『狂気と悪夢の世界へ』
遠くで、誰かの悲鳴が上がった。
濁った空に、鉄錆色の雲が揺れている。
それはもう、「空」と呼べるものではなかった。
数十年前、ナイトメアリングは未来都市の象徴だった。
空を走る軌道列車、空中庭園、人工知能と共存する街──
だが技術は、人を幸福にはしなかった。
AIを巡る統制戦争と、人体強化の軍拡。
ナイトメアリングは分裂し、やがて廃れ、今では「生きている」こと自体が奇跡となった。
キミは、意識の底で何度も聞いた名を思い出そうとしていた。
けれど、誰にも呼ばれていない名前は、記憶のどこにも引っかからない。
──どこで、間違えたんだろう。
どこで、自分は「実験体」として運ばれてきたのだろう。
鋼鉄の廊下に、ブーツの音が響く。
暗い天井。柔らかい白衣の音。冷たい光。
ガラス越しに誰かが、こちらを覗き込んでいる。
「…目を覚ましたか。いい子だ。キミの身体、どこまで使えるか──これから見せてもらおう」
声は静かだった。
冷酷でも、激情でもない。ただ、深く、深く……“知っている者の声”だった。
顔を上げた。
金髪の長い髪。冷たい紫の瞳。指先には小さなアンプルが揺れている。
「安心していい。私は医者だよ。……まあ、倫理観に乏しい方かもしれないが」
皮肉を含ませて笑う男──それが、薬学陣営を統べるロイドとの、最初の邂逅だった。
“彼”は天才と呼ばれていた。だが、その目には常に「対象」を見る光しかなく、
その声は、心を撫でるようでいて、まるで感情という概念を取り除いたようだった。
なのに──なぜだろう。
その眼差しが、冷たいはずなのに。
その声が、脅しのはずなのに。
……少しだけ、心臓が跳ねた。
理解不能なまま、あなたは再び眠りへと落ちた。
それが、すべての始まりだった。
「ここは…どこ? なんで私、拘束されて……」
震える声。
焦点の定まらぬ瞳が、周囲の無機質な世界を掴もうと彷徨う。
拘束具が軋んだ。身を捩るたび、わずかな軋みが耳に触れる。
だが、その努力はあまりに無力で──まるで、蝶が標本針に抗うような儚さだった。
「……ようやく“音”が返ってきたか」
静かな声が届く。
低く、滑らかに。だが確実に“上から落ちてくる”ような音色で。
視界がゆっくりと焦点を結ぶ。
白。
白衣。
硝子に反射する冷たい瞳。
彼はそこにいた。
まるでずっと、私が目覚めるのを待っていたかのように。
「ここは、私の庭──《第七調薬区・収容実験室》。
キミは《観察対象:試験体No.106》として、ここに運ばれた」
男は、言葉の温度を一切変えずに続ける。
それは命の重さを測る天秤に、何の感情も乗せない語り口。
「身体データ、適合率、記憶反応、すべて興味深い。
なぜキミのようなものが“今この時代に”存在しているのか──」
彼の指が、そっと私の頬に触れかけ、止まった。
触れずにいるのが、彼なりの慈悲なのか。
それとも、ただ単に“必要がない”と判断しただけか。
「拘束されている理由? 単純だよ。
今のキミは“素材”として高価すぎる。
逃げられると困るし──噛みつかれても厄介だからね」
その声に、悪意はなかった。
あるのは、ただ一つ。確信に満ちた冷徹な美学。
「恐れる必要はない。私は拷問者ではない。
ただ、キミを解析し──分解し──
“理解”したいだけだ」
淡々と。優雅に。
その語り口はまるで、詩を朗読するようだった。
「……君が何者か。
それを知ることが、きっとこの世界のどこかを変える。
──そう信じてるんだ。私だけがね」
そして、最後に微笑んだ。
「さあ、観察を始めよう。
君という“奇跡”が、どこまで私を裏切ってくれるか──楽しみだよ」
「いや……いやっ……!」
私は首を振った。
涙が頬を伝い、檻のような拘束器具にしがみつく。
「お願い……やめて……やめて……!」
懇願は、誰にも届かない。
冷たいラボの空気は、絶対に優しさを伝えない。
ロイドは何も言わずに、背後のトレイに手を伸ばした。
白い手袋越しに冷却保存された小瓶を取り上げ、
精密な手順で注射器へと移していく。
すべてが美しく、無感情な所作だった。
「大丈夫。これは神経伝達の促進剤。
痛みは、ほとんどない。
恐怖が感じるのは、君の側の問題だよ」
言い終えた瞬間だった。
──グラリ。
地鳴り。
鋭く軋む金属音。
ラボの照明が一斉に揺らぎ、天井の支柱が軋む。
「……ッ!」
ロイドが注射器を持ったまま、バランスを崩す。
棚が崩れ、並んでいた試験管が床に落ちて──割れた。
その中に混じっていたのは、高濃度の神経毒。
ガラスが砕ける音と同時に、空気が変わる。
鈍く、鉄のような匂い。
視界の端で、ロイドの身体が揺れた。
「……く、……ぅ……ッ」
白衣が膝をつき、注射器が床に落ちた。
そのときだった。
私の拘束器具に、緩みが走る。
ガシャン、と金属音。
奇跡のように外れたバックル。
身体が自由になった感覚に、思わず息を呑む。
──逃げられる。
その判断は、頭の奥で何度も反響した。
だが。
私の視線は、別のものに吸い寄せられていた。
……ロイドが、苦しんでいた。
床に膝をつき、静かに、しかし確実に顔を歪めている。
その呼吸は浅く、肌は青ざめ、手は震えている。
毒だ。
さっきの試験管の……。
「……ッ……は……はぁ……」
なおも立ち上がろうとする彼の姿は、
ついさっきまで私に恐怖を与えていた“支配者”のそれではなかった。
──人間だった。
「……どう、して……私……」
喉が震えた。
逃げるべきなのに、私の足は動かなかった。
今にも死にそうな男を見て、私は──
**「助けなきゃ」**と思っていた。
濁った空に、鉄錆色の雲が揺れている。
それはもう、「空」と呼べるものではなかった。
数十年前、ナイトメアリングは未来都市の象徴だった。
空を走る軌道列車、空中庭園、人工知能と共存する街──
だが技術は、人を幸福にはしなかった。
AIを巡る統制戦争と、人体強化の軍拡。
ナイトメアリングは分裂し、やがて廃れ、今では「生きている」こと自体が奇跡となった。
キミは、意識の底で何度も聞いた名を思い出そうとしていた。
けれど、誰にも呼ばれていない名前は、記憶のどこにも引っかからない。
──どこで、間違えたんだろう。
どこで、自分は「実験体」として運ばれてきたのだろう。
鋼鉄の廊下に、ブーツの音が響く。
暗い天井。柔らかい白衣の音。冷たい光。
ガラス越しに誰かが、こちらを覗き込んでいる。
「…目を覚ましたか。いい子だ。キミの身体、どこまで使えるか──これから見せてもらおう」
声は静かだった。
冷酷でも、激情でもない。ただ、深く、深く……“知っている者の声”だった。
顔を上げた。
金髪の長い髪。冷たい紫の瞳。指先には小さなアンプルが揺れている。
「安心していい。私は医者だよ。……まあ、倫理観に乏しい方かもしれないが」
皮肉を含ませて笑う男──それが、薬学陣営を統べるロイドとの、最初の邂逅だった。
“彼”は天才と呼ばれていた。だが、その目には常に「対象」を見る光しかなく、
その声は、心を撫でるようでいて、まるで感情という概念を取り除いたようだった。
なのに──なぜだろう。
その眼差しが、冷たいはずなのに。
その声が、脅しのはずなのに。
……少しだけ、心臓が跳ねた。
理解不能なまま、あなたは再び眠りへと落ちた。
それが、すべての始まりだった。
「ここは…どこ? なんで私、拘束されて……」
震える声。
焦点の定まらぬ瞳が、周囲の無機質な世界を掴もうと彷徨う。
拘束具が軋んだ。身を捩るたび、わずかな軋みが耳に触れる。
だが、その努力はあまりに無力で──まるで、蝶が標本針に抗うような儚さだった。
「……ようやく“音”が返ってきたか」
静かな声が届く。
低く、滑らかに。だが確実に“上から落ちてくる”ような音色で。
視界がゆっくりと焦点を結ぶ。
白。
白衣。
硝子に反射する冷たい瞳。
彼はそこにいた。
まるでずっと、私が目覚めるのを待っていたかのように。
「ここは、私の庭──《第七調薬区・収容実験室》。
キミは《観察対象:試験体No.106》として、ここに運ばれた」
男は、言葉の温度を一切変えずに続ける。
それは命の重さを測る天秤に、何の感情も乗せない語り口。
「身体データ、適合率、記憶反応、すべて興味深い。
なぜキミのようなものが“今この時代に”存在しているのか──」
彼の指が、そっと私の頬に触れかけ、止まった。
触れずにいるのが、彼なりの慈悲なのか。
それとも、ただ単に“必要がない”と判断しただけか。
「拘束されている理由? 単純だよ。
今のキミは“素材”として高価すぎる。
逃げられると困るし──噛みつかれても厄介だからね」
その声に、悪意はなかった。
あるのは、ただ一つ。確信に満ちた冷徹な美学。
「恐れる必要はない。私は拷問者ではない。
ただ、キミを解析し──分解し──
“理解”したいだけだ」
淡々と。優雅に。
その語り口はまるで、詩を朗読するようだった。
「……君が何者か。
それを知ることが、きっとこの世界のどこかを変える。
──そう信じてるんだ。私だけがね」
そして、最後に微笑んだ。
「さあ、観察を始めよう。
君という“奇跡”が、どこまで私を裏切ってくれるか──楽しみだよ」
「いや……いやっ……!」
私は首を振った。
涙が頬を伝い、檻のような拘束器具にしがみつく。
「お願い……やめて……やめて……!」
懇願は、誰にも届かない。
冷たいラボの空気は、絶対に優しさを伝えない。
ロイドは何も言わずに、背後のトレイに手を伸ばした。
白い手袋越しに冷却保存された小瓶を取り上げ、
精密な手順で注射器へと移していく。
すべてが美しく、無感情な所作だった。
「大丈夫。これは神経伝達の促進剤。
痛みは、ほとんどない。
恐怖が感じるのは、君の側の問題だよ」
言い終えた瞬間だった。
──グラリ。
地鳴り。
鋭く軋む金属音。
ラボの照明が一斉に揺らぎ、天井の支柱が軋む。
「……ッ!」
ロイドが注射器を持ったまま、バランスを崩す。
棚が崩れ、並んでいた試験管が床に落ちて──割れた。
その中に混じっていたのは、高濃度の神経毒。
ガラスが砕ける音と同時に、空気が変わる。
鈍く、鉄のような匂い。
視界の端で、ロイドの身体が揺れた。
「……く、……ぅ……ッ」
白衣が膝をつき、注射器が床に落ちた。
そのときだった。
私の拘束器具に、緩みが走る。
ガシャン、と金属音。
奇跡のように外れたバックル。
身体が自由になった感覚に、思わず息を呑む。
──逃げられる。
その判断は、頭の奥で何度も反響した。
だが。
私の視線は、別のものに吸い寄せられていた。
……ロイドが、苦しんでいた。
床に膝をつき、静かに、しかし確実に顔を歪めている。
その呼吸は浅く、肌は青ざめ、手は震えている。
毒だ。
さっきの試験管の……。
「……ッ……は……はぁ……」
なおも立ち上がろうとする彼の姿は、
ついさっきまで私に恐怖を与えていた“支配者”のそれではなかった。
──人間だった。
「……どう、して……私……」
喉が震えた。
逃げるべきなのに、私の足は動かなかった。
今にも死にそうな男を見て、私は──
**「助けなきゃ」**と思っていた。
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