忍者夢短編
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シノビノキミ
深夜のゴミ捨て場で倒れていたのを見て、酔っ払いかなと思って通り過ぎようとしたけれど、見たことのない服に目がとまった。
私はその人を立ち止まって観察してみる。
その人は忍者みたいな服を着ていて、歳は私と同じくらいで、とても整った顔立ちをしている。
「う…」
その人は呻きながら目を開けて、はっとして上体を起こした。私と目が合うと、ポカンとしたまま動かなかった。
それが、土井半助さんとの出会いだった。
「ただいまー」
マンションの自室のドアを開けると、味噌汁と焼き魚の匂いが私を迎えてくれた。
「おかえり。朱美さん」
お玉で味噌汁をかき回す半助さんが笑顔を向ける。
「今日のご飯何?」
「鯖焼きとワカメと豆腐の味噌汁とほうれん草のごま和え」
「いつもありがと。楽しみー」
私はそう言いながらジャケットをクローゼットの中に掛けた。
「明日さ、どっか行かない?」
「どこへ?」
「遠いところ」
「随分と漠然としてるな」
半助さんが私と一緒に暮らし始めて、気がつけば三ヶ月が経っていた。
名前以外の記憶が無くて、しかも身分証もない。服もテレビでしか見たことがない忍び装束を着ていて、その他には何も持っていなかった。
交番に連れて行こうか迷ったが、家に連れてきてしまった。不用心だと言われると否定できない。
そして、もっと驚いたのは、彼はテレビやPCのスイッチの入れ方はおろか、水道の蛇口を捻ることすら出来なかった。
テレビをつけるともの凄く驚いていたし、お風呂に入らせれば、シャワーに困惑していた。
いくら記憶喪失とはいえ、ここまで忘れるものだろうか。
忍び装束といい、まさか本物の忍者だったりして。
いつか捨てようと思っていたが、それすら面倒でタンスの肥やしになっていた元彼のTシャツとジャージに着替えた彼だが、鍛えあげられた逞しい腕にドキリとしてしまった。
「しばらく家にいていいですよ」
「いいんですか……?」
不安に満ちた表情の半助さんを放っておくことは出来なかった。
家電の使い方はすぐに覚え、私が仕事に行っている間、家事をやってくれた。
お互いに敬語をやめて、名前で呼び合って、一緒に買い物をして。
そうして過ごすうちに、半助さんのことが少しずつ分かってくる。
買い物をしているとき、半助さんは赤ちゃんを見ると、あやしては泣き止ませていた。
「半助さん、あやすの上手」
「なんだか放っておけなくて」
照れたように笑う半助さん。
もしかして半助さんは、妻子を持つ身分なんじゃないかと思うと、心が軋んだ。
こうした今も、奥さんと子どもが半助さんの帰りを待っているんじゃないかと思うと、吞気に買い物をしていていいのか罪悪感が募った。
その可能性を無くしたくて、私はあえて聞いた。
「半助さん、実は妻子持ちなんじゃない?」
「どうだろう。その割には、女性の心は全く分かないな。たぶん独身だよ」
それならば、私が抱いている思いも分かっていないのだろう。ホッとするのと同時に、残念な気持ちにもなった。
スーパーの帰り道。近道のため、大きな公園を通っていると、半助さんは突然振り返り、飛んできた野球ボールをキャッチした。
もしも気がつかなかったら、私の頭を直撃していたかもしれない。
その時の半助さんの目は一瞬だけ鋭くなり、少し恐かった。そして、格好よかった。
「よくボールが飛んできたって分かったね」
「何となく。気配がしてね」
「気配って…なんだか忍者みたい」
私が笑うと、半助さんも一瞬だけ間をおいて笑った。
「いただきます」
半助さんの作るご飯はいつも和食だ。とてもホッとする。
どんなに遅く帰ってきても半助さんのご飯を食べると心が温まって、元気が出てくる。
味がおいしいのも、誰かと一緒にご飯を食べるのも勿論だけど、半助さんがそこにいるから、元気が出て、仕事で嫌なことがあっても忘れられる。
「明日、どこか行きたい所とかある?」
「んー。無いよ」
半助さんは苦笑する。
「えー、何か希望出してよ」
「じゃあ朱美さんが行きたいところ」
「じゃあ私も半助さんが行きたいところ」
私がそう言うと、半助さんは更に困った顔をする。
「だってお金は君が出すんだし。なんだか申し訳ないじゃないか」
「そんなことないよ。いつも美味しいご飯作ってくれるし、掃除も洗濯もしてくれちゃってるし」
さて、どこへ行こうか。
そろそろ本格的に暑くなってくるから、半助さんの服を買おうかな。
私も新しい夏服欲しいし。
映画見て、そして美味しいものを食べて…
そんな計画を話すと、半助は遠慮がちに笑った。
休日は近所のスーパーくらいしか行ってないから、電車に乗って、遠くまで行こう。
半助さんに電車の乗り方を教えなきゃ。
入浴後、二人でチューハイを飲みながら、たまたまテレビを点けたときにやっていた時代劇で、刀を背中に差した忍者を見て、半助さんは饒舌に話し出した。
「忍者は刀を背中には差さないんだ」
「そうなの?」
「床下など狭いところに侵入できないだろう?」
「確かに」
半助さんの思わぬ雑学知識に驚いた。
歴史に詳しいのだろうか。
「じゃあ、こう…印を結んで、ドロンって消えたりとかは?」
私が実際に印を結んでみせると、半助さんは、何も分かってない、と言った様子でわざとらしく溜息をついた。
「そういう魔法みたいなものは使わないんだ。忍術はもっと科学的なんだよ」
「えぇー、例えば?」
「そんなにガッカリするな。例えば、五車の術がある。…これは話術によって相手の感情を揺さぶり、隙を作るんだ」
「へー!なんか仕事でも使えそう。もっと教えてよ『土井先生』!」
その時、半助さんは時が止まったように動かなくなった。
「半助さん?」
「ん…?あぁ、ごめん。ちょっと酔っちゃったのかも」
半助さんは、何本飲んでも酔ったことがない。私は反射的に「嘘だ」と言ってしまった。
半助さんは苦笑しながら、頭を搔いた。
「ごめん。なんだか先生って呼ばれて、すごく懐かしい感じがして」
「もしかして、記憶が戻りそうとか?」
「うーん、そこまでは」
「なんだ。……残念」
お互い黙ってしまった。
もしも記憶が戻ったら、この生活も終わる。
考えると胸が締め付けられた。
でも記憶が戻らなければ、半助さんは何も出来ない。それにもし先生なら、教え子さん達はきっと困っているに違いない。
病院に連れて行って、きちんと専門的に見てもらった方がいいのだろうか。
ううん。その前に警察に行った方が…。
でもそれも今更だし、何だか私が怪しまれちゃいそうだし。
そう思って結局何もしないで、時だけが過ぎていく。ううん、何もしたくなかったんだ。
ずっと一緒に、こうやってお酒飲んで、テレビ見て…行ってらっしゃいとお帰りなさいって言ってくれて。
「朱美さん…」
「何?」
「泣きそうな顔してる」
そう言うと半助さんは、顔を近づける。
半助さんも泣きそうな顔をしてる。
このままでいたいという気持ちと、このままではいけないという気持ち。
きっと二人は同じ気持ちでいる…と思うのは自惚れではないと信じたい。
半助さんの手が私の頬に触れた。
私が目を瞑ると、唇に柔らかい感触が降ってきた。
啄むような口づけから、お互いを確かめるような深いキスへと変わり、やがて二人の息が荒くなっていく。
私がテレビを消すと、半助さんは意地悪そうな笑みを浮かべた。その瞳は、獲物を捕らえた獣のようなギラギラとした光を放っている。
「何を期待してる?」
「…言えないこと」
私も意地悪く誤魔化すと、半助さんは笑いながら私を抱き寄せた。
私も腕をまわして応える。
瞳が近い。
お互いを感じて、深く深く溺れて、そして未来を見ないようにした。
「朱美……」
熱を帯びた声で、名前を呼ばれる。
「半助…」
快楽の波に翻弄されながらも、名前を呼び返すと、半助は泣きそうな笑顔で、私を強く抱きしめ、深い口づけを交わす。
「好きだ…」
すこし掠れ気味の半助の声に、私は胸が苦しくなった。泣きたいほど嬉しいのに、同じくらい悲しい気持ちでいっぱいになった。
「私も…好き」
何度も何度も私達は確かめた。
手を繋いで、深く堕ちていった。
いつの間にか寝てしまっていた。
カーテンから差す光はほの白くて、起きるにはまだまだ早い時間だと悟る。腕を伸ばし、隣で寝ている半助に抱きつこうとしたけれども、冷たいシーツを撫でるばかりであった。
隣に半助がいないことに気づき、私は飛び起きた。
半助は既に起きていた。
ちょうど着替えていたようだ。
私の胸は、嫌な音を立てて、痛いくらい速くなっていく。
半助は出会ったばかりの姿をしていた。
腰紐を結び終えたところで、私が起きたのだ。半助と目が合うと、気まずそうに視線を逸らした。
何故だろう。
そこにいるのは昨日までの半助ではない。まるで別人のような気がした。
今目の前にいるのは誰なのだろう。
隙がなくて、鋭いオーラを放っているこの男の顔は、それでも土井半助だった。
「朱美…」
その時、半助の体はまるで幽霊のように透き通った。
彼の体の向こうに、白い壁紙が見えたかと思ったが、再び半助の体は色を取り戻した。
信じられない光景に目を疑う。
半助が眉をハの字に寄せて笑ったのを見て、その時が来てしまったと、私は悟った。
会ったときから不思議な人だと思った。
穏やかさと時々見せた鋭さ。
遠い世界の人なんだろうなと思った。
だから、別れたらきっと二度と会えないと。
私は駆け寄って半助を抱きしめる。
半助は、抱き寄せながら私の頭を撫でた。
「今までありがとう」
半助の言葉からは、優しさに満ちていた。
私を諭すような余裕さえある言い方だ。
そんな風に言ってほしくなかった。
行かないでって言えなくなってしまう。
私は思わず半助から離れた。
いつそんな風になってしまったのか。
私は信じられないような目で彼を見た。
半助は察したのか、くすりと笑う。
そんな笑い方知らない。
そんなに半助は察しが良くなかった。
「君に先生って言われて、思い出せたんだ。……だから帰れるようになったのかな」
ほんの少し透き通る半助は、首を傾げながら笑う。
そして私は気がつく。
ならば、あの後の彼は演技だったのか。
記憶を取り戻していない半助のフリをしていたのか。
「君を騙してしまったことになった。でも…」
再び半助の体は透き通っていく。
「君の事が好きなのは本当」
半助は、泣きそうな顔で笑う。
「半助……」
「そんな顔しないで」
半助はゆっくりと私を抱きしめる。
「離れたくないって思ってしまう……」
その言葉で私は涙がどっと溢れた。
「やだ……やだ……半助、私……」
私は抱きしめ返そうとするが、その腕は空を切る。
目の前には、薄暗い空間が広がるのみ。
半助はどこにもいなかった。
「というわけで、火器には様々な種類があり…」
夏真っ盛り。
蝉の声が教室の中まで響き、私の声を遮ろうとする。
まもなく夏休み。この暑さのなかで授業をするのもあと少し。だからなのか、は組のよい子達はソワソワしていて、授業を真面目に聞きやしない。
先日まで行方不明だった私のことを心配してくれて、授業を熱心に聞いてくれていたよい子達の姿は、もう無い。
まあ、この子達らしいといえばこの子達らしい。
『半助さんは何でも似合うからなぁ』
『じゃあ明日はショッピングに行こう』
『その後、映画観て、美味しい物食べて…』
何もかも無くしてしまった私を拾ってくれた彼女。
夏服を買うと楽しみにしていた彼女は今、どうしているのだろう。
胸に焦げついた黒い染みは、なかなか消えない。
その時、校庭が何やら騒がしくなった。
好奇心旺盛な は組の生徒は全員、窓へと駆けよる。
「こらお前達。席に着け」
「なんだか変な格好の人がいるよ」
「どこどこ?」
「しんべヱどこ見てんだよ。こっち」
私も仕方なしに窓を覗く。
校庭では、小松田君が入門票を持って、誰かを追いかけていた。
その誰かを見つけたとき、私は固まってしまった。
「土井先生?」
「どしたんすか?」
皆は口々に私に問いかける。
「何でもない。少し様子を見てくるから、それまで自習とする」
そう言って、私は早足で教室を出た。
背中から は組の不満そうな声が聞こえてくる。どうせ好奇心に負けてついてくるんだろう。
私は抑えきれない笑みに、口元を抑えた。
その時、彼女をどう紹介しよう。
考えながら、私は校庭へ駆けていく。
深夜のゴミ捨て場で倒れていたのを見て、酔っ払いかなと思って通り過ぎようとしたけれど、見たことのない服に目がとまった。
私はその人を立ち止まって観察してみる。
その人は忍者みたいな服を着ていて、歳は私と同じくらいで、とても整った顔立ちをしている。
「う…」
その人は呻きながら目を開けて、はっとして上体を起こした。私と目が合うと、ポカンとしたまま動かなかった。
それが、土井半助さんとの出会いだった。
「ただいまー」
マンションの自室のドアを開けると、味噌汁と焼き魚の匂いが私を迎えてくれた。
「おかえり。朱美さん」
お玉で味噌汁をかき回す半助さんが笑顔を向ける。
「今日のご飯何?」
「鯖焼きとワカメと豆腐の味噌汁とほうれん草のごま和え」
「いつもありがと。楽しみー」
私はそう言いながらジャケットをクローゼットの中に掛けた。
「明日さ、どっか行かない?」
「どこへ?」
「遠いところ」
「随分と漠然としてるな」
半助さんが私と一緒に暮らし始めて、気がつけば三ヶ月が経っていた。
名前以外の記憶が無くて、しかも身分証もない。服もテレビでしか見たことがない忍び装束を着ていて、その他には何も持っていなかった。
交番に連れて行こうか迷ったが、家に連れてきてしまった。不用心だと言われると否定できない。
そして、もっと驚いたのは、彼はテレビやPCのスイッチの入れ方はおろか、水道の蛇口を捻ることすら出来なかった。
テレビをつけるともの凄く驚いていたし、お風呂に入らせれば、シャワーに困惑していた。
いくら記憶喪失とはいえ、ここまで忘れるものだろうか。
忍び装束といい、まさか本物の忍者だったりして。
いつか捨てようと思っていたが、それすら面倒でタンスの肥やしになっていた元彼のTシャツとジャージに着替えた彼だが、鍛えあげられた逞しい腕にドキリとしてしまった。
「しばらく家にいていいですよ」
「いいんですか……?」
不安に満ちた表情の半助さんを放っておくことは出来なかった。
家電の使い方はすぐに覚え、私が仕事に行っている間、家事をやってくれた。
お互いに敬語をやめて、名前で呼び合って、一緒に買い物をして。
そうして過ごすうちに、半助さんのことが少しずつ分かってくる。
買い物をしているとき、半助さんは赤ちゃんを見ると、あやしては泣き止ませていた。
「半助さん、あやすの上手」
「なんだか放っておけなくて」
照れたように笑う半助さん。
もしかして半助さんは、妻子を持つ身分なんじゃないかと思うと、心が軋んだ。
こうした今も、奥さんと子どもが半助さんの帰りを待っているんじゃないかと思うと、吞気に買い物をしていていいのか罪悪感が募った。
その可能性を無くしたくて、私はあえて聞いた。
「半助さん、実は妻子持ちなんじゃない?」
「どうだろう。その割には、女性の心は全く分かないな。たぶん独身だよ」
それならば、私が抱いている思いも分かっていないのだろう。ホッとするのと同時に、残念な気持ちにもなった。
スーパーの帰り道。近道のため、大きな公園を通っていると、半助さんは突然振り返り、飛んできた野球ボールをキャッチした。
もしも気がつかなかったら、私の頭を直撃していたかもしれない。
その時の半助さんの目は一瞬だけ鋭くなり、少し恐かった。そして、格好よかった。
「よくボールが飛んできたって分かったね」
「何となく。気配がしてね」
「気配って…なんだか忍者みたい」
私が笑うと、半助さんも一瞬だけ間をおいて笑った。
「いただきます」
半助さんの作るご飯はいつも和食だ。とてもホッとする。
どんなに遅く帰ってきても半助さんのご飯を食べると心が温まって、元気が出てくる。
味がおいしいのも、誰かと一緒にご飯を食べるのも勿論だけど、半助さんがそこにいるから、元気が出て、仕事で嫌なことがあっても忘れられる。
「明日、どこか行きたい所とかある?」
「んー。無いよ」
半助さんは苦笑する。
「えー、何か希望出してよ」
「じゃあ朱美さんが行きたいところ」
「じゃあ私も半助さんが行きたいところ」
私がそう言うと、半助さんは更に困った顔をする。
「だってお金は君が出すんだし。なんだか申し訳ないじゃないか」
「そんなことないよ。いつも美味しいご飯作ってくれるし、掃除も洗濯もしてくれちゃってるし」
さて、どこへ行こうか。
そろそろ本格的に暑くなってくるから、半助さんの服を買おうかな。
私も新しい夏服欲しいし。
映画見て、そして美味しいものを食べて…
そんな計画を話すと、半助は遠慮がちに笑った。
休日は近所のスーパーくらいしか行ってないから、電車に乗って、遠くまで行こう。
半助さんに電車の乗り方を教えなきゃ。
入浴後、二人でチューハイを飲みながら、たまたまテレビを点けたときにやっていた時代劇で、刀を背中に差した忍者を見て、半助さんは饒舌に話し出した。
「忍者は刀を背中には差さないんだ」
「そうなの?」
「床下など狭いところに侵入できないだろう?」
「確かに」
半助さんの思わぬ雑学知識に驚いた。
歴史に詳しいのだろうか。
「じゃあ、こう…印を結んで、ドロンって消えたりとかは?」
私が実際に印を結んでみせると、半助さんは、何も分かってない、と言った様子でわざとらしく溜息をついた。
「そういう魔法みたいなものは使わないんだ。忍術はもっと科学的なんだよ」
「えぇー、例えば?」
「そんなにガッカリするな。例えば、五車の術がある。…これは話術によって相手の感情を揺さぶり、隙を作るんだ」
「へー!なんか仕事でも使えそう。もっと教えてよ『土井先生』!」
その時、半助さんは時が止まったように動かなくなった。
「半助さん?」
「ん…?あぁ、ごめん。ちょっと酔っちゃったのかも」
半助さんは、何本飲んでも酔ったことがない。私は反射的に「嘘だ」と言ってしまった。
半助さんは苦笑しながら、頭を搔いた。
「ごめん。なんだか先生って呼ばれて、すごく懐かしい感じがして」
「もしかして、記憶が戻りそうとか?」
「うーん、そこまでは」
「なんだ。……残念」
お互い黙ってしまった。
もしも記憶が戻ったら、この生活も終わる。
考えると胸が締め付けられた。
でも記憶が戻らなければ、半助さんは何も出来ない。それにもし先生なら、教え子さん達はきっと困っているに違いない。
病院に連れて行って、きちんと専門的に見てもらった方がいいのだろうか。
ううん。その前に警察に行った方が…。
でもそれも今更だし、何だか私が怪しまれちゃいそうだし。
そう思って結局何もしないで、時だけが過ぎていく。ううん、何もしたくなかったんだ。
ずっと一緒に、こうやってお酒飲んで、テレビ見て…行ってらっしゃいとお帰りなさいって言ってくれて。
「朱美さん…」
「何?」
「泣きそうな顔してる」
そう言うと半助さんは、顔を近づける。
半助さんも泣きそうな顔をしてる。
このままでいたいという気持ちと、このままではいけないという気持ち。
きっと二人は同じ気持ちでいる…と思うのは自惚れではないと信じたい。
半助さんの手が私の頬に触れた。
私が目を瞑ると、唇に柔らかい感触が降ってきた。
啄むような口づけから、お互いを確かめるような深いキスへと変わり、やがて二人の息が荒くなっていく。
私がテレビを消すと、半助さんは意地悪そうな笑みを浮かべた。その瞳は、獲物を捕らえた獣のようなギラギラとした光を放っている。
「何を期待してる?」
「…言えないこと」
私も意地悪く誤魔化すと、半助さんは笑いながら私を抱き寄せた。
私も腕をまわして応える。
瞳が近い。
お互いを感じて、深く深く溺れて、そして未来を見ないようにした。
「朱美……」
熱を帯びた声で、名前を呼ばれる。
「半助…」
快楽の波に翻弄されながらも、名前を呼び返すと、半助は泣きそうな笑顔で、私を強く抱きしめ、深い口づけを交わす。
「好きだ…」
すこし掠れ気味の半助の声に、私は胸が苦しくなった。泣きたいほど嬉しいのに、同じくらい悲しい気持ちでいっぱいになった。
「私も…好き」
何度も何度も私達は確かめた。
手を繋いで、深く堕ちていった。
いつの間にか寝てしまっていた。
カーテンから差す光はほの白くて、起きるにはまだまだ早い時間だと悟る。腕を伸ばし、隣で寝ている半助に抱きつこうとしたけれども、冷たいシーツを撫でるばかりであった。
隣に半助がいないことに気づき、私は飛び起きた。
半助は既に起きていた。
ちょうど着替えていたようだ。
私の胸は、嫌な音を立てて、痛いくらい速くなっていく。
半助は出会ったばかりの姿をしていた。
腰紐を結び終えたところで、私が起きたのだ。半助と目が合うと、気まずそうに視線を逸らした。
何故だろう。
そこにいるのは昨日までの半助ではない。まるで別人のような気がした。
今目の前にいるのは誰なのだろう。
隙がなくて、鋭いオーラを放っているこの男の顔は、それでも土井半助だった。
「朱美…」
その時、半助の体はまるで幽霊のように透き通った。
彼の体の向こうに、白い壁紙が見えたかと思ったが、再び半助の体は色を取り戻した。
信じられない光景に目を疑う。
半助が眉をハの字に寄せて笑ったのを見て、その時が来てしまったと、私は悟った。
会ったときから不思議な人だと思った。
穏やかさと時々見せた鋭さ。
遠い世界の人なんだろうなと思った。
だから、別れたらきっと二度と会えないと。
私は駆け寄って半助を抱きしめる。
半助は、抱き寄せながら私の頭を撫でた。
「今までありがとう」
半助の言葉からは、優しさに満ちていた。
私を諭すような余裕さえある言い方だ。
そんな風に言ってほしくなかった。
行かないでって言えなくなってしまう。
私は思わず半助から離れた。
いつそんな風になってしまったのか。
私は信じられないような目で彼を見た。
半助は察したのか、くすりと笑う。
そんな笑い方知らない。
そんなに半助は察しが良くなかった。
「君に先生って言われて、思い出せたんだ。……だから帰れるようになったのかな」
ほんの少し透き通る半助は、首を傾げながら笑う。
そして私は気がつく。
ならば、あの後の彼は演技だったのか。
記憶を取り戻していない半助のフリをしていたのか。
「君を騙してしまったことになった。でも…」
再び半助の体は透き通っていく。
「君の事が好きなのは本当」
半助は、泣きそうな顔で笑う。
「半助……」
「そんな顔しないで」
半助はゆっくりと私を抱きしめる。
「離れたくないって思ってしまう……」
その言葉で私は涙がどっと溢れた。
「やだ……やだ……半助、私……」
私は抱きしめ返そうとするが、その腕は空を切る。
目の前には、薄暗い空間が広がるのみ。
半助はどこにもいなかった。
「というわけで、火器には様々な種類があり…」
夏真っ盛り。
蝉の声が教室の中まで響き、私の声を遮ろうとする。
まもなく夏休み。この暑さのなかで授業をするのもあと少し。だからなのか、は組のよい子達はソワソワしていて、授業を真面目に聞きやしない。
先日まで行方不明だった私のことを心配してくれて、授業を熱心に聞いてくれていたよい子達の姿は、もう無い。
まあ、この子達らしいといえばこの子達らしい。
『半助さんは何でも似合うからなぁ』
『じゃあ明日はショッピングに行こう』
『その後、映画観て、美味しい物食べて…』
何もかも無くしてしまった私を拾ってくれた彼女。
夏服を買うと楽しみにしていた彼女は今、どうしているのだろう。
胸に焦げついた黒い染みは、なかなか消えない。
その時、校庭が何やら騒がしくなった。
好奇心旺盛な は組の生徒は全員、窓へと駆けよる。
「こらお前達。席に着け」
「なんだか変な格好の人がいるよ」
「どこどこ?」
「しんべヱどこ見てんだよ。こっち」
私も仕方なしに窓を覗く。
校庭では、小松田君が入門票を持って、誰かを追いかけていた。
その誰かを見つけたとき、私は固まってしまった。
「土井先生?」
「どしたんすか?」
皆は口々に私に問いかける。
「何でもない。少し様子を見てくるから、それまで自習とする」
そう言って、私は早足で教室を出た。
背中から は組の不満そうな声が聞こえてくる。どうせ好奇心に負けてついてくるんだろう。
私は抑えきれない笑みに、口元を抑えた。
その時、彼女をどう紹介しよう。
考えながら、私は校庭へ駆けていく。