始まりのいろは
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それは朝食を終え、自室に戻ったときのこと。
「半助、ニヤニヤしおって。何を見ている」
「山田先生。………すみません、つい」
「ん………?あぁ、なるほど」
「………お恥ずかしい」
「ま。伊瀬階君にバレんようにな」
「気を付けます」
なんて会話が隣で繰り広げているのを聞いてしまったから、気になって仕方がない。
こんな時、隣室なのが辛い。
半助さんは一体、何故ニヤニヤしていたのだろう。
山田先生の反応から察するに、半助さんは何かを見てニヤニヤしていたに違いない。
そしてそんな半助さんに、「バレんように」と言って、半助さんは「気を付けます」と。
ドクリと心臓が嫌な音を奏でた。
誰にバレないようになのだろう。
心なしかその時の山田先生は声を潜めていた気がする………つまり、隣室の私、則ち半助さんの恋人である私にバレないように、ということだろうか。
恋人にバレずにニヤニヤするもの………それって………イヤラシイ読み物だろうか。
という推理は、飛躍しすぎているだろうか。
というか朝っぱらに、山田先生もいるというのにそんな物を読むだろうか。
だからこそ何を見ていたのか気になって気になって、今は正門の掃き掃除どころではない。
今日は風もない日だ。
大方綺麗にしたし、葉っぱも落ちてこないだろう。
手早く箒とちりとりをしまい、いけないと知りつつも教員長屋へと私は駆け出したのだった。
そう。これはお掃除だ。
だから何食わぬ顔で入ってしまえばいい。
今日の一年は組は、山田先生と半助さん揃っての裏裏山での校外演習。その隙に部屋に忍び込んで………いや、その合間にお部屋にお邪魔してお掃除をするのだ。
「失礼します」
誰もいないのは分かりきっているくせに、声をかけたのは後ろめたさ故か。
そして間抜けにも声が裏返ってしまった。
後ろ手で戸を閉めるが、緊張で指が震えてしまう。
私は中に入るなり見回して目的のものを探す。
といっても、それが何なのか突き止めるために侵入したのだから、何を探せばいいのか分からない。
とりあえずこの戸棚とかを開ければ何か分かるかもしれない。
山田先生、半助さん、申し訳ありません。
でもここは忍者の学校。カンニングだってバレなければ許される。
だから、先生の部屋に上手く忍び込めて、秘密の物を見つけることができたら、お咎めなしなわけで。
「こら!」
「ひっ」
怒声と共に戸が音を立てて開け放たれた。
その怒声は紛れもない半助さんのものだ。
振り返ればやっぱり半助さんがいて。
その表情は眉は釣り上がり、大きな瞳はもっと大きく見開かれていて……まるで一年は組の皆を叱るような調子だった。
「はん、すけ…さん………」
「何をしているんだ!何故、ここにいるんだ!」
いつもより低い声の半助さんは怖い。
乱暴に戸を閉めて、どすどすと忍びらしからぬ足音を立てて部屋に入り、私に詰め寄る。
「掃除は頼んでいないはずだが?」
ドン、と音を立てて半助さんの両の手が壁につき、私は閉じ込められる。
ギロリと鋭い視線で見下ろされ、私は身を固くする。
「あの…………」
「ここで何をしていたんだ?」
「半助さんこそ………」
「まずは私の質問に答える!」
鋭い調子で言葉を遮ぎられた。その言い方は、恋人としてではなく、職員としてのものだった。
「申し訳、ありませ…」
「何故部屋に入ったのかと聞いているんだが」
こつりと半助さんの額が私の額に当てられた。
低くかすれた声で囁かれ、場違いにも胸はドキドキしてしまう。
壁ドンといい、顔の距離がやたら近いし、半助さんの態度は正しく恋人としてのそれだった。
整った顔立ちが目の前にあり、私は目を逸らしてしまうが、顎を摘まれ直されてしまう。
「ちゃんと目を見て答える」
「………っ。朝…………」
私が答えようとすれば、半助さんは身を離した。
「あ…」
それが少し残念で恨みがましく半助さんを睨めば、察したらしい半助さんは「こら」と、頬を摘んできた。
そうして私は朝に聞こえてしまった山田先生と半助さんの会話を話せば、「全く」と盛大にため息をつかれてしまった。
「気になって仕方がなくて………いけないと頭では分かっていても…どうしても知りたくて」
半助さんは小さなため息を付いた。
「掃除をほっぽり出してまでかい?君らしくない」
「いえ、正門前はちゃんと掃除しました」
「…あそ……」
私は頭を下げる。
「無断で入って、大変申し訳ありません………」
「全くだよ。それほど知りたかったなら何故直接聞いてこなかったんだ」
「………」
それは………勝手にいやらしいものだと決めつけてしまったわけで。
私の沈黙から全てを察したらしい半助さんはまたしても溜息をついた。
「信用されてないなぁ」
「そういうわけでは」
「第一、何で山田先生がいらっしゃる時にそんなものを見なくてはならんのだ」
「それはそうなんですけど…………じゃあ、山田先生がいらっしゃらなかったら」
「見るわけないだろう!それに、そんな物持ってない!」
「いたっ!」
鋭い痛みが額に走る。
半助さんがデコピンしたのだ。
「もういい。元々、忘れ物を取りに来ただけだったんだ。そろそろ行くよ」
そう言って半助さんは私が開けようとしていた戸棚を乱暴に開き、一本の巻物を掴み、懐に入れる。
一つ一つの所作が荒々しく、半助さんが怒っているのは明らかだ。
ぴしゃりと戸棚を閉める音が、私の目を醒まさせ、自分の行為の愚かしさの重みが徐々に増してくる。
朝の二人の会話を聞いてから、まるで何かに取り憑かれたかのように周りが見えていなかった。
知りたくて知りたくて仕方がなくて、理性を失い、浅ましい真似をしてしまったのだ。
「半助さん………申し訳…」
「見ていたのは、これだよ」
一枚の紙が目の前に差し出された。
巻物と一緒に取り出していたのだろうか。
「本当は、朱美が聞きに来るんじゃないかって思っていたんだ。まさか忍び込まれるとは思ってなかったけど」
その紙には、たどたどしい文字がびっしりと書かれていた。
「忍者をなめてもらっちゃ困る。山田先生だって、私だって、君が隣で耳をそばだてていた事くらいお見通しだ」
何が書いてあるのか直ぐに読めなかったのは、これを書いた人物が墨の扱いが慣れていないからだろう。隣の行の文字とくっ付いているのもあるし、墨の量を含み間違えて滲んでしまっている字もあった。
「まさか、そんな想像をしていたなんて思わなかったけどね」
紙には、なんとも歪な文字でいろは歌が書かれていたことが分かった。
その文字に見覚えがある。
いや、書いた覚えがある、だ。
つんと鼻の奥が痛む。
懐かしさに思わず手にとってまじまじと見つめてしまう。
「この間、教員宛の君が書いた事務連絡が来て………嬉しくなったんだ…。朱美の成長を感じられて」
受験勉強やら、大学の奨学金やら、学費のためのバイトやらと考えていたなかで、突然、この世界にやってきて。
忍術学園の事務員兼食堂のおばちゃんのお手伝いなんて奇妙な肩書を貰って。
大学受験どころか、この時代の読み書きを覚えなくてはいけないことに途方に暮れて。
学園長との手習いは散々で……。
半助さんは忙しいのに、私の手習いを引き受けてくださった。
「どれほど上達したのかいつか見せてあげようと思って、とっておいたんだ…」
「半助さ………ん」
「懸命に練習する君が愛しかった」
とめ、跳ね、払いもろくに出来ていないから、本当に手習いを始めたばかりの頃なのだろう。
「緊張気味に『できました』と提出する朱美を今でも覚えているよ」
春風の暖かさと墨の香りと、向かいに座る半助さんのハネた前髪と、彼の書く流麗な文字を見た感動をどうして忘れることができよう。
ただでさえ下手な文字なのに、視界が歪んでもっと下手に見えた。
瞬けば、瞳を覆っていた涙が零れて頬を伝った。
「………ごめんなさい」
疑いに満ちた曇った目で彼を見ていた自分が猛烈に恥ずかしかった。
「安心した?」
小さな痛みが頬を走る。
半助さんが私の片頬を摘んだのだ。
「半助さん、痛い」
「だって。君が分かってないから」
何を、と尋ねる前に半助さんはくすくす笑って両手で私の頬を引っ張り始めた。
「毎晩毎晩君を愛しているのに。何故疑うんだ」
ジト目で睨みながら縦横と好き放題に私の頬を引っ張る半助さんが恨めしい。
「いたぃ………えす……はなひへふははい」
「やだ」
意地悪な言葉で返す半助さんの顔は優しい笑顔だった。
泣き顔で頬を引っ張られて、私は今、物凄く情けない顔をしているのに、ずるい。
「もっともっと分からせる必要があるようだ」
「そんなことは………して欲しいですけど」
「正直になったなぁ」
半助さんは声を上げて笑う。
でも手は離してくれなかった。
「そろそろ離していただけませんか?」
「んー、そうだなぁ」
首を傾げて唸ってわざとらしく悩む半助さんに私は笑ってしまった。
その途端、半助さんの手は私の頬を離す。
じんじんと嫌な余韻が頬に残った。
「もう」
「もっと君のほっぺを堪能したいけど、この辺にしておくよ」
半助さんのほっぺこそハンペンみたいにもちもちしているくせに。
と言ったら本当に痛く頬を抓られそうだからやめておく。
「じゃあ。そろそろ行くよ」
「はい」
触れるだけの口づけをして、微笑みあえば、切なさと愛しさが胸に残る。
「それで………この紙なんですが」
見れば見るほどお粗末な文字だ。
今も綺麗な文字では無いけれど………。
こんな文字で半助さんのお手伝いができればと思っていた当時の自分を殴りたい。
「捨てていいですか?」
「何を言ってるんだ!!!」
物凄い剣幕で怒鳴る半助さんに私は仰反る。
「やはり君に見せるんじゃなかった………全くもう」
「だって、恥ずかしいですし」
「私にとっては物凄く大切なものなんだ」
そう言って、手習いの紙を私からそっと奪い、大切そうに畳んで懐に仕舞う。
「私の手習いの紙ですよ。私のものです」
「それならあの時の私の筆も返してもらおう」
「え」
あの時の半助さんの筆。
別れる前に頂いた半助さんがよく使っていた筆の事だ。
それとこれとは違くないですか!?
そう言いたかったけれど、言葉を発することは出来なかった。
半助さんの唇が私の口を塞いだからだ。
深く、確かめるようなキス。
それを終えた半助さんの瞳はギラついていて、私の胸はこれ以上ない位高鳴っている。
ぼうっと間抜けな顔で半助さんを見上げていれば、彼はくすりと笑い、そして颯爽と部屋から出ていったのだった。