「好き」は蜜の味 ラッキョウを添えて
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行ってらっしゃい。
と言って、触れるだけのキス。
食堂の勝手口で、そんな新婚さんみたいなやりとりをした今朝。
食堂のおばちゃんは、明日まで休暇中。
だからこそできた大胆なやりとりである。
私は思い出してはニマニマしながら、鍋の中の味噌汁をお玉でくるくるまわしている。
「どこんじょー!なにを締まりのない顔をしている!」
まず「どこんじょー」の大音声に飛び上がり、勝手口から勢いよく入ってきた大木先生に声を上げてしまい、二度驚いてしまった。
「大木先生……驚かさないでください」
ばくばく鳴る心臓を落ち着かせるために胸に手をやる私に、大木先生は冷ややかな視線を浴びせてきた。
「お前がだらしない顔をしていたからじゃろう」
「いつから見てたんですか」
「土井先生とお前がそこで口吸いをしてたところから」
と、大木先生は勝手口を指差す。
私は思わず悲鳴を上げてしまった。
「み、見てたんですか?!」
湧き上がる羞恥に私は頭を抱えしゃがみこんだ。
「安心せい。土井先生はわしに気がついておったぞ」
「それの何を安心せいっていうんですか」
気が付いてたのにキスをしてきた半助さんがそれはそれで謎すぎる。
「ほれ、そんなことより早く飯を作らんか!」
「………そんなことより……」
確かにさっさと作らなければ、皆がやってきてしまう。
私はよろよろと立ち上がり、盛り付けを始める。
「お。これは何だ?朱美。お前の世界のものか?…………教えんか!」
さっさと作れと言ったのにマイペースな人だ。
「何とも精巧なつくりをしている。器の色も形もまた妙なつくりじゃの」
何て答えようか考えている間も大木先生はあれこれ言ってくる。
「これは………惚れ薬です」
「惚れ薬ぃ?!」
大学の友達から貰ったジョークグッズである。桃色のガラス瓶でハートの模様が刻まれているだけの、ただのケーキシロップである。
お昼にパンケーキを作ってみようと思い、朝のうちに持ってきたのだ。
「偽物ですけどね。中はただの糖蜜ですよ………って何勝手に食べてるんですか」
大木先生は勝手に開けて匙に蜜を垂らして、パクリと食べてしまった。
甘味の少ないこの時代。
その甘さに驚いているのか、大木先生は私を見たまま大きな眼を更に見開いていた。
「どうですか大木先生?」
「朱美………」
大層感動したのだろうか。
大木先生の声は真剣そのものだった。
すぐに生徒たちに渡せるように、朝食セットのお盆を作っていきながら、大木先生の反応を待った。
しかし、無言のままだった。
「朱美」
再び名前を呼ばれ振り向けば、大木先生はすぐ傍に来ていた。
白いハチマキ、無造作な豊な髪、傷だらけの頰、逞しい胸板。
漂う土の香りに、大木先生だなあとしみじみと感じる。
声が大きくて、豪快で。
納豆と生卵が苦手で。
そして頰の傷は髭剃りのときに付けてしまうと知ったのは結構最近。
そんな不器用で真っ直ぐで迷いのない大木先生が私は好きだ。
元の世界に戻ることを恐れていた時も、失敗続きで落ち込んでいた時も、私を厳しくも優しくて励ましてくれた。
北石さんの座右の銘が「どこんじょー」になったのも分かる。
どこんじょー、と言えば何だか元気がわいてくるのだ。
「何ですか?シロップは美味しかったですか?」
ラッキョウのシロップ漬けとか、美味しいのか分からないけれど使いたいのであれば差し上げようと思っていた矢先、強い力に引っ張られて躰が傾いていく。
「好きだ」
温かいと感じたのは、大木先生の胸板。
私は大木先生に抱きしめられたのだと、ワンテンポ遅れて気がつく。
「はい?」
何を仰っているのか。
見上げれば熱っぽい瞳が目の前にあった。
「わしの嫁になれ」
「はい?」
あ。分かった。
惚れ薬なんて言ったから、大木先生は演技してるんだ。
そして私が慌てて「何を言ってるんですか!」と言ったところで、「冗談じゃ!何を真に受けている」と大笑いするのだろう。
「またまた~。何を言ってるんですか」
私は大木先生の肩を遠慮無くバンバン叩く。
「わしは本気だ」
「え」
あ。これはかなり本気で抵抗しないと、大木先生からのドッキリ宣言はされないらしい。
「大木先生!!わ、私には……半助さんという……み、未来の、夫が」
事実だけど、いざ口にしてみれば恥ずかしい台詞を言ってみる。
「かまわん」
「……」
耳元で囁かれてしまった。
いつもの「かまわん」は、堂々としていて、その4文字がそこら中に響き渡るほどなのに。
顎を掴まれ、大木先生と視線が合う。
「わしの事も好きになればよい」
なんという心の広い発言。
昔見た昼ドラの登場人物達もそのような考えだったらドロドロの愛憎劇など繰り広げられなかっただろう。というかそもそもドラマにならない。
ていうか一妻多夫っていいんだっけ?
そこまで考えたところで、いよいよ大木先生の様子がおかしいと思い、私の中で焦りが広がる。
一向に離してくれないし、吹き出しもしてくれない。
徐々に大木先生は私の顔に近づく。
「え……ちょっ、………大木先生…!」
後数センチ……といったところで、大木先生は離れてくれた。
そして食堂の入口に笑顔を向けている。
そこには見たこともない冷たい表情をした半助さんが立っていて、指にはチョークが挟んであった。
まさかと思って大木先生を見れば、その手にはチョークが握られている。
「大木先生……一体これはどういうおつもりで?」
聞いたこともないほどの半助さんの低い声に、恐怖と興奮にぞくりときてしまった。
しかし、心なしか半助さんの顔色は良くないように見える。
「見てのままじゃが」
「朱美、こっちにおいで」
「はい!」
なんなら「よろこんで」もつけ足したい。
いそいそと駆け寄れば、半助さんに強い力で引き寄せられた。
朝から半助さんに抱擁までされて何て幸せなのだろう………と締まりのない顔をしてしまったから、半助さんは私を見るなり溜息を付いた。
「なにをニヤけているんだ…全く」
でも心なしか、少し嬉しそうな様子であることを私は見逃さない。
大木先生はそんな私達のやりとりを見て、愉快そうに笑うと、
「朱美、また来るぞ!」
「え……あ、はい」
「その時はお前を杭瀬村に連れて行く」
「え」
「大木先生?!」
焦る私達をよそに、大木先生は颯爽と去って行く。
半助さんは口をぱくぱくしたまま、彼が去って行った勝手口を唖然とした様子で見つめていた。
「一体何がどうなっているんだ」
私もよく分からないが、先程までのやりとりを説明しようとしたが、ガヤガヤと廊下が騒がしくなった事から、話は朝食後にすることになったのだった。