長編「今度はあなたを」
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「道明先生、お怪我は!?」
生徒達が帰ると、鵺野先生の顔は厳しいものになる。
「私は何とも。それより先生こそ!救急車を呼びますから!」
ひとまず応急措置をするべく、私は先生を職員室へ連れて行こうと、負傷していない方の腕を引いた。
「あ……いえ………俺は!」
真っ赤になっている鵺野先生など構わず、私は職員用の昇降口へと引っ張った。
職員室で私の隣の席に座らせ、救急箱を取り出す前に救急車を呼ぼうとしたら止められてしまった。
「なんてったって地獄先生は不死身ですから」
鬼の力を宿したことにより、彼の回復速度は異常に早いとのことだった。確かに額に付いた血をガーゼで拭き取れば、額の切り傷は既に止血していた。肩の傷からの出血も止まっている。
改めて鵺野先生との隔たりを感じた。
「染みます?」
額の傷口を消毒すれば、鵺野先生の太い眉がぴくりとした。
「平気です」
形の良い瞳は閉じられている。
目を閉じた鵺野先生をこんな風にまじまじとみるのは初めてで、ついでに観察してしまう。
睫毛が案外長いこと。
妬けてしまうほど肌がスベスベしていること。
かなり、カッコいいこと。
男前になったなぁ。
傷口にガーゼを当て、テープで固定しながら時の流れを感じていた。
「もう目を開けても良いですよ」
そう言うとパチリと目を開ける鵺野先生。
鬼の手を封印している今、その瞳は、あの時のままの焦げ茶の虹彩。
まだテープの固定が終わっていなかったから、至近距離で見ることになった。
鵺野先生はみるみる紅くなり、その焦げ茶の瞳は下を向いてしまった。
「まだお仕事されていたんですね」
鵺野先生は私の机の上を見たらしい。
「仰っていただけたら手伝いましたのに」
「採点だけしたら帰るつもりでしたよ」
テープをハサミで切って固定し終えた。
「あとは、肩の傷も消毒しないとですね。シャツと下着、脱いでいただけますか?」
「………へ?!」
素っ頓狂な声をあげる鵺野先生に、私はもう一度繰り返すも、彼は固まったまま動かなかった。
「じゃあ、脱がせちゃいますよ?」
そう言ってボタンに手を掛けようとすれば、鵺野先生は真っ赤になって慌てる。
「ななななにをなさるんですか?!」
慌てる鵺野先生が不思議で堪らなかった。
「何って消毒ですよ」
「そこまでしなくて大丈夫です!いつものことですから!」
「駄目ですよ!雑菌が入ったら大変でしょう?!いくら頑丈だからって、何もしないのはだめです!ほらほら脱いでください」
そう言うと、鵺野先生は明らかに落ち込んだ様子で溜息を付いた。
「分かりました。脱ぎます、脱ぎます。脱ぎますよ」
鵺野先生はシャツのボタンを二つほど外したかと思えば、下着ごとTシャツのようにめくり上げて脱いだ。
肩を勢いよく上げたからか、痛みで顔を僅かに歪めていた。
鍛えぬかれた上半身が顕わになる。
体育教師という枠を超えた、逞しい肉体。
そして、左肩の裂傷に私は気が遠のきそうになった。
「絶対病院行くべきですよこれ」
「明日には塞がってるから大丈夫です。それに、道明先生が手当をしてくれるんですよね?」
得意気に左手でピースを決める鵺野先生に、この位の怪我は日常茶飯事であることが分かり、私は呆れるしかなかった。
黒い手袋のピースサインを見て、鵺野先生はいつから鬼の手になったのだろうと思った。
小学生の時は鵺野くんの左手は人間の手であった。
数々の妖怪と闘った末のものなのだろう。
いつか聞くことにしようと思い、私は手当に専念しなければ。
「道明先生……いったたた!」
消毒するときとタイミングが重なってしまい、鵺野先生は顔を顰めた。
本当は痛いでは済まないレベルだと思う。
「巻き込んでしまって、申し訳ございませんでした………」
改めて頭を下げる鵺野先生に私はポカンとしてしまった。
今日のことは、確かにきっかけは鵺野先生のクラスの子ども達が引き起こした事件ではある。
しかし、広くん達が学校に忍び込まないで、私一人でいたらどうなっていたのだろうか。
あの妖怪は現れたのだろうか。
「謝らないでください。もしかしたら、私一人でいたらもっと大変なことになっていたかもしれません」
鵺野先生の肩に包帯を巻く。
軽く肩に触れたとき、鵺野先生は私を見たけれど、何故かふいと視線を逸らされてしまった。
昼休みのことを再び思い出す。
「私こそ、先生に謝らなくちゃいけなくて」
「俺に?」
鵺野先生は首を傾げた。
「お昼休みのこと」
そう言うと、鵺野先生は前のめりで私の話を聞く。
「昼休み…!」
急に近くなった鵺野先生にたじろぎながらも私は続けた。これでは包帯が巻きづらい。
「鵺野先生の方が、子ども達のことをよく知っていて。私より芳男くんと仲が良くて……それが腹立たしくてつい、先生に素っ気ない態度を」
この事を鵺野先生に話すのが恥ずかしかった。
私は包帯を巻くことに意識を向けながら、口の勢いに任せてぺらぺらと話す。
「相談に乗っていただいたにも関わらず、私……鵺野先生にヤキモチ焼いていたんです」
ガターン!
鵺野先生は派手に椅子から転げ落ちていた。
包帯が台無しだ。
手に持っていた包帯が引っ張られて辛い。
「ヤキモチ……俺に。……あ、そう………」
何故、先生は泣きそうなのか。
しかし椅子に這い上るようにして座った時の鵺野先生は、柔らかな笑みを浮かべていた。
「俺だって、そうですよ」
今度は私が首を傾げた。
「さっきの、まこととの話。まことが鉄棒を頑張るなんて…」
「鵺野先生、聞こえてたんですか?」
「えぇ。地獄先生は地獄耳ですから!」
高笑いする鵺野先生をよそに、まことくんの言葉が蘇る。
『僕、お休みの時も鉄棒の練習、してみるのだ』
『朱美先生のおかげなのだ。無理しないでいいって言われて、嫌いな鉄棒が、少しだけ苦手になれたのだ』
その時、私ははっとする。
彼のその後の言葉を思い出したのだ。
『朱美先生は他の人とデートするの?』
『だって、午後の授業、ぬ~べ~はずっとぼーっとしてたのだ』
午後の授業中に教室から見えた、鵺野先生の背中が蘇る。
『お昼休みに朱美先生をデートに誘うって、給食の時間に大きな独り言を言っていたのだ』
まさか、鵺野先生は………。
私を。
いや、そんなばかな。
けれども人間とはやっかいなもので、余計なことまで思い出させる。
夕陽の中、私にアドバイスをしてくれた先生の微笑みがとても優しかったこと。
鬼の手で妖怪と対峙する鵺野先生の勇ましい姿。紅い瞳の妖艶さ。
化け物から逃げるとき、目が合ったときの僅かな微笑み。
子ども達に本気で怒る鵺野先生の真剣な表情。
胸が、高鳴る。
本当は、ゴールデンウィークの予定なんて無いことを言うつもりだったのに、口から出ようとしない。
リツコ先生のストーカー幽霊を成仏した夜に、大幽霊展へと誘ったときには、一切の躊躇いが無かった。
その時には無くて。
今生まれてしまった下心。
頬が熱い。
「道明先生?大丈夫ですか?」
今さっき、鵺野先生を脱がせようとしていた私が猛烈に恥ずかしい。
というか、今、鵺野先生は上半身裸だ。
「あ………いえ、はい。大丈夫………」
今さっきまで、この体に触れながら包帯を巻いていた私が、何とも羨ましくも呆れてしまう。
「も、もう一度、巻きますから………じっとされててくださいね」
「すみません」
照れ笑いをする鵺野先生を見られない。
平静を装い、私は再び包帯を巻く。
装うだけで、心の中は騒がしいことこの上なかった。ついでに息も止めている。
なるべく体を見ないように、触れないように、目を合わせないように包帯を巻く…………なんてことは出来ないので、これは大学時代の復習だと私は何度も言い聞かせながら巻いた。
「………できました………!」
慌てて救急箱を閉じたとき、指を挟んでしまった。
「いった………」
「ええ?!」
私の突然のドジに、破けてしまったシャツのを着終えた鵺野先生は黒のネクタイを締めながら、驚いてこちらを見ていた。
顔の体温が更に上がっていくのを感じながら、私は救急を棚にしまう。
「あの……道明先生」
おずおずと尋ねる鵺野先生に、私は振り向いた。
先生は立ち上がり、改まった様子で私を見ていた。
芽生えた気持ちに支配されれば、鵺野先生の全てが、私の心臓を刺激してくる。
声が心地良く低くてよく響くこと。
顔が整っていること。
背が高いこと。
友達になろうと決めたばかりではなかったか。
確かに鵺野先生、いや、鵺野くんは私の初恋相手だ。
それはそれで決着を付けたはずではなかったか。
またこうして鵺野先生に恋に落ちてしまったというのか。
「お休みの前なのに、……改めて申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げられる。
「だ、大丈夫!大丈夫ですよ。特にこれといった予定も、ない!ないですし」
「道明先生?」
恋とはこんなにも面倒なものだったのか。
まともに言葉を紡げなくなるくらい。
それこそ高校、大学時代。
好きだった人はいた。
けれどもこんなにも気持ちに振り回されるものであっただろうかと思い返すも、その時に感じたときめきとは全く異なるものだった。
鵺野先生は困惑気味だ。
「あの、あの!……昼休みの時っ……お答えできなかったんですけど…」
落ち着け……五分前の自分に戻るのだ。
例え鵺野先生の顔が目の前にあっても、何でもなかった頃の私に、戻るのだ。
「何も、予定は、無い、から………どこか……」
話は人の目を見て、最後まではっきり言え。
尻すぼみになってしまった。
情けなくも自分のスニーカーの爪先を見つめていた。
私も暇ですよ。どこか行きましょう。
そう言うつもりだったのに。
鵺野先生からの言葉は無い。
気になって視線を上げれば
「………本当?」
先生は少年のように目を輝かせていた。
「はい!」
曇り空から光が差すように、先生はみるみる笑顔になっていくから、私もつられて笑顔になる。
「どこか、行きませんか?!」
きちんと、先生の目を見てはっきりと言えた。
「勿論!」
目を輝かせながら頷く鵺野先生。
しかし私は慌てて首を振った。数秒前に、どこか行きませんか?と誘ったくせにだ。
「って、やっぱりだめです!鵺野先生、怪我されているじゃないですか!!」
「こんなの全然!怪我の内に入りません!ほーらほらほら!」
鵺野先生は負傷した肩を回す。
が、やはり痛んだらしい。
「ぎゃあああ!」
なんとも悲痛な叫びを上げる。
いわんこっちゃない。しかし本当に痛いならば患部を激しく動かそうとしないだろう。鵺野先生的に本当に大したことはない……のかもしれない。
「ほら…無理しちゃだめですよ」
「無理しますよ!だって道明先生と!…………」
私と。
沈黙が二人を包む。
鵺野先生は真っ赤になったまま動かないし喋らない。
私もそんな鵺野先生に見つめられて同じように顔が熱くなってしまった。
この空気を変えたくて、私は頷いた。
私の瞳の中に真っ赤な鵺野先生がいるように、鵺野先生の瞳の中に真っ赤になった私が映っているのがいたたまれないのだ。
「………分かりました。鵺野先生はどこに行きたいですか?」
鵺野先生の顔がぱっと明るくなる。
「たくさんあるんです!真夜中に車で通ると手形がいっぱい付くといわれる童守トンネル、童守小裏の雑木林の中にある古井戸、墓場近くに建てられて人魂を見ながら楽しむレストラン………それにそれに」
心霊オタク。
ある日、美樹ちゃんが鵺野先生のことをそんな風に言っていた。鵺野先生本人もそう言っていた気がする。
さすが自他共に認める心霊オタクである。
「って、そこ行ってまた除霊とかするんですか?!」
「あ?え?………ええ、そうです」
「また怪我しちゃったらどうするんですか?!肩だって満足に動かせないのに!それにレストラン!鵺野先生は金欠なのでは?!」
突っ込み所はそこではないことは知っているが、彼の怪我の具合を第一に考えた言葉である。
では鵺野先生の怪我が無かったら行きたいかと言われれば………勘弁願いたい………。しかし、きっと鵺野先生はうきうきしながらそこへ足を運ぶのだろうし、除霊する鵺野先生の姿を見てみたい気もした。
だが、連休全てをそのような事に費やされるのは御免被りたい。
「そ………そうでした……………」
肩を落とす鵺野先生。
目には涙さえ浮かべていた。
「あーあ、どうせまた一人寂しくカップラーメンを啜りながら、連休を過ごすことになるのか」
車輪付きの椅子の上で体育座りをしながら、くるくると回る鵺野先生はなんともシュールだ。
「誘う場所も心霊スポットばかり…かと言って金も無いから気の利いた場所にも行けない……」
鵺野先生は落ち込み出すと止まらないのだろうか。
膝を抱えている鵺野先生は、失礼だけれど可愛いと思ってしまい、思わず笑ってしまった。
何とかしてあげたい。
この学校に赴任して、鵺野先生に再び会って思ったことだった。
胸の騒ぎも収まった事だ。今頭に浮かんだアイディアを勢いに任せて言ってしまおう。
「じゃあ、こうしましょう」
「はい?」
上目遣いで私を見る鵺野先生に、私は微笑みかける。
「鵺野先生の怪我が早く治るように、私が鵺野先生の家にお邪魔します」
ガタン!
鵺野先生は膝を抱えたまま、椅子から横に転がり落ちた。
「先生?!」
「はあ~~」
体育座りで床に落ちたままの鵺野先生は、溜息を付きながら涙を流していた。
「鵺野先生?どうされました……?」
「どうもこうもないですよ。仰った意味、分かってますか?!」
「だって………その傷じゃあ洗濯もご飯も大変じゃないですか………」
意味が分からないはずない。
いつまでも起き上がらない鵺野先生を起こさせるべく手を差し伸べた。
「家で好きな映画を観たり、本を読んだりしてまったり過ごしません?」
沈痛な面持ちで私の手を掴み、鵺野先生はのっそりと起き上がる。
鵺野先生の温かい右手に、私の心臓は大きく跳ねた。
「早く帰りましょう」
「……へ~い……」
一人暮らしの男性の家に行くということくらい、どんな意味かは分かってる。
でも、分かった上で、下心が無いフリをして、そして鵺野先生を信用して行くのだ。
この気持ちを自覚した瞬間、リツコ先生をストーカーしていた霊や、屋台のおじさんの意味深な仕草を思い出した。
きっと私は知らず知らず鵺野先生に惹かれていたのだろう。
でもこの気持ちはまだ隠しておきたい。
いつか鵺野先生が思い出してくれたら、私の気持ちを告げよう。
その時まではこのままで。
面倒見の良い同期として、
傍にいたい。
「何食べたいか、リクエストあります?」
「肉………」
「鵺野先生、嬉しくなさそうですね」
「繊細な男心を理解しない道明先生のせいですよ」
「えー?!」
期待させるような言葉を言う鵺野先生に、もしかして、と胸が弾む。
職員室の電気を消して、鍵を閉めて、二人で緑と赤の不気味な廊下を歩く。
一人では怖かったこの廊下も、鵺野先生となら怖くない。
「道明先生………」
昇降口の前で鵺野先生はとても真剣な顔で話しかけてきた。
何だろうと、黙って先生を見れば、彼は真顔のまま涙を流すから驚いた。
「どうしたんですか?!」
「俺の部屋、汚いうえに…テレビありません」
「えええ……」
それは予想外だ。
「えーと………じゃあ、私、プレイヤーを持ってきますよ」
「すみません………」
涙を流す鵺野先生だったが、ふと、後ろを振り返った。その顔は、凛々しい地獄先生の顔だった。
何かが「居る」のだろうか。
「どうされました?」
「………いえ」
鵺野先生は靴をスチール製の下駄箱から取り出しながら首を振る。
「ただの浮遊霊が居ただけです。放っておきましょう」
にこやかにとんでもないことを言う先生に、私は呆気にとられた。
「あの道明先生…確認ですが来るのは明日からですよね?」
「ええ、はい」
「泊まりじゃないですよね?」
「泊まりがいいですか?」
「いいわけないでしょう!!」
先生の悲痛な叫びが木霊する。
全くもう、と独りごちる鵺野先生に、期待をしてしまってもいいのだろうか。
「映画は何がいいですか?ホラーですか?パニック映画ですか?」
「道明先生はそういう類の映画は平気なんですか?」
「………一人じゃなければ………」
「じゃあ思いきり怖い映画にしましょう」
ニヤリと意地悪な笑みを浮かべる鵺野先生。
怖い映画は嫌だけれど、明日からが楽しみで仕方がない。
「気を遣ってそんなに片付けなくて良いですよ?怪我もありますし」
「いや、片付けしないと招けない程なので」
「じゃあ私の家に来ます?」
「………結構です!!」
顔を真っ赤して怒鳴る鵺野先生に、私は声をあげて笑った。
校庭を出て施錠して、校舎を見れば、先程までの騒ぎが嘘のように薄ぼんやりと佇んでいた。
人が完全にいなくなった学校は今、人体模型や骨格標本や音楽家の肖像画達は、連休を前にはしゃぎ回っているのだろうか。
その姿を想像してみれば、くすりと笑みが漏れたのだった。