蛍
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
時が止まればいい。
あり得ない願いを願い続けていた。
「さっそくですが、蛍を見に行きませんか?」
その夜、伊瀬階さんの部屋を訪れた私は、ほんの少しだけ騒ぐ胸を抑えながら言った。
誘いの言葉はうまくさり気なく言えただろうか。
彼女は数秒間ほどポカンと口を開けたままだったが、やがて耳まで赤く染め、慌てふためいていた。
蛍を見たい。
彼女のやりたい事の1つだった。
しかも真っ先に挙げた内容だった。
願いを叶えてやりたい。
そう、思った。
それだけだ。
忍装束に着替えた伊瀬階さんと共に、外出届を小松田くんに提出して学園を出る。
雨は上がっていた。
ぬかるんだ道に気をつけて山道に入り、小川へと目指す。
「暗いから、手を繋ごう」
「…え、あ、はい。お願いいたします」
畏まった彼女に悟られぬようにクスリと笑う。
彼女の纏う雰囲気が固い。それは警戒ではなく、緊張からくるものだ。
手を握れば、その気配は更に濃くなる。
静まり返った裏山のなかを黙って歩いていた。
彼女の歩きやすさのために龕灯か手燭を持って行くべきだった。けれども持ってこなかったのは、こうして手を繋いでゆっくりと歩きたかったからかもしれない。
ゆっくりと足場の悪い道を進む。
「あ、あの!」
「何だい?」
突然話し始めた彼女の声は、少し上ずっていた。
「お忙しくはなかったのですか…?」
気遣うような視線を向けているのが分かる。
またその類の気遣いかと、私はそっと溜息を溢した。
補習ばかりの一年は組の授業の進捗状況を、彼女はいつも気にする。
「すみません。まさか土井先生が連れて行ってくださるとは…」
「誰かと行くつもりだった?」
振り返らずに尋ねたのは、胸の中に暗い影が落ちたから。
そんな仄暗い気持ちを悟られたくなかった。
「いえ………」
何かを続けたそうな言葉の切れ方だった。
その先が気になったけれど、蛍が見える小川はもうすぐだった。
柔らかな点滅を繰り返す光が見えたのだ。
「伊瀬階さん……見てください」
そっと手を離し、小川の方へと指さす。
「……」
彼女が息をのんだのが分かる。
光ったと思えば消え、また光るを繰り返し、宙を漂う。
小さな光が川面を微かに照らしていた。
「凄い……」
彼女視線はその小さな光達に注がれていた。
目を輝かせて蛍達を見る彼女の横顔を見つめる。
この瞬間も思い出になるのだと思うと、途端に胸は騒がしくなった。
いつかは来るのだろうと、漠然と感じていた別れが明確なものになってしまった。
それならば、この一瞬を胸に焼き付けておこう。
彼女の横顔を独り占めできるこの一瞬を胸に閉じ込めれば、永遠になるのだから。
なんて。
つい感傷的になってしまった。
「私の世界では…蛍なんて滅多に見られなくて…」
話し始めた彼女の視線が私へと向けられる。
視線が合ったことを意外に思ったのか、少し戸惑う彼女の様子に、口元が緩みそうになる。
「そうなんだ」
「は…い」
「なら、見せてあげられて良かった」
微笑めば、彼女の頬は再び朱に染まる。
彼女は誰と行くつもりだったのか。
そんなことは最早どうでもいい。
こうやって二人きりで見られたのだから。
「私も…こうして先生と見られて良かったです」
もしかしたら自分と行きたかったのかもしれない。なんて都合の良い解釈をしてしまおう…なんて思った矢先に、そんな事を言う。
彼女を見れば、幸せそうに微笑んでいる。
その頬は依然と赤いままだ。
私も何でもないフリをして微笑み返す。
「もしも帰らなかったら。来年も見に行こう」
そう言えば、彼女は驚いたように目を大きく開いた後、くしゃりと笑った。
「はい」
来年も……二人で。
とは言えなかった。
いや、言わなかった。
「もう少し近付いてみるかい?」
「そうですね」
この気持ちは、蛍の命と共に尽きてしまえばいい。
だから、今この時だけは、恋人らしいことをしてしまおうと、再び手を繋いだ。
さっきよりもしっかりと手を握った。
再び彼女の気配は固くなる。
熱い手の平と固い気配に、私はそっと微笑んだのだった。
ーーー
川辺に仄かな光が現れれば、周りから歓声があがる。
儚い命の光を目の当たりにして、人々は蒸し暑さも忘れ、あっちにもこっちにもと、光に指差す。
もはやこの時代での闇は人工的なものだった。
ここからたった数キロ先は、人々で生活するための光で溢れかえっている。追い込まれたように闇は押し込められているのだ。
今いる自然公園も、このイベントのために街灯の光を消している。
小さな生命達は、長い間土の中にいて、最期の時を光を放ちながら地上へと舞うのだ。
頼りない星の光も、儚い蛍火も、私の胸を寂しく揺らす。
あの初夏の日を思い出す。
懐中時計の秘密を知って、皆と離れたくなくて、ずぶ濡れになって……半助さんに見つかって。
『そんな日が来なければいい。私も、同じ気持ちですよ』
そう言ってくれて、胸がいっぱいだったあの時。
お互いぎこちない姿勢で、私は半助さんの肩を借りて涙して、半助さんは私の背中を優しく撫でてくれた。
半助さんはどんな気持ちで、どんな表情で受け止めていたのだろう。
確かめようがないけれど、きっと優しく微笑んでいたのだろう。
そして、その夜に「蛍を見に行きませんか」と誘ってきたのだから、心底驚いた。
しかも、雨上がりの夜道は危ないからと、手を繋いで。
嬉しさよりも何よりも緊張で何も考えられなかった。
道中の思い出など、心臓の音が煩かったとしか覚えていない。
だけど、川辺に揺蕩う蛍の光は忘れられなかった。
夜闇を照らす幾多もの光。
湿った空気の不快感も忘れ、命の輝きに心を奪われたのだった。
自分の世界のことを話そうと半助さんを見れば、既に彼はこちらを見ていた。
どこか切なげな、優しい笑みを浮かべながら。
あぁ。やっぱりこの人のことが好きなんだな、と私は思った。
格好いいだけじゃなく、そんな綺麗で儚い表情も浮かべられるのだから。
その瞳に縫い付けられたように、動けなくなったことなど、きっと彼は知らないだろう。
『もしも帰らなかったら。来年も見に行こう』
そんな約束をした夏の夜だった。
だから私はこうして一人で蛍を見に来たのだ。
昼間は、忍者の博物館に行った。
少し前まで直に触れた手裏剣や手甲鉤に宝禄火矢は、硝子越しで見ることしか出来なかった。
硝子越しでもいい。
そっと触れればひんやりと固い硝子の感触が伝わるだけだった。
そして一人、蛍を見に来た。
この時代では自然の美しさを独りで堪能するのは難しい。
観光案内所のチラシを見て、ここにやって来たのだ。
周りは恋人や家族連れで蛍を見ていた。
恋人達は肩を抱きながら、手を繋ぎながら。
幼子のいる家族は、子ども達に蛍を見せようと、その両親が指差していて、子ども達は笑顔があふれていた。
あの時のような闇と静けさは無いけれど、宙を彷徨う蛍火は変わらない。
元の世界に帰っても、私は蛍を見ていますよ。
空を仰ぎ月を見て、私は語りかけたのだった。
あり得ない願いを願い続けていた。
「さっそくですが、蛍を見に行きませんか?」
その夜、伊瀬階さんの部屋を訪れた私は、ほんの少しだけ騒ぐ胸を抑えながら言った。
誘いの言葉はうまくさり気なく言えただろうか。
彼女は数秒間ほどポカンと口を開けたままだったが、やがて耳まで赤く染め、慌てふためいていた。
蛍を見たい。
彼女のやりたい事の1つだった。
しかも真っ先に挙げた内容だった。
願いを叶えてやりたい。
そう、思った。
それだけだ。
忍装束に着替えた伊瀬階さんと共に、外出届を小松田くんに提出して学園を出る。
雨は上がっていた。
ぬかるんだ道に気をつけて山道に入り、小川へと目指す。
「暗いから、手を繋ごう」
「…え、あ、はい。お願いいたします」
畏まった彼女に悟られぬようにクスリと笑う。
彼女の纏う雰囲気が固い。それは警戒ではなく、緊張からくるものだ。
手を握れば、その気配は更に濃くなる。
静まり返った裏山のなかを黙って歩いていた。
彼女の歩きやすさのために龕灯か手燭を持って行くべきだった。けれども持ってこなかったのは、こうして手を繋いでゆっくりと歩きたかったからかもしれない。
ゆっくりと足場の悪い道を進む。
「あ、あの!」
「何だい?」
突然話し始めた彼女の声は、少し上ずっていた。
「お忙しくはなかったのですか…?」
気遣うような視線を向けているのが分かる。
またその類の気遣いかと、私はそっと溜息を溢した。
補習ばかりの一年は組の授業の進捗状況を、彼女はいつも気にする。
「すみません。まさか土井先生が連れて行ってくださるとは…」
「誰かと行くつもりだった?」
振り返らずに尋ねたのは、胸の中に暗い影が落ちたから。
そんな仄暗い気持ちを悟られたくなかった。
「いえ………」
何かを続けたそうな言葉の切れ方だった。
その先が気になったけれど、蛍が見える小川はもうすぐだった。
柔らかな点滅を繰り返す光が見えたのだ。
「伊瀬階さん……見てください」
そっと手を離し、小川の方へと指さす。
「……」
彼女が息をのんだのが分かる。
光ったと思えば消え、また光るを繰り返し、宙を漂う。
小さな光が川面を微かに照らしていた。
「凄い……」
彼女視線はその小さな光達に注がれていた。
目を輝かせて蛍達を見る彼女の横顔を見つめる。
この瞬間も思い出になるのだと思うと、途端に胸は騒がしくなった。
いつかは来るのだろうと、漠然と感じていた別れが明確なものになってしまった。
それならば、この一瞬を胸に焼き付けておこう。
彼女の横顔を独り占めできるこの一瞬を胸に閉じ込めれば、永遠になるのだから。
なんて。
つい感傷的になってしまった。
「私の世界では…蛍なんて滅多に見られなくて…」
話し始めた彼女の視線が私へと向けられる。
視線が合ったことを意外に思ったのか、少し戸惑う彼女の様子に、口元が緩みそうになる。
「そうなんだ」
「は…い」
「なら、見せてあげられて良かった」
微笑めば、彼女の頬は再び朱に染まる。
彼女は誰と行くつもりだったのか。
そんなことは最早どうでもいい。
こうやって二人きりで見られたのだから。
「私も…こうして先生と見られて良かったです」
もしかしたら自分と行きたかったのかもしれない。なんて都合の良い解釈をしてしまおう…なんて思った矢先に、そんな事を言う。
彼女を見れば、幸せそうに微笑んでいる。
その頬は依然と赤いままだ。
私も何でもないフリをして微笑み返す。
「もしも帰らなかったら。来年も見に行こう」
そう言えば、彼女は驚いたように目を大きく開いた後、くしゃりと笑った。
「はい」
来年も……二人で。
とは言えなかった。
いや、言わなかった。
「もう少し近付いてみるかい?」
「そうですね」
この気持ちは、蛍の命と共に尽きてしまえばいい。
だから、今この時だけは、恋人らしいことをしてしまおうと、再び手を繋いだ。
さっきよりもしっかりと手を握った。
再び彼女の気配は固くなる。
熱い手の平と固い気配に、私はそっと微笑んだのだった。
ーーー
川辺に仄かな光が現れれば、周りから歓声があがる。
儚い命の光を目の当たりにして、人々は蒸し暑さも忘れ、あっちにもこっちにもと、光に指差す。
もはやこの時代での闇は人工的なものだった。
ここからたった数キロ先は、人々で生活するための光で溢れかえっている。追い込まれたように闇は押し込められているのだ。
今いる自然公園も、このイベントのために街灯の光を消している。
小さな生命達は、長い間土の中にいて、最期の時を光を放ちながら地上へと舞うのだ。
頼りない星の光も、儚い蛍火も、私の胸を寂しく揺らす。
あの初夏の日を思い出す。
懐中時計の秘密を知って、皆と離れたくなくて、ずぶ濡れになって……半助さんに見つかって。
『そんな日が来なければいい。私も、同じ気持ちですよ』
そう言ってくれて、胸がいっぱいだったあの時。
お互いぎこちない姿勢で、私は半助さんの肩を借りて涙して、半助さんは私の背中を優しく撫でてくれた。
半助さんはどんな気持ちで、どんな表情で受け止めていたのだろう。
確かめようがないけれど、きっと優しく微笑んでいたのだろう。
そして、その夜に「蛍を見に行きませんか」と誘ってきたのだから、心底驚いた。
しかも、雨上がりの夜道は危ないからと、手を繋いで。
嬉しさよりも何よりも緊張で何も考えられなかった。
道中の思い出など、心臓の音が煩かったとしか覚えていない。
だけど、川辺に揺蕩う蛍の光は忘れられなかった。
夜闇を照らす幾多もの光。
湿った空気の不快感も忘れ、命の輝きに心を奪われたのだった。
自分の世界のことを話そうと半助さんを見れば、既に彼はこちらを見ていた。
どこか切なげな、優しい笑みを浮かべながら。
あぁ。やっぱりこの人のことが好きなんだな、と私は思った。
格好いいだけじゃなく、そんな綺麗で儚い表情も浮かべられるのだから。
その瞳に縫い付けられたように、動けなくなったことなど、きっと彼は知らないだろう。
『もしも帰らなかったら。来年も見に行こう』
そんな約束をした夏の夜だった。
だから私はこうして一人で蛍を見に来たのだ。
昼間は、忍者の博物館に行った。
少し前まで直に触れた手裏剣や手甲鉤に宝禄火矢は、硝子越しで見ることしか出来なかった。
硝子越しでもいい。
そっと触れればひんやりと固い硝子の感触が伝わるだけだった。
そして一人、蛍を見に来た。
この時代では自然の美しさを独りで堪能するのは難しい。
観光案内所のチラシを見て、ここにやって来たのだ。
周りは恋人や家族連れで蛍を見ていた。
恋人達は肩を抱きながら、手を繋ぎながら。
幼子のいる家族は、子ども達に蛍を見せようと、その両親が指差していて、子ども達は笑顔があふれていた。
あの時のような闇と静けさは無いけれど、宙を彷徨う蛍火は変わらない。
元の世界に帰っても、私は蛍を見ていますよ。
空を仰ぎ月を見て、私は語りかけたのだった。