【ありがとう、愛しい恋人よ】

    *    *    *

 俺たちは死神でごった返すパブで、一杯目を乾杯した。賑やかに話し声が溢れ、自然と顔の距離は近くなる。

「あの……」
「あ?」

 アランの小声に、俺は顔をますます近付けた。アランは少し距離を取るように顎を引いてから話し出す。

「エリックさんって、バレンタインデーはいつもこんななんですか?」

 アランと共にこのパブに辿り着くまでに、何度も女、あと男にも声をかけられた。その度にアランとサシ飲みだからと邪険に断るが、プレゼントだけでもと食い下がる奴は結構居て、アランは目を丸くしてその攻防を見守っていた。

「ああ。今までは家まで着いてくる奴とかも居たけどよ。お前とはパートナーって大義名分があるから、悪いけど今年から付き合ってくれないか? クリスマスなんかも。おごるから」

 拝むように手を合わせると、アランはなんだかいつもよりふにゃっと微笑んだ。アランに隙があるなんて珍しい。だがリラックスしてくれているのだろうかと、俺も嬉しくてつられて口角を上げた。

 そのまま二杯目を頼んで、いつもより饒舌なアランと会話を楽しむ。だが二杯目が運ばれてきた頃、異変に気が付いた。アランは目元を赤く染め、ろれつが回っていない。

「アラン!? お前なに頼んだ?」
「ブドウジュースれす」

 メニューを見るが、ブドウジュースという名前はない。

「どれだ?」
「これれす」

 アランが指差したのは、サングリアだった。

「アランお前。これアルコールだぞ。大丈夫か? 具合悪くないか?」

 アルコールに弱くほとんど飲んだことがないと、いつもノンアルコールだったアランが心配で顔を覗き込む。すると二杯目のグラスをわしづかんだまま、アランもグッと身を乗り出した。さっきとは逆に、俺の方が驚いて身を引く。

「そんなことよりエリックしゃん!」

 本格的に顔を真っ赤にして、アランが声高に言い出した。まだ二杯目に口はつけていない筈なのに、一杯目のサングリアが回ったらしい。

「恋人を作らないっていうのは本当でしゅか?」
「ああ、うん。まあな」
「チョコも要らないんでしゅか」
「俺、甘いもの苦手なんだ。って、どどどうしたアラン!?」

 間近で見詰め合ってた鮮やかな黄緑から大粒の涙がこぼれて、俺は慌てた。瞬きをする度に、ぱたぱたとテーブルを濡らす。

「アラン、お前泣き上戸か?」

 うつむいて前髪を震わせるアランの肩に、片手を置いて労る。午後の屋内階段でも似たようなシチュエーションがあったが、関わり合う気にはならなかった。涙は女狐の武器くらいにしか思っていない。男でもだ。俺が涙で心乱されたのは、アランが初めてだった。

「チョコ……」
「ん?」

 最初みたいに、アランの小さな声に耳を澄ます。

「せっかく手作りしたのにーっっっ!!」

 だが大声で叫ばれては耳が悲鳴を上げて、俺は思わず人差し指を片耳に突っ込んだ。

「何回も!! 失敗して!! 朝の五時までかかったのにーっっっ!!」

 そう言って、十センチ四方の小箱が投げ付けられる。

「うおっ」

 完全に油断していた。悪魔と戦闘をするくらいだから運動神経も反射神経もいいと自負していたが、なんでだかよけるという選択肢は浮かばずに、顔面で綺麗にラッピングされた小箱を受け止める。胸の前で落ちてきたそれをつかみ眺めると、クリアケースの中に丸く成形されたトリュフチョコが四つ見えた。

「エリックしゃんの馬鹿ー!! 浮気者ー!!」

 アランがそう叫んで号泣するので、近くの席からの視線が痛い。

「ま、待てアラン。浮気もなにも、俺たち付き合ってねぇだろ?」
「だって」

 少し落ち着いて、アランはグスグスとしゃくり上げる。

「恋人は作らないんでしょう? チョコ受け取ったくせに」
「受け取ったって言うか事故って言うか……」

 アランが天を仰いで、また叫びを上げようと息を吸い込む。

「あー!! いやアラン、今のなしだ!! 受け取った!! 確かに受け取ったぞ!!」

 顎が下がって、潤んだ大きな瞳と目が合った。上目遣いに問う。

「でもチョコ……嫌いなんでしょう?」

 心拍数が上がるのを意識した。

「なん……なんなんだ、アラン」

 初めての経験に、思わず心の声が漏れてしまう。革手袋の手の平で口元を押さえた。

「いいんです。同情で受け取って欲しい訳じゃないんです」

 惑乱する俺の心情はかえりみず、アランが小箱をひったくってラッピングを解いていく。俺のために朝五時までかかって作ったという綺麗な円形のチョコを摘まむと、ぞんざいに口の中に放り込んだ。あっという間にかみ砕く。

「待て待てアラン! お前が作ったんなら食う。食うからよ」

 だがアランは耳を貸さず、どんどん口に入れていく。最後のチョコがその桜色の唇に吸い込まれたとき、俺はひと知れず腹を決めた。アランのうなじに手を回し、チョコがなくなる前にそれを味わう。唇を合わせ。アランは前後不覚なのか受け入れて、静かに長い睫毛を伏せた。

 アルコールで上がった体温で、アランの口内は熱く感じるほどだった。甘過ぎず、ビターなココアパウダーのかかったチョコレートを互いの口内で転がす。それがすっかりなくなっても、俺たちはしばし唇を合わせていた。リップノイズを微かに立てて、身を分かつて見詰め合う。

「アラン。サンキュ。美味かった」

 静かに言うと、アランもゼロ距離でしか聞こえない大きさで囁く。

「ズルいです、エリックさん」
「なにが?」
「恋人は作らないくせに」

 俺は思わず笑った。その拗ねた口調がかわいくて。噴き出したのなんか、一体何年ぶりだろう。

「なに笑ってんですか」
「いや。お前がかわいくて」
「ズルいです」
「ああ。今までの俺はズルかった」
「……え?」

 酔いもあるのだろう、理解が追い付かないようにアランは語尾を上げた。

「俺が恋人を作らないのは、他人の心に興味がなかったからだ。でも」

 俺はアランの後ろ髪に指を遊ばせる。くすぐったそうに首がすくめられた。

「お前は別だ。心が欲しいなんて思ったのはお前が初めてだ」

 この台詞はお前だけに。

「付き合ってくれないか。アラン」

 ぱちぱち。大きな目がしばたたく。

「……え?」
「俺の初めての恋人になってくれないか」
「恋人?」
「ああ。お前が最初で最後の恋人だ」

 ぱたぱた。また涙がこぼれ落ちた。今度は慌てない。俺の愛しい恋人は、ひどく泣き上戸なのだろう。右手の革手袋の中指をくわえて外し、素手の親指で涙を拭う。俺たちは常に革手袋をしていたから、素肌で触れ合うのは初めてだった。しゃくり上げるアランの額に一度唇を押し当てて、俺は優しく促した。

「返事を聞かせてくれ。アラン」
「……はい!!」

 天を仰いで一声叫び、アランは声を上げて泣き出した。アランは恋愛をしたことがないと言っていたから、俺がアランの初めての男になる。今夜は家まで送って、紳士的におやすみのキスをして別れよう。そんなことを思うのも初めてで、俺はずいぶんと前からアランと同じ気持ちを心の底に隠していたのだと知って、喉の奥で笑って歯を見せた。

End.
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