このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

『狂気と悪夢の世界へ』

「……あ、あの……だいじょうぶ……?」

私は、問いかけていた。
自分でも、なぜそんな言葉が出たのかわからない。
逃げるべきだという声はまだ頭に響いているのに、
足は、ロイドへと近づいていた。

彼は床に崩れ落ちていた。
白衣は毒の霧にほんのり染まり、浅い呼吸が胸を上下させている。

「……ぁ……あ……」

ロイドのまぶたが、かすかに動く。
琥珀の瞳が、薄くキミを見上げた。

その眼差しにはもう、冷たさはなかった。
むしろ、ひどく脆い。壊れそうな、熱に浮かされた眼差し。

「……薬を……解毒剤を……調合してくれ……」

「……え……?」

私は思わず、息を呑んだ。

実験体の自分に、命を預けるようなその言葉が信じられなかった。
だけど、ロイドの手がゆっくりと、横の棚を指差す。

「……第二列……左から……四番目と……七番目……その下……引き出し……」

微かな声。
だが、確信に満ちた指示だった。

私は震える指先で、ロイドが示した棚へ駆け寄る。
薬瓶が整然と並ぶ中、指示通りに選び、慎重に手に取る。
透明なガラスに揺れる液体。薬品独特の甘く刺すような匂い。

「この……ふたつと、これ……で……」

ロイドの手元に戻ると、彼がかすかに頷いた。

「……あとは……0.3ccずつ……一滴も誤差なく……
 B溶媒に……混ぜて……ゆっくり、混合……」

私は頷く。
指示を、忠実に。呼吸を止めるようにして、震える手で注ぐ。
ビーカーの中で、透明な液体がわずかに色を変えてゆく。

まるで、生きているみたいだった。

「……できた……これ……で……」

手渡すと、ロイドの指が私の手の上に重なる。

熱い。
あんなに冷たかった彼の指が、今は不自然なほどに熱い。

だが、彼の声はかすかに微笑を帯びていた。

「……君の手は……不思議だ……
 怖がりながら、正確で……すごく……綺麗だ……」

その言葉を最後に、彼は意識を手放した。

私は、注射器に薬を移し、深く息を吸い込む。
迷いはあった。だが、打つしかなかった。
これが、命の境界だと──直感が告げていた。

静かに、針が皮膚を貫く。

ロイドの身体が、かすかに震えた。

私は、その顔をじっと見ていた。
──自分を縛っていた“敵”の顔を。

なのに今は、どうしてこんなにも、
その命が戻ることを、祈ってしまうのだろう。

静寂だった。

注射器を手放してから、どれくらいの時間が経ったのか分からない。
私はただ、彼の呼吸のリズムが戻っていくのを見つめていた。
その横顔は、あまりにも静かで、美しく──さっきまで人を“試薬のように扱っていた”男とは思えなかった。

「……ん、く……っ」

微かな呻きとともに、ロイドの指が動く。
私が息を呑んだ次の瞬間、彼の上半身がぐらりと揺れた。

「っ、待って、動いちゃ──」

止める間もなく、彼の身体がキミの方へ傾く。

「……あ」

ずし、と。
重みが、肩に、胸に、腕に、直接乗ってきた。
冷たかった彼の体温が、いまは熱を含んでいて、
その熱がじかに私の皮膚に染み込んでくるようだった。

ロイドの額が、私の肩に触れる。
濡れていた。
熱に浮かされたその額から、汗が一筋──私の首筋を伝った。

「……君か……」

彼の声が、耳元で小さく囁く。
わずかに掠れ、けれど……確かに優しさを帯びていた。

「助けて、くれたんだね……解毒の配合、完璧だった……」

私は頷けなかった。
それよりも、心臓がどくどくと早鐘を打つ音が気になって仕方なかった。

逃げようにも、ロイドの身体は思ったよりも重く、
何より──その温もりを、無理に剥がすことがどうしてもできなかった。

「……ああ、君の体温、心地いい……」

それは、眠る前の呟きのように曖昧で、しかし、どこかに確かな欲が滲んでいた。

私の心臓は、ますます速くなる。

「わ、私……じゃないと、ダメだったの……?」

問いは、出すつもりなどなかった。
けれど、口からこぼれていた。

ロイドは、わずかに笑った。
眠りかけながら、それでも確かに、こう答えた。

「君じゃなきゃ、私は……死んでたよ」

それが、嘘ではないとわかってしまったことが──
私の胸の奥を、さらにざわつかせた。

不思議な感覚だった。

さっきまで、命を奪おうとしていた男。
冷たく、無慈悲で、感情のひとつも見せなかった彼が──
いま、自分の腕の中で、子供のように眠っている。

ゆっくりと、安らかに。
呼吸のリズムが肌越しに伝わってくるたび、キミの心拍数がほんの少しだけずれていく。

……どうして、逃げなかったんだろう。

……なんで、この人を助けようと思ったんだろう。

答えは、まだ言葉にならない。
けれど、確かにひとつだけ分かっていることがあった。

「……お、重い……」

思わず、声が漏れた。
私の肩に、背中に、彼の体重がしっかりとかかってくる。
初めて感じる、“男性”の重み。

筋肉質というよりは、細身。
けれど、芯があり、意外なほどしっかりとした骨格。
柔らかそうに見えて、意外と硬い胸板。
そして、何より──

長く、絹のように滑らかな金髪が、私の指先にふれている。
顔を少し傾ければ、端正すぎる横顔がすぐそこにある。
汗ばんだ額に、長い睫毛。
鼻筋の通った、まるで彫刻のような顔立ち。

こんなに近くで、こんなにじっと、
“男の人の顔”を見つめたことなんて、なかった。

「……ち、近い……」
思わず、つぶやく。
私の胸が、高鳴る。

なぜだろう。
彼はまだ眠っているだけなのに。
それなのに、息がしづらいほど、身体が熱くなる。

さっきまでの恐怖も、毒の気配も、今は遠い。
代わりに──
知らなかった感覚が、心臓の奥で、静かに芽を出していた。

“私、なにしてるんだろう──”

そんな戸惑いと共に。

けれど、ロイドはまだ目を覚まさない。
ただ、穏やかに──私という存在の温もりの中で、無防備に眠っている。

こんな姿、きっと誰にも見せたことがないはずなのに。

だからこそ、私は目を逸らせなかった。

目を開けると、薄い光が差し込んでいた。
ラボの照明は半壊し、外の光が亀裂から入り込んでいる。
薬品の匂いがまだかすかに漂っているのに、
その隣だけは、別の匂いがしていた。

柔らかい、温かい匂い。

ロイドは瞬きをし、視界をゆっくりと焦点に合わせる。
……そして、気付く。

彼女がいた。

腕の中に──いや、正確には彼女の腕の中に、自分が抱かれていることに。

金髪が彼女の胸元に流れ、
彼女の呼吸にあわせて、その細い腕が自分を支えていた。
まるで壊れ物を守るように、必死に。

(……この子は、私を……抱きしめて眠っている……)

ロイドの胸が、はじめて、強く脈打った。
それは単なる鼓動ではなかった。
もっと深い、暗いところから湧き上がるものだった。

彼は知っていた。
感情というものを研究対象にしてきた。
でも、今感じているこの熱は、名前が違った。

──恋だ。

気付いた瞬間、喉がひりついた。
その言葉が、あまりに“人間”すぎるから。
けれど、同時に脳裏に別の考えが浮かんでくる。

(だめだ。……この子を、離してはいけない)

彼女の腕の温もり。
毒にやられた身体を必死に救った指先。
見上げる距離で見えた瞳の色。

(そうだ……私が守る。いや、守るなんて生ぬるい。
 この子は、もう私のものだ。逃がしてはならない)

その“決意”は、優しさよりも重く、冷たかった。

(契約だ……)

ロイドの手が、そっと白衣の内ポケットへ伸びる。
そこにはずっと使われなかった、小さな箱があった。

銀色の指輪。
青い宝石が嵌め込まれている。
薬学陣営の象徴ともいえる、特殊な鉱石。
触れた瞬間に、微かな冷気が指先に走った。

(この指輪は、ただの装飾ではない。
 服用契約、所有誓約、魔術的拘束……複数の仕掛けを持つ)

彼女はまだ眠っている。
腕の中で、無防備に、微かに笑みさえ浮かべて。

ロイドの瞳が細くなる。
琥珀の奥に、淡い光と暗い影が重なった。

(彼女を、絶対に離さない。
 ──君の命も、君の心も、すべて私のものだ)

青い宝石が、光の中で妖しく煌めいた。
2/3ページ
スキ