカの白い花の絵を眺めているだけで、ピクリとも反応しなかった。出かける度に、お前がまた飛び付いてくるんじゃないかと期待して、毎回変わらぬお前の様子に魂のすり減る思いをする。それでも俺は、習慣になっているただいまのキスを、アランの頬に軽く贈った。
「今日は、バゲットが安かったんだ。あと、牛肉も。だから、奮発してビーフシチューにしようと思ってな。アラン、好きだろビーフシチュー」
ダイニングテーブルに紙袋を下ろし、アランの隣に向かい合って座って、ブラウンの横髪を指の甲で撫でる。だけどお前は、綺麗な等身大の人形みたいに、一点を見詰めているだけだった。その瞳は、何も映していない。視線の先のエリカの絵画は、少しでも反応してくれないかと、俺が高さを合わせて飾ったものだった。だからそれすらも、ガラス細工みたいな美しい瞳は映していない。
たまらなくなって、俺はアランのすっかり筋肉の落ちてしまった薄い肩に顔を埋めた。俺のせいだ……。目頭が熱くなる。いつアランが正気を取り戻しても良いよう、昼間の間はスラックスにワイシャツを着せていたが、その布の下からゆっくりと呼吸して肩が上下するのが伝わってきて、俺は少しだけ安心した。大丈夫だ。アランは、生きている。生きていれば。命さえあれば。感傷的になった気分を頭を振って一蹴し、俺は夕食を作りにキッチンに向かった。
* * *
「アラァンッ!!」
俺が千個目の魂を求めて振るった刃は、お前の背中をザックリと裂いていた。デスサイズに、斬れないものはない。ポンプみたいに、心臓の鼓動に合わせてドクリドクリと血が噴き出す。縋り付いた俺の膝を、あっという間に鮮血が赤く濡らしていった。
「殺せ、悪魔。……俺を……殺してくれ……」
涙まじりの俺の台詞を、悪魔は鼻で笑った。
「死を求める相手に、わざわざ死を贈る。そのような博愛精神は、少々趣味ではありませんが」
そう言って、長柄のナタを拾い上げる。
「アランの、デスサイズか?」
「それに不都合がありますか?」
「……いや」
「アランさんのデスサイズを、ご自身の穢れた血で汚したくないと? それとも、アランさんのデスサイズで、最期を迎えたいと?」
「分からねぇ……分からねぇが、すでに全てに意味はない」
何もかもが、アランの為だった。そのアランを失った時、俺には何もかもが分からなくなった。アランと共に生きたかった。そのアランが死んだのだから、共に死んでやるのが一番の良案に思えた。
「アラン・ハンフリーズ」
だが悪魔が刃を上段に振りかぶり、俺も死を覚悟したその時。頭上の何もない空間を、螺旋階段を下るようにして、一人の男が下りてきた。特徴的なウエストのくびれたチェスタータイプのロングスーツに、腰までなびく長い銀髪、飛び抜けた長身。すぐに誰だか窺い知れた。
「スタンリー課長……」
信じられない思いで、縫製課長のその名を呟く。ファイルを持っているという事は、彼がアランの魂を狩りに来た死神だという事だ。だが、反対の手に持つデスサイズは、小さな小さな糸切りバサミだった。カスタマイズでそれを希望したという事は、現場に出る意志がないという事だし、実際にそう言っているのを聞いた事もある。その、スタンリー課長が、見えない螺旋階段を下りながら、粛々とファイルを読み上げた。
「アラン・ハンフリーズ。1621年3月10日生まれ。1875年5月5日。死神エリック・スリングビーの、デスサイズによる裂傷にて死亡。備考」
何の感慨もなく、自分も毎日言っていた台詞。特になし、と続いて魂がファイリングされ『死』が確定する事は、痛いほど分かっていた。だが、言葉が続く。
「備考。アラン・ハンフリーズ死亡による世界の不均衡は著しく、生き返らせるべき死神と認定する」
地に降り立ったスタンリー課長は、ファイルから顔を上げて確かにチラリと俺を見た。涙でグシャグシャの俺の顔を。
「ただし、魂は一時的に回収するものとする。魂返還時期は、未定……以上」
そう言って、スタンリー課長はポンとファイルに回収終わりの赤印を押した。俺はにわかに事態が飲み込めなかった。現場が一瞬、凍り付く。その危うい沈黙を、スタンリー課長がぶち破った。
「逃げろ! スリングビー! ハンフリーズを助けたかったらな!!」
息さえ止めていた静寂が、急速に動き出す。俺はアランの身体を横抱きにさらって、死に物狂いで走り出した。悪魔に「殺してくれ」と懇願した俺は、もう何処にも居なかった。
「アラン。ただいま」
俺は紙の買い物袋を両手に、人間界の小さな我が家に帰り、ベッドに上半身を起こしているアランに声をかける。
『いらっしゃい、エリック!』
部屋に行った時、飛び付くように歓迎してくれたいつかのアランが思い浮かぶ。だけど今のアランは、澄んだ黄緑の瞳で正面の壁にかかったエリカの白い花の絵を眺めているだけで、ピクリとも反応しなかった。出かける度に、お前がまた飛び付いてくるんじゃないかと期待して、毎回変わらぬお前の様子に魂のすり減る思いをする。それでも俺は、習慣になっているただいまのキスを、アランの頬に軽く贈った。
「今日は、バゲットが安かったんだ。あと、牛肉も。だから、奮発してビーフシチューにしようと思ってな。アラン、好きだろビーフシチュー」
ダイニングテーブルに紙袋を下ろし、アランの隣に向かい合って座って、ブラウンの横髪を指の甲で撫でる。だけどお前は、綺麗な等身大の人形みたいに、一点を見詰めているだけだった。その瞳は、何も映していない。視線の先のエリカの絵画は、少しでも反応してくれないかと、俺が高さを合わせて飾ったものだった。だからそれすらも、ガラス細工みたいな美しい瞳は映していない。
たまらなくなって、俺はアランのすっかり筋肉の落ちてしまった薄い肩に顔を埋めた。俺のせいだ……。目頭が熱くなる。いつアランが正気を取り戻しても良いよう、昼間の間はスラックスにワイシャツを着せていたが、その布の下からゆっくりと呼吸して肩が上下するのが伝わってきて、俺は少しだけ安心した。大丈夫だ。アランは、生きている。生きていれば。命さえあれば。感傷的になった気分を頭を振って一蹴し、俺は夕食を作りにキッチンに向かった。
* * *
「アラァンッ!!」
俺が千個目の魂を求めて振るった刃は、お前の背中をザックリと裂いていた。デスサイズに、斬れないものはない。ポンプみたいに、心臓の鼓動に合わせてドクリドクリと血が噴き出す。縋り付いた俺の膝を、あっという間に鮮血が赤く濡らしていった。
「殺せ、悪魔。……俺を……殺してくれ……」
涙まじりの俺の台詞を、悪魔は鼻で笑った。
「死を求める相手に、わざわざ死を贈る。そのような博愛精神は、少々趣味ではありませんが」
そう言って、長柄のナタを拾い上げる。
「アランの、デスサイズか?」
「それに不都合がありますか?」
「……いや」
「アランさんのデスサイズを、ご自身の穢れた血で汚したくないと? それとも、アランさんのデスサイズで、最期を迎えたいと?」
「分からねぇ……分からねぇが、すでに全てに意味はない」
何もかもが、アランの為だった。そのアランを失った時、俺には何もかもが分からなくなった。アランと共に生きたかった。そのアランが死んだのだから、共に死んでやるのが一番の良案に思えた。
「アラン・ハンフリーズ」
だが悪魔が刃を上段に振りかぶり、俺も死を覚悟したその時。頭上の何もない空間を、螺旋階段を下るようにして、一人の男が下りてきた。特徴的なウエストのくびれたチェスタータイプのロングスーツに、腰までなびく長い銀髪、飛び抜けた長身。すぐに誰だか窺い知れた。
「スタンリー課長……」
信じられない思いで、縫製課長のその名を呟く。ファイルを持っているという事は、彼がアランの魂を狩りに来た死神だという事だ。だが、反対の手に持つデスサイズは、小さな小さな糸切りバサミだった。カスタマイズでそれを希望したという事は、現場に出る意志がないという事だし、実際にそう言っているのを聞いた事もある。その、スタンリー課長が、見えない螺旋階段を下りながら、粛々とファイルを読み上げた。
「アラン・ハンフリーズ。1621年3月10日生まれ。1875年5月5日。死神エリック・スリングビーの、デスサイズによる裂傷にて死亡。備考」
何の感慨もなく、自分も毎日言っていた台詞。特になし、と続いて魂がファイリングされ『死』が確定する事は、痛いほど分かっていた。だが、言葉が続く。
「備考。アラン・ハンフリーズ死亡による世界の不均衡は著しく、生き返らせるべき死神と認定する」
地に降り立ったスタンリー課長は、ファイルから顔を上げて確かにチラリと俺を見た。涙でグシャグシャの俺の顔を。
「ただし、魂は一時的に回収するものとする。魂返還時期は、未定……以上」
そう言って、スタンリー課長はポンとファイルに回収終わりの赤印を押した。俺はにわかに事態が飲み込めなかった。現場が一瞬、凍り付く。その危うい沈黙を、スタンリー課長がぶち破った。
「逃げろ! スリングビー! ハンフリーズを助けたかったらな!!」
息さえ止めていた静寂が、急速に動き出す。俺はアランの身体を横抱きにさらって、死に物狂いで走り出した。悪魔に「殺してくれ」と懇願した俺は、もう何処にも居なかった。