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夕食時まで学園長の庵でたっぷりと私の世界の話をした。
写真を見せれば学園長もヘムヘムも大はしゃぎしていて、質問が途切れることは無かった。
写真からインスパイアされて、突然の思いつきをされやしないかヒヤヒヤしたもののそんな事はなかった………とりあえず今は。
夕食の手伝いをさっそくしようとしたが、学園長から「まだ雇用契約が済んどらんじゃろう」と、教員長屋で少し休むように言われた。
この時代に雇用契約なんて概念があるのか首を捻る。でもアルバイトやフリーの忍者とかいう概念がある世界だから不思議ではない。
「朱美ちゃんの部屋はあの部屋じゃよ」
茶目っ気たっぷりのウィンクをされ、私は曖昧な笑みを浮かべて庵を後にした。
食堂のお手伝いもしたいけれど、登山によりクタクタで、少し休みたかったのが本音だ。
だが、あの部屋ということは隣には半助さんがいる。
1年は組は、今、実技の時間である。
きっと私がどんなに足音を殺しても彼は察するだろう。
部屋に着いて、もしも半助さんから声をかけられなかったら。
または「こんにちは伊瀬階さん」なんて他人行儀に挨拶されたら。
半助さんは静かに怒っている………のだろうか。
でも何故?
家族を捨ててきてしまった事に?
それとも、私が必ず戻れると知っていたことを彼に打ち明けなかったから?
分からない……でも。
だから何だというのだ。
私は必ず帰ってくると言ったではないか。
そして貴方が必要なのだとも。
それなのに半助さんは「さようなら」と言った。
忍術学園の正門前に飛ばされた私の手に何故か握られていた懐中時計。
あの異世界転生装置と、学園長のブロマイドはどこを見渡しても無かった。
廊下を歩きながら、今の格好には似合わないトレッキング用のリュックのサイドポケットから懐中時計を再び取り出す。
時計の針は無くなり、文字盤のみとなり、時計としての役割を果たしていない。
しかし、その懐中時計の様こそ、元の世界に二度と戻れないような気にさせた。
気が付けば教員長屋まで辿り着いていた。
「私の部屋」までもう少し。
そこで私の考えは暗い方へ傾く。
「さよなら」が、彼にとって決別の言葉だったとしたら。
私と別れてから、もう私のことなど好きでは無くなっていたとしたら。
だからあんな貼り付けたような笑みを見せていたのだろうか?
好きでも無い女がまた戻ってきて、反応に困っていたのではないか?
むしろ他に好きな人ができたりとか、隣のおばちゃんの勧めで誰かを紹介されて、結婚相手が決まっていたりして…。
あの陽だまりのような笑顔が他の女の人に向けられているのを想像すれば、苦しさに胸の奥を掻きむしりたくなる。
だが、それならばきり丸の態度に何某かの変化が見られるはずである。
三郎次くんだって、皆だって、おせっかいにも半助さんと私とを引き合わせようとしていたではないか。
分からないまま、とうとう私の部屋の前に辿り着いてしまった。
どうしよう。
隣の部屋に挨拶に行くべきか。
それともこのまま私の部屋に入るべきか。
戸に手を掛けたまま私は固まる。
ああ、こんな事、前にもあったな。
利吉さんと初めて会って、従兄のことを思い出した私を半助さんがすごく心配してくれて。
懐かしさに胸に甘苦さが広がる。
その時、隣の部屋の戸が開く。
私はびくりと大袈裟なほど体が跳ねてしまった。
パチリと彼と目が合った。
戸から顔を出した彼は部屋の前でずっと立っている私を不思議そうに見ていた。
「どうされました?伊瀬階さん」
「半助さん……」
私がそう呼んだら困ったように笑いながら彼は首を傾けた。
「お疲れでしょう。ゆっくり休んでください」
それは優しくて素敵な、けれども、一枚隔てたような笑顔。
まるで他人に愛想良く接しているかのような、そんな態度だ。
優しい笑顔をもう見せてはくれないのだろうか。
喉がひりついてきて、指先が痺れてくる。
彼は尚も微笑みを崩さない。
「は、い…」
掠れた声で返事をして、私は部屋に入った。
懐かしい、大切な思い出が詰まった部屋。
部屋の隅に置かれた机の上に、学園長のガールフレンドさんと、ゆきちゃん達からいただいた小袖と忍び装束。
そしてこれは学園長からのあてつけか。
ヘムヘムが先回りして仕方なく置いたのだろうか、学園長のブロマイドの束。
笑いたい筈なのに、頬が引き攣って笑えない。
今は心の中に張られた薄氷が割れないように均衡を保つことで精一杯だ。
こんな気持ちを味わうために、この世界に帰ってきたわけじゃないのに。
この部屋で、半助さんと最後に……。
その時の思い出が蘇ったのをきっかけに私は堰を切ったように泣き出した。
泣いたってどうにもならないのに、喉が震えて嗚咽が止まらない。
袖で口元を押さえても出てきてしまう。
握り締めていた懐中時計は私の体温により生温かった。
「伊瀬階さん……?」
戸の外から、土井先生の声がした。
相変わらず優しい声だった。
返事をしない私を不思議に思い、尚も声をかける彼が憎らしくてたまらなかった。
こんなに泣いてしまっては、平然とした声など発することなどできない。
無視を決め込んで、ひたすら嗚咽を流していれば、戸が開かれ、彼が入ってくるのが分かった。
「……っ!」
考えなど無かった。
私は振り向き、勢いよく手の中の懐中時計を彼に投げつけた。
もちろん、彼は容易くキャッチしてしまう。
そんな余裕が憎たらしかった。
彼はもう笑っていなかった。
「入ってこないでください!」
恥も外聞もない。
涙に濡れてぐしゃぐしゃになった顔を彼に向けて私は叫んだ。
「伊瀬階さん…」
子どもを諫めるような調子の彼に、私の足は竦んだ。
私を困った存在として認識している。
「出て行ってください!私の気持ちも知らないで……!」
尚も叫び続ける私に土井先生は焦りながら人差し指を立てた。
「聞かれてるんだ。静かにっ」
囁きながら叫ぶという器用なことをする半助さんにも驚きだが、彼の言葉とその聞き慣れた言葉遣いに、私の心の中の嵐は僅かに勢いをなくす。
目を見開いて半助さんを見続ければ、彼の頬は僅かに上気し、頭巾ごしに頭を乱暴に搔いていた。
「あぁ、もう!」
地から足が離れたかと思えば、景色が傾く。
背中と膝裏に感じる、しなやかな腕の筋肉。
風のように景色が過ぎていき、私は舌を噛まないように口を閉じ、そして落ちないように半助さんの首に手を回した。
彼と山に登った以来のお姫様抱っこだった。
部屋を出た時の「あ!」という声は、五年生達のものだと気づいたのは、忍術学園を出てからだった。
気のせいだと思いたいけれど、そこには紺の他に黒装束も何人かいたような気がした。
観察され、見せ物にされていた。
私は恥ずかしさと悔しさのあまり、唇を強く噛んだのだった。