長編「今度はあなたを」
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薄闇に染まる頃、公園の街灯に光が灯り、うっすらとした影がそこかしこに生まれる。
水色と橙色が混じる天幕を私はぼんやりと見上げていた。
汗ばむ陽気は日の入りと共に消えて、上着を羽織っていない私はぶるりと震えた。
「帰ろう………」
そう独りごちても、足は重いままで立ち上がろうとしてくれなかった。
鵺野先生はまるで逃げるように去って行ってしまった。
私はあの時、何をしてしまったのだろう。
戸惑いと驚きに満ちた彼の表情を再び思い浮かべるが、そこだけ思い出しても分かるものは何もない。
確かなのは、この胸に生まれた喪失感だけだった。
嫌われてしまったのだろうか。
鵺野先生の鬼の手に触れたら、昔の記憶が一気に蘇ってきて。まるで強制的に再生ボタンを押されて流れてきたのだ。
その間………私は何かを話したのではないだろうか。鵺野先生と私が同じ小学校にいたことが決定的に分かる何かを。
誹られ続けた鵺野先生に何もできなかった私のを知ってしまったのではないか。
だから、拒むような彼の背中が怖かった。
それでも。
それでも私は追いかけて確かめるべきだった。
でも鵺野先生も何故私が突然眠ったなんて嘘を付いたのだろう。
しかし聞いたところで彼は何て答えるのだろうか。
やっぱり確かめるのは怖い。
彼に私を思い出してほしかったのではなかったか。
彼が思い出したとき、思いを告げようと思っていたのではなかったのか。
だけど実際にその時が訪れようとすれば、それはとんでもない事だと今更ながら気がつく。
弱虫で裏切り者の私を知ることになるのだから。
「……そうやってぐたぐた、ぐだぐた」
結局、問題を先送りにしているのだ。
傍観者であった私を知ってほしくなかった。
弱虫な私を思い出してほしくなかった。
私のことを思い出さなかった彼に、安堵もしていたのだ。
でも、胸に灯った炎がそれではダメだと言う。
気がついてほしい。
思い出してほしい。
私を知ってほしい。
貴方を想っていたのは美奈子先生だけではなかったのだと知ってほしかった。
でも、私は貴方を助けられなかった。
「………わがまますぎ」
自嘲がひんやりとした春の夕暮れに溶けていく。
もういい加減帰ろう。
重い腰を上げて、立ち上がったものの一歩を踏み出せず、目の前の池をただ眺めていた。
足こぎボートは営業時間を過ぎて、桟橋付近に並べられているし、水鳥の群れもどこかに隠れてしまっている。
賑わっていた公園内は、今は虫たちの鳴き声が響き渡っていた。
「………道明先生?」
背後からの声に、私はすぐに振り向けなかった。
「……道明……先生……なぜ……ここに?」
声と足音が近づく。
観念して振り向けば、目を丸くした鵺野先生が直ぐ近くに立っていた。
ベンチ越しで黙って見つめ合う私達だったけれど、私が先に沈黙を破ったのだった。
「鵺野先生こそ」
笑って言うつもりだった。
でも、頰も声も笑うことに失敗してしまった。
「帰ったんじゃなかったんですか?」
鵺野先生はじっと私を見つめている。
力強くて、何かを覚悟したような瞳で見つめてくる鵺野先生は凜としていて、とてもカッコいい。
「道明先生………実は………」
低くて、それでいて澄んだ声は、私の芯に触れてくるようだった。
開いた口は再び固く結ばれたけれど、鵺野先生は頷いた後、大きく息を吸った。
「確かめたいことが…!」
「迷われたんですよね?」
私は彼の言葉を遮った。
放った言葉は、付加疑問という皮を被った押しつけだった。
臆病者の私は、こんな時にとても勇敢になる。
いや、こんな時にしか勇気を奮えない。
にっこりと微笑み、鵺野先生に餌付けをする何かと面倒見の良い道明先生を瞬時に作りあげたのだ。
鵺野先生は、目も口もOの字にして立ち尽くしている。
「駅とは真逆の方に進まれていましたし」
「え……あ………その………」
「すみません。直ぐに指摘すれば良かったんですが、あまりにも自信満々に進まれていましたから………だから、待っていたんです」
小首を傾げて微笑めば、どこか拍子抜けした様子の鵺野先生がいた。
「良かった。お会いできて」
「あ、あはは………」
鵺野先生は笑う。
徐々に大きく大袈裟に。
「いやぁ、すみません!……その通りで、迷ってしまったんですよ!!あっはははは!」
勢いよく頭を掻く鵺野先生に、私も笑ってみせた。
「駅までお送りします」
「お願いします」
こういうとき大人は便利なもので、駅に辿り着くまでの会話は他愛のないもので終わってしまった。
鵺野先生も私も、あの事を確かめることはしなかった。
そして、ゴールデンウィーク中に再び会う約束もしなかった。
「では」
「……はい!」
改札を抜けて鵺野先生はホームに続く階段を昇っていく。
けれども、彼は階段の半ばで立ち止まってこちらを振り返った。
その表情は痛みを堪えているような、胸を締め付けるような切ない表情をしていて、私を揺さぶってきた。
でも。
「お疲れ様です」
とびきりの笑みを作り、鵺野先生に小さく手を振った。
鵺野先生もにっかりと笑って手を振り返し、そして再び階段を昇りだしたのだった。