5 空が明るくなるまで
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紅掛の空は絹の天幕のようで手を伸ばして触れてみたくなる。
土まみれの手をかざす。
伸ばしてみたところで届かないのは知っている。
丸く切り取られた空は触れてみたくなるくらい綺麗で、どうしようもなくもどかしい気持ちにさせた。
そう。
私は今、落とし穴の中だ。
またか。
地面の感覚が無くなり、重力の赴くまま落ちたとき、そんな感想しか抱かなくなった。
この落とし穴は私を狙っている。そう思ってしまうほど、私は落ちまくっている。
四年生の綾部君とやらが落とし穴の犯人らしいが、彼と一度は話をしてみたい。食堂で必ず会うはずなのに、私が洗い物をしている時に限って来ているらしい。
それはさておき、今をどうするか考える。
先生、生徒達は朝練中。
早くしないと食堂の手伝いに間に合わない。
縁に捕まってよじ登ろうとするが、ジャンプしてみても縁に届かない。
穴は垂直に掘られてるから、素手で側面を登ることは困難だ。
そうこう藻掻いた結果、大声で助けを呼ぶことにした。いや、最初からそうすれば良かったのだけど、ちっぽけな私のプライドが許さなかった。
そんなプライドより食堂のおばちゃんのお手伝いの方が大切なのに、意地を張っている場合では無い。
「すみませーーん!誰か助けてくださーーい」
私の声にすぐさま足音が近づく。
さすが忍者。反応が早い。
「大丈夫か!?」
深緑の頭巾が私を見下ろす。
六年生だ。
彼は私だと分かると律儀に「大丈夫ですか!?」と言い直す。
彼は手を差し伸べて私を引っ張り出してくれた。
「ありがとうございます。…えっと」
「六年は組の食満留三郎です」
「ありがとうございます。食満…君」
果たして君付けでいいのだろうか。
立花君もそうだけど、上級生は堂々としていて、自信に満ちていて、私より大人に見える。
元の世界では、大人っぽいと言われていたけれど、ここでは私は幼く見えるのも納得だ。
彼らはこの学園を出れば一人前の忍者として、例え忍者にならなくても家業を就いだり、商売を始めたり…いわゆる一人前の社会人となるのだ。生きる速さも、覚悟も違う。
食満君は私の迷いなど気にも留めずに尋ねた。
「怪我はありませんか?」
「はい。大丈夫です」
凛々しい目元と表情のせいだろうか、食満君は威圧感があって少し怖く感じてしまう。
「そういえばこの前も穴に落ちていませんでしたか?」
「え」
何時のだ?
そしてどこで見ていた?
何故わざわざ言う。
なぜ落ちてしまうのか?困った奴だと言いたいのだろうか。
私は身構えてしまう。
「すみません…私も落ちたくはないのですが」
「い、いえ責めているわけでは」
食満君は少し慌てて両手を振る。
「この穴は四年の綾部が掘ったものですが、どうも貴女を狙ってるらしく」
「え」
私が行く道に仕掛けられているから、そうなんじゃないかと思っては考えすぎだと打ち消していたが、本当にそうだったとは。
固まる私をよそに食満君は続ける。
「忍では無い者を狙うのは辞めるように言って聞かせたのですが…こちらこそ申し訳ありません」
「いや、食満君のせいではないと思うけど」
深々と頭を下げる食満君に今度は私が慌てる。怖そうだと勝手に思ってしまった自分を殴りたい。彼はきっと真面目なのだ。
「でも引っかからない方法があればいいんだけど。見抜くためのヒントとかないのかな?」
忍者でなくとも見抜けるのものだろうか。
私が言うと食満君は腕を組んで考える。
「綾部と直接話してみてはどうでしょう」
「根本的に解決させるしかないか」
私は溜息をついた。
「とにかく今は食堂に行かないと」
「ならばご一緒します。まだ落とし穴が無いとも限りませんし」
「………申し訳ないけど、お願いします」
食満くんは一歩先を歩いてくれた。もしも落とし穴があっても私を止められるようにだろう。
やや早足で食堂に向かう私の足取りに合わせて、彼はその位置関係を崩さない。
「そういえば朝練の時間じゃなかったっけ?」
「六年にもなれば朝練はありません。夜間演習で朝になるまで帰りませんし、なければ自主的に鍛練してますから」
「そうなんだ。流石六年生って感じだね」
静かな朝の空気が流れる。
食満くんの落ちついた雰囲気からなのか、会話が途切れても気まずさは無く、むしろ心地よささえあった。
「伊瀬階さんは、学園には慣れましたか?」
「うん、慣れたかな。皆さん優しいから助けてもらってばかりで申し訳ないけど」
「そんなことないですよ。ここ最近、倉庫の中や色々な場所が綺麗になっていて。伊瀬階さんのおかげですよね?吉野先生も助かっていると仰っていました」
こちらを振り返る食満くんの目が優しく細められる。
最近は備品のチェックや倉庫内の清掃を吉野先生のご指導のもと行っていた。
自分の行いを、こんな風に直接感謝されるのは嬉しいものだった。
「そうなんだ。…照れるね」
どう反応していいか分からず笑うと、食満君はそんな私をじっと見つめる。その目つきは一瞬だけ見極めるような、見抜こうとするような、そんな鋭いものだった。
しかしすぐに柔らかいものになり「これからもよろしくお願いします」と、礼儀正しく頭を下げた。
そして食堂まで無事にたどり着いた。
朝食の準備は少ししか手伝えなかったにも関わらず、おばちゃんは落とし穴に落ちたことをすごく心配してくれたのだから、ますます申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「綾部君には私からも言ってるんだけどねぇ…言われて『分かりました』って従う子でもないからねぇ」
おばちゃんからも言ってくれたんだ。
食満君といい、皆の優しさが身に染みる。
そして先輩からも学園最強とも言われるおばちゃんからも注意されているのに穴を掘り続ける綾部君の手強さも感じた。
「今度来たら呼び止めてもらえます?」
「いいよ。しっかり止めておく」
おばちゃんは笑顔と共に頼もしいことこの上ない返事をしてくれた。
何としてでも止めねば。
でも私が話したところで止めてくれるのか。
そもそも私を穴に落として何が楽しいのか。
解決の糸口が見えず、私は溜息をついてテーブルを拭き始めた。
「おはようございます。伊瀬階さん」
「おはようございます。土井先生」
溜息の色がまだ残る声で挨拶をしてしまった。そのせいか、土井先生は心配そうな表情を浮かべていた。
理由は分からないが、困ったように笑う土井先生を見ると、胸がぎゅっと絞られたみたいに苦しくなる。
「元気ありませんね」
「まあ……また穴に落ちたんですよ」
「怪我は!?」
土井先生は身を乗り出して聞いてくる。
端正な顔がすぐ近くに迫り、私は目を合わせず、机を拭く手に力を込めた。
「大丈夫です」
「良かった…!」
足をくじいたら、先生はどれだけ心配してくれるのだろう。そう思ってしまうほど、私が大丈夫と答えると、先生は心底安堵した様子だ。
「すまない。食堂までいつも一緒に行ければいいんだけれど」
「わざわざそんなことまでしなくて大丈夫ですよ」
そこまで考えてくれる土井先生に恐縮しながら、尚更、綾部君とは早々に会って話をしなくてはならないと思った。
隣を拭きおえて、私は布巾を洗うために厨房の中に入る。
カウンター越しに土井先生は尋ねてきた。
「そういえば穴からは自力で出られたのかい?」
「…なら良かったんですけど。六年の食満君に助けていただけました」
「……そうか」
ほんの少し、土井先生の声のトーンが下がったので思わず土井先生を見た。目が合うとハッとした顔の後、笑顔になる。
「それなら良かった」
その時、ドタドタと大きな足音が響く。
この足音は誰なのか。わかりやすいから私でも分かる。
「お腹空いたぁー」
「ったくしんべヱはこういう時だけ足が速いんだよなあ」
「あ!土井先生。おはようございます」
やっぱり一年は組の三人組だ。朝練を終えて、空腹のしんべヱ君は猛ダッシュで食堂に来たのだろう。
私は朝食セットを四人分、カウンターに出すと、三人組は歓声を上げた。
しかし、しんべヱ君だけなかなか受け取らず、こそばゆい顔をしている。
「まずい!伊瀬階さん伏せて!」
何故?と思いつつ土井先生の言葉通り伏せると、しんべヱくんの豪快なクシャミの音がした。
立ち上がると、土井先生の言葉の意味が理解できた。
しんべヱ君の鼻水が信じられないくらい伸びて、彼の分の盆を膜のように覆っていたのだ。
目の前の非現実的な光景に、私は取るべき行動が分からず呆然と立ち尽くしていた。
と、とにかくこれは……まずしんべヱくんに鼻をかむように言って、朝食は取り替えて…。
そう考えていると、後ろから感じたことも無い恐ろしい気配を感じた。
寒気がする。
カウンター越しの土井先生と三人組は震えながら私の背後を見ている。
「おのこしは……」
地を這うような、鬼気迫る背後からの声に私は振り向けないでいた。
「おのこしは許しまへんで!!」
おばちゃんの声が轟いた。
忍術学園最強の迫力を私は間近で味わったのだった。