甘い予感
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そのスーパー独特のテーマソングが流れているなか、私は一週間分の買い出しのために、カートを押して店内を歩く。
お菓子売り場に行けば、季節柄、板チョコレートが高く積んであった。
あげる相手といえば、照代と利吉と小松田兄弟くらいだろうか。
そんなことを考えながらも、帰って自分が食べるために板チョコを一枚取ってカートに入れる。
あ。
でも。
あの人にあげられたらな。
出会って数回。言葉もほんの少ししか交わしていない、あの人に。
背が高くて、鼻筋が通っていて、目が大きくて。
笑っていないと、とても精悍な面立ちの彼だが、笑うと柔和な印象を受ける。
ほんの少ししか言葉を交わしていないけれど、よく通る声は耳に残っている。
「あれ?あなたは」
今正しく思い出そうとしていた声が意識の外側から聞こえて、私は勢いよく振り返れば、少し驚いた様子の彼が立っていた。
「土井…さん?!」
仕事を終えてそのままスーパーに来たのだろうか。コートからワイシャツとネクタイが見える。
「やっぱり。伊瀬階さんだ」
「こんばんは」
声は上擦ってないだろうか。
まさかスーパーで出会えるとは思わず、心の中の私は大いに盛り上がっている。
「随分買うんですね」
カートに乗せたかごの中身は野菜、肉、魚、乳製品が詰められているなか、たった今乗せた、板チョコが一枚。
「まとめて買って、作り置きしてそれを一週間かけて食べるんですよ」
「料理、お好きなんですか?」
「好きというより、気分転換です」
「それは好きの部類に入ると思うんですが」
家で仕事をするから、気分転換にと三食手作りをしていれば、それが毎日の楽しみになっていったから料理は好きなのかもしれない。
「土井先生は?」
「得意ではないですが、一通りは」
「………じゃあ掃除が好きなんですか?」
土井先生のかごを見れば、洗濯用洗剤や床掃除用の洗剤など生活用品が入っていたから、会話の流れで尋ねてみた。
「ああ、これは。ただの買い足しです」
私の視線に気付いた土井先生は苦笑しながら答えるから、安直な質問をしてしまったことに恥ずかしくなってしまった。
だから話題を反らすことにした。
「家、この辺なんですか?」
「ええ」
そこで土井先生はすこし悪戯っぽく笑った。
「伊瀬階さんの家のすぐ傍ですよ」
初めて見る土井先生の表情に私はどきりとする。
今まで見た土井先生は、いつも困ったように笑っているか、本当に困っている顔をしていたからだ。
それに、土井先生がすぐそばに住んでいる事にも、それを笑いながら言っている事にもドキドキしてしまう。
「あの学園は全寮制でして。教員も希望すれば入れるんです」
ということは土井先生は、あの学園に寝泊まりしているという事だ。
「そうなんですか?!」
この辺は駅から少し歩くし、買い物するには少し古めかしいけれど野菜の質は超絶に良いスーパー雅之助くらいしかない。
もしかしたら今までこのスーパーですれ違っていたかもしれない。
「そんなに驚きます?」
「だって、本当に目の前だったから」
くすくす笑う土井先生。
こうして笑っているのを見ると、変な言い方だけれど、ちゃんと元気なんだなと安心してしまった。
元気な子ども達や自由な学園長に振り回されて胃を痛めていないか、勝手に心配していたのだ。
「すみません、持ってもらっちゃって」
「いえ。帰り道は一緒ですから」
スーパーを出て、学園と私の家まで並んで歩く。
会計を済ませて袋詰めが終わった途端に、待ってくれていた土井先生がひょいと攫うように袋を持ってしまった。
二リットルのペットボトルも牛乳も入っている袋と、野菜を詰め込んだ袋を軽々と持つ先生の力強さに惚れ惚れしてしまう。
「あ。そういえばもうすぐバレンタインデーですね」
「そういえばそうですね」
向かい風が冷たくてマフラーに顔を埋めた。
「土井先生、モテそう」
「モテないモテない」
ちらりと土井先生を見れば、吹き付ける風に前髪が張り付いて、少し幼く見えた。
こんなにカッコいいのに、こんなに可愛く見えるときもあるのに、モテないなんて嘘だ。
騒ぐ胸を抑えるために、私はわざとおどけた調子で話を続ける。
「うそだ。あ、分かりました。彼女さんがいるんですよね」
「いませんよ」
その答えに、失礼だなと思いながらも、嬉しくなって土井先生を見れば、目が合う。
その目はほんの少しだけ悲しそうだった。
「そういう伊瀬階さんは」
「いたら自分用に板チョコ一枚なんてことしませんよ」
私は知っている。スーパーで土井先生が私のかごの中に乗せた板チョコを凝視していたことを。
土井先生はぽかんとした様子で私を見ていた。
「そう、ですか」
私達の間に沈黙が降りる。
もしかして土井先生は、自分用のチョコを買う私に呆れているのだろうか。
それならばいっそ笑ってほしかった。
その時、土井先生の小さな笑い声がその沈黙を破った。
「てっきり誰かに手作りするために買うのかと思っていました」
「一枚じゃ何も作れないですよ」
「デコレーション用か、それとも買い足しなのかと」
私の胃の中に入れられるだけの板チョコ一枚に、そんな想像を巡らせていたのかと思うと恥ずかしい。
「そっか……そうか……」
先生は独りごちながら可笑しそうにくすくす笑い出した。
「そんなに可笑しいですか?自分用に買うことが」
「いえ、違うんです」
私が住むコーポウズマサが見えてきた。
先生と別れてしまう。
「あれこれ想像してしまった自分が可笑しくなっただけです」
「そう……ですか」
その言葉の意味を探りたくても、もう家に着いてしまった。
土井先生は私の買い物袋を差し出した。
「さすがに家にはあがれませんから」
確かに。
すぐ前に建つ学園の関係者が、公用でもないのに部外者の家に上がるのはまずい。
もしも生徒に見られてしまったら土井先生に変な噂が立ってしまう。
先生から受け取れば、ずしりとした重みが伝わる。
その重みと共に私の気持ちも沈んでいく。
土井先生ともう別れてしまう。
もっと先生を知りたい。
もっと先生と話がしたい。
このままお別れするのが嫌で、何とか先生との繋がりを作りたかった。
「あ、あの!」
私は思いつくまま声を上げた。
「甘いものはお好きですか?!」
土井先生は私の勢いに押されて、躊躇いながらも「ええ」と小さく頷いた。
「じゃあ、土井先生のために、お菓子を作りますから!」
「え?」
先生の大きな瞳は更に大きくなった。
「だから14日。受け取りに来ていただけますか?!」
頭の中では何を作ろうか既に考え始めている。断られることだって十分ありえるのに、おめでたい私はラッピングのデザインまで考えている。
「……」
土井先生は今日何度目かのぽかんとした表情を浮かべていた。
しかし次第にその表情は崩れ、柔らかな笑みへと変わる。
「いいの?」
先生の少し砕けた口調に、私達の距離が縮まった気がして、心臓は嬉しさのあまり激しく脈打っていた。
「はい!!」
目を見て勢いよく頷けば、先生はくしゃりと笑う。
精悍な顔立ちから少年のようなあどけない表情へと変わった。
その瞬間、
底の見えない海に沈んでいくような、
背中に羽が生えたように地に浮いているような気持ちになる。
既にあった小さな恋心は、もう止められないほど大きくなっていく。
「じゃあ、楽しみに待っています」
「あの……!できたら、連絡先を…」
こんなにも異性に積極的になったことがあっただろうか。袋を一旦置いて、コートのポケットからスマホを取り出す手が震える。
利吉や小松田兄弟と連絡先を交換したときを思い出したが、大学の課題のために流れで…といったことを思い出した。互いに涼しい顔で「あ、きたきた」なんて言いながら。
「そうですね。では……」
土井先生もポケットからスマホを取り出したが、その後の操作が覚束なかった。
「ええと、あまり交換したことがなくて」
慣れていない先生に嬉しくなってしまっている。
「えーと、上の方にあるボタンを…」
アプリを開く先生の画面を覗いたとき、見覚えのあるアイコンがあった気がしたが、まじまじと見るのも失礼だなと思い、すぐに視線をそらして操作方法だけを説明した。
先生が連絡先リストに加わる。
それが物凄く嬉しくて、夢みたいで、口元が緩んでしまう。
アイコンの設定がデフォルトなのが、なんだか先生っぽいなと思ってしまった。
「じゃあ…」
「あ、はい。あの…荷物、ありがとうございました」
「いえいえ。結果的にお菓子を作ってもらうことになって…なんだか申し訳ないです」
「全然ですから!」
私は勢いよく首を振る。
その様が可笑しかったのか、土井先生は小さく笑い、そしてゆっくりと学園へと歩き出す。
「お疲れ様」
「はい!お疲れ様です」
どうして社会人になると別れの挨拶がお疲れ様になるのだろうか、なんていう素朴な疑問を浮かべながら、私も家の中へと入った。
今日買った物を冷蔵庫に入れ、そして来るべき日のために、お菓子作りの道具を確認していると、スマホが震えた。
『今日はありがとう。楽しみにしています』
土井先生からのメッセージだった。
絵文字もない、シンプルなものだけれど、先生の声が聞こえてくるようだった。
今、私はすごくだらしのない顔をしているに違いない。
『こちらこそ、ありがとうございました。助かりました。お菓子、楽しみにしていてください』
送信すればすぐに既読マークが付くことに、心臓は更に加速する。
今日の夕食は何を作ろう。
そう考えながらも、私はお菓子のレシピを検索し始めるのであった。