忍者夢短編
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
your by
「伊瀬階くんの性格を考えたら、そらそうだろうが」
それは分かっている。
励ますというより、落ち込み続ける私を呆れたように叱咤する口ぶりで山田先生は私に酌をする。
落ち込んでいる理由など言ってもいないのに、言い当てられてしまう事に更に落ち込んだ。
「そこで半助が選ばれてみろ。学園長がへそ曲げて何言い出すか分からん!」
「そうですけど」
それも分かっている。
けれど私の心は寒々とした風が吹き続ける。
酒を口の中に流し込んでも、不愉快な揺らぎだけが襲ってきて、寂しさは消えてくれない。
今年も行った夏休みの日数を賭けた忍術学園大借り物競走。
今回は教員チームが優勝した。
代表となったのは、何と伊瀬階さんだった。
今晩は庵でささやかな祝賀会が行われている。
お祝いムードのなか、私だけがどんよりとして、隣の山田先生が仕方なしに私の相手をしてくれていた。
教員チームが優勝ということは、全学年も無事、従来どおりの夏休みが獲得される。
珍しく家に帰れる山田先生は、こんな状態の私など放っといて、このお祝いムードにさっさと身を任せたいに違いない。
そもそも忍ではない彼女がなぜ優勝出来たのかというと…
「スタートしました!忍術学園大借り物競走!優勝するのは果たしてどのチームなのでしょうか!?」
今年の実況者はくノ一のトモミであった。
トモミの力強い実況が響くなか、各チームの代表が一斉に地面に落ちた紙を拾う。
教員チーム代表となってしまった朱美は恐る恐る紙を拾う。
暗号で書かれていると聞いて、果たして自分でも解けるのか、それが不安だった。
折られた紙を開く。
開いた先に書かれた文字を見て目が点になり、しばし固まった。
土井は気が気でない。
体力も無ければ、忍術の知識も無い。
いくら暗記が得意で、掃き掃除中に聞こえてくる土井の授業を聞いてはいるものの、は組に暗号を教えたのはだいぶ前のこと。それに解読法を知っていたとしても、忍者の隠し言葉を知らなければ分からない問題もある。
固まっていた彼女だったが、ふと目があった。
借り物は自分に関する物なのだろうか。
彼女は遠くからでも分かるほど赤面し、視線をすぐに紙に戻した。
そして再び土井を見つめ、彼女はまた紙に視線を戻し、熟考している。
そしてまた自分を見る。
が、また紙を見る。
「伊瀬階くん。一体どうしたんだ?さっきから土井先生と紙をじろじろ見比べてるが」
山田は不思議がって土井に尋ねた。
土井も不思議で首を捻る。
あの様子では暗号は解けているようだが、何かを迷っているようだ。
殆どの代表が暗号を解いて走り去っていったのに気づき、朱美は何かを決意したように頷き、教員チームの観覧席へと近づく。
先ほどの彼女の行動から自分が呼ばれるのだろうと予想をしていたが、彼女の口から出たのは別の名だった。
「山本シナ先生!いらっしゃいますか!?」
呼ばれた山本は、朱美に駆け寄ると耳打ちされる。
少し驚いた表情の山本は、どこかへ消えた。
そして程なくして彼女のもとに現れたのは、目鼻立ちがくっきりとした凛々しくも儚い雰囲気を纏う美青年。そんな美青年は朱美に耳打ちすると、軽々と彼女を抱き上げ、連れ去っていった。
真っ赤になったのは朱美だけではない。
頬を染めたくノ一達からは悲鳴が響く。
「なっ……!」
あからさまに焦る土井に、山田は笑いを堪える。
「おおっと!教員チーム代表の朱美さん!借り物は何だったのでしょう!我らが担任、山本シナ先生を呼ぶなり、美青年に変装したシナ先生にお姫様抱っこをされて風のように消えてしまいました!」
トモミの実況に熱が入る。
「シナ先生速い!さすがです!これで全てのチームが学園を出て行きました!」
観覧席は既に見えない選手達の武運を祈るのみ。ゴールの裏山の頂上へ、念だけを送る。
「順位によって夏休みの日数が決まります!どの選手も必死です!朱美さんが属する教員チームが勝てば、我々生徒も夏休みを無事に獲得できます!しかし、我々生徒側にもプライドがあります!負けていられません!」
観覧席から実況に賛同する声が次々とあがる。
その頼もしさに教員一同もニッコリ。
しかし土井だけは上の空だった。
彼女は、借り物を書いた紙を見て、自分を誘おうとしていたのではないか。それなのに自分を選ばなかった。
何故なのか。
紙に書かれた内容が気になって仕方ない。
やがて、教員チームが一位になった知らせが届き、生徒達は半分喜びながらも半分悔しがった。
連絡係から話を聞くトモミは段々ニヤついた顔をした。
「さて、ここで一位になった朱美さんの借りた物とは!?それは……」
それは?
彼女の選択に、生徒も教員も興味を引かれていたようだ。皆、トモミの言葉を待った。
「ずばり イ ケ メ ン だそうでーす」
一語一句ハッキリと言うトモミ。
「確かに、シナ先生の男装はイケメンですよねぇ。同性だけどドキドキしちゃいます」
生徒達の反応は様々だ。
何故自分ではないのか!?と憤る四年の某、納得の声を上げる者、土井を何故かすぐさま見る一年は組。山田に至っては何度も頷いていた。
「確かに。シナ先生の男装は私の女装同様、完璧な仕上がりだからな」
そこにいる教員チームは誰一人頷きも否定もしなかった。聞かなかったフリをしているのだろう。
土井は頭の整理をする。
彼女の行動を振り返る。
頬を染めながら視線を何度も寄越していたのは何故か。
なにゆえ頬を染め、なにゆえ何度も見たのか。
自分を選ぶのが恥ずかしかったから。
すぐに浮かんだ都合のいい解釈。
くしゃくしゃに丸めてゴミ箱へ放り投げる。
しかし、他の答えは浮かんで来なかった。
これ以上しっくり来るものが無い。
だとしても。
頬を染め、男装した山本先生の首に腕を回した彼女の姿を思い出すと、薄暗い炎が灯り胸を焦がしていく。
ーーー
学園長の隣に座らされた朱美。
その周りに代わる代わる様々な教員がやって来ては酒代わりのお茶を彼女の湯飲みに注ぐ。
朱美は恐縮してばかりだった。
ぎこちない動作で、茶を注いでくれた教員に酒を注ぎ返す。
そしておめでとうの他に皆はこっそり言う。
「いやはや上手いですな伊瀬階さん」
「いい判断です」
「シナ先生なら学園長も納得する」
皆、学園長を気にする。
話を聞けば、あの「イケメン」と達筆で書かれた紙を入れることを提案したのは学園長らしい。
朱美が代表になったと聞いて、暗号無しのド直球の紙を入れるよう体育委員に頼んだという。その一枚を引いてくれるかは運任せであったが、見事にそれを拾い、優勝という幸運を手にした。
それは暗号が読めない彼女への配慮と、ちょっとした楽しみであった。
孫のように思う彼女が誰を選ぶのか。
それこそ学園長の思い付きであった。
彼がそれを思いついたとき「まさかわしだったりしてな!」と勝手に照れながら言っていたのを思い出したヘムヘムは、人知れず吹き出していた。自惚れにも程がある。
朱美は山本に何度も礼を言った。代表は自分であったが、実際に走ったのは彼女である。
「だって夏休みに、くノ一の皆とテニスに行くって約束したんですもの」
突然のテニスという単語に目を瞬く朱美であった。
山本は、そんなことより、と声を落とす。
「いい?朱美ちゃん。後でちゃんと『土井先生が一番カッコイイです』って言うのよ?」
山本の言葉に朱美の顔はみるみる朱に染まった。
その土井と言えば、一番端の席でそっぽを向いていて、どんな表情をしているか分からない。
なぜそっぽを向いているのか。
なぜ祝いの言葉をかけてくれないのか。
こんな子どもじみた行為を彼はしない。
勝手に都合のいい解釈をしてしまいそうになり朱美は両頬を叩いた。
月さえも眠っているような、全てが静寂に包まれた頃、宴はお開きとなった。
皆、今日から始まる夏休みに心躍らせながら、自室へとそれぞれ戻っていく。
朱美は片付けをしようとしたが「主役はいいの」と食堂のおばちゃんに止められてしまった。ヘムヘムと小松田が手伝っているのを見て、それならばと、朱美は何度も頭を下げながら自室へ戻ることにした。
少し散歩をしようと、道を変えた。
部屋に戻れば、隣の部屋を意識してしまう。
土井を意識してしまう。
「しょうがないじゃないですか…」
今更、シナの言葉に対する返答をした。
皆の前で、彼を選ぶなどできない。
ゴールし終えて、学園に戻ってきた時、くノ一達の驚きに満ちた眼差しを思い出して、一人苦笑する。
「土井先生じゃないんですか?!」
「確かにシナ先生の男装は格好いいですけど!」
「朱美さんは押しが弱いです!」
トモミ、ユキ、おシゲに詰め寄られたのだった。
なぜ自分の本心がバレているのか。それほど分かりやすい態度をしているのだろうかと、頭を抱えたくなった。
「だって恥ずかしいし…」
誤魔化すように笑う朱美に、三人は非難めいた声をあげる。
「私だったら迷わずしんべヱ様を選びます!」と言い切るおシゲの姿は、朱美にとってはなんとも眩しかった。
朱美は溜息をついた。
「ヘムヘムかシナ先生かの二択だったんだよなぁ」
学園長を狙う暗殺者から自分を庇ったあの背中を思い出した。
「私はヘムヘムにも負けたのかい?」
背後からの声に、朱美は短い悲鳴をあげた。その声の主が誰なのか分かったから。
目を合わせたくなくて、朱美は振り返らず立ち止まったまま動かなかった。
背後の足音がやけに響く。
いつもの足取りではなかった。酒が回っているのだろうか。
足音は自分のすぐ後ろで止まり、影が差す。
月の明かりだけでも、こんなにもくっきりと影が出来るのだと驚いた。
世界中が本当に寝静まってしまったかのようだ。聞こえるのは、二人の吐息だけ。
風さえ吹かぬ夏の夜。
「私を何遍も見たのは何故だい?」
その言葉は、自惚れてもいいのだろうか。
何故、自分を選んでくれなかった、と。
都合の良い解釈をしてしまってもいいのだろうか。
額や背中から汗が伝うのは暑さのせいだけではなかった。
つむじに息がかかる。
彼が溜息をついたのだ。
彼は私を見下ろしているのだと分かる。
振り返れば、きっと彼がすぐ傍にいる。
振り返らなければ。
言葉を紡がなければ。
それなのに足は、喉は、言うことをきいてくれなかった。
彼が頭を乱暴に搔いているのが気配で分かる。
そして、溜息一つ。
それを合図に彼の纏っていた雰囲気が変わったのが分かった。
「まったく、傷つくなあ」
その声は、茶化すような、冗談めいたような色を含んだもの。
朱美は彼の変わりように混乱する。
「何遍も何遍も私を見るんだもの。勘違いをするところだったよ」
僅かに灯っていた炎が消えていく。
気づいたがもう遅かった。
しまったと思ってもその火を再び灯すための術を知らない。
「暗号が解けなくて困ってたのかい?」
拾ったのは暗号ではなかったのを知っているくせに。
「私に相談しようか迷ってた?」
違う。
思わず振り返って顔を上げた。
そこには、いつもの彼がいた。
目が合えば、困ったように笑う彼がいた。
「道草してたらダメだろう。早く寝なさい」
いつも生徒達に指導するような、先生の声だった。
言う機会を逃してしまった。
朱美は、固まったままだった。
「とは言うものの、私もだいぶ酔ってるらしい。先に帰るとするよ」
柔らかい笑顔で「おやすみ」と言われて、ゆっくりと背を向けて歩き出す。
朱美は呆然とそれを見送った。
背中が小さくなっていく。
「………」
待って。
その言葉が出てこない。
「………」
違うんです。
声になって空気を震わせることができない。
それなのに、涙を流すことはできる事に呆れてしまう。
「違うのに……」
何度も何度も声に出そうとして、やっと出来たのは、姿が見えなくなった頃、囁く程度のもの。
月に照らされた影は一つ。
手の甲で涙を拭う。
泣くくらいなら、言えば良かったのに。
バカなやつ。
募る苛立ちに、朱美は深く溜息をつく。
今走って追いかけたら間に合うだろうか。
間に合わなかったらどうしよう。
先生に本当のことを伝えられない。
本当の気持ちを伝えることが何故だかとても怖かった。
恐怖から足がもつれる。
だから、まずはゆっくりと歩き出す。
そして口からは練習のため、言葉を紡ぐ。
「ちが、違うんです。本当は先生を、先生の名前を、呼びたかった、です」
震えていて、ぎこちなくて、思わず笑ってしまった。
どうして彼に対して、こんなに惨めになってしまうのだろう。
もう一度。
足も少しだけ軽くなる。
「先生は……イケメンです」
今度こそ本当に笑ってしまう。
声に出してしまえば、どう行動すれば良かったのか今更ながら思いつく。
「先生がイケメンです」
そうやって冗談めいて言って、
「そんなの皆の前で言えるわけないじゃないですか!」
あの紙を見た瞬間の自分の考えが浮かび上がる。
「下手な選択したら学園長の機嫌、損ねちゃうじゃないですか!」
何故言えなかったのだろう。
足はいよいよ軽くなり、走り出す。
「そしたらシナ先生になるに決まってるじゃないですか!」
こんな風に言えば良かったのに。
照れとか、本当の気持ちが伝わったら恥ずかしいしとか、そういうちっぽけな意地に縋って、さっきみたいな別れ方するくらいなら。
「先生がカッコいいに決まってますよ」
こんな風に言ったら先生は照れるだろうか。
もう少しで教員長屋に着いてしまう。
どうやら追いつけなかったようだ。
あぁあ。
朱美は自分自身に腹立ち、自身への文句として語気を強めて吐き出した。
「先生にもう一回お姫様だっこされてみたかったのに!」
「伊瀬階さん」
心臓が一回転してもおかしくはなかった。
本当に驚くと声も上げられず、体ばかりが元気に跳ね上がった。
そのまま動けなくなった。
心臓が脈打つ度に痛い。
どこから?
いつから?
問いかけたい疑問と共に、自分もどこから喋り出したのか思い出し始める。
「伊瀬階さん」
この上なく嬉しそうな、蕩けるような甘い声。
視界の中に彼が映る。
顔が見られないのは、自分が上を見られないから。
土井は正面に立つ。
「もう一回言って」
やり直せる絶好の機会なのに、先ほどまでの膨らみ続けた勢いは情けない音を立てて萎れていく。
それでも、もう一度、炎を灯すことができた。
「伊瀬階さん?」
顔を覗き込んでくるのは卑怯だ。
「………です」
「聞こえません」
「本当は先生を選びたかったですって言いました!」
こんな時くらい、笑顔で言えればいいのに。
ムッとしてしまい、ぶっきらぼうな言い方をしてしまう。
そして、全く違う台詞を言ってしまい、先ほどまでの予行練習の意味など無くなってしまった。
体が急に傾く。
抱き上げられたのだと気づき、朱美は硬直する。密着した部分から熱が出る。
見上げればすぐに見える顔。少し痛んだ髪。
目を合わせることなく、土井は言う。
「しっかり掴まってて」
その時、風になった。
重力から解放されて少し怖く感じたとき、首に回した腕に力がこもる。それに答えるように、支えられている腕が強く抱き返してくれた。
土井の乱れぬ呼吸から少し酒の気配が感じられた。
夏の夜空を背に、遠くを見つめて走り続けるその凛々しい顔を心に刻みつけようと、必死で顔を上げ続けた。
裏山の頂上まではあっという間だった。
朱美は降ろされるも、土井の腕を掴んだままだった。夢を見ているようで、手を離したら醒めてしまうように感じたからだ。
土井も朱美を降ろしたときに触れた両肩を触れたままだった。
二人とも妙な格好のまま沈黙が流れる。
心臓は痛いままだった。
夜の夏の山は、様々な命の声が聞こえてくるが、自分の鼓動が存在を最も主張している。
「すまん…ちょっと、大人気なかったな」
肩から手を離すと同時に、土井は歯切れが悪そうに言った。
朱美も手を離す。
「たかが借り物競走のことなのに、なんでか分からないが…その」
頬を搔きながら言葉を探す土井の姿に、朱美は信じたい思いを必死に抑えた。
土井も紡いた言葉を解くように、頭を軽く振る。
二人して、再び灯った炎を吹き消した。
「いつも一緒にお仕事をしているから…頼られなかった…選ばれなかったのがショックで、ついついヤキモチを焼いちゃいました」
わざと声色を変えていた。
戯けるように笑いながら言う土井の顔からは先ほどまでの熱が無かった。
きっとどこまでも同じ思いなのだろう。
伝えてはいけない。
伝わってはいけない。
朱美も合わせるように笑う。
「ホントですよ。たかが借り物競走ですよ?」
「君の性格を考えれば、誰を選ぶかなんて分かりきってるのに」
「それより明日から夏休みですよ」
「そうだな。伊瀬階さんは?」
「学園に残って掃除とか勉強とか色々してますよ」
朱美の答えに土井は眉を下げた。
その反応に私は胸が痛い。
「分かった。時々、家に遊びに来てくれ。きり丸が会いたがると思う」
「バイト増やされちゃうじゃないですか」
「伊瀬階さんが来なくとも増やすさ。だから来てほしい」
「そうですねぇ…」
自然と二人は近くの岩に腰掛けた。
拳一つ分の距離。
それ以上近寄ることはないし、離れもしない。
「私を助けると思って」
「ぐ…その言葉に弱いんですよ」
「知ってる」
「先生はイケメンだし、ずるいですね」
土井は声を上げて笑う。
朱美も笑う。
星は瞬き、月は眩しいほど輝いている。
様々な命の鳴き声が夜の風に乗せて響く中、二人はその流れの一部となって、ぽつりぽつりと話を続けた。
「伊瀬階くんの性格を考えたら、そらそうだろうが」
それは分かっている。
励ますというより、落ち込み続ける私を呆れたように叱咤する口ぶりで山田先生は私に酌をする。
落ち込んでいる理由など言ってもいないのに、言い当てられてしまう事に更に落ち込んだ。
「そこで半助が選ばれてみろ。学園長がへそ曲げて何言い出すか分からん!」
「そうですけど」
それも分かっている。
けれど私の心は寒々とした風が吹き続ける。
酒を口の中に流し込んでも、不愉快な揺らぎだけが襲ってきて、寂しさは消えてくれない。
今年も行った夏休みの日数を賭けた忍術学園大借り物競走。
今回は教員チームが優勝した。
代表となったのは、何と伊瀬階さんだった。
今晩は庵でささやかな祝賀会が行われている。
お祝いムードのなか、私だけがどんよりとして、隣の山田先生が仕方なしに私の相手をしてくれていた。
教員チームが優勝ということは、全学年も無事、従来どおりの夏休みが獲得される。
珍しく家に帰れる山田先生は、こんな状態の私など放っといて、このお祝いムードにさっさと身を任せたいに違いない。
そもそも忍ではない彼女がなぜ優勝出来たのかというと…
「スタートしました!忍術学園大借り物競走!優勝するのは果たしてどのチームなのでしょうか!?」
今年の実況者はくノ一のトモミであった。
トモミの力強い実況が響くなか、各チームの代表が一斉に地面に落ちた紙を拾う。
教員チーム代表となってしまった朱美は恐る恐る紙を拾う。
暗号で書かれていると聞いて、果たして自分でも解けるのか、それが不安だった。
折られた紙を開く。
開いた先に書かれた文字を見て目が点になり、しばし固まった。
土井は気が気でない。
体力も無ければ、忍術の知識も無い。
いくら暗記が得意で、掃き掃除中に聞こえてくる土井の授業を聞いてはいるものの、は組に暗号を教えたのはだいぶ前のこと。それに解読法を知っていたとしても、忍者の隠し言葉を知らなければ分からない問題もある。
固まっていた彼女だったが、ふと目があった。
借り物は自分に関する物なのだろうか。
彼女は遠くからでも分かるほど赤面し、視線をすぐに紙に戻した。
そして再び土井を見つめ、彼女はまた紙に視線を戻し、熟考している。
そしてまた自分を見る。
が、また紙を見る。
「伊瀬階くん。一体どうしたんだ?さっきから土井先生と紙をじろじろ見比べてるが」
山田は不思議がって土井に尋ねた。
土井も不思議で首を捻る。
あの様子では暗号は解けているようだが、何かを迷っているようだ。
殆どの代表が暗号を解いて走り去っていったのに気づき、朱美は何かを決意したように頷き、教員チームの観覧席へと近づく。
先ほどの彼女の行動から自分が呼ばれるのだろうと予想をしていたが、彼女の口から出たのは別の名だった。
「山本シナ先生!いらっしゃいますか!?」
呼ばれた山本は、朱美に駆け寄ると耳打ちされる。
少し驚いた表情の山本は、どこかへ消えた。
そして程なくして彼女のもとに現れたのは、目鼻立ちがくっきりとした凛々しくも儚い雰囲気を纏う美青年。そんな美青年は朱美に耳打ちすると、軽々と彼女を抱き上げ、連れ去っていった。
真っ赤になったのは朱美だけではない。
頬を染めたくノ一達からは悲鳴が響く。
「なっ……!」
あからさまに焦る土井に、山田は笑いを堪える。
「おおっと!教員チーム代表の朱美さん!借り物は何だったのでしょう!我らが担任、山本シナ先生を呼ぶなり、美青年に変装したシナ先生にお姫様抱っこをされて風のように消えてしまいました!」
トモミの実況に熱が入る。
「シナ先生速い!さすがです!これで全てのチームが学園を出て行きました!」
観覧席は既に見えない選手達の武運を祈るのみ。ゴールの裏山の頂上へ、念だけを送る。
「順位によって夏休みの日数が決まります!どの選手も必死です!朱美さんが属する教員チームが勝てば、我々生徒も夏休みを無事に獲得できます!しかし、我々生徒側にもプライドがあります!負けていられません!」
観覧席から実況に賛同する声が次々とあがる。
その頼もしさに教員一同もニッコリ。
しかし土井だけは上の空だった。
彼女は、借り物を書いた紙を見て、自分を誘おうとしていたのではないか。それなのに自分を選ばなかった。
何故なのか。
紙に書かれた内容が気になって仕方ない。
やがて、教員チームが一位になった知らせが届き、生徒達は半分喜びながらも半分悔しがった。
連絡係から話を聞くトモミは段々ニヤついた顔をした。
「さて、ここで一位になった朱美さんの借りた物とは!?それは……」
それは?
彼女の選択に、生徒も教員も興味を引かれていたようだ。皆、トモミの言葉を待った。
「ずばり イ ケ メ ン だそうでーす」
一語一句ハッキリと言うトモミ。
「確かに、シナ先生の男装はイケメンですよねぇ。同性だけどドキドキしちゃいます」
生徒達の反応は様々だ。
何故自分ではないのか!?と憤る四年の某、納得の声を上げる者、土井を何故かすぐさま見る一年は組。山田に至っては何度も頷いていた。
「確かに。シナ先生の男装は私の女装同様、完璧な仕上がりだからな」
そこにいる教員チームは誰一人頷きも否定もしなかった。聞かなかったフリをしているのだろう。
土井は頭の整理をする。
彼女の行動を振り返る。
頬を染めながら視線を何度も寄越していたのは何故か。
なにゆえ頬を染め、なにゆえ何度も見たのか。
自分を選ぶのが恥ずかしかったから。
すぐに浮かんだ都合のいい解釈。
くしゃくしゃに丸めてゴミ箱へ放り投げる。
しかし、他の答えは浮かんで来なかった。
これ以上しっくり来るものが無い。
だとしても。
頬を染め、男装した山本先生の首に腕を回した彼女の姿を思い出すと、薄暗い炎が灯り胸を焦がしていく。
ーーー
学園長の隣に座らされた朱美。
その周りに代わる代わる様々な教員がやって来ては酒代わりのお茶を彼女の湯飲みに注ぐ。
朱美は恐縮してばかりだった。
ぎこちない動作で、茶を注いでくれた教員に酒を注ぎ返す。
そしておめでとうの他に皆はこっそり言う。
「いやはや上手いですな伊瀬階さん」
「いい判断です」
「シナ先生なら学園長も納得する」
皆、学園長を気にする。
話を聞けば、あの「イケメン」と達筆で書かれた紙を入れることを提案したのは学園長らしい。
朱美が代表になったと聞いて、暗号無しのド直球の紙を入れるよう体育委員に頼んだという。その一枚を引いてくれるかは運任せであったが、見事にそれを拾い、優勝という幸運を手にした。
それは暗号が読めない彼女への配慮と、ちょっとした楽しみであった。
孫のように思う彼女が誰を選ぶのか。
それこそ学園長の思い付きであった。
彼がそれを思いついたとき「まさかわしだったりしてな!」と勝手に照れながら言っていたのを思い出したヘムヘムは、人知れず吹き出していた。自惚れにも程がある。
朱美は山本に何度も礼を言った。代表は自分であったが、実際に走ったのは彼女である。
「だって夏休みに、くノ一の皆とテニスに行くって約束したんですもの」
突然のテニスという単語に目を瞬く朱美であった。
山本は、そんなことより、と声を落とす。
「いい?朱美ちゃん。後でちゃんと『土井先生が一番カッコイイです』って言うのよ?」
山本の言葉に朱美の顔はみるみる朱に染まった。
その土井と言えば、一番端の席でそっぽを向いていて、どんな表情をしているか分からない。
なぜそっぽを向いているのか。
なぜ祝いの言葉をかけてくれないのか。
こんな子どもじみた行為を彼はしない。
勝手に都合のいい解釈をしてしまいそうになり朱美は両頬を叩いた。
月さえも眠っているような、全てが静寂に包まれた頃、宴はお開きとなった。
皆、今日から始まる夏休みに心躍らせながら、自室へとそれぞれ戻っていく。
朱美は片付けをしようとしたが「主役はいいの」と食堂のおばちゃんに止められてしまった。ヘムヘムと小松田が手伝っているのを見て、それならばと、朱美は何度も頭を下げながら自室へ戻ることにした。
少し散歩をしようと、道を変えた。
部屋に戻れば、隣の部屋を意識してしまう。
土井を意識してしまう。
「しょうがないじゃないですか…」
今更、シナの言葉に対する返答をした。
皆の前で、彼を選ぶなどできない。
ゴールし終えて、学園に戻ってきた時、くノ一達の驚きに満ちた眼差しを思い出して、一人苦笑する。
「土井先生じゃないんですか?!」
「確かにシナ先生の男装は格好いいですけど!」
「朱美さんは押しが弱いです!」
トモミ、ユキ、おシゲに詰め寄られたのだった。
なぜ自分の本心がバレているのか。それほど分かりやすい態度をしているのだろうかと、頭を抱えたくなった。
「だって恥ずかしいし…」
誤魔化すように笑う朱美に、三人は非難めいた声をあげる。
「私だったら迷わずしんべヱ様を選びます!」と言い切るおシゲの姿は、朱美にとってはなんとも眩しかった。
朱美は溜息をついた。
「ヘムヘムかシナ先生かの二択だったんだよなぁ」
学園長を狙う暗殺者から自分を庇ったあの背中を思い出した。
「私はヘムヘムにも負けたのかい?」
背後からの声に、朱美は短い悲鳴をあげた。その声の主が誰なのか分かったから。
目を合わせたくなくて、朱美は振り返らず立ち止まったまま動かなかった。
背後の足音がやけに響く。
いつもの足取りではなかった。酒が回っているのだろうか。
足音は自分のすぐ後ろで止まり、影が差す。
月の明かりだけでも、こんなにもくっきりと影が出来るのだと驚いた。
世界中が本当に寝静まってしまったかのようだ。聞こえるのは、二人の吐息だけ。
風さえ吹かぬ夏の夜。
「私を何遍も見たのは何故だい?」
その言葉は、自惚れてもいいのだろうか。
何故、自分を選んでくれなかった、と。
都合の良い解釈をしてしまってもいいのだろうか。
額や背中から汗が伝うのは暑さのせいだけではなかった。
つむじに息がかかる。
彼が溜息をついたのだ。
彼は私を見下ろしているのだと分かる。
振り返れば、きっと彼がすぐ傍にいる。
振り返らなければ。
言葉を紡がなければ。
それなのに足は、喉は、言うことをきいてくれなかった。
彼が頭を乱暴に搔いているのが気配で分かる。
そして、溜息一つ。
それを合図に彼の纏っていた雰囲気が変わったのが分かった。
「まったく、傷つくなあ」
その声は、茶化すような、冗談めいたような色を含んだもの。
朱美は彼の変わりように混乱する。
「何遍も何遍も私を見るんだもの。勘違いをするところだったよ」
僅かに灯っていた炎が消えていく。
気づいたがもう遅かった。
しまったと思ってもその火を再び灯すための術を知らない。
「暗号が解けなくて困ってたのかい?」
拾ったのは暗号ではなかったのを知っているくせに。
「私に相談しようか迷ってた?」
違う。
思わず振り返って顔を上げた。
そこには、いつもの彼がいた。
目が合えば、困ったように笑う彼がいた。
「道草してたらダメだろう。早く寝なさい」
いつも生徒達に指導するような、先生の声だった。
言う機会を逃してしまった。
朱美は、固まったままだった。
「とは言うものの、私もだいぶ酔ってるらしい。先に帰るとするよ」
柔らかい笑顔で「おやすみ」と言われて、ゆっくりと背を向けて歩き出す。
朱美は呆然とそれを見送った。
背中が小さくなっていく。
「………」
待って。
その言葉が出てこない。
「………」
違うんです。
声になって空気を震わせることができない。
それなのに、涙を流すことはできる事に呆れてしまう。
「違うのに……」
何度も何度も声に出そうとして、やっと出来たのは、姿が見えなくなった頃、囁く程度のもの。
月に照らされた影は一つ。
手の甲で涙を拭う。
泣くくらいなら、言えば良かったのに。
バカなやつ。
募る苛立ちに、朱美は深く溜息をつく。
今走って追いかけたら間に合うだろうか。
間に合わなかったらどうしよう。
先生に本当のことを伝えられない。
本当の気持ちを伝えることが何故だかとても怖かった。
恐怖から足がもつれる。
だから、まずはゆっくりと歩き出す。
そして口からは練習のため、言葉を紡ぐ。
「ちが、違うんです。本当は先生を、先生の名前を、呼びたかった、です」
震えていて、ぎこちなくて、思わず笑ってしまった。
どうして彼に対して、こんなに惨めになってしまうのだろう。
もう一度。
足も少しだけ軽くなる。
「先生は……イケメンです」
今度こそ本当に笑ってしまう。
声に出してしまえば、どう行動すれば良かったのか今更ながら思いつく。
「先生がイケメンです」
そうやって冗談めいて言って、
「そんなの皆の前で言えるわけないじゃないですか!」
あの紙を見た瞬間の自分の考えが浮かび上がる。
「下手な選択したら学園長の機嫌、損ねちゃうじゃないですか!」
何故言えなかったのだろう。
足はいよいよ軽くなり、走り出す。
「そしたらシナ先生になるに決まってるじゃないですか!」
こんな風に言えば良かったのに。
照れとか、本当の気持ちが伝わったら恥ずかしいしとか、そういうちっぽけな意地に縋って、さっきみたいな別れ方するくらいなら。
「先生がカッコいいに決まってますよ」
こんな風に言ったら先生は照れるだろうか。
もう少しで教員長屋に着いてしまう。
どうやら追いつけなかったようだ。
あぁあ。
朱美は自分自身に腹立ち、自身への文句として語気を強めて吐き出した。
「先生にもう一回お姫様だっこされてみたかったのに!」
「伊瀬階さん」
心臓が一回転してもおかしくはなかった。
本当に驚くと声も上げられず、体ばかりが元気に跳ね上がった。
そのまま動けなくなった。
心臓が脈打つ度に痛い。
どこから?
いつから?
問いかけたい疑問と共に、自分もどこから喋り出したのか思い出し始める。
「伊瀬階さん」
この上なく嬉しそうな、蕩けるような甘い声。
視界の中に彼が映る。
顔が見られないのは、自分が上を見られないから。
土井は正面に立つ。
「もう一回言って」
やり直せる絶好の機会なのに、先ほどまでの膨らみ続けた勢いは情けない音を立てて萎れていく。
それでも、もう一度、炎を灯すことができた。
「伊瀬階さん?」
顔を覗き込んでくるのは卑怯だ。
「………です」
「聞こえません」
「本当は先生を選びたかったですって言いました!」
こんな時くらい、笑顔で言えればいいのに。
ムッとしてしまい、ぶっきらぼうな言い方をしてしまう。
そして、全く違う台詞を言ってしまい、先ほどまでの予行練習の意味など無くなってしまった。
体が急に傾く。
抱き上げられたのだと気づき、朱美は硬直する。密着した部分から熱が出る。
見上げればすぐに見える顔。少し痛んだ髪。
目を合わせることなく、土井は言う。
「しっかり掴まってて」
その時、風になった。
重力から解放されて少し怖く感じたとき、首に回した腕に力がこもる。それに答えるように、支えられている腕が強く抱き返してくれた。
土井の乱れぬ呼吸から少し酒の気配が感じられた。
夏の夜空を背に、遠くを見つめて走り続けるその凛々しい顔を心に刻みつけようと、必死で顔を上げ続けた。
裏山の頂上まではあっという間だった。
朱美は降ろされるも、土井の腕を掴んだままだった。夢を見ているようで、手を離したら醒めてしまうように感じたからだ。
土井も朱美を降ろしたときに触れた両肩を触れたままだった。
二人とも妙な格好のまま沈黙が流れる。
心臓は痛いままだった。
夜の夏の山は、様々な命の声が聞こえてくるが、自分の鼓動が存在を最も主張している。
「すまん…ちょっと、大人気なかったな」
肩から手を離すと同時に、土井は歯切れが悪そうに言った。
朱美も手を離す。
「たかが借り物競走のことなのに、なんでか分からないが…その」
頬を搔きながら言葉を探す土井の姿に、朱美は信じたい思いを必死に抑えた。
土井も紡いた言葉を解くように、頭を軽く振る。
二人して、再び灯った炎を吹き消した。
「いつも一緒にお仕事をしているから…頼られなかった…選ばれなかったのがショックで、ついついヤキモチを焼いちゃいました」
わざと声色を変えていた。
戯けるように笑いながら言う土井の顔からは先ほどまでの熱が無かった。
きっとどこまでも同じ思いなのだろう。
伝えてはいけない。
伝わってはいけない。
朱美も合わせるように笑う。
「ホントですよ。たかが借り物競走ですよ?」
「君の性格を考えれば、誰を選ぶかなんて分かりきってるのに」
「それより明日から夏休みですよ」
「そうだな。伊瀬階さんは?」
「学園に残って掃除とか勉強とか色々してますよ」
朱美の答えに土井は眉を下げた。
その反応に私は胸が痛い。
「分かった。時々、家に遊びに来てくれ。きり丸が会いたがると思う」
「バイト増やされちゃうじゃないですか」
「伊瀬階さんが来なくとも増やすさ。だから来てほしい」
「そうですねぇ…」
自然と二人は近くの岩に腰掛けた。
拳一つ分の距離。
それ以上近寄ることはないし、離れもしない。
「私を助けると思って」
「ぐ…その言葉に弱いんですよ」
「知ってる」
「先生はイケメンだし、ずるいですね」
土井は声を上げて笑う。
朱美も笑う。
星は瞬き、月は眩しいほど輝いている。
様々な命の鳴き声が夜の風に乗せて響く中、二人はその流れの一部となって、ぽつりぽつりと話を続けた。