長編「今度はあなたを」
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静まり返った渡り廊下を歩けば、スニーカーがリノリウムを擦る音がよく響く。
窓から差し込む夕日に朱美は目を細めた。
旧校舎に生徒がいないことを確認し、施錠をした帰り道だった。
校舎が夕陽によって金色に染まるこの時間帯は、懐かしさで胸が締め付けられる。
かつての自分も教室や校庭で学び、成長して大人になった。
過ぎ去った時を想い、胸が詰まる。
この道を目指すきっかけとなった教師は、既にこの世にはいない。
いつか教師になって、同じ学校で子ども達を教えることができたら……。
もしもの未来に思いを巡らせたが、悲しさが募るだけで朱美は首を振った。
新校舎に戻り、職員室へと近づけば笑い声が響いて騒がしい。
騒ぎの中心はきっと彼だ。
朱美はくすりと笑う。
引き戸を開ければ、その予想は的中した。
「もう!鵺野先生のばか!最低!」
「そんなぁ、リツコ先生ぇぇ」
やっぱり。
五年二組担任の律子先生と、三組の鵺野先生。二人のやりとりを、事務仕事やテストの採点をしている先生方が笑いながら見守っている。
私に気が付いたリツコ先生が、こちらに駆け寄ってきた。足の高いヒールがコツコツと響く。
「朱美先生!鵺野先生ったらまた変なものを見せてきたんですよ」
「違います!これです!大幽霊展!!」
リツ子先生の後を追うようにこちらにやって来た鵺野先生は、私の目の前に一枚の紙を広げてきた。
大幽霊展。
と、おどろおどろしい書体で打ち出され、中央には白装束に黒髪の垂れ髪の伏し目がちな女性の絵。
「あぁ、円山応挙の画ですね」
私の言葉に、鵺野先生の目は途端に輝きだした。
「そうなんです!もしかして道明先生も、こういったものにご興味が!?」
鼻息荒くらんらんと輝く瞳で私に近寄る鵺野先生を見て、「ひぃっ」とリツコ先生が気味悪がっていたのを私は見逃さなかった。
「知識として知っているだけですよ。鵺野先生ほどオカルトに興味があるわけではありません、残念ながら」
私が苦笑いしながら答えると、鵺野先生は肩を落とした。
もしかしなくても鵺野先生はその大幽霊展のチケットをどこかで手に入れて、怖いものが大嫌いなリツコ先生を誘ったのだろう。
円山応挙の幽霊画は悩ましくて美しい。
色気さえ漂う。
けれどそれをリツコ先生に見せるなんて。
彼はまっすぐなほどリツコ先生に惚れていて、そして、一向に学習しない。
「……リツコ先生が怖いの苦手なのご存知でしょう?まったく鵺野先生は」
昔と、大違いだ。
かつての彼の姿を思い浮かべた。
寂しさと孤独に揺れた瞳をもつ少年を思い出して、胸が締めつけられた。
「どうせ俺は幽霊オタクですよ……」
どんよりとした空気を纏いながら鵺野先生は席に戻り、背中を丸めてブツブツと呟いていた。
加えて彼の腹の虫が盛大にその存在を主張する。
「じゃあ、私、デートのお約束があるので帰りますね……お疲れ様です」
さらりと爆弾発言をしてリツコ先生はエナメルのバックを持って軽い足取りで職員室を出て行った。
「お疲れ様です」
ちらりと彼の様子を覗えば、頭が机にめり込んでいた。
しかも机から滝が流れ、下には水たまりができている。
まさか彼の涙なのか。
不憫な同僚を何とか元気づけたくて、私は自分の机の引き出しを探り、彼に手渡す。
「鵺野先生、コレ食べて元気出してください」
渡したのは、今朝に立ち寄ったコンビニで買ったけれど食べる機会を失ったフィナンシェだった。
「道明先生…!」
顔を上げた彼は顔から出るものが全部出ている状態で、私は思わず吹き出してしまった。
「道明先生、また鵺野先生を餌付けしているんですか」
周りの先生方の揶揄いに「そんなところです」と適当に答え、今日行った漢字テストの採点をするべく自席に戻った。
3年生の担任の私は、リツコ先生と鵺野先生の席から離れているけれど、いつも二人が見られる位置にいた。
私と鵺野先生は同期で、リツコ先生は一期下と、年が近いからよく話す。
でも席が遠いから、いつも夫婦漫才の如く喧嘩をする二人を見ては羨ましかったし、少し寂しかった。
寂しいと思うのは別の理由もある。
ーーー
「道明朱美です。よろしくおねがいします」
隣町の小学校から童守小に赴任し、朝の職員室で挨拶を終えて、席で荷物を整理していた時だった。
「道明先生、お久しぶりです。任命式以来ですね」
そう言って挨拶をしに来た鵺野先生は、人懐こい笑顔を浮かべていた。
任命式以来―。
任命式の時にも沸いた仄暗い気持ちが胸を覆う。
「お久しぶりです、鵺野先生」
「同じ体育教師の同期がいて心強いですよ。よろしくおねがいしますね」
「はい」
笑顔を貼り付けて彼を見た。
同級生から気味悪がられ、苛められていたかつての姿とは何もかもがかけ離れていた。
鍛えられた体に堂々とした話し方。眉は太くなって、その下の瞳には寂しさなど一切宿っていなかった。
安堵すると共に寂しさが湧き上がる。
しかし左手の黒い手袋が気になったが、出会ってすぐに尋ねることではないだろう。
「分からない事があれば何でも俺に聞いてください。同期なんですから遠慮せずに!」
覚えていないのも無理はない。
幼い頃に出会ったが、直接会話したのはたった一度しかないのだから。
あの人のような強くて優しい先生になりたい。
彼のような生徒を支えてあげたい。
彼に会って、見ていただけの自分を謝りたかった。
彼に再会した時に用意していた数々の言葉が泡となって弾けて消えた。
しかし、覚えていない彼を寂しく思う反面、あの時の弱い私を覚えていないことに安堵もしていた。
ーーー
テストの採点の他に、明日の準備やあれやこれやしているうちに、カーテンの隙間から見えた窓の景色は真っ暗で何も見えなかった。
「お疲れ様でした」と、帰って行く他の先生方に挨拶を返しているうちに、いつの間にやら職員室は誰もいなくなっていたのにも気が付く。
私もそろそろ帰ろう。
大きく伸びをして、机の上を整理していた時、ガラリと職員室の扉が乱暴に開かれ、私は思わず体が跳ねた。
「……道明先生?!」
扉を開けた主も私を見て驚いている様子だが、私も大いに驚いている。
扉を開けたのは鵺野先生だった。
そしてシャツは破けていて、そこからは鮮血が滲んでいたし、顔も擦り傷だらけだった。
「ぬ、鵺野先生……!どうされたんですか?!」
驚きのあまり勢いよく立ったためか、椅子は壁に激突し、派手な音をたてた。
鵺野先生のもとに駆け寄れば、全身傷だらけなのが良く分かる。
「あー、ははは。ちょっと転んじゃいまして」
明らかに見え透いた嘘をついている。
シャツが破けてそこかしこに血を流すような転び方とはどんなものなのか。
一体何があったのだろう。
だがそれを問いただすよりも救急車と警察を呼ばなければ。
待っている間は保健室で応急手当をしなければ。
私は近くの机に置かれた電話に手を伸ばす。
「いやあ、このくらい大したことないですよ」
吞気に笑う鵺野先生は、私の腕を掴んだ。
電話を掛けさせてくれない彼に私は思わず睨んだが、その力は強かった。
「何言ってるんですか?!血がっ…」
動揺のあまり裏返る声のまま叫べは、鵺野先生は「しっ」と口元に人差し指を立てた。
その表情は一転して険しいものだだった。
パァァン
理由を尋ねようとした矢先、何かが破裂したような、短く鋭い音が職員室中に響き渡る。
突然のことに私は頭が真っ白になったのに対し、視界が暗くなる。
そして、鵺野先生に抱きしめられていることに気が付く。
「怪我は!?」
彼から語気荒く尋ねられるも状況が全く把握できない。
何が起きたのだろうか。
特に痛みなど感じないことから首を振れば、鵺野先生の腕が離れた。
私は辺りを見回す。
廊下の非常灯の青緑色の光が上窓から差し込まれ、なんとも不気味な雰囲気を醸し出していた。
職員室の電気が消えているのは、職員室中の蛍光灯が割れているからだ。
私達の机の上や床に細かく砕けた蛍光灯が散らばっていて、怜悧な光を放っている。
一瞬にしてどうやって………。
「こ、これは……」
「静かにっ」
鵺野先生の手にはいつの間にか大きなガラス玉と経文を手にしていた。
そういえばいつも彼のポケットは膨らんでいて、そこから経文やら数珠やらが覗かせていたことを思い出す。
そして私はもう一つ、そういえば、と思い出した。
幼い彼の悲しい瞳と、心無い同級生ばかりを覚えていたが、その原因を思い出したのだ。
彼はこの世のものではない何かを見ることができ、それに苦しめられていたのだ。
ーーーー!
言葉では言い表せない叫びが木霊する。
人でも獣の声でもないそれは、地の底を這うような低さと、陰湿さが込められており、私の皮膚を粟立たせた。
血液が逆流し始めたような感覚と、騒ぎ出す鼓動が私を更に混乱させていく。
声を出せば殺される。
この世ならざるものが、血に飢えて獲物を探していると、本能が告げる。
私は両手で口を塞いだ。
鵺野先生は庇うように私の前に立つ。
ガラス玉と思っていたそれは、占い師が使うような水晶玉で、それを掲げ、辺りを見回していた。
何がいるのだろう。
何が起きるのだろう。
為す術のない私は震える足をそのままに、時が過ぎるのをひたすら待つしかなかった。
み つ け た
私の耳元で囁かれた、
感情も生気さえも削ぎ落とした声。
常識という枠から遥かに離れた、闇に住むものの声に、痛いほど皮膚が粟立ち、喉からはただひたすら絞り出せる限りの絶叫を放ってしまった。
「まずい!」
全ての生物のあらゆる一部を千切って一つに固めたようなソレが私達の目の前に音もなく降り立った。
闇に紛れやすい鉛色のソレは、アフリカ象ほどの巨体のくせに音もなく天井からすり抜けたように降り立ち、音もなく現れたくせに肉が腐ったような臭いを放っていた。
何処が顔で、何処が四肢なのか。
その区別を付けようとしてはいけない。
現に、ソレの姿を見極めようとする私の脳は、処理しきれず、ついに意識を手放してしまったのだった。
「……美奈子先生………」
彼を守りたい。
彼のような生徒を守りたい。
あの人のように。
強く誓ったはずなのに。
彼の背中に隠れるしかない自分の無力さが悔しかった。
ーーー
「ー先生!道明先生!」
必死で私の名を呼びかけてくる声に応えるべく重い瞼を持ち上げれば、目の前には太い眉に手入れのされていない黒髪の男性。
鵺野先生だった。
緑と土の匂いが感じられ、虫たちの声や小さな車のエンジン音が聞こえてくる。
視界に飛び込んでくる情報を集めれば、ここは童守小近くの公園で、私はベンチで横になっているらしい。
記憶をたぐり寄せ、私は飛び起きた。
「鵺野先生!!」
「ぐっ!!」
と、同時に額と鵺野先生の鼻がぶつかり、私は再びベンチに身を沈めることになった。
「すみません……!大丈夫ですか?」
「何とか……道明先生こそ」
大丈夫と聞きたいのは今ぶつけた鼻だけじゃない。私は彼の姿を改めて観察する。
やはりシャツはボロボロだし、血が滲んでいる。
私の視線から鵺野先生は流れ出る鼻血を気にせずに豪勢に笑い声を上げた。
「ああ、これですか?さっき公園のゴミ箱に旨そうなハンバーガーが捨てられてたのを見つけて拾おうとしたら、野良犬と喧嘩になってしまいまして」
そして笑い声に負けず劣らずの音量で彼の腹の虫が鳴る。
「嘘……だって階段から転んだって……それにさっきのあの変な怪物は?!」
思い出すだけで震えが止まらない、あの禍々しい怪物。
声も臭いも脳にこびり付いて離れない。
「え?」
それなのに鵺野先生はポカンとした表情を浮かべた後、再び笑い出した。
「怪物?なーに仰ってるんですか、夢ですよそんなの。こんな所で寝てしまうから、変な夢でも見たんでしょう」
そう言って私をベンチから立たせる。
公園に寄った記憶などない。
「赴任したばかりでお疲れなんですよ。明日もあるんですから、早く帰った方がいいですって!」
鵺野先生はにこやかな表情とは裏腹に私の両肩を強く押す。
公園の出口まで無理矢理歩かざるをえなかった。
「そんな……だって、……」
「ほらほら帰った帰った!」
「……もう!」
鵺野先生の言うとおり本当に夢だったのだろうか。
しかし、校舎を出た記憶も戸締まりをした記憶も無い。
だが、こうして彼に真偽を確かめているのも時間の無駄なように思えた。
「分かりました!お疲れ様です!」
半ばやけっぱちな態度で挨拶をしても、鵺野先生は笑顔で応えて手を振ってくれた。
……盛大な腹の虫と共に。
「あは……はははは」
力なく笑う鵺野先生。
夢かどうかは分からない。
しかし彼が空腹であることは間違いないようだ。
反射的に私は鞄を漁り、目的の物を掴む。
餌付けと言われるが、私こそある意味餌付けされているのかもしれない。
放っておけないのだ。
「これ、良かったらどうぞ」
防災用に鞄に忍ばせていた携帯食糧だった。
「道明先生ぃぃ……ありがどうございばず……」
顔から出るもの全て出しながら鵺野先生は両手で私の手を握ってはブンブンと振る。
本当の本当に、あの鵺野君なのだろうか。
こんな姿を見せられては、どうしてもそう考えてしまう。
珍しい名字と名前だから、同姓同名の他人とは考えにくい。
「で、では……失礼します………」
私は手を離し、足早に帰路についた。
しかし翌朝、職員室の惨状を見て、やはりあれは夢ではないのだと知る。
全ての蛍光灯が割れ、窓から差し込む朝陽によって破片がギラギラと鋭利な光を放っていた。
騒然となった職員室のなかで鵺野先生を探せば、職員室の修繕費は彼の給料から天引きされる旨を校長先生から伝えられ、へなへなと崩れ落ちている最中だった。
何故修繕費からではなく、彼の私費で負担するのか。
理不尽な仕打ちをする校長先生に問い詰めたい気持ちもあったけれど、それよりも昨晩のことを改めて彼から聞きたかった。
「給料日まで…あと……二週間……給料日………」
しかし、この世の終わりを迎えるような表情を浮かべる彼に問いただすことなどできなかった。
ゴミ箱にあったハンバーガーを拾おうとした、というのは彼の冗談だとその時は思ったが、もしかしたら事実なのだろうか。
「鵺野先生……」
彼の肩にそっと手を乗せれば、潤んだ瞳でこちらを見つめてくる。
「今日の夜、ラーメン奢りますよ」
「道明先生~~!!」
また餌付けしてる…
苦笑交じりの周りからの呟きに愛想笑いしながら、私は鵺野先生を始めとした若手の先生と掃除を始めたのだった。
「駅前のとこでいいですか?」
「もう!どこへでも!」
ヘラヘラと笑う鵺野先生。
あの時の面影はやっぱりどこにもない。
でも。
昨日の夜の、あれが夢なのだとしても
私を庇う彼は
凛々しくて、
カッコ良かった。
そう思ったのだった。
窓から差し込む夕日に朱美は目を細めた。
旧校舎に生徒がいないことを確認し、施錠をした帰り道だった。
校舎が夕陽によって金色に染まるこの時間帯は、懐かしさで胸が締め付けられる。
かつての自分も教室や校庭で学び、成長して大人になった。
過ぎ去った時を想い、胸が詰まる。
この道を目指すきっかけとなった教師は、既にこの世にはいない。
いつか教師になって、同じ学校で子ども達を教えることができたら……。
もしもの未来に思いを巡らせたが、悲しさが募るだけで朱美は首を振った。
新校舎に戻り、職員室へと近づけば笑い声が響いて騒がしい。
騒ぎの中心はきっと彼だ。
朱美はくすりと笑う。
引き戸を開ければ、その予想は的中した。
「もう!鵺野先生のばか!最低!」
「そんなぁ、リツコ先生ぇぇ」
やっぱり。
五年二組担任の律子先生と、三組の鵺野先生。二人のやりとりを、事務仕事やテストの採点をしている先生方が笑いながら見守っている。
私に気が付いたリツコ先生が、こちらに駆け寄ってきた。足の高いヒールがコツコツと響く。
「朱美先生!鵺野先生ったらまた変なものを見せてきたんですよ」
「違います!これです!大幽霊展!!」
リツ子先生の後を追うようにこちらにやって来た鵺野先生は、私の目の前に一枚の紙を広げてきた。
大幽霊展。
と、おどろおどろしい書体で打ち出され、中央には白装束に黒髪の垂れ髪の伏し目がちな女性の絵。
「あぁ、円山応挙の画ですね」
私の言葉に、鵺野先生の目は途端に輝きだした。
「そうなんです!もしかして道明先生も、こういったものにご興味が!?」
鼻息荒くらんらんと輝く瞳で私に近寄る鵺野先生を見て、「ひぃっ」とリツコ先生が気味悪がっていたのを私は見逃さなかった。
「知識として知っているだけですよ。鵺野先生ほどオカルトに興味があるわけではありません、残念ながら」
私が苦笑いしながら答えると、鵺野先生は肩を落とした。
もしかしなくても鵺野先生はその大幽霊展のチケットをどこかで手に入れて、怖いものが大嫌いなリツコ先生を誘ったのだろう。
円山応挙の幽霊画は悩ましくて美しい。
色気さえ漂う。
けれどそれをリツコ先生に見せるなんて。
彼はまっすぐなほどリツコ先生に惚れていて、そして、一向に学習しない。
「……リツコ先生が怖いの苦手なのご存知でしょう?まったく鵺野先生は」
昔と、大違いだ。
かつての彼の姿を思い浮かべた。
寂しさと孤独に揺れた瞳をもつ少年を思い出して、胸が締めつけられた。
「どうせ俺は幽霊オタクですよ……」
どんよりとした空気を纏いながら鵺野先生は席に戻り、背中を丸めてブツブツと呟いていた。
加えて彼の腹の虫が盛大にその存在を主張する。
「じゃあ、私、デートのお約束があるので帰りますね……お疲れ様です」
さらりと爆弾発言をしてリツコ先生はエナメルのバックを持って軽い足取りで職員室を出て行った。
「お疲れ様です」
ちらりと彼の様子を覗えば、頭が机にめり込んでいた。
しかも机から滝が流れ、下には水たまりができている。
まさか彼の涙なのか。
不憫な同僚を何とか元気づけたくて、私は自分の机の引き出しを探り、彼に手渡す。
「鵺野先生、コレ食べて元気出してください」
渡したのは、今朝に立ち寄ったコンビニで買ったけれど食べる機会を失ったフィナンシェだった。
「道明先生…!」
顔を上げた彼は顔から出るものが全部出ている状態で、私は思わず吹き出してしまった。
「道明先生、また鵺野先生を餌付けしているんですか」
周りの先生方の揶揄いに「そんなところです」と適当に答え、今日行った漢字テストの採点をするべく自席に戻った。
3年生の担任の私は、リツコ先生と鵺野先生の席から離れているけれど、いつも二人が見られる位置にいた。
私と鵺野先生は同期で、リツコ先生は一期下と、年が近いからよく話す。
でも席が遠いから、いつも夫婦漫才の如く喧嘩をする二人を見ては羨ましかったし、少し寂しかった。
寂しいと思うのは別の理由もある。
ーーー
「道明朱美です。よろしくおねがいします」
隣町の小学校から童守小に赴任し、朝の職員室で挨拶を終えて、席で荷物を整理していた時だった。
「道明先生、お久しぶりです。任命式以来ですね」
そう言って挨拶をしに来た鵺野先生は、人懐こい笑顔を浮かべていた。
任命式以来―。
任命式の時にも沸いた仄暗い気持ちが胸を覆う。
「お久しぶりです、鵺野先生」
「同じ体育教師の同期がいて心強いですよ。よろしくおねがいしますね」
「はい」
笑顔を貼り付けて彼を見た。
同級生から気味悪がられ、苛められていたかつての姿とは何もかもがかけ離れていた。
鍛えられた体に堂々とした話し方。眉は太くなって、その下の瞳には寂しさなど一切宿っていなかった。
安堵すると共に寂しさが湧き上がる。
しかし左手の黒い手袋が気になったが、出会ってすぐに尋ねることではないだろう。
「分からない事があれば何でも俺に聞いてください。同期なんですから遠慮せずに!」
覚えていないのも無理はない。
幼い頃に出会ったが、直接会話したのはたった一度しかないのだから。
あの人のような強くて優しい先生になりたい。
彼のような生徒を支えてあげたい。
彼に会って、見ていただけの自分を謝りたかった。
彼に再会した時に用意していた数々の言葉が泡となって弾けて消えた。
しかし、覚えていない彼を寂しく思う反面、あの時の弱い私を覚えていないことに安堵もしていた。
ーーー
テストの採点の他に、明日の準備やあれやこれやしているうちに、カーテンの隙間から見えた窓の景色は真っ暗で何も見えなかった。
「お疲れ様でした」と、帰って行く他の先生方に挨拶を返しているうちに、いつの間にやら職員室は誰もいなくなっていたのにも気が付く。
私もそろそろ帰ろう。
大きく伸びをして、机の上を整理していた時、ガラリと職員室の扉が乱暴に開かれ、私は思わず体が跳ねた。
「……道明先生?!」
扉を開けた主も私を見て驚いている様子だが、私も大いに驚いている。
扉を開けたのは鵺野先生だった。
そしてシャツは破けていて、そこからは鮮血が滲んでいたし、顔も擦り傷だらけだった。
「ぬ、鵺野先生……!どうされたんですか?!」
驚きのあまり勢いよく立ったためか、椅子は壁に激突し、派手な音をたてた。
鵺野先生のもとに駆け寄れば、全身傷だらけなのが良く分かる。
「あー、ははは。ちょっと転んじゃいまして」
明らかに見え透いた嘘をついている。
シャツが破けてそこかしこに血を流すような転び方とはどんなものなのか。
一体何があったのだろう。
だがそれを問いただすよりも救急車と警察を呼ばなければ。
待っている間は保健室で応急手当をしなければ。
私は近くの机に置かれた電話に手を伸ばす。
「いやあ、このくらい大したことないですよ」
吞気に笑う鵺野先生は、私の腕を掴んだ。
電話を掛けさせてくれない彼に私は思わず睨んだが、その力は強かった。
「何言ってるんですか?!血がっ…」
動揺のあまり裏返る声のまま叫べは、鵺野先生は「しっ」と口元に人差し指を立てた。
その表情は一転して険しいものだだった。
パァァン
理由を尋ねようとした矢先、何かが破裂したような、短く鋭い音が職員室中に響き渡る。
突然のことに私は頭が真っ白になったのに対し、視界が暗くなる。
そして、鵺野先生に抱きしめられていることに気が付く。
「怪我は!?」
彼から語気荒く尋ねられるも状況が全く把握できない。
何が起きたのだろうか。
特に痛みなど感じないことから首を振れば、鵺野先生の腕が離れた。
私は辺りを見回す。
廊下の非常灯の青緑色の光が上窓から差し込まれ、なんとも不気味な雰囲気を醸し出していた。
職員室の電気が消えているのは、職員室中の蛍光灯が割れているからだ。
私達の机の上や床に細かく砕けた蛍光灯が散らばっていて、怜悧な光を放っている。
一瞬にしてどうやって………。
「こ、これは……」
「静かにっ」
鵺野先生の手にはいつの間にか大きなガラス玉と経文を手にしていた。
そういえばいつも彼のポケットは膨らんでいて、そこから経文やら数珠やらが覗かせていたことを思い出す。
そして私はもう一つ、そういえば、と思い出した。
幼い彼の悲しい瞳と、心無い同級生ばかりを覚えていたが、その原因を思い出したのだ。
彼はこの世のものではない何かを見ることができ、それに苦しめられていたのだ。
ーーーー!
言葉では言い表せない叫びが木霊する。
人でも獣の声でもないそれは、地の底を這うような低さと、陰湿さが込められており、私の皮膚を粟立たせた。
血液が逆流し始めたような感覚と、騒ぎ出す鼓動が私を更に混乱させていく。
声を出せば殺される。
この世ならざるものが、血に飢えて獲物を探していると、本能が告げる。
私は両手で口を塞いだ。
鵺野先生は庇うように私の前に立つ。
ガラス玉と思っていたそれは、占い師が使うような水晶玉で、それを掲げ、辺りを見回していた。
何がいるのだろう。
何が起きるのだろう。
為す術のない私は震える足をそのままに、時が過ぎるのをひたすら待つしかなかった。
み つ け た
私の耳元で囁かれた、
感情も生気さえも削ぎ落とした声。
常識という枠から遥かに離れた、闇に住むものの声に、痛いほど皮膚が粟立ち、喉からはただひたすら絞り出せる限りの絶叫を放ってしまった。
「まずい!」
全ての生物のあらゆる一部を千切って一つに固めたようなソレが私達の目の前に音もなく降り立った。
闇に紛れやすい鉛色のソレは、アフリカ象ほどの巨体のくせに音もなく天井からすり抜けたように降り立ち、音もなく現れたくせに肉が腐ったような臭いを放っていた。
何処が顔で、何処が四肢なのか。
その区別を付けようとしてはいけない。
現に、ソレの姿を見極めようとする私の脳は、処理しきれず、ついに意識を手放してしまったのだった。
「……美奈子先生………」
彼を守りたい。
彼のような生徒を守りたい。
あの人のように。
強く誓ったはずなのに。
彼の背中に隠れるしかない自分の無力さが悔しかった。
ーーー
「ー先生!道明先生!」
必死で私の名を呼びかけてくる声に応えるべく重い瞼を持ち上げれば、目の前には太い眉に手入れのされていない黒髪の男性。
鵺野先生だった。
緑と土の匂いが感じられ、虫たちの声や小さな車のエンジン音が聞こえてくる。
視界に飛び込んでくる情報を集めれば、ここは童守小近くの公園で、私はベンチで横になっているらしい。
記憶をたぐり寄せ、私は飛び起きた。
「鵺野先生!!」
「ぐっ!!」
と、同時に額と鵺野先生の鼻がぶつかり、私は再びベンチに身を沈めることになった。
「すみません……!大丈夫ですか?」
「何とか……道明先生こそ」
大丈夫と聞きたいのは今ぶつけた鼻だけじゃない。私は彼の姿を改めて観察する。
やはりシャツはボロボロだし、血が滲んでいる。
私の視線から鵺野先生は流れ出る鼻血を気にせずに豪勢に笑い声を上げた。
「ああ、これですか?さっき公園のゴミ箱に旨そうなハンバーガーが捨てられてたのを見つけて拾おうとしたら、野良犬と喧嘩になってしまいまして」
そして笑い声に負けず劣らずの音量で彼の腹の虫が鳴る。
「嘘……だって階段から転んだって……それにさっきのあの変な怪物は?!」
思い出すだけで震えが止まらない、あの禍々しい怪物。
声も臭いも脳にこびり付いて離れない。
「え?」
それなのに鵺野先生はポカンとした表情を浮かべた後、再び笑い出した。
「怪物?なーに仰ってるんですか、夢ですよそんなの。こんな所で寝てしまうから、変な夢でも見たんでしょう」
そう言って私をベンチから立たせる。
公園に寄った記憶などない。
「赴任したばかりでお疲れなんですよ。明日もあるんですから、早く帰った方がいいですって!」
鵺野先生はにこやかな表情とは裏腹に私の両肩を強く押す。
公園の出口まで無理矢理歩かざるをえなかった。
「そんな……だって、……」
「ほらほら帰った帰った!」
「……もう!」
鵺野先生の言うとおり本当に夢だったのだろうか。
しかし、校舎を出た記憶も戸締まりをした記憶も無い。
だが、こうして彼に真偽を確かめているのも時間の無駄なように思えた。
「分かりました!お疲れ様です!」
半ばやけっぱちな態度で挨拶をしても、鵺野先生は笑顔で応えて手を振ってくれた。
……盛大な腹の虫と共に。
「あは……はははは」
力なく笑う鵺野先生。
夢かどうかは分からない。
しかし彼が空腹であることは間違いないようだ。
反射的に私は鞄を漁り、目的の物を掴む。
餌付けと言われるが、私こそある意味餌付けされているのかもしれない。
放っておけないのだ。
「これ、良かったらどうぞ」
防災用に鞄に忍ばせていた携帯食糧だった。
「道明先生ぃぃ……ありがどうございばず……」
顔から出るもの全て出しながら鵺野先生は両手で私の手を握ってはブンブンと振る。
本当の本当に、あの鵺野君なのだろうか。
こんな姿を見せられては、どうしてもそう考えてしまう。
珍しい名字と名前だから、同姓同名の他人とは考えにくい。
「で、では……失礼します………」
私は手を離し、足早に帰路についた。
しかし翌朝、職員室の惨状を見て、やはりあれは夢ではないのだと知る。
全ての蛍光灯が割れ、窓から差し込む朝陽によって破片がギラギラと鋭利な光を放っていた。
騒然となった職員室のなかで鵺野先生を探せば、職員室の修繕費は彼の給料から天引きされる旨を校長先生から伝えられ、へなへなと崩れ落ちている最中だった。
何故修繕費からではなく、彼の私費で負担するのか。
理不尽な仕打ちをする校長先生に問い詰めたい気持ちもあったけれど、それよりも昨晩のことを改めて彼から聞きたかった。
「給料日まで…あと……二週間……給料日………」
しかし、この世の終わりを迎えるような表情を浮かべる彼に問いただすことなどできなかった。
ゴミ箱にあったハンバーガーを拾おうとした、というのは彼の冗談だとその時は思ったが、もしかしたら事実なのだろうか。
「鵺野先生……」
彼の肩にそっと手を乗せれば、潤んだ瞳でこちらを見つめてくる。
「今日の夜、ラーメン奢りますよ」
「道明先生~~!!」
また餌付けしてる…
苦笑交じりの周りからの呟きに愛想笑いしながら、私は鵺野先生を始めとした若手の先生と掃除を始めたのだった。
「駅前のとこでいいですか?」
「もう!どこへでも!」
ヘラヘラと笑う鵺野先生。
あの時の面影はやっぱりどこにもない。
でも。
昨日の夜の、あれが夢なのだとしても
私を庇う彼は
凛々しくて、
カッコ良かった。
そう思ったのだった。