長編「今度はあなたを」
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口から出るのは溜息ばかり。
職員室の机で片肘を突きながら宿題のチェックをしているものの、頭の中はこの間の夜のこと。
同期なのに、そして女の人に奢られるなんて情けない……。
駅前のチェーン店でラーメン&チャーハン&餃子セットを注文し、必死にがっつく俺の姿を見て、道明先生は唖然としていた。
その時は空腹のあまり必死で食っていたから彼女の様子など気にしていなかったが、時が経つほど、あの時の彼女の表情を思い出しては自己嫌悪に浸るのだ。
悪霊のせいで割れた職員室の蛍光灯の修繕費用が給料から天引かれることで自棄になっていたとはいえ、だ。
「鵺野先生、ほらビールも頼みましたから、どうぞ」
中ジョッキの生を渡してくれた道明先生の笑顔を思い出して、俺は更に苦しくなる。
いかん。
同期の面目丸つぶれである。
次の日お礼を言いに行けば「気にしないで」と彼女は明るく笑うだけであった。
何とか彼女に良いところを見せなくては。
チラリと向かい島の机で黙々と事務仕事をしている道明先生を盗み見る。
5時間目にあった体育のためか、ジャージ姿で髪を一つに束ねたラフな格好だった。
そういえば彼女について一つ気になることがある。
悪霊と戦ったあの夜。
醜悪な悪霊の姿を見て気を失う寸前に道明先生が呟いた言葉。
美奈子先生と、確かに呟いていた。
霊を前にしてその名を呼ばれるとなると、どうしてもあの美奈子先生を連想させる。
珍しい名前ではない。
もしくは聞き間違えかもしれない。
だが、彼女の言葉がどうしても気になって仕方が無かった。
彼女も美奈子先生を知っているのだろうか。
とすると……彼女は。
「道明先生……」
思考が中断したのは、リツコ先生が視界に入ってきたから。
何やら道明先生に相談している様子だ。
あぁ、お二人のツーショットは実に目の保養になるなあ。
リツコ先生は薔薇や百合のような艶やかで華やかさがあり、道明先生は向日葵のように爽やかで可憐さあふれる女性だ。
リツコ先生は今日も綺麗だ。
ミニスカートからの脚線美、開いた胸元の危うさ。
道明先生も普段はラフな格好をしているが、体育教師だからか引き締まったウエストとメリハリの付いた躰が……
なんて鼻の下を伸ばしている場合ではない。
リツコ先生は何かお困りの様子だし、相談された道明先生も腕を組んで悩んでいる様子だ。
俺が行かなくてどうする。
勢いよく席を立ち、道明先生の机まで近づくと「あ」と、道明先生と目が合う。
ギクリとした彼女の様子に不思議に思いながらも、俺は早足で二人の元へ向かう。
「どうされたのですか、お二方」
改心のキメ顔と美声を披露すれば、返ってきたのは沈黙。
二人の様子を見れば、ジト目で睨んでいるリツコ先生と、そんなリツコ先生と俺を困惑しながら交互に見る道明先生。
「えーと……話してもいいですか?リツコ先生」
「………いいですけど、鵺野先生は何でも、あれに話を結びつけたがるから」
猿でもわかる歓迎されていないムードにめげそうになりながらも、俺はキメ顔を崩さない。
「リツコ先生、最近、ストーカー被害に遭っていて」
「なんですと?!」
「鵺野先生、お静かに!」
人差し指を立てて注意するリツコ先生の愛らしさに見蕩れながら、俺は声を潜めた。
「ストーカーですか…?」
「道を歩いていると視線を感じて……とても怖いんです。だから最近は毎日、彼氏に送り迎えをしてもらっているんですけど」
彼氏。
数日前もリツコ先生の口からその単語が出て、頭を殴られたような衝撃に襲われたのだが、記憶の外へと追い出していた。
しかしここで再びはっきりと耳にしてしまう知りたくなかった事実に俺は固まってしまう。
「彼からは考えすぎだって、言われてるんですけど。それに今日は仕事で忙しいから、一緒に帰れないんです」
「警察に相談は?」
「姿を見ていないから、相手にしてもらえないかもしれないって彼が」
「うーん………」
リツコ先生と道明先生の声が遠い。
リツコ先生に恋人がいる。
その事実に俺はただただ石のように固まって動けないでいた。
道明先生はそんな俺を見て額に手を当てていた。
ーーー
人が玉砕する様を目の当たりにする。
窓から差し込む夕陽に照らされ、黄昏れる鵺野先生。
涙も涸れて私の席の傍に朽ち果てた看板の如く突っ立っていた。
リツコ先生はというと、ウンともスンとも言わない鵺野先生に盛大な溜息を付いて自席に戻ってしまった。
恋とは何と残酷な。
日頃からリツコ先生の彼氏さんのノロケ話を聞かされていたから、彼女に鼻の下を伸ばす鵺野先生を見てはハラハラしていた。
イヤラシい視線と共に恋心を抱いていた鵺野先生。
掛ける言葉が見つからない。
「鵺野先生、邪魔です」
「どいてください」
他の先生方が通り過ぎる時、通行の妨げになっている鵺野先生に遠慮無しにぶつかって通り過ぎていく。
よろつく鵺野先生の腕を掴んだ。
見ていられない。
「ちょっと鵺野先生!ショックを受けている場合じゃありませんよ!」
やるべき事をしなければ。
「リツコ先生にいいとこ見せるチャンスじゃないですか」
耳打ちすれば、その辺を漂っていた魂が戻ったようで鵺野先生はハッとする。
「そうだ!そこで俺が助けて、こんな時に助けてあげられない彼氏を捨てて『鵺野先生素敵~』となって、そして…そして!」
どんな想像をしているのやら。
鼻の下を伸ばしてデヘデヘと笑う鵺野先生の姿に私はそっと溜息を付いた。
全く、あの鵺野君がこれほどまで逞しくて、助平になっているなんて。
時の流れはなんて残酷なのだろう。
あの時の胸の中に芽生えた小さなときめきはそれはそれで大切にとっておこう。
「道明先生」
ピンク色の妄想旅行を終えたらしい鵺野先生は、頬を黒手袋の方の指で搔きながら、照れた笑みを見せていた。
「また助けられてしまいましたね」
あ。と心の中で声をあげた。
彼を助けたい。
幼い頃に誓った事がこんな形で叶うとは思わなかった。
今の表情は紛れもなく鵺野君のままだった。
時は流れて、私達は大人になった。
憶えているのは私だけ。
それが寂しかったけれど、それでもいいやと思えた。
鵺野君に「餌付け」をしたり、リツコ先生とのことを応援したり。
そうやって鵺野君と、いや、鵺野先生とやっていこう。
「いえ…私は何も」
「道明先生にもいいところを見せないと、同期として!」
「楽しみにしてます」
私の小さな決意と共に、鵺野先生も拳を作り息巻いていた。
ーーー
「朱美先生、なんで鵺野先生までついてくるんですか」
職員用昇降口でのリツコ先生の囁きが胸を突き刺すが、俺のハートはそんなやわじゃない。
痛いものは痛いけれど。
「でも男性がいた方がストーカーも手を出しづらいでしょう?」
ゴミを見るような目で俺を見るリツコ先生に道明先生は慌てたようにフォローしてくれた。
「リツコ先生を狙う不届きな輩を、俺が必ずふん縛ってみせますから!」
「……はあ……」
気乗りしないリツコ先生の返事が辛い。
校庭を出た瞬間、感じる妖気。
「道明先生は恋人はいないんですか?」
「全然。そもそも出会いがないですし」
「よろしければ今度友達が開く合コンにお呼びします」
「どうもそういうのは苦手で」
その気配はずっと続いている。
「じゃあお休みの日は何をされているんですか?」
「うーん、体を動かすのが好きだからジムに行ったり、山に行ったり」
「凄い!さすがは体育専攻ですね」
微かだが確かに。
後ろからずっとこちらを付けている。
「鵺野先生は休みの日は?」
「へ?」
道明先生の言葉にハッとした。
「お休みの日は何をしてるんですか?」
アピールしろ。
彼女の目がそう語っている。
なるほど。
「ぼくはもっぱら心霊スポットに行っては霊と対話して、この世に未練のある霊がいたら成仏させてあげたり、テレビでやっている心霊特集を見ては偽物の映像や写真を見て笑ったり」
「先生…先生!」
道明先生の必死な囁きに気づき、俺は語るのを止めた。
リツコ先生を見れば青白い顔をさせて震えている。
「私がそういうのはダメだって知っているでしょう?!鵺野先生のバカ!!最低!!」
「ええええ!?」
「もう…」
コツコツと荒立たしく歩みを速めるリツコ先生に、涙を流す俺に、頭を抱える道明先生。
そして、背後でげらげら笑う闇の影。
「家に帰ったら独りなのに!もう!」
「私、泊まりましょうか?」
半泣きのリツコ先生を道明先生は宥めていた。
「俺も泊まります!」
「いやだめでしょソレ!」
俺の名案にすかさず突っ込みを入れる道明先生に、更に笑う後ろの奴。
「さっきからずっと視線を感じるし、もう嫌!」
顔を両手で覆い、わっと泣き出すリツコ先生の背中を擦りながら、道明先生は辺りを見回す。
しかし誰もいない。
それを言えば、リツコ先生を傷つけてしまう。
そんな躊躇いが彼女の様子から見えた。
「ええ。確かにリツコ先生を付ける不埒な輩がいます」
先程からゲラゲラと喧しい。
例えリツコ先生に霊感がなくとも、ソレは強い念を込めてリツコ先生を見つめているから、視線を感じるのだろう。
「どこにですか?だって、どこにも」
眉を寄せながらキョロキョロと見回す道明先生に、俺はニヤリと笑みを向けた。
「今からお見せしますよ、道明先生」
リツコ先生、道明先生、とくと見るがいい。
「宇宙天地 與我力量 降伏群魔 迎来曙光
我が左手に封じられし鬼よ、その力を示せ!」
リツコ先生を脅かした不届きな奴。
本来ならば霊水晶で姿を現させ、対話し、場合によっては経を唱え成仏させてやるが、今日は手っ取り早く行く。
何が可笑しいのか知らんが、先程から俺達の後を付けてはゲラゲラと不愉快な声で笑われて腹立たしい。
それにリツコ先生に更に嫌われた気がするから、尚更腹立たしかった!
封印を解き、姿を現した我が鬼の手。
リツコ先生をつけ回す下劣な悪霊の姿を、文字通りこの手で引きずり出して、成仏させてやる。
「キャアアアア!」
絹を裂くような悲鳴が響く。
「リツコ先生!」
振り返れば道明先生に支えられ気を失っているリツコ先生がいた。
俺の鬼の手を見て気を失ってしまったというのか。
そんな……これからストーカー悪霊の正体を暴き、地獄先生ぬ~べ~の活躍が始まるというのに……!
「ぬ、鵺野先生……それ」
道明先生の顔は驚愕の色に染まっていた。
眼は大きく開かれ、俺の左手を凝視していた。
「生徒達の噂は本当だったんだ」
そんな彼女の独り言が聞こえた気がした。
ーーー
5年3組のぬ~べ~の左手は鬼の手を持っている。
昔、鬼と戦ったことが原因で、鬼の手になってしまったらしい。
普段はその霊能力の30%も発揮できない。
でも、生徒達のためなら120%の力を発揮する。
そんな感じで童守小5年3組の鵺野先生は結構有名だ。
私の生徒達も「ぬ~べ~先生」と呼んでは、そんな話をしてくれた。
まさかそれが今ここで、噂の鬼の手が見られるなんて。
紫の骨格に、剥きだしの赤黒い筋肉が蠢き、翡翠色の爪が鈍い光を放っている。
更に、鵺野先生の瞳は血のように真っ赤に染まり、鬼の手も相まって、この世ならざる異形の者だった。
目には見えない者達に悩まされていた彼が、闇の住人達の一員になった気がして、私は背筋がゾクリとした。
「姿を現せストーカー野郎!」
そう叫び、すぐ傍に立つ電柱へと手を伸ばす。
そこには何もないのに、彼の大きな鬼の手がぐわっと開き、何かを確かに掴んだ。
彼は腕を引くと、あたかもそこに隙間があって、その隙間に隠れていたソレが、ずるりと姿を現した。
青白く弛んだ肌。
疲れ切って落ち窪んだ両眼。
少ないけれど乱れきった毛髪。
シワの覆いワイシャツとネクタイとスーツ。
人の形をしているけれど、肌の色といい、恨みがましく鵺野先生を睨んでいる目つきといい、この世の者とは思えなかった。
この世の者ではない、
中年の男だった。
これが、鬼の手の力。
目には見えない闇の住人を触れることができる力。
そしてこれが、いわゆる幽霊。
テレビの心霊特集でしか見たことがない幽霊が、今、ここにいる。
「お前がリツコ先生のストーカーだな?!」
落ち窪んだ瞳で上目遣いに睨んでいる男も不気味であったけれど、地獄の釜の色をした瞳で凄んでいる鵺野先生もなかなかの迫力だった。
「お前こそ一体何者なんだよ!」
中年の幽霊は湿度と粘度を多分にはらんだ声だった。
「オレはただ……あの人が……好きで」
鼓動も血流も無いのに、その幽霊は頬を赤らめて、手を組んでモジモジし出した。
鵺野先生は「気色悪っ」とあからさまにぶるりと震えてみせた。
「ヘンな男と絡んでいるから、心配だったんだよ!だからずっと見守っていたんだ!!」
「彼女からしてみればアンタの方がヘンな男なんだよ!」
「お前も大概だぞ。さっきだってリツコさんを怖がらせていたじゃないか」
「じゃかぁしい!お前にだけは言われたくないわい!」
唾を飛ばしながら言い合う幽霊と人間。
シュールな光景に私はリツコ先生を支えながら呆然と見守っていた。
これ、ハタから見たら鵺野先生が独りでキレ散らかしているように見えるから、早く何とかしないと通報されかねない。
なんとか止めさせないと。
あの幽霊はリツコ先生が好きなのだろう。
諦めろ、という直球な言葉は気の毒すぎて掛けられないけれど。
「すみません…」
声をかければ、二人は勢いよく私の方を見た。
「リツコ先生のことを好きになったキッカケって何なんでしょう?」
「道明先生!そんな事聞いてどうするんですか?!」
「よくぞ聞いてくださいました!あれは一週間前のこと…」
一週間前。
よくよく思い出せば、リツコ先生の元気が無くなったのもちょうどそのあたり。
会社をクビにされて絶望して自ら命を絶ったものの、成仏しきれず、この世を彷徨っていたところ、リツコ先生に出会って一目惚れしたらしい。
「彼女こそ極楽浄土。リツコさんの傍にいられればオレは幸せなんです……。美しい清らかな笑顔に荒んだ心が癒されるんです」
咽び泣く幽霊は、胸ポケットからポケットティッシュを取り出して、盛大な音を立てて鼻をかんだ。
「これといった趣味も無く、恋人もいない。会社と家を往復する味気ない毎日。そんな毎日からおさらばできて未練なんてないはずですが、何故かあの世に行くこともできなくて」
「じゃあ俺が念仏唱えてやるからさっさと成仏しろ、ストーカー中年幽霊!」
「坊主でもないくせに何を言うゲジ眉青二才!」
「と!とにかく!」
言い争いが再び始まる前に私は間に入る。
「貴方は成仏したいんですか?したくないんですか?」
「リツコさんのお側にいたい……けれど」
「リツコ先生は、オバケとか幽霊とかダメだって……彼女を見ていてご存知ですよね」
力なく頷く幽霊。
「分かってはいるんです。このままではダメだと…」
成仏できずにこの世に残っているうちにリツコ先生という未練ができてしまった彼を成仏させるにはどうすればいいのだろう。
「鵺野先生、どうしましょう?」
「どうもこうも…もう強制的に除霊するしか手段は無いですよ」
吐き捨てるように言う鵺野先生。
リツコ先生のことになると感情的になってしまっていけない。
「それじゃあ可哀想じゃありませんか。いっそリツコ先生に告白して玉砕してもらうとか……」
「道明先生もなかなか残酷なこと言ってますけど」
「律子!!」
澄みわたるような声が数メートル先から聞こえてくる。
声の主を見れば、スーツ姿の男性がこちらに向かって走ってきている。
整った顔立ちに、シワ一つ無いシャツ。
ネクタイピンもネクタイの柄もスーツの色合いも、何もかもが調和していて隙が無い。
「律子!大丈夫か?!」
「あ、あの。貴方は?」
突然、現れた美青年に鵺野先生も幽霊も一歩引いて傍観している。
「申し訳ありません……私は」
彼は律子さんの恋人だった。
彼の自己紹介に鵺野先生は顎が外れんばかりに大口を開けて衝撃を受けていたし、中年幽霊も白い顔がもっと白くなった気がした。
「リツコさんは貧血を起こしてしまって」
適当に誤魔化す私に、リツコ先生の彼氏さんは悲しそうな表情を浮かべ、溜息を付いた。
「ああ、俺の…私のせいなんです。ストーカーなんて気のせいだなんて、彼女の気も知らないで無神経なことを言ってしまって……」
「心配になって来てみたのですか?」
彼の言葉を引き継ぐと、彼は何度も頷いた。
リツコ先生を彼に引き渡すと、深々と礼をして去って行ってしまった。
「あ……あ……」
「そんな……」
立ち尽くす二人。
リツコ先生とその彼氏さんの背中が遠くなっていくも、尚も立ち尽くす。
橙の空の端には藍色の天幕が差し込んできていて、一番星も輝いていた。
何て声をかければいいか。
私は一番星を見上げているしかなかった。
私達を嘲笑っているのか、憐れんでいるのか、グラデーションの空を烏が鳴きながら飛んでいった。
「……ふ」
先に動いたのは中年の幽霊だった。
彼はふわりと地面から足が離れ、宙を揺蕩っていた。
「なんだか成仏できそうなきがするぜ」
鵺野先生と私の周りをフワフワと飛び回っている。
「本当ですか?」
「ああ。姉ちゃん、ありがとうな」
私は何もしていない。
首を振れば、中年幽霊は口の片端だけ吊り上げ、ニヒルな笑みを浮かべた。
「話を聞いてくれたじゃねえか」
「それだけですよ」
「こんな俺を見ても普通に接してくれた」
驚きを通り越すと驚けないものなのだ。
「リツコさん、幸せになるといいな」
リツコ先生と彼氏さんが帰っていった方角を、彼は目を細めながら見つめていた。
「話も聞いてもらったし、諦めがついたしで、色々吹っ切れたよ」
彼は両手を組んで空へ伸ばせば、ポキリと関節が鳴る。
幽霊でも関節は鳴るのかと内心感心していると、私の背中をバンバン叩いてきた。
でも叩かれた感覚はしなかった。
「姉ちゃんも、いつか振り向いてもらえるといいな?」
誰に。
眉をひそめれば、幽霊は顎で鵺野先生を差した。
鵺野先生はまだ黄昏れている。
「私は別に」
「隠すなって」
声をあげて笑う幽霊は空高く舞った。
「じゃあ。ゲジ眉の兄ちゃんに宜しくな」
「鵺野先生!ほら、幽霊、行っちゃいますよ」
私は鵺野先生の肩を揺らせば、彼は幽霊を見ずに、片手を挙げて軽く振った。
その様子に豪快な笑い声をあげながら、幽霊は藍色に染まる空へと向かい、溶けていった。
ーーー
夜の童守町の一角に止まっている赤提灯の下がった屋台。
石川先生と時々訪れているらしく、なれた様子で暖簾をくぐり、店主に挨拶をしながら座る。
私も先生に続けば、出汁の匂いと熱気が迎えてくれた。
春とはいえ夜は冷える。
おでんの湯気が私達の頬を温めてくれた。
「なんだい先生。女連れなら他の店行きなよ」
鵺野先生と私を交互に見てケタケタ笑う店主に、私は曖昧な笑みを浮かべるしか無かった。
「すみません、こんな所で。今日は俺の驕りですんで」
「こんな所で悪かったな」
給料日を過ぎたばかりとはいえ、日頃の彼の食生活を見ているから奢られるのは憚られた。
「いえ。自分の分は払いますよ」
「まあまあ。ここは先生を立ててやってよ。ほら、俺からのサービスだよ」
そう言って店主のおじさんから差し出された枝豆の小鉢。
「ありがとうございます」
「じゃあオヤジ、ビール!瓶で!」
「なんだいヤケ酒かい?」
肯定にしかみえない沈黙。
差し出された瓶ビールと二つのグラスを黙って受け取る鵺野先生。
「さあさあ、道明先生、一杯どうぞ!」
自棄っぱちな笑顔でグラスを渡された。
付き合ってあげるのが良いだろう。
「じゃあ。いただきます」
にこりと受け取れば、とくとくと注がれる黄金の液体。
「私も注ぎますよ」
「すみません」
瓶を受け取り、鵺野先生のグラスに差し出す。
「付き合ってもらっちゃってすみません」
首の後ろを搔く鵺野先生に、私は首を振る。
「あの幽霊さんは成仏しましたけど、先生は明日がありますからね」
失恋しても彼には幸か不幸か明日がやってくる。
「はあぁぁ」
がっくしと肩を落とす鵺野先生。
おじさんはそんな私達の会話に首を傾げながらも、踏み込まずに黙っておでんの具合を見ている。
「お疲れ様です」
「お疲れ様……」
かちんとグラスが鳴る。
同じタイミングでグラスを傾け、同じタイミングで飲み干してグラスを置いた。
それが可笑しくて鵺野先生もおじさんも私もケラケラ笑った。
「オヤジ、大根と糸こんにゃくと竹輪」
「私ははんぺんと大根をお願いします」
「はいよ!」
菜箸でひょいひょいと注文の具を小皿に乗せて、私達に差し出した。
「先生は黙ってればカッコイイのに、喋るとオカルト話ばっかなんだから!」
飴色の半透明の大根を箸で割る。
口に運べば熱々の出汁が口の中に広がり、咀嚼の度に幸福が滲む。
「どーせ俺はモテませんよ」
「リツコ先生が好きな話をすれば良かったのに。大幽霊展だなんて」
口を尖らせて「だって」と口ごもる鵺野先生は、竹輪を一口で食べてしまった。
「あーあ。せっかくのチケットが」
「むしろ一緒に行ってもらえると思ったところが凄いですね」
先生は箸の先を口に咥えたまま、ポケットからチケットを取り出した。
裸電球の下で見る二枚のチケット。
そこには種類の違う幽霊画がプリントされていた。
芸術的に価値の高い絵画である事は間違いないのだが、薄く開かれた口から血を流して、こちらを恨みがましく見つめる幽霊は、その淡い色彩も相まって思わずぞくりとする。
「これ、渓斎英泉……こっちは歌川国芳」
「お。姉ちゃん、画に詳しいんだね。先生の知り合いってことは、美術の先生だったり?」
「体育の先生です」
幽霊画に詳しいのは、少しでも怪異について詳しくなりたかったから。
あの人に近づきたかったから。
鵺野先生にはオカルトには興味はないと言ったけれど、本当は……。
箸を咥えながらも「はぁ」と器用に溜息を溢す鵺野先生に、おじさんも盛大な溜息を付いた。
「先生、バカだねぇ」
「どーせバカですよー。リツコ先生が怖いのが嫌いだって知ってても、俺にはこれしかないんだから」
「違う違う」
鵺野先生の空いたグラスにビールを注げば、再び一気に飲み干されてしまった。
「なんだよぉオヤジ」
まだ二杯しか飲んでいないのにもう酔っている。
歓送迎会の彼は酒に強い印象を受けたのだけれど……ヤケ酒だから回りが早いのだろうか。
「こっちこそ何だよ、だよ。今の会話聞いてなかったのかよ」
「へぇ?」
何とも気の抜けた声をあげる鵺野先生に、おじさんはさっきより盛大な溜息を付いた。
「姉ちゃんが、その絵のこと、知ってるんだとよ」
両手をカウンターについて、一節一節強調するようにおじさんは言う。
そして鵺野先生を見て、何かを促すように顎で私を指す。
何を言わんとしているのか察した私は口をパクパクさせておじさんに手を振ってそのご厚意を打ち消そうとしたが、茶目っ気たっぷりの笑顔でウィンクを返されてしまった。
「道明先生……?」
鵺野先生を見ればキョトンとした顔をしていた。
その顔は、かつての彼を彷彿させるあどけなさがあった。
「ご存知なんですか?」
「あの……はい。先日は興味はないと言ってしまいましたが、幽霊とか妖怪とか、興味があって……だから幽霊画も」
私が言葉を紡ぐほど、鵺野先生の瞳に輝きが宿り、光が増す。
気が付けば両手をがっしりと掴まれた。
「本当に?!」
顔が近い。
必死とも言えるその様子に私は少し仰け反ってしまった。
私が頷くと鵺野先生は手を離してくれた。
嬉しそうに手酌をして一気にグラスをあおった。
「いや~、嬉しいなぁ。同期で同じ体育専攻で、しかも妖怪にも興味がおありなんて」
「そうですね」
あっ、と鵺野先生は閃いた。
「宜しければどうぞ、差し上げます」
差し出してきた先生の手には二枚のチケット。
おじさんはずるりと滑った。
「ばっかやろ……」
息が混じったおじさんの叫びを無視して鵺野先生は更にチケットを私の前に押し出してきた。
「に、二枚とも?」
私も予想外の出来事に瞬き、受け取れずにいる。
「ええ。道明先生にはもっと妖怪や幽霊に興味を持ってもらいたいですから!これで二回行けますよ!」
鵺野先生はにこにこと白滝を頬張った。
「あ…ありがとうございます」
私はチケットを受け取った。
「さ、道明先生ももう一杯!」
とくとくとグラスに注がれるビール。
瓶は空になったようで、上機嫌でビールをおじさんに差し出した。
「オヤジ、もう一本!」
ひったくるように空き瓶を奪ったおじさんは、さっさと新しいビールを鵺野先生に渡し終えると、椅子に座って煙草をふかしはじめた。
「恋人か友達を誘ってもいいですし。ぜひ楽しんできてください」
「はあ…」
私もはんぺんを摘まむ。
ふにゃりと柔らかい食感と甘みが口に広がる。
鵺野先生はこれ以上ないくらい上機嫌だ。
1時間前はこの世の終わりみたいな顔をしていたというのに、今は子どものようにはしゃいでいる。
鵺野くん。
幼い頃に抱いていた淡い想いは、今は無いけれど。
またこうやって再び会えたのだ。
私もグラスを一気に呷る。
「お!良い飲みっぷり!」
「やるね、姉ちゃん」
一拍遅れてやってくる高揚感に私は身を委ねた。
「鵺野先生」
私は一枚のチケットを彼に差し出す。
「鵺野先生と一緒に行きたいです。案内と解説、お願いしてもいいですか?」
おじさんも鵺野先生も目を丸くしている。
「友達はこういうの興味ないし、彼氏なんていませんし」
「えぇ?!」
素っ頓狂な声をあげる鵺野先生。
彼氏はいないってリツコ先生と話しているのを聞いていなかったのだろうか。
「い、いらっしゃらないんですね、いやぁ、い意外だなぁ」
彼は頭を乱暴に搔いている。
十数年ぶりの再会。
覚えていらっしゃらないのであれば、もう一度始めからやり直そう。
貴方を知りたい。
願わくば私のことを思い出して欲しいけれど、まずは、貴方と友達になりたい。
「次のお休みの日に。…だめですか?」
「いえ!全然!暇です!」
必死に首を振る鵺野先生が可笑しくて、けらけら笑いながら残っていた大根を摘まんだ。
冷めていたけれど、味が染みていて、やっぱり美味しかった。