このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

『狂気と悪夢の世界へ』

遠くで、誰かの悲鳴が上がった。
濁った空に、鉄錆色の雲が揺れている。
それはもう、「空」と呼べるものではなかった。

数十年前、ナイトメアリングは未来都市の象徴だった。
空を走る軌道列車、空中庭園、人工知能と共存する街──
だが技術は、人を幸福にはしなかった。

AIを巡る統制戦争と、人体強化の軍拡。
ナイトメアリングは分裂し、やがて廃れ、今では「生きている」こと自体が奇跡となった。

キミは、意識の底で何度も聞いた名を思い出そうとしていた。
けれど、誰にも呼ばれていない名前は、記憶のどこにも引っかからない。

──どこで、間違えたんだろう。
どこで、自分は「実験体」として運ばれてきたのだろう。

鋼鉄の廊下に、ブーツの音が響く。
暗い天井。柔らかい白衣の音。冷たい光。

ガラス越しに誰かが、こちらを覗き込んでいる。

「…目を覚ましたか。いい子だ。キミの身体、どこまで使えるか──これから見せてもらおう」

声は静かだった。
冷酷でも、激情でもない。ただ、深く、深く……“知っている者の声”だった。

顔を上げた。
金髪の長い髪。冷たい紫の瞳。指先には小さなアンプルが揺れている。

「安心していい。私は医者だよ。……まあ、倫理観に乏しい方かもしれないが」

皮肉を含ませて笑う男──それが、薬学陣営を統べるロイドとの、最初の邂逅だった。

“彼”は天才と呼ばれていた。だが、その目には常に「対象」を見る光しかなく、
その声は、心を撫でるようでいて、まるで感情という概念を取り除いたようだった。

なのに──なぜだろう。
その眼差しが、冷たいはずなのに。
その声が、脅しのはずなのに。

……少しだけ、心臓が跳ねた。
理解不能なまま、あなたは再び眠りへと落ちた。

それが、すべての始まりだった。

「ここは…どこ? なんで私、拘束されて……」
震える声。
焦点の定まらぬ瞳が、周囲の無機質な世界を掴もうと彷徨う。

拘束具が軋んだ。身を捩るたび、わずかな軋みが耳に触れる。
だが、その努力はあまりに無力で──まるで、蝶が標本針に抗うような儚さだった。

「……ようやく“音”が返ってきたか」

静かな声が届く。
低く、滑らかに。だが確実に“上から落ちてくる”ような音色で。

視界がゆっくりと焦点を結ぶ。
白。
白衣。
硝子に反射する冷たい瞳。

彼はそこにいた。
まるでずっと、私が目覚めるのを待っていたかのように。

「ここは、私の庭──《第七調薬区・収容実験室》。
 キミは《観察対象:試験体No.106》として、ここに運ばれた」

男は、言葉の温度を一切変えずに続ける。
それは命の重さを測る天秤に、何の感情も乗せない語り口。

「身体データ、適合率、記憶反応、すべて興味深い。
 なぜキミのようなものが“今この時代に”存在しているのか──」

彼の指が、そっと私の頬に触れかけ、止まった。
触れずにいるのが、彼なりの慈悲なのか。
それとも、ただ単に“必要がない”と判断しただけか。

「拘束されている理由? 単純だよ。
 今のキミは“素材”として高価すぎる。
 逃げられると困るし──噛みつかれても厄介だからね」

その声に、悪意はなかった。
あるのは、ただ一つ。確信に満ちた冷徹な美学。

「恐れる必要はない。私は拷問者ではない。
 ただ、キミを解析し──分解し──
 “理解”したいだけだ」

淡々と。優雅に。
その語り口はまるで、詩を朗読するようだった。

「……君が何者か。
 それを知ることが、きっとこの世界のどこかを変える。
 ──そう信じてるんだ。私だけがね」

そして、最後に微笑んだ。

「さあ、観察を始めよう。
 君という“奇跡”が、どこまで私を裏切ってくれるか──楽しみだよ」

「いや……いやっ……!」
私は首を振った。
涙が頬を伝い、檻のような拘束器具にしがみつく。

「お願い……やめて……やめて……!」

懇願は、誰にも届かない。
冷たいラボの空気は、絶対に優しさを伝えない。

ロイドは何も言わずに、背後のトレイに手を伸ばした。
白い手袋越しに冷却保存された小瓶を取り上げ、
精密な手順で注射器へと移していく。
すべてが美しく、無感情な所作だった。

「大丈夫。これは神経伝達の促進剤。
 痛みは、ほとんどない。
 恐怖が感じるのは、君の側の問題だよ」

言い終えた瞬間だった。

──グラリ。

地鳴り。
鋭く軋む金属音。
ラボの照明が一斉に揺らぎ、天井の支柱が軋む。

「……ッ!」

ロイドが注射器を持ったまま、バランスを崩す。
棚が崩れ、並んでいた試験管が床に落ちて──割れた。
その中に混じっていたのは、高濃度の神経毒。

ガラスが砕ける音と同時に、空気が変わる。
鈍く、鉄のような匂い。
視界の端で、ロイドの身体が揺れた。

「……く、……ぅ……ッ」
白衣が膝をつき、注射器が床に落ちた。

そのときだった。
私の拘束器具に、緩みが走る。

ガシャン、と金属音。
奇跡のように外れたバックル。
身体が自由になった感覚に、思わず息を呑む。

──逃げられる。

その判断は、頭の奥で何度も反響した。

だが。
私の視線は、別のものに吸い寄せられていた。

……ロイドが、苦しんでいた。
床に膝をつき、静かに、しかし確実に顔を歪めている。
その呼吸は浅く、肌は青ざめ、手は震えている。

毒だ。
さっきの試験管の……。

「……ッ……は……はぁ……」
なおも立ち上がろうとする彼の姿は、
ついさっきまで私に恐怖を与えていた“支配者”のそれではなかった。

──人間だった。

「……どう、して……私……」

喉が震えた。
逃げるべきなのに、私の足は動かなかった。

今にも死にそうな男を見て、私は──
**「助けなきゃ」**と思っていた。
1/3ページ
スキ