桜下の視線
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奇妙な忍びの世界に来て数日。
朱美は朝早く起きて、食堂の手伝いをした後は学園長の庵にてヘムヘムと掃き掃除や床拭きなどをする。
「ヘムヘム!」
「分かった。私は掃き掃除ね」
人間とコミュニケーションが取れて、二足歩行が可能な凄い犬。
朱美は彼と役割を決め、手早く掃除を行う。
竹箒で落ち葉を集めるが、春だから落ち葉は少ない。
朱美は集めた葉の中に桃色の小さな花びらを見つけた。
桜の花びらだろう。
「おや、桜じゃのう」
どこからともかく現れた学園長がその花びらを拾う。
「裏山から風に乗ってきたのかもしれん」
二人と一匹は春の霞んだ空を見上げた。
一陣の風が吹いたので、学園長は摘まんでいた花びらを離した。
再び空を舞い、遠くへ旅立っていく。
朱美はその花びらを見て胸が痛む。
知らない世界に迷い込んだ自分と重ねていたのだ。
あの花びらは再び飛んでいったが、どこへ行くのだろう。
そこまで考えたところで朱美ははっとした。
「いや、自分が桜だなんておこがましいか」
思わず声に出してしまった。
ヘムヘムはそんな彼女に首を傾げる一方、学園長は花びらが飛んでいった方向を見上げながら、キラキラと顔を輝かせていた。
何か思いついたのだろうとヘムヘムは内心溜息をつく。
「そうじゃ!花見じゃ!」
ーーー
おばちゃんと握ったおにぎりと、水分補給のための竹筒、蓙を持って、二人と一匹は門を出て、のんびりと歩く。
この時代の衣服では早く歩けない朱美と、元天才忍者とは言え白髪の老人の足腰。
二人のペースは丁度良かった。
ヘムヘムも陽気な春の景色を楽しみながら気分によって二人の前や後ろを歩く。
二人の話題はもっぱら食べ物の話。
「やはり花見と言えば団子じゃの」
「みたらしも餡も好きです」
「おばちゃんのおにぎりも旨いが、団子も食べたくなってきたのぉ」
朱美はこの自由気ままな老人が好きだった。
おじいちゃん子、おばあちゃん子という言葉は、朱美にとって縁遠いものだった。
両方の祖父母は孫に頬を緩ませ甘やかす存在ではなかったのだ。
どうやら父と母が結婚する際に色々あったのだろう、二人が亡くなって親族が朱美の引取先を相談している時に何となく察した。
出会った頃は、混乱の余り彼に怒りを露わにしてしまったし、彼の殺気に恐怖したものだ。
しかし、見知らぬ世界に迷い込んだ朱美の衣食住を整えたのは他ならぬ彼であり、謂わば恩人である。
そして、「おシゲはなかなか相手にしてくれんし。孫が増えたみたいで嬉しいわい」と嬉々として語ってくれたように、二人は擬似の祖父と孫という関係になりつつあった。
景色が変わる。
それまでなだらかな勾配の道は再び平坦になり、開けた景色になった。
そこは薄桃に染まった世界。
「おおー、きっとここの桜の花びらだったのじゃな」
「風向きからしてそのようですね」
「ヘム!」
「ささ、食べよう食べよう。花見じゃ。腹が減った」
「花より団子、いやおにぎりですね」
ちなみに花より団子という言葉が生まれたのは江戸時代だと知ったのは、朱美がこの世界を去った後だった。
蓙を敷き、桜を堪能しつつ、おばちゃんと朱美が握ったおにぎりを食す。
絶妙な塩加減と、にぎり加減。
質素ながらこだわりが活きるおにぎり。
自分のと比べその出来は月とスッポンだったから落ち込む。
「当たり前じゃ。おばちゃんだからの。何といっても学園最強じゃからの」
下手なフォローを入れられるより、こんな風にカラカラと笑われた方が気が楽だったから、朱美は彼が好きだった。
二人と一匹は昼食をあっという間に食べ終え、桜を見上げる。
薄桃色の花と薄い空色は互いを引き立てていて、水彩画の中にいるような気持ちにさせた。
頬を撫ぜる風は、薄桃の花びらを攫い、朱美の側を通り過ぎていった。
どこまでも穏やかに広がる空からは陽の光が朱美の疲弊した躰を労るように降り注ぐ。
聞こえてくるのは鳥のさえずりと、木々が揺れる音のみ。
会話はなくとも気まずさはなかった。
二人と一匹は、この静けさを堪能したかったからだ。
そして大川は異世界からきた少女の瞼が重たげなことを既に見抜いていた。
無理もない。
正体を明さぬようにしつつ、早朝から働き通しの日々だ。
心身共に疲れが止まっているに違いない。
「さて、わしはその辺をもう少し歩いてくる。朱美ちゃんとヘムヘムはゆっくりしていなさい」
「ヘム~」
「はい。お気を付けて」
ヘムヘムはわざとらしいほどの大きなあくびをしてみせれば、朱美はいよいよ眠たくなってくる。
遠ざかる学園長の背中。
ヘムヘムも身を丸くして眠ろうとしている。
それならば、自分も……。
蓙から脚がはみ出してしまうものの朱美は横になる。
行儀が悪いが、ここは人気のない山。
少しだけ眠ろう。
瞼を閉じればその闇に吸い込まれるように意識が溶けていった。
ーーー
パフェにケーキに胡麻団子。
ステーキにビーフストロガノフに背脂豚骨ラーメン。
これまで聞いた彼女の世界の食の話を思い出しては、落ち着きつつあった腹が元気になる。
堪らない。
ぜひ食べてみたい。
飽くなき好奇心と挑戦心はいつまでも持つべきである。
と、大川は誰に対してかは謎であるが、そう告げたかった。
「む?」
かすかに感じる人の気配。
天才忍者を欺けるほどの実力。
学園の者であろうと予測したが、的中していた。
「学園長?」
その者も、人気のないはずの裏山に気配を察して、木の上から様子を覗っていたのだろう。
目の前に降り立ったのは、忍術学園一年は組の教科担当の土井半助だった。
「お散歩ですか?」
「そんなところじゃ」
実技担当の山田伝蔵と共に、一年は組は裏山で五色米の暗号の演習を行っているとのことだった。
「あちらに桜に囲まれた開けた場所がありましたでしょう。そこを目的地にしていまして、私はそこで生徒達を待つことになっているんですよ」
「そうか。ごくろうじゃな」
直に一年は組のにぎやかな生徒達が、あの場所に来てしまう。
せっかく昼の手伝いを休ませたのだから、彼女をもう少し寝かせてやりたかったのだが仕方がない。
せめてそれならばと、学園長は小さく閃く。
「わしはもう少し散歩したい。その場所にヘムヘム達が寝ておる。ついでに起こしてやってくれんか」
「はあ…分かりました」
「達」という言葉に引っ掛かったのだろう。
頷くものの釈然としない半助に、内心ほくそ笑む。
ヘムヘムと誰がいるのか、行ってのお楽しみだ。
果たして彼はどう行動するのだろう。
そして起こされた彼女はどう反応するのだろう。
ーーー
その場所に辿り着いた半助は、一人と一匹の姿を認めたところで足を止めた。
ピクリとヘムヘムは耳を動かしたかと思うと大きなあくびをし、半助を見つける。
半助は苦笑しながら近づけば、無防備な寝顔を晒す彼女を見た。
あどけない寝顔を微笑ましい気持ちで見つめていたが、やるべきことを思い出す。
「ヘムヘム、彼女を起こしてやってくれないか?」
「ヘムぅ?」
「もうすぐ一年は組のよい子達がやってくる。私はそのための準備をしなくてはならないんだ」
ヘムヘムは首を振る。
半助が起こした方がいいとヘムヘムは言い返すも彼は「どうかなあ」と苦笑い。
「あまり仲良くしてくれないからなぁ伊瀬階さんは。じゃあ頼むよ」
そう言い終えるなり、半助は桜の木の上へ跳躍した。
彼が降り立つ枝から、僅かに桜が散る。
「ヘム!」
そんなんだからこの二人の間には妙な距離があるのだ。
ヘムヘムは溜息をつきながら、彼女の肩を揺らした。
彼女はすぐに瞼を上げて飛び起きた。
「ヘムゥ!」
「おはよう、ヘムヘム。ごめん、ぐっすり寝ちゃったみたい」
ちょうど朱美が起き上がった時に、大川は戻ってきた。
「ヘムヘム、朱美ちゃん!撤収じゃ!一年は組の連中がやってくる!花見をしていたことがバレたら面倒じゃ!」
「確かにそうですね」
朱美はいそいそと蓙を畳む間、大川とヘムヘムは目を合わせた。
かつての天才忍者とそのパートナーは互いに矢羽音で報告し合えば、ヘムヘムは呆れたように首を振り、大川は肩を落としつつ盛大な溜息を付いた。
ついでに彼がいるであろう桜の木の上にあっかんべーをして帰路についたのであった。
ーーー
「子どもじゃないんだから、あっかんべーはないでしょう、全く」
桜の木の上で学園長の背中を見送る。
今日の昼食に彼女がいなかった理由がこれで繋がった。
ヘムヘムと花見を兼ねた散歩をしていたのだろうが、伊瀬階さんも一緒だったようだ。
先ほどの彼女の寝顔を思い出し、一人微笑む。
戦のない世界から来た彼女の寝顔はあまりにもあどけなくて、無防備で。
私が近づいても起きることはなかった。
それ程深く眠りについており、それ程疲れが溜まっていたのだろう。
ここを授業で使うことに申し訳なさを覚えたほどだった。
しかし、こうしている間にも一年は組は暗号を解いてやって来る。
彼女の肩を揺らそうと思ったが辞めた。
私が起こしたら彼女はきっと顔を真っ赤にさせて慌てながら謝ってくるに違いない。
慌てる必要も謝る必要もないのに、何故かそうするのだろう。
気持ちよく眠る彼女の顔を見ていたら、申し訳なくて起こすことなどできなかったのだ。
そんな彼女は、ヘムヘムと共にぷりぷりしながら帰る学園長を不思議そうに見つめながら歩いている。
二人と一匹が充分に遠ざかったところで、やれやれと木から降り立ち、山田先生から伝えられた授業の準備を進めることにした。
突然、彼女が振り返ったのが視界の端に写る。
私も彼女も「あ」と、口にしていたと思う。
どうするべきか迷ったが、小さく手を振れば、彼女は立ち止まり行儀良く礼をした後、踵を返した。
その表情は柔らかく少しだけはにかんだような、桜のような笑顔だった。