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『狂気と悪夢の世界へ』

目を開けたとき、見慣れない天井があった。
柔らかいベッド。白いシーツ。
薬品の匂いの代わりに、微かに甘い香りが漂っている。

「……ここは……?」

私は起き上がろうとして、すぐに息を呑んだ。
視界の端に、誰かが座っている。
ゆっくりと顔を向けると──そこには、金髪の男がいた。

ロイド。
あのラボで見た冷徹な薬師が、今は目の前で椅子に腰掛け、
まるでずっと待っていたかのように、穏やかに笑っていた。

「やっと……やっと、起きてくれたね」

その声は、あの時よりも柔らかい。
けれど、その奥に何かが蠢いているのを、私の身体が本能的に感じ取る。

「僕の……花嫁さん」

ドキッ。

その一言で、胸が強く跳ねた。
息を吸う音が、部屋の空気に溶けていく。

「えっ……? な、なに……?」

私は思わず声を裏返らせる。
意味が分からない。
でも、彼の笑みは深くなるばかりだった。

ふと、手に違和感を覚える。
視線を落とす──そこには銀色の指輪があった。

青い宝石が、指先で微かに冷たく光っている。

「……なに、これ……?」

ロイドはゆっくりと立ち上がる。
ベッドに腰を下ろし、私の手をそっと取る。
その指先の温もりは、やけに確かなのに、
その目はどこか、常軌を逸していた。

「気づいた? それは……“ナイトメアリング”っていうんだ」

声が、低く、甘く、そして静かに歪んでいく。

「ただの指輪じゃない。
 これはね、私の陣営が造り出した“契約装置”なんだ。
 君の命のリズムと、私の命のリズムを、ひとつに繋げるためのね」

彼の笑みは、歓喜と狂気の境界線にあった。

「君はもう、どこにも行けない。
 君が私を救った時に──君はもう、私のものになったんだよ。
 この指輪がある限り、君はどこにも消えない」

その声は、囁くようでいて、鎖の音を思わせた。

「……ようこそ、私の世界へ。
 君の名前はまだ知らないけど……
 君は、もう、私の“花嫁”だ」

青い宝石が、暗い光を反射して、私の指で妖しく光った。

私は震える手で、指輪に指をかけた。
冷たい銀の輪を、必死に引っ張る。
何度も、何度も──けれど、抜けない。
まるで、皮膚と一体化してしまったように。

「……う、そ……どうして……」

指輪は、びくとも動かなかった。
爪が折れそうなほど力を込めても、ただ指先に冷気が増していくだけ。

胸の奥に、じわじわと絶望が染み込んでいく。

その時だった。

「──ああ、もう外れないよ」

ロイドの声が、すぐ耳元で響いた。
甘く、低く、微かに笑っている。

「だって、それは契約だから。
 皮膚じゃなくて、魂に“嵌めてる”んだもの」

私が顔を上げると、ロイドは笑っていた。
優しい笑顔なのに、その目は琥珀の奥で光っている。

「どうする?」

彼は首を傾げ、ゆっくり囁く。

「指でも切り落とすかい?」

一瞬、部屋の空気が凍った。

「できるのかい? そんなことって。
 自分の指を、ナイフで落とせるのかい?
 君、そんなに強いの?」

私は言葉を失った。
その笑顔が、あまりに普通の声色で、そんなことを言うから。

ロイドはベッドの端に腰掛け、私の髪を指で梳く。
その仕草は、むしろ恋人めいているのに──口から出るのは狂気の刃。

「まあ、切り落としても、僕がまた接合するけどね」

彼はさらりと言う。

「薬も、技術もある。骨も、神経も、完璧に繋ぎ直せる。
 だから意味がないよ。
 君の“指”は、もう僕のものだから」

笑顔のまま、彼は私の頬に指を当てた。

「君の体も、君の心も。
 ねえ、逃げられないってこと、そろそろ分かってきたでしょう?」

その声は甘い。
まるで恋人が囁くように。
けれどその甘さは、鎖の味がした。

「私が……いったい何をしたのよっ……!
 お家に……帰してよぉ……!」

私は声を震わせながら叫んだ。
涙が頬を伝い、シーツに落ちる。
その声には、怒りと恐怖と、途方もない哀しみが混じっていた。

ロイドは一瞬、息を呑んだように見えた。
その紫色の瞳が、ほんのわずかに揺れる。

「……君は、何もしていないよ」

低い声が、静かに返ってくる。
ロイドは立ち上がり、私の前に膝をついた。
金の髪が光を受けて揺れる。
その顔には、さっきまでの狂気だけではない、微かな“痛み”が浮かんでいる。

「悪いのは、世界の方だ。
 君は、ただその中にいただけなんだ。
 君は、悪くない」

彼は手を伸ばし、震える私の肩に触れる。
その指先は、驚くほど優しくて、
思わず私の涙がさらにあふれた。

「帰してよ……お願い……帰りたい……」

私の声は、嗚咽に変わっていく。
ロイドは、その頭をそっと抱き寄せた。
胸に顔を埋めさせるように、静かに抱きしめる。

「……無理だよ」

その言葉は、あまりに静かだった。
子どもを寝かしつけるような声で、
その実、最も残酷な宣告を囁いている。

「君を帰したら、君はもう僕の手の届かない場所へ行ってしまう。
 それは……できない。
 君が怖がっても、泣いても、
 僕は君を、もう手放せない」

彼の腕が、私を強く抱きしめる。
その体温が、鎖のように絡みつく。
甘く、温かく、逃げ場を失わせる。

「大丈夫……僕がいるから。
 怖くないよ……もう何も、君に傷つけさせない。
 僕が守る。君は、僕のものだから」

耳元に囁かれるその声は、まるで子守歌のようだった。
けれど、その奥に隠された執着が、
私の背筋をぞくりとさせた。

「……そもそも、あなた……あれでしょ?」

私は涙をぬぐい、必死に声を震わせながら言った。

「オブディシアンオーダー軍のボスで……冷酷非道な薬学者の……ロイド、だよね?
 人を薬みたいに扱うって、噂で聞いた……
 そんな人が……なんで、私なんか……好きになるの……?」

その言葉は、悲鳴のようでもあり、疑念のようでもあった。

ロイドは微動だにせず、ただその言葉を受け止めるように黙っていた。
やがて、静かに息を吐き──小さく、笑った。

「……それは、僕も……演算できなかったよ」

彼の瞳は、どこか遠くを見ていた。
かつての戦略、計算、数式、細胞レベルの反応式──
そのすべてに答えを出してきた男が、今だけは解を持っていない。

「これは、“誤差”なのかもしれない。
 あるいは、“バグ”なのか。
 でも、ね……」

再び、彼の視線が私に向けられた。

それは、夜に落ちる前の空のように淡く、
それでいて、どこまでも深く、息を飲むような美しさだった。

「これが“恋”っていう感情なのかな」

微笑みながら、彼は言った。

「甘くて、切なくて、
 胸が締めつけられて、君の姿が視界から消えると息が浅くなる」

ひとつ息を吸い、囁くように続ける。

「……でもね。
 この感覚──」

瞳の奥が、かすかに揺れた。

「くせになるんだ」

言葉の温度が変わる。
甘いままで、底に狂気の熱が潜んでいる。

「君を見ていると、薬品よりも、戦術よりも、
 ずっと脳が痺れるような感覚になる。
 それを一度味わったら……もう、離れられないんだよ」

彼は私の手を取り、指輪の宝石にそっと触れた。

「君は僕を壊した。
 この“感情”で。
 だから責任をとってもらわなきゃね……?」

その笑みは、限りなく優しく──そして、破滅的に狂っていた。
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