反湿気同盟
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「小松田くんがここの書類をひっくり返してしまいまして。伊瀬階さんには、すみませんが生徒別に書類を仕分けしてもらえますか」
吉野先生に頼まれた書類整理は六年生の実習の報告書だった。吉野先生と小松田さんは別の仕事をしに事務室を後にした。
一人黙々と生徒毎に日付の古いものから積み重ねていく。結構量がある。
「あ、これは」
日付と名前をチェックしてると、自然に内容も目が行ってしまう。
流麗な文字に目を奪われる。
これは仙蔵君のだ。
クセのない文字は崩し字でも読みやすい。
潜入調査に護衛に密書の送付。
さすが六年生にもなると実習は本格的なものばかりだ。
皆が大人びているのが改めて理解できた。
込み入った内容かもしれない。私は読み込まないようにしたけれども、報告書の締めくくりの一文に私は思わず二度見した。
「宝禄火矢により目的の間者を退治」
「宝禄火矢により建物を爆破」
「宝禄火矢の誤爆により潜入調査は中止」
「宝禄火矢により……」
冷静で成績優秀な仙蔵君からは想像できない締めくくり。課題を改めて確認しても、間者の特定やら建物の構造調査など、破壊からはほど遠い内容ばかり。
課題内容から実習は失敗してしまったのが分かる。冷静で成績優秀な仙蔵君なのに、失敗するなんて。
だが、私はもう一つの顔を知っている。
必死の形相で宝禄火矢片手にしんべヱ君と喜三太君を追う姿。
実は割と短期で、すぐに宝禄火矢で爆破してしまって失敗してしまう…とか。
手が止まってしまった。あと五人分まとめなければならない。
私は読み込むのをやめて、さっさと仕分けを再開した。
だがこの後に、彼の失敗は、例の二人が関係していることが分かったのだった。
恐るべししんべヱ君。
恐るべし喜三太君。
ーーー
ある日。食満君に呼び止められた。
用具委員の倉庫整理の手伝いを頼まれた。
吉野先生に確認すると、ぜひ手伝ってほしいと言われたので倉庫に向かう。
「個数の確認と倉庫内の掃除ですね」
「すみません伊瀬階さん。実はほとんどの生徒が出払っていて、一年しかいないのです」
用具委員の一年生。
それを聞いて笑顔が引きつる。
しんべヱ君と喜三太君。
今となっては笑える思い出だけど、手にひっついた鼻水のまったり具合と粘液が乾いてガビガビになった風呂敷を思い出す。
そして風呂敷の中に隠していたリュックが出てしまったのも、池に落ちたのも、あの二人。
そしてここ数日、私は二人によって散々な目に遭っている。
「こんにちは朱美さん」
「こんにちはー。この前お話した新しいナメさん達を連れてきましたよ!」
一日の授業が終わり、新しく友達になったナメクジさん達を紹介したいと言って私の部屋にやってきた喜三太君と付き添いのしんべヱ君。
もちろん喜三太君の手には例の壺が。
鼻が利くしんべヱ君にとってハンカチや衣類に使っている柔軟剤の匂いやリュックに付いた塵や埃は刺激的らしい。
それらは押し入れの中に閉まってあっても、しんべヱ君の鼻を刺激する。
くしゃみをすれば、部屋は彼の鼻水で大惨事だ。
「いらっしゃいしんべヱ君、喜三太君。ごめんね、今は部屋の中がちょっと散らかってるから……」
「あ!朱美さんの世界の本だ!」
「何を読まれているのですか?!」
「あ……ちょっ、ちょっと!」
私は庭に出ることを提案したが、机の上に広げてある教科書やノートを見て、二人はするりと部屋に入っていく。こんな時は本当に忍者らしい。
身分を明かしてからは隠すことをしていないけれど、二人が来た時、戸を開ける前に隠しておけばよかったかもしれない…と思ったが時既に遅し。
「うわー、数字やよくわからない文字ばっかり!暗号みたい。ナメ吉達も見る?」
と言って壺の蓋を取り、「彼ら」を解放してしまう。
「やっぱりすごいツルツルして……は、はっ、ハックシュン」
「………」
そしてほぼ新品の物理用のノートは水浸しではなく鼻水浸しになった。
ついでに物理の教科書の表紙は、新顔のナメクジさん達のお立ち台となっていた。
「あああああ!!!」
叫ぶのを止められなかったし、私の腕は痛いくらいに鳥肌立った。
「伊瀬階くん?!」
「どうしたんだ?!」
私の叫びに慌てて隣の部屋の山田先生と土井先生が駆けつけてきた。
机の上の惨状を見て、お二人は呆れ顔。
しんべヱ君と喜三太君は何故かニコニコ顔。
「お前達………」
「……伊瀬階さん。うちの生徒がすみません」
額に手を当てる山田先生と、申し訳無さそうに眉尻を下げ頭を下げる土井先生。
山田先生と土井先生は明日の授業の準備でお忙しいだろうに、片付けのためにお手を煩わせてしまった。
これは悲劇の始まりに過ぎなかった。
この事を申し訳なく思った二人は、裏門の空き掃除をしようとした私の手伝いをすると言って何故か付いてきたが、誠に奇妙なことにピタゴラスイッチの如く二人の善意が起点となり様々な物が私を襲う。
裏門の掃き掃除では、掃除の手伝いに飽きた末に箒のチャンバラごっこをするという本末転倒ぶり。
しんべヱ君の箒が喜三太君の一閃により弾かれ、その箒は近くの木に当たり、その木に何故か刺さっていた手裏剣が落ちて、私のつま先のすぐ傍に刺さった。
あと数センチのズレで私の足に刺さるところだったのだ。
「………っ」
「大丈夫ですか朱美さん?!」
「ぼく達がお守りしますから!」
「………」
そもそもの原因は二人がふざけ始めたことが……。
悪気がないのは分かっているだけに言えなかった。
いや、手裏剣を片付け忘れた忍たまが悪いのか。
そして、今度は私が危険な目にあわないようにと、またしても私に付いてくる二人。いや、今度は私の前を歩く。
このとき、宿題やれよ、とは言えなかった自分に後悔している。
「後は事務室で仕事をするだけだから付いてこなくて大丈夫だよ」
「では、事務室の前までお送りいたします!」
「五平餅はぼく達にお任せください!」
「それ護衛」
私の突っ込みにえへへと笑うしんべヱ君は、五平餅を想像して涎を垂らし、その涎で足を滑らした喜三太君はカーリングストーンの如く滑り、小松田さんが片付け忘れた水入りの桶に激突し、桶が宙に舞い、奇跡的に中身は私の頭上に至るまで零れることはなかった。
バケツをひっくり返したような雨ではなく、本当にバケツをひっくり返して降ってきた汚水をかぶってしまったのだ。
並々と入っていたのか結構な量だった。
「伊瀬階さん?!」
その声にドキリとギクリという両方の音が私の胸の中で鳴った。
土井先生、どうしていらっしゃるのか。
こんな姿を見られたくなかった。
「あ、土井先生」
「大変です!朱美さんが!!」
「………」
土井先生と目が合う。
漫画のようにひっくり返った桶を頭に被り、髪は濡れ滴り、忍装束はべったりと肌に張り付いている私を見て何を思っているのだろう。
驚きと哀れみ、気まずさ。
土井先生は数秒固まっていたが、何かに気がついたのか、はっとした後、顔を背けてしまわれた。
みっともなくて直視できない、といったところか。でもどうせなら笑ってほしい。
恥ずかしさのあまりカッと頬が熱くなる。
「お風呂に入らせてもらうようシナ先生に伝えておくから、伊瀬階さんはくノ一教室に向かいなさい。そしてしんべヱ、喜三太。山田先生が呼んでいるから早く職員室に行きなさい」
土井先生は顔も合わせてくれずそう言うなり、走り去ってしまった。
こんな姿を土井先生に見られてしまい恥ずかしいことこの上なかった。
山田先生に呼ばれているという事にしんべヱ君と喜三太君は「えー」と嫌そうな声をあげた。
「すみません朱美さん。僕たち、くノ一教室の敷地までお送りしたいところですが」
「山田先生のところに行かなきゃ」
「いいよ。気にしないで……」
二人はぺこりとお辞儀をして教員長屋の方へと走っていく。
お行儀はいいし、優しい。
二人は良い子だ。
― 一年は組の良い子達
私の中でそんな土井先生の声と笑顔が蘇る。
きゅっと胸が甘酸っぱく締め付けられる。
いけない。これ以上、この気持ちに浸ってはいけない。
そう思うと共に影も生まれていて。
良い子…なんですけど……
土井先生の言葉に反論したくなる。
くノ一達の敷地に辿り着けばシナ先生は「ほらほらお尻のシルエットまで丸わかりじゃない」と目を丸くしながら私に衣を掛けてくれた。
汚水に汚れて尻まで丸わかりなんてツイてない。
というかあまり豊かでは無い胸のラインまで見えちゃってるわけで………。
「土井先生も慌てるわけね」
「………!!」
それを土井先生に見られてしまったわけで。
「あらあら」
しゃがみ込んで頭を抱える私にシナ先生はクスクスと魅惑的に笑うのであった。
そう、そんな事もあったのだ。
この二人により、奇跡的かつ悲劇的なピタゴラスイッチが起きて散々な目に遭う。
私の歓迎会ビュッフェのときに仙蔵君の「気を付けろ」という言葉が、ますます重みを増す。
だから、食満君には申し訳ないがあの二人がいる用具委員会との用具倉庫の整理は気が進まなかった。
「あ!朱美さーん」
手を振る井桁模様の装束は二人。
一年は組の福富しんべヱ君、山村喜三太君。
あれ、一年ろ組の下坂部平大君は。
「伊瀬階さん、お忙しいのにお手伝いいただき本当にありがとうございます。このとおり、一年生も二人しかいないもので」
食満君の補足に、私の顔は更に引きつる。
この二人と、作業を、する。
汗が頬を伝う。
いや、まだ大丈夫。食満君がいる。
四人ならば、例の法則は発動しないはずだ。
私は跳ね馬のような心臓を必死に宥める。
「では、すみませんが後はよろしくお願いいたします。わたしは吉野先生と委員会のことで打ち合わせがありまして」
いや、一年生と私だけにするなら打ち合わせしないでほしい。むしろそれだけの人数なら倉庫整理の日を改めるべきだ。
爽やかな笑顔を見せる食満君に、そう叫びたかった。
「食満先輩、任せてください!朱美さんとぼく達なら全く心配いりません!」
「でもでも、朱美さん、しっかりしてそうに見えて、実はちょっとおドジさんなんです」
「は?」
満面の笑みでとんでもない事を言ってのけたしんべヱ君と喜三太君に思わず声が出た。
しっかりしているつもりはないけれど、二人の前でドジを踏んだことは無かった。
何を以て「おドジさん」なんて言えるのか。
まさかあの一連の事故を指しているのか。
食満君は「そうなんですか」と意外そうに目を丸くした。
「だからぼく達がしっかり守ってあげなきゃ。ね!しんべヱ!」
「うん!朱美さん、泥船に乗ったつもりで、ぼく達に任せてください!」
大船だよ。
そのボケはベタすぎるよしんべヱ君。
泥船じゃダメだよ。あんな目に遭った後じゃ、実際泥船だけど。
むしろそんな自信満々なら私は手伝わなくていいのでは。
「しんべヱ、それを言うなら大船だろ?」
「あ、そうでした」
「そう言うわけで、お願いします。分からない事があれば二人に聞いてください」
「……はい」
何がそういうわけだ。
やはり日を改めることを委員長に提案したい。
しかし一度引き受けた手前、そんな事は言い出しづらく、小さくなっていく食満くんの背中をただ見送るばかり。
これもあの二人組のなせる技なのか。
こんな有り得ないシチュエーションを引き寄せる不思議な力を持っているのか。
「さ!さっさと始めちゃいましょう」
「三人でやればあっという間ですよね」
腕まくりする二人を見て、冷や汗が止まらない。
用具倉庫の中は、手裏剣や鉤縄、その他刃物類が眠っている。
バケツをかぶる程度のことでは済まされない。私は生きて帰れるのか。
なんかあったなこういう映画。
ピタゴラスイッチ的な奇跡で人が死んでいくの。
あの犠牲者みたいになるのか、私。
目眩がする。
いや弱気になってはだめだ。
生き残るという強い意志を持たなくては。
しかし、戸がなかなか開かず、ようやく開けたら、ドミノ形式で倉庫内の物が倒れ、手甲かぎの雨が降り注いだ瞬間、その決意は崩れ去った。
その日は倉庫の整理により食堂のおばちゃんのお手伝いはできなかった。
用具委員会全員でやったとしても夕食の手伝いの時間に間に合うか間に合わないか分からないのに、三人ならば間に合うはずはなかった。
吉野先生が予めお伝えいただいたのだろう、食堂に行けばおばちゃんが労るように私に夕食の盆を渡してくれた。
「お疲れ様、朱美ちゃん。特別に甘ーい卵焼き、サービスしたわ」
「ありがとうございます!!」
「しんべヱ君と喜三太君には内緒よ。早く食べちゃいなさい」
壮絶な用具倉庫整理の後の、おばちゃんの優しさに涙が滲む。
私は席に座り、手を合わせた。
「うわーおいしそう!」
「いいなー卵焼き!」
「ひぃ!」
いつの間にか私の向かい側に座るしんべヱ君と喜三太君に私は悲鳴をあげた。
何なら長椅子から落ちかけた。
用具倉庫整理の後、二人は忍たま長屋に戻ったが、もう食堂にやって来たのだ。
夕食を受け取るために並び始めた忍たまや先生達の視線が刺さる。食堂のおばちゃんも、秘密の卵焼きがバレて申し訳無さそうに私を見ている。
一瞬だけ静かになったから気まずくて私は「何でもないです」と呟き、箸を取った。
列の中には土井先生もいらっしゃって、不思議そうに私を見つめていたからいたたまれない。
自分の可愛い教え子に怯える嫌な奴、なんて思われてないだろうか。
そう思われていたらどうしよう。
いや、別に好かれたいなんて思ってない。思ってないけど、嫌われたら仕事はやりづらくなるだろうし、お手伝いにも行きづらいし………。
心の中でくだを巻く。
「いいなー。美味しそう」
「いいないいな!」
「こらこらお前達」
夕食を受け取った土井先生は、しんべヱ君と喜三太君を窘めなから私の隣に座る。
心臓は途端に騒がしくなった。
「い、いいよ!食べる?二人で半分こすればいいよ!」
「伊瀬階さん!?」
考えるよりも先に卵焼きが乗ったお皿を二人に差し出した。
「「ありがとうございまーす!」」
「少しは遠慮しなさい」
満面の笑みのしんべヱ君と喜三太君に対し、額に手を当てる土井先生。
「私達、食満君の依頼で用具倉庫の整理をしていたんです。二人も頑張ったもんね?」
「………」
確かに二人は頑張った。
その頑張りで命を落としそうになったけど。
そう言いたかったけれど、子ども達の頑張りを否定するなんて余りにも心が無さすぎる。
しかし、手甲かぎの雨を思い出してしまって引き攣りながらも精一杯の笑みを浮かべた。
「だから土井先生もお気になさらず…」
土井先生は真顔でじっと私を見ていた。
黒い瞳はまるで私の本心を見透かしているようで、私は視線を逸らし、食事を続けた。
早く食べてこの席から離れよう。
「あ。土井先生のその小鉢も僕たちが食べましょうか?」
「あのな………」
三人の会話など聞かず、私は一心不乱に食べ続けた。
夕食後の自由時間。
私は長屋に帰らず、裏庭で体育座りをして池を眺めていた。
早く帰らなければ暗くなって歩きずらくなる。
それでも、一人でぼーっとしていたかった。
夕陽が夜闇に追われ、空は見事なグラデーションを描いていて、見上げなくとも池を見れば見事にその色が映し出されている。
疲れた。
用具倉庫の整理は、本当に大変だった。
手甲かぎの雨に、櫓を建てるための木材が倒れ頭を打ったり、絨毯のようにぶちまけられたまきびしを踏みそうになったり。
それも全てあの二人が引き起こした事。
張り切るあまり引き起こす事故の数々。
彼らが無意識に起点となり、その終点に私がいる。
何度、怒鳴りそうになったか。
しかし倉庫の整理が終われば、丁寧に頭を下げてお礼を言う二人に、終始イライラとヒヤヒヤに支配されていた自分が嫌になる。
二人は良い子なのだ。
本当に良い子なのだ。
ただ、相性が悪いだけで。
食堂で二人を見たときビクリと震えてしまったことに罪悪感が募る。
あんないい子達を怖がったり、厄介に思ったりする自分が嫌になる。
こんな私を土井先生が知ったら、きっと軽蔑される。
だって先生は二人の担任で、「一年は組のよい子達」と、いつも笑顔で言っている。
大きな溜息を付いた。
「どうしました」
背後からの突然の声に驚く。
その声は久しぶりに聞いたから、そう言う意味でも驚いた。
「仙蔵君?」
さらりと結った髪が風に揺れている。
「何か悩んでおられるのですか」
私は仙蔵君の言葉を思い出す。
福富しんべヱ、山村喜三太に気を付けろ。
歓迎会で囁いた彼の言葉。
そして、この世界に来たばかりの時の二人を追いかける彼の姿。
この悩みは彼に言うしかない。
近くに座った彼の方に体を向けた。
「実はね」
今日のことを語る。
彼はとても熱心に聞いてくれた。
何度も大きく頷く。
そのついでに、ここ最近の事も語れば、彼は涙さえ浮かべた。
聞き終えると、仙蔵君は切れ長の目をカッと開き、私に詰め寄った。
「伊瀬階さん。わたしと同盟を組みませんか」
同盟という大層な響きに、私は仰け反る。
今度は仙蔵君がこれまでの二人によって引き起こされた悲劇の数々を語る語る。
その時、先日の報告書が脳裏をよぎる。
数々の爆発オチは、二人が原因だったのかと気がついた。
「もしかして仙蔵君、実習の時に二人に会ったりした?」
「そうなんです。この間も…」
仙蔵君は更に語る語る。
私は涙が止まらない。
二人によって彼の成績が下がらないか心配でたまらなかった。
成績が悪ければ、城や屋敷への就職に不利であろう。
将来有望な忍たまの未来を私は案じた。
「だからこそ、同盟を結びましょう」
「同盟……分かりました」
彼の未来を守るために。
そして自分の命を守るために。
「と言っても何をするのですか」
「二人の動きを探り、その情報を共有し、出会わぬようにするのです。わたしは二人と同じ委員の委員長である留三郎や、作法委員の一年から二人の予定や一年生の予定を探ります」
「なら私は食堂で聞こえてくる一年生の会話をチェックしていけばいいんですね」
なんだかスパイやハードボイルドみたいで、わくわくしてしまっている自分がいた。
調子に乗ってテーマ曲が頭の中で流れ出した。
「はい。…できれば担任の山田先生、土井先生から一年生の予定をそれとなく伺っていただけるとありがたいのですが」
先生の名前にドキリとして、音楽が止まる。
先生達には世間話としていつも授業の予定を聞いている。騙すことではないけれど、何かに利用するために聞くことは少し後ろめたかった。
しかし、仙蔵君の未来と、私の身の安全のためだ。
「分かった。いつも聞いてるから大丈夫だよ」
私の言葉に仙蔵君はホッとした様子だった。
「良かった。お二人は特に鋭いから、急に聞き出したら怪しまれると思いまして」
ああ、やっぱり山田先生も土井先生も先生の中で凄いんだなと、心が甘くときめいた。
「話した内容はどこでどうやって伝えるの?」
ホテルのラウンジで背中合わせのソファに座り、一方は葉巻を加えて新聞を読みながら情報を伝え、一方はコーヒーを飲みながらそれを聞く……なんてことはできない。
「暗号と矢羽音を決めましょう」
暗号と矢羽音。
心がときめく。
私達は暗くなるのも気にせず暗号と矢羽音を決めていった。
こうして、仙蔵君と私の同盟…反湿気同盟(はん しめりけ どうめい)が誕生した。
「しんべヱ、今度のお休みの日に新しくできたうどん屋さんに行かない?」
乱太郎君の声が聞こえた。
次々と食堂にやって来る生徒達にランチを渡しながらも、耳をすます。
「ごめん。喜三太とナメクジを探す約束があるんだ」
「そっか」
「また増やすのかよ」
特に落ち込む様子のない乱太郎君と呆れた様子のきり丸君につい笑ってしまった。
今日の情報は、一年は組の午後の授業は裏裏山で実習。次の日の放課後は補習授業。そして今度の休校日はナメクジ探し。
「ごちそうさまでした」
仙蔵君がカウンターに盆を返しに来た。
一度置いた盆を右側にスライドさせた。
茶碗と小鉢は丁寧に重ねられていた。
「はい。ありがとう。おそまつさま」
仙蔵君は口元だけ笑い、去って行く。
仙蔵君からの情報は、明後日、用具委員会の作業があること、明明後日には保健委員の仕事をしんべヱ君と喜三太君が手伝いに来るようだ。
私達が決めた暗号の主は食堂のやりとりだった。
声のかけ方、食器の下げ方で分からせる。
これなら先生方にも六年生にも気付かれないだろう。
矢羽音も考えたが、あくまでそれは緊急用だ。
こうして私達には平和が訪れた。
ある日の午前。正門前を掃き掃除していたら、仙蔵君が帰ってきて、嬉しそうに実習の結果を報告してくれた。
普段大人びた仙蔵君の顔が、少年のようにキラキラと輝いていた。
これも同盟活動のおかげだった。
二人の予定が、仙蔵君の実習先と近かった。
そこで食満君に掛け合った。
この間、校庭の隅に手裏剣が落ちていたから、在庫の点検をした方がいいと。ついでに、手裏剣が少し錆びていたから、磨いておいた方がいいと。
こうして緊急の用具倉庫の点検と忍器の手入れが行われ、二人の予定は変更された。
「良かったね!」
「朱美さんのおかげですよ。ありがとうございます」
続いて正門から小平太君が入ってきたのを見ると、仙蔵君は顔を引き締めた。
実習の結果で一喜一憂するなど、彼らしくないからだ。
その様子が微笑ましかった。
なんだろう。
久々の平和に、心が軽い。
食堂で二人に会うけれど、三人きりにならなければ問題はない。
「はい。Aランチ」
「……ありがとう、ございます」
しんべヱ君にカウンターからAランチを渡したものの、彼は浮かない顔をしている。
大好きなお昼を前にしても落ち込んだ様子のしんべヱ君を不思議に思いながら私は配膳に集中する。
「伊瀬階さん」
「土井先生、お疲れ様です。何にしましょう?」
「Bランチをお願いします。それと」
土井先生は変わらぬ優しい笑顔で続けた。
「午後に煙硝蔵で火薬の点検をしたいんだ。悪いが手伝ってもらえないかな?」
「………はい。勿論です」
そして土井先生と煙硝倉に行き、管理簿と共に火薬の点検を行った。
火薬委員会でもないし、火薬の知識を持ち合わせていない私に点検の手伝いを頼んできた事に嫌な予感がした。
「伊瀬階さん」
土井先生の読み上げに、私が管理簿と照合していた時、突然名を呼ばれて嫌な予感はますます確信へと近づく。
「最近、私に隠し事をしていないかい?」
「…………してませんよ?」
まさか気付かれてしまったのか。
目を合わせず、いつもの調子で答えられた。
しかし、筆を握る手は汗ばんだ。
煙硝倉は人気の無いところにあるから、私達が黙ると本当に静かだ。
「言い方を変えよう。立花仙蔵と何をしている」
先生の声が厳しくなった。まるで悪い行いを隠す生徒を問いただすかのような声。
張りのある先生の声は、私の良心を揺さぶる。
答えないでいると、先生は火薬の坪から離れ、私の方へと歩み寄る。
「食堂で行っている君たちのやりとりを私が気付いてないとでも?」
私は管理簿から顔を上げて土井先生を見た。
気付かれていた。
そんな。どうして。
「どうして知ってるのか、そんな顔をしているね」
土井先生の表情は固いままだ。
「忍者は一を知って十を理解する。よく覚えておきなさい」
不敵に笑う先生だったけど、途端に眉尻を下げ、悲しげな表情を浮かべた。
「この間、しんべヱと喜三太から相談されたんだ。最近、二人に会えなくて寂しいとね」
その言葉に胸が痛む。
二人は仙蔵君のことを尊敬していたことは、この間の用具倉庫整理で話してくれた。目をキラキラさせて。
大切にしなければならないことを、私は疎かにしていたことに気付く。
「六年の立花とは、なかなか会えないのは仕方ないとして、君と会えないのはおかしいと思ったんだ。だから君と立花を観察したんだ」
土井先生は発見する。
食堂でのやりとりに規則性があることを。
そしてそれが二人を遠ざけていることに関連性があることを。
あっという間に突き止めてしまった先生の鋭さに感動と共に鳥肌立つ。
「何をしているのかは聞かない。だが、二人を避けるのは、やめてくれないか」
優しさのなかに厳しさを混ぜた声。
「伊瀬階さんが二人によって大変な目に遭ったことは知っている。それに少し前の君は、二人を見てはびくびくしていただろう」
物理の教科書とノートがダメになったこと。
桶の水をかぶったこと。
用具倉庫の整理の後の食堂で、二人を見て動揺したこと。
その時の土井先生の視線を思い出した。
「でもそれなら、私を頼るべきだ。二人の担任である私に相談するのが筋だろう」
ごもっとも。
でも私はどうしてもその発想へは至ろうとしなかった。
先生はお忙しいだろうし。
何より、彼の可愛い生徒のせいで何故か災難が降りかかる、なんて信じてくれないだろうし、その事で二人を疎んでいることなど知られたくなかったし。
その時、ストンと私の頭に何かが乗る。
先生の大きな手だ。
「全く君は。私にばかり遠慮する。私には悩みを打ち明けてくれないんだな」
溜息と共に出た息からは、少しの苛立ちが含まれていた。
それは私の頭を撫でる土井先生の手にも表れていて、すこし乱暴に撫でられた。
「そう言うわけでは」
「言い訳は聞かない」
そう言うと土井先生は私の額を軽く突いた。
突かれた額が熱い。
その熱が私の胸まで伝わってきて、鼓動が忙しなくなる。
触れられた。
それだけで鼓動は早鐘のように打ち続け、それなのに身体は固まって動けない。
赤くなって棒立ちする私を見て、土井先生はくすりと笑った。
笑っているけど、少し悲しそうにも見えて、私は混乱する。
「さ、早く点検を済ませよう」
固まる私の事などお構いなしに、先生は読み上げ始めていた。
「気付かれていた…だと」
仙蔵君はショックを受けていた。
彼が考えた完璧な暗号を見破られた事がかなり応えているらしい。頭を抱え、しゃがみ込んでいる。
風爽やかな午後。
今日の1年は組は山田先生と土井先生と共に裏裏山で演習だ。
だからというわけでは無いけど、たまたま通りかかった仙蔵君を呼び止めて、あの時のように裏庭で話をした。
しんべヱ君と喜三太君が寂しがっていた事も伝えた。
「そうか。しんべヱも喜三太も…」
仙蔵君だって、二人の事を嫌っているわけではなかった。可愛い後輩なのだ。ただ、彼らが起こすトラブルの先に彼がいるだけなのだ。それを避けたかっただけで。
「伊瀬階さん。この同盟は解消した方がいいでしょう」
土井先生が、二人と接点の多い用具委員長の食満君や顧問の吉野先生にうまく伝えていただいたらしい。これで用具倉庫で私が惨殺されることは無くなった。
日常における悲劇は…なんとか回避するしかないけど。
そうするとこの同盟の意味が薄くなる。
仙蔵君はそう考えたらしい。
「いいの?」
「はい。何時いかなる時も沈着冷静でいられるのが一流の忍者です。あの二人がいると、冷静でいられなくなるし、ろくな事が起きない。しかしそれは私の落ち度だ」
あの二人を乗り越えねば、一流の忍者にはなれない。
この澄み渡った青空と同じ瞳をさせた仙蔵君は、強くて、そして美しかった。
真っ直ぐ伸びた髪は気持ち良さそうに風になびかれている。
「解消しなくて、いいんじゃないかな」
私の提案に仙蔵君は驚く。
「受験生として…仙蔵君の成績は見過ごせないよ」
真剣な表情の私に、仙蔵君も真剣な顔で頷き返した。
「仙蔵君の実習のときだけ、連絡しよう?」
「…ありがとうございます」
こうして、私達の反湿気同盟は続く。
私は食堂へ。
仙蔵君は正門へ向かった。
仙蔵君の足音が遠ざかる。
ここにはアスファルトも車もないし、私は運転免許を持っていないけれど、アスファルトをタイヤで切りつけながら走っている気分だった。