さよならの覚悟
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
下山後、麓の温泉施設に入ることにした。
入口で待ち合わせることにして、男湯に入れば、朝早い時間なのにそれなりに人がいた。
私達と同様にテント泊をしていた者や、早朝登山を楽しんだ者のようで、年齢も幅広かった。学園長といい多田堂禅先生といい、元気なご老人は見慣れているが、この世界のご老人もやはり元気な方が多いようだ。
勝手知ったる様子で脱衣所に置かれた給水器を飲んでいたり、体重を量ったりしている。
早朝とはいえ、空は既に青々としている。
浴場に足を踏み入れれば、壁ガラスから夏の空が見えた。
こもった空気に響き渡る桶を床に置く音とシャワーの音。
一人客が多いためか、話し声は無かった。
「ゆっくり入ってきてくださいね」と言われたから、一通り洗った後は露天風呂を堪能する。
朝から容赦の無い太陽に照らされているのに、熱めの湯に入ることに癒やしを感じるのは日本人だからなのか。
揺らめく岩床を見つめながら、私は昨晩から今朝のやりとりを思い返す。
星の下、心の中で燻り続けていた思いを彼女に告げれば、彼女は憤り、涙を流した。
しかし翌朝の彼女の表情は穏やかで、彼女の決心を聞かされた。
「私、何があっても帰りますからね。どんなに半助さんに嫌われても」
「だから、勝手に後悔しててください」
二年間考え続けた彼女の答え。
自分自身の世界を捨てることがどういうことか。それが分からない彼女ではない。
私のために何かを犠牲にする彼女に罪悪感が付き纏っていた。
一年は組のよい子達のために受験勉強よりも宿題の手伝いや内職の手伝いをすることを選んだり、睡眠時間を削ってでも私との時間を作ろうとした彼女は、今度は彼女が歩むはずであった人生を犠牲にするのだ。
それを自分が背負うことに何の躊躇いなどない。
自分が背負って済むものならいくらだって背負おう。
「そんなの、私の中でとっくに答えが出てるんです。何で半助さんが迷うんですか…、何で……!」
彼女の言葉通り、これは彼女自身の問題だ。
だからこそだった。
朱美は、この世界の子ども達を助けたいのではなかったか。
彼女の秘めた可能性が砕かれる。
羽ばたくはずの成長途上の翼をもぎ取ることになる。
忍術学園に勤める彼女を咎めるわけではないが、本来のあるべき道筋が絶たれることに、私はどうしても抵抗があった。
彼女は自分が選んだ道を歩み続ければ、きっと彼女さえ知らない後悔がこの先に待っている。
「次に会えたなら。その手を離さないと」
「私は半助さんといたい。私が誰からかに必要とされても、私は半助さんが必要なんです」
私だってそうだ。
………それでも。
いや、それでもと思うあたり、私はまだ迷いが断ち切れていないのだろう。
これでは彼女に呆れられてしまう。
否、本当に見捨てられてしまうかもしれない。
ここまでくると、果たして自分は彼女を幸せにできているのだろうかと考えてしまう。
例え共に帰ったとしても、二人きりでいられる時間は僅かなものだ。
私も彼女も時間を作るために奔走して、やっとのこと得られた蜜より甘い時間を享受する日々。
彼女のことだから家賃の支払いや近所のドブ掃除当番を私の代わりに率先して務めるのだろう。
笑い合う彼女ときり丸と私。
とても魅力的で、尊くて、温かな日常が、この先に待ち受けてくれている。
懐中時計の針が重なれば、その日常が手に入るのだ。
彼女の世界を知りたくなかった。
井戸に行かずとも水は手に入る。
子ども達が笑顔で公園を走り回り、
身分や性に囚われず好きなことを学べる世界。
便利で自由で。
朱美には、この世界で笑い続けてほしい。
朱美には、私の傍で笑い続けてほしい。
この堂々巡りは、彼女と恋仲になる前にも彼女への思いを秘めるべきか否か以来だ。
彼女を思えば欲に溺れ、失うことを恐れ、彼女の幸せに迷う。
一人の男になる。
露天風呂から見えるのは、昨晩泊まった山。
時代も世界も異なるが、泰然とそびえ立つ山の緑は鮮やかだ。
あの時、迷いを置いていくことはできなかった。
けれども私の迷いなどお構いなしに彼女は前に進む。
それでいい。
いや、それではだめだ。
風がそよげば幾千もの木々達のざわめきが聞こえる。
私の迷いに応えるわけでもなく、笑うわけでもなく。
ただざわざわと風に揺らされ、陽の光を受け続けていた。
たっぷりと浸かってしまって、彼女を待たせてはいないか不安になり、急いで出てみれば、彼女も丁度女湯の暖簾から出てきたところだった。
「半助さん、それじゃレンタカーに乗せられないですよ」
朱美は笑いながら私を竹製の長椅子に座らせ、タオルで頭を拭かれた。
彼女からは甘いボディソープの匂いが漂い、それが幸せで自然と笑みを浮かべてしまった。