黄昏の舞姫
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呻いた拍子に口の中に砂が入ったらしく、ガリっと嫌な音がした。
倒れてもいない限り口の中に砂など入るはずがない。
すると徐々に自分の置かれた状況が分かる。
自分は眠っていたようだ。それも外で。
目を開ければ、そこは朱美の知っている景色ではなかった。
これは夢なのだ。
自分は時代劇に出演する夢でも見ているのだろう。
体を起こせば視界に見事な天守閣が映る。
見るからに堅牢な造りの城だ。
そして自分を取り囲み、無遠慮に見つめてくる黒装束の男達。
自らの衣装は何かと確認すれば、家から出てきた格好のままだった。
「なんとも面妖な格好……組頭、この女、いかがしますか?」
組頭と呼ばれた黒装束の男は長身で、頭巾から覗く目元は包帯で巻かれていたが、唯一見える右眼からは鋭い眼光を放っていた。
「ひとまず殿に報告しよう」
すると取り囲んでいる男達のうちの一人が朱美の腕を掴み、立たせた。
掴んできたのは年若の男だった。
その男に腕を引かれるも、朱美は無抵抗だったのは、必死に頭を働かせ、目覚める前の記憶を辿っていたからだ。
自分はどこへ何をしに行っていたか思い出してきた。
どうやらここは夢の世界ではない。
夢にしてはあまりにも具体的すぎる。
時代劇の知識に乏しい自分がここまで詳細な夢を描けるとは思えないのだ。
ーーー
「なんと面妖な格好!唐のものでも南蛮のものでも天竺のものでもない……!」
「殿、はしゃぐところでは無いかと」
殿と呼ばれている彼が城主なのだろう。
座している場所も、朱美と朱美をここに連れて来た黒装束の男二人が座している位置からも、殿と呼ばれる前から高貴な身分にあるのだろうと分かった。
鷲鼻に妙ちくりんな髭に厚ぼったい唇。
個性の塊だった。
「名は何という」
「伊瀬階朱美です」
腹から声を出すのは最早習性だった。
木造の広間に自分の声が木霊した。
「ふむ。良き声じゃな」
殿は側に置いた扇子を持ち、勢いよく広げた。
その所作の美しさに朱美は目を奪われたた。
実に殿様らしい所作に、感心したのだ。
「何か芸はできるのか」
「殿、まさか、女の答え次第で城に置くおつもりですか」
抑揚に欠けた包帯の男の声に僅かな困惑の色が混じっていた。
「そのつもりで連れて来たのじゃろう?」
「だとしても下働きとしてです」
「して、朱美よ、そちは何ができる」
信じられない状況に身を置かれても朱美の答えは一つだった。
「歌と舞でございます。殿」
考えずとも場に適した言葉遣いを選択していた。
「今ここで披露することをお許し願いとうございます」
怯まぬ視線に、男は扇子を仰ぎつつ口角を上げた。
肯定と受け取り、立ち上がった朱美は姿勢を整える。
迷いはなかった。
傍にいる男達にどう思われようとも構わなかった。
体の中心に限りなく酸素を送り、あたかも帽子を被っているような仕草をとりながら、胸の中で拍を数える。
「ーーっ」
女の口から生まれ出た旋律と言葉は、どこの国のものでも無かった。
それでも、その旋律は決して出鱈目ではなく、定められたものであるかのようだった。
歌声は限りなく澄んでいて、それでいて力強く響き渡る。
女は動き出したが、その舞も珍妙な事この上なかった。
しかし、しなやかさと弾力性に富み、美しい。
時には足を高く上げ、時には片足を軸にして独楽のように回る。
それでも女の歌声は淀むことなく、高らかに歌い続けた。
朱美は三人の観客の様子を探る。
殿の反応は上々。
若い男は呆然としている。
包帯の男の眼光は依然鋭かった。
ノリのいまいちな観客達だが、それでも朱美は最後まで続けた。
この状況で来客者は自分だが、ここはむしろ自分が彼らをもてなしてやろう。
そんな気持ちでこの歌を選んだのだ。
例え音楽が無くとも、自身が楽器となり、その旋律を彼らに届かせるつもりで、声帯を震わせ、指先まで神経を集中させる。
それが彼女の矜持であり、アイデンティティーだった。
ラストは極上の笑みと、ファルセットとビブラートを彼らにぶつけたのだった。
ーーー
その女の歌と舞は誠に面妖であった。
教養としてそれなりの芸事の知識は持ち合わせていたが、女の旋律や舞は見たことも聞いたこともなかった。
片足で立つも、軸はぶれることは無かった。
どんなに身を跳ねても、廻っても、彼女の息は上がらず、それでいて溌剌な声量を維持していた。
服装も珍妙であったが、その服に隠された躰は、しなやかな筋肉が付けられているに違いないと、昆奈門は彼女を目で追いながら考えた。
時折混じる言葉は異国のものだが、それも昆奈門の知識には無いものであった。
我が城主を見れば、子どものように目を輝かせ、手拍子までしている。
面倒なことにならなければ良いが。
いや。
このタソガレドキ城内に見たことのない衣服を纏った女が倒れていた時点で、既に面倒な事になっていたのだ。
倒れたのを見つけたのは尊奈門だったが、すぐに他のタソガレドキ忍軍も駆けつけ、彼女を囲む。
女一人でも、我々の目を搔い潜ってきたのだ。用心に越したことはない。
見せかけの気絶も想定したが不規則な息使いであった。
一人に指示して調べさせるも、彼女に触れたが反応は無く、武器も携帯していないことも分かった。
どう処理すべきか逡巡するうちに、彼女は目を覚ましたのだった。
彼女の正体が分からぬまま、外へ出すこともできない。
上質な布を使った衣。
顔も体つきも悪くない。
利用価値はあるかもしれない。
そして判断を城主に委ねることにしたのだ。
だが、委ねるべきではなかったかもしれない。
女が歌い終われば、惜しみない拍手と歓声を送る甚兵衛に昆奈門は溜息を付いた。
尊奈門を見れば、拍手こそしないものの彼女の技巧に固まっていた。
優秀だが流されやすい男だ。
「素晴らしい!気に入った!毎日観たい!この城に住み、毎晩、儂のもとで芸を披露せよ!」
「お気に召して頂き、恐悦至極でございます」
女はまたもや妙な礼をする。
「殿」
勘弁してくれ。そう言いたかった。
しかし甚兵衛の嬉々として輝く瞳にはタソガレドキ城主としての狡猾さも宿っていたことに気がつき、昆奈門は口をつぐんだ。
我が城主は、何かを考えたようだ。
ーーー
殿の命によってあてがわれた部屋で横になりながら、朱美は記憶を辿る。
その日は最終オーディションの日だというのに朱美はゆったりと朝食をとっていた。
恐れるものは何も無かった。
それは驕りではない。
進む道がそれしか無いからだ。
幼い頃から習ってきたクラシックバレエと声楽。そこからタップもジャズも習い、自然と舞台に立つことを目指していた。
化学式や英文法がなかなか頭に入らずとも、振り付けや旋律は一度見聞きすれば覚えていた。
自分の容姿が平均よりも遥か上であると気が付いたのも、プロポーションも優れていると気が付いたのも、10代前半。
だから、最後まで残るのは当然の結果だったと思っている。
もちろん自分と似た経歴や能力を持つ人間など、この世界には掃いて捨てるほどいるのは知っている。
それでも朱美には、この道に進むことしか考えられなかった。
舞台が好きで、役を生きることが自分の人生だと信じて疑わなかった。
だから、会場に向かう途中、まるで落とし穴に落ちてしまった感覚に陥り、気が付いたら時代劇のセットのような場所に倒れていたなど信じられなかった。
用意された部屋も布団も、この時代にとってはおそらく上等のものなのだろう。
布団の中で朱美は、自分の状況を整理すればするほど、絶望へと沈む。
夢ではない。
知らない世界に来てしまい、戻れないのだと知る。
夢は潰えたのだ。
寝てなどいられなかった。
数度の寝返りの後、身を起こして、窓辺に寄る。
格子窓から見える景色は朱美を更なる絶望へと陥れた。
たとえここが山の中でも、麓の街の灯りが見えるはずだ。
それなのに見えるのは闇ばかり。
この世界にはオーケストラも照明も舞台も無い。
朱美が恋い焦がれた舞台とは、手の届かないところに来てしまった。
あと一歩のはずだった。
手応えはあった。
絶対に合格できる気がしていた。
それなのに。
絶望のただ中、それでも朱美の口からは旋律が流れ出す。
それしか絶望を振り切る術を知らないのだ。
あの世界では誰もが知る作品。
愛しい人を自由にする変わり、自分の呪いは続く-そんな愛への渇望と絶望の歌だ。
窓に向かって、まるで獣の咆哮のように朱美は歌う。
静寂に包まれた夜の空気をどこまでも切り裂くような声だった。
心の中で、オーケストラが奏でられる。
二度と聞くことはできない旋律を刻みながら、朱美は歌い続けた。
この歌を歌い終え、一幕を終え、二幕が開き、ハッピーエンドで終わる作品。
自分の人生を重ねることはできなかった。
せめて、この魂の慟哭を誰かに聞いてほしい。
あらん限りのロングトーンを、窓の外へ、山の向こうへと届かせた。
曲が終わってしまった。
朱美は格子窓を握りしめながら、膝をつく。
泣きたくなどなかったのに、頬を涙が伝う。
曲の中で生きている間は泣くことなどできないから、今、涙が溢れてくるのだ。
たった独り。
何の縁なのか、見知らぬ世界に自分は放り込まれてしまった。
これからどうなるのか。
先の見えない不安が朱美を押し潰す。
「見事じゃ」
朱美は振り返った。
心許ない月明かりにより、うっすらと分かる。
黄昏甚兵衛。
この城の主がいつの間にやら部屋の戸を開けて立っていた。
昼に見せたはしゃぎようとは打って変わって、その瞳はギラギラとした妖しい光を放っていた。
この顔こそ、この男の本当の顔なのかもしれないと朱美は思う。
「そなたが何者なのかは知らぬ」
甚兵衛は朱美に近づく。
「だが、その面妖なる歌と舞」
懐から取り出した閉じられたままの扇子が朱美の顎を持ち上げる。
朱美は甚兵衛から目を逸らさなかった。
威圧的で、声はぞくりとくるほど低かったが、不思議と怖くは無かった。
「我が城のために尽くすのじゃ」
選択権は無いのだろう。
断れば殺されるのかもしれない。
だが朱美は可笑しくてたまらなかった。
こんな世界に来てしまったのは、芸術の神に見放されてしまったのだろうと思ってさえもいた。
しかし、だから何だというのだ。
何だっていい。
自分の夢は、どこにいようとも変わらない。
この男は自分を利用する気だ。
上等だ。
自分も利用できるものは何だって利用してやる。
「御意にござります、殿」
そう答えた朱美も、その答えを聞いた甚兵衛も、今宵の月のように弧を描き、不敵に笑うのであった。