怖くない
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なんとも後味の悪い忍務であった。
人を殺める忍務は初めてではないが、だからといって慣れるものではない。
慣れたふりはできるが。
悲鳴さえあげさせずにこの世から葬ってやったのがせめてもの救いだったのかもしれない。
これから父の着替えを家に持ち帰るために忍術学園に行く。
友と学び競い合い、制服として忍装束をまとう彼らの笑顔は尊いし、歪になった人間らしさが整うのだ。
正門の戸を叩く。
潜り戸から出るのは、へっぽこ事務員か、異世界から来た事務員か。
いずれにせよ、あの何とも間の抜けた顔を見ると肩の力が抜けるのだ。
「はーい」
女の声。つまり、異世界から来た事務員だ。
「こんにちは朱美さん」
微笑みかければ、彼女の顔はみるみるうちに歪む。おぞましいものを見るような顔だ。
それはそうだ。彼女に微笑むなど珍しいことは自覚している。しかしそれはお互い様だ。
「山田先生なら教員長屋にいますよ」
顰めっ面で入門票を渡す彼女は相変わらずだ。
「分かりました。食堂に行ってから向かうことにするよ」
「誠に残念ですが、おばちゃんは今、里の用事でおりません」
それは本当に残念だった。
利吉はこの学園に来た理由の九割が無くなってしまった。
「それなら、父からさっさと着替えを受け取って帰るとしよう」
「どうせなら親子で帰ってくださいよ」
「そう簡単にいかないのはご存知でしょう」
教員長屋へと歩き出せば彼女も横を歩く。
掃き掃除をちょうど終えたところだという。
それならば父の伝蔵を説得してほしいものだと利吉は思う。
ちらりと彼女を見れば、口端だけ吊り上げニッと笑いかけられた。
「お疲れですか?」
顔に出てはいないはずだ。
忍ではない、それこそ戦とは無縁の世界にいた彼女に見抜かれてしまった。
それほど自分は疲弊しているのだろうか。それとも適当に言ってみたまでなのか。
「朱美さん」
彼女は飢えも貧しさも知らない世界で生まれ育った。それなのにこの世界で生きることを選んだ。
半助と生きるために。いや、彼女に言わせれば、自分を含めた半助達と生きるために、だそうだ。
全く立派で綺麗な決断だ。
「はい?」
「私は人を殺めたことがあります。つい、さきほども」
足は止まらなかったが、沈黙が二人の間を支配する。
彼女の表情を覗えば、無表情で前を向いたままだった。
「でしょうね」
そっけない一言で返された。
鼓動が止まった者の瞳を知らぬ故か、はたまた利吉に興味が無いのか。
「忍者って、それこそ色々なお仕事をしますもんね。暗器だってあるくらいですし」
「………私のことが怖くはないのですか?」
その時、彼女は立ち止まって利吉に体を向けた。
「利吉さんは楽しんで殺めてるんですか?」
焦げ茶色の瞳がまじまじと利吉を見上げる。
軽蔑でも期待も込められていない、極めて事務的な視線だった。
「そういう趣味は持ち合わせてはいないです」
「別に持っていても軽蔑はしませんよ。心の中で留めているだけなら」
この女は大胆なことを事もなげに言う。
この学園にいる者は、彼女の変化にやたら驚いていた。この世界に来たばかりの時は、内気そうに見えた彼女だが、本当は強情で、一途だということを意外に思われていたが、利吉はそうではなかった。
彼女が推測した懐中時計のカラクリの非現実性を率直に指摘してやれば、傷つく様子は一切なかった。
その後、彼女は自身の過去に抱いていた不安を解消したいがために利吉を追いかけた。初めて会った日だというのに、無遠慮な質問をしてきたのだ。
利吉に向けられる視線も、今のように極めて事務的であった。
伝蔵の息子ということへの試すような視線でもなく、フリーのプロ忍者ということへの羨望の視線でもなく、母譲りの顔立ちへの色めきだったものでもなかった。
そんな事務的な瞳で、父親の女装姿を褒め、そこで初めて彼の息子として「さぞ彼の女装姿は見事であろう」と褒めそやしたのである。
「そうですか」
「どうしたんですか?お疲れですか?何か作りましょうか」
おばちゃんの腕には遠く及びませんが、と言いつつ、腕を組みながら彼女は再び歩み始める。
食堂にある食材を思い出しているのかもしれない。
「いえ、お構いなく」
「遠慮なんてらしくないですよ」
息をこぼしてそっと笑う彼女は、成程、綺麗になったなと思った。
「色々お疲れでしょう。ここに来たとき位はゆっくりしてくださいよ。あ、でも忍たま達に会ったらゆっくりできないか。フリーの売れっ子忍者さんは学園でも人気者ですもんねぇ」
前言撤回だ。
意地の悪い笑みへと顔を変えながら、悪意のある発言をする彼女の可愛げのなさは、相変わらず腹立たしい。
「貴女こそ」
何のことやらと首を傾げる彼女の白々しさに利吉は、今日初めて、心から笑みが溢れた。
正門で見せた作り笑いではない、無意識に頬が緩んで出たものだった。
「土井先生のために作るついでだと正直に仰ればいいのに」
「バレました?」
「丸わかりです」
お互い、いい笑顔だったと思う。
「正確には山田先生と土井先生のおやつのついでですよ」
「父もついでなのでしょう?」
初対面の時、彼女は半助のみ視線を合わせることを躊躇っていた。つまり、彼女にとって半助は特別であったのだ。晴れて結ばれても、仲違いをしたり、変に遠慮をして距離が縮まらなかったりと、頑固ゆえの不可思議な関係が続いていたのが歯がゆかった。
しかし今はどうだろう。
事務員をしながら食堂で調理補助をする彼女はかなり多忙だ。しかしその権利をうまく使い、半助との接点を持とうとしている逞しさを持っている。
「そんなことないです。山田先生も今日は実技の下見をされたり、試験の準備をしたりとか大変なんですから」
「では、お言葉に甘えてお願いします」
「承知しました」
にこりと微笑む彼女に利吉も微笑み返す。
「利吉さん」
「はい?」
彼女は再び足を止める。
一度大きく息を吸った後、静かにゆっくりと息を吐き、利吉をまっすぐ見つめた。
「利吉さんのこと、怖いなんて思ってないです」
苦無を握り、人を殺めた手を朱美は力強く握りしめた。
「怖くないのは、私が何も知らないからじゃない。この手で人を殺めたとしても、私は利吉さんの言葉に救われたから。皆の憧れの存在として振る舞う利吉さんを知っているから」
目を細めて微笑む彼女に、利吉はハッとした。
この世界を一度は離れ、再びこの世界に戻ってきた彼女の覚悟の重さを改めて知ったのだ。
後悔も、別れを告げられずに離れねばならなかった痛みも受け入れる覚悟を背負っているのだと知る。
微笑みの中に、あの頃の彼女には無い悲しみを秘めていたのだ。
それは、罪を背負い続ける覚悟を持った瞳だった。
「無理はしないでくださいね」
たまには下らない口喧嘩をしない日もいいかもしれない。
そう思いながら利吉は包まれた手の暖かさを感じながら頷いた。
「おーいお二人さん」
背後からの声に、利吉も朱美もハッとした様子で手を離した。
気配を感じさせずにいられる忍など限られている。伝蔵であった。
「なにやら良い雰囲気のところお邪魔するが」
「父上………」
「山田先生………」
二人の顔を見て伝蔵は大きく笑った。
その時、午後の授業の終わりを告げる半鐘の音が響く。
「二人共、苦虫を噛み潰したような顔をしおって」
「父上が変なことを仰るからですよ」
「そんなことより山田先生。利吉さんと一緒に家に帰ってはいかがですか?」
朱美の発言に伝蔵も利吉も目を丸くしながら顔を見合わせ、そして再び彼女を見た。
「何を言う。私が帰るより息子が帰ったほうが妻も喜ぶ」
「母上はいつも父上が帰られないことを嘆いていらっしゃいます。着替えは届けて差し上げますから、父上がお帰りください!」
「え。利吉さんは泊まらないんですか?!」
「当たり前です!忙しいんですから!」
「信じられない!奥様かわいそう………」
「そうだ利吉。たまには母親の傍に」
「って、山田先生もですよ!なに他人事でいるんですか」
その時、伝蔵の視線が朱美の背後より後ろへと移る。利吉も朱美も振り返った。
授業を終え、長屋へと向かう半助がいたのだ。
やいのやいのと言い合う三人を見ながらこちらに歩いてきたのだろう、困ったような笑みを浮かべていた。
「半助さん!」
先程までの調子とは打って変わる。
彼女の弾んだ声色に、利吉は吹き出しそうになったが、なんとか堪えた。
「お疲れ様です。おにぎりとちょっと軽いものをお作りしてお運びしようかと思っていまして」
「ありがとう。お願いするよ」
微笑む半助に対する彼女の顔はこちらからは見えない。しかし、
「尻尾は見えますね。激しく振っている尻尾は」
うんざりした様子の利吉に伝蔵はくつくつと笑う。
「半助が羨ましいか?」
「いえ」
即答だった。
「鬱陶しくないんですかね」
「お前ってやつは………」
苦笑いする伝蔵だが、窘めもしなかった。
息子の顔は、もう既に忍のそれから一人の青年へと変わっている。
「あー!利吉さんだぁ!」
「本当だ!利吉さぁん!」
見つかってしまった。
利吉は小さく溜息をついた後、手を降りながら駆け寄ってくる井桁模様の忍装束達に手を振り返した。
「こんにちは」
何がおかしいのか分からないが、朱美が小さく吹き出したのを利吉は聞き逃さなかった。
口喧嘩をしないなんて前言撤回だ。
この後、たっぷりと皮肉とからかいの言葉をかけてやろうと利吉は思うのであった。