上手な甘えかた
取引先との商談を終え、スマホを開いた黒尾は目を見開いた。珍しく赤葦からの連絡があり、何かと思えば月島が高熱で倒れたという。
時刻は20時を回ろうとしているところで、この後は取引先の相手の接待をしなければならない。すぐにでも帰ってやりたいが、どう理由を付けてこの場を切り抜けようか、あまりの動揺に思考が上手くまとまらない。しかし新幹線の最終時間を思えば、ゆっくり考えている時間もない。
取引先のオフィスロビーで相手を待ちながら、手を口に当てスマホを見つめる黒尾の様子に、同行していた上司が違和感に気付き「大丈夫か」と声をかけた。
「す、すみません…なんというか、その…恋人が高熱で倒れた、らしく…」
「倒れた…!?そうか…先方には俺から一言入れとくから帰っても構わんぞ。今なら新幹線も間に合うだろ」
「……っ、一言挨拶だけさせてください。すみません、お言葉に甘えます」
理解のある上司でよかった、と心の底から安堵する。しかし商談が上手くいったからこそそのまま挨拶も無しに帰るのは気が引けて、暫く相手を待つこととなった。
その後、どんどん時間が過ぎていくなか、チン、というエレベーターの扉が開く音と同時に呑気な笑い声が聞こえ、黒尾は「やっときたか」と小さく溜息を吐いた。
「やぁ、お待たせして悪いねぇ。行こうか、良いお店があるんだよ」
仕事から解放されあとは呑むだけだ言わんばかりに陽気なテンションの相手は部下を1人連れて現れた。
黒尾の上司は適当な相槌を打ちながら、彼を引き留めるべくタイミングを伺っている。
「っ、申し訳ありません!」
黒尾はオフィス出口へ向かう取引先相手の背中に頭を下げた。その行動に驚き、思わず足が止める。
「ご一緒させていただきたいのは山々ですが、東京にいる恋人が高熱で倒れてしまったようで…今日はここで帰らせていただきます。」
「え、恋人〜?でも大人でしょ?世の中女子の方が強いって言うしねぇ…あんまり甘やかしても良くないんじゃないの〜?」
中年の男はヘラヘラとした様子で、説教を垂れ始める。その言葉に思わず上司が口を挟もうとしたが、黒尾は被せるように口を開いた。
「はは、仮に女の子が強いから大丈夫っていうなら…僕の恋人はか弱い男の子なんで、早く帰ってあげないとですね」
黒尾の爆弾発言にその場にいた全員が驚愕の表情を浮かべている。
「き、君…!」
「すみません、そういうことなのでお先に失礼します!」
黒尾は腕時計をちらりと見やりゆっくり話している時間が無いことに気付き、取引先相手と上司にそれぞれ頭を下げると走り出したのだった。
「ほぉ〜若いっていいねぇ〜…黒尾くんだったかな、彼は」
「はい…!すみません、後で強く言って聞かせときますので…」
「いいや、いい男じゃないか。また連れてきてよ、是非恋人の話聞きたいねぇ」
顎に手を添えて「うんうん」と笑う取引相手に、上司はホッとした表情で「ありがとうございます」と頭を下げたのだった。
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<間もなく 15番線 東京行きが発車いたします>
機械的なアナウンスと警笛が響く。
バタバタと階段を駆け登り、扉が閉まるギリギリのところで、黒尾は滑り込むように新幹線に乗り込んだ。
「っあぶねー、セーフ…!」
思わず声に出して安堵の息を吐く。ネクタイを緩めながらじんわりと額に滲む汗を拭い、車両の奥へ進んでみると、平日の夜も遅い時間帯のため、自由席でも空席が目立っていた。
空いている適当な席へ腰掛けて、スマホを開く。
時刻は21時半過ぎ、家に到着するのは恐らく日付を超えてしまうだろうか。
「(思えば…どおりで今朝変な態度だったわけね…)」
今朝、キスをしようとしたところ顔を逸らした月島の反応を思い出し、何も気付けなかった自分の不甲斐なさに落胆する。
スマホの画面に映し出された月島とのメッセージ欄、しかし新着メッセージはない。「こんなときくらい甘えて欲しいんだけど」思いつつ、彼の性格上それは難しい問題なんだろうと苦笑を浮かべた。
どこか落ち着かない様子の黒尾は、恋人への心配と自分への不甲斐なさを募らせながら新幹線に揺られ帰路へ着くのだった。
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黒尾がようやく家に着いたのは日付を超えた午前1時前。寝ているであろう月島を起こさないようにゆっくり玄関を開けて足音を立てずに寝室へ向かうと、部屋の灯がついていることに気づき恐る恐る扉を開けた。
「……っ蛍!?なにしてんの…!」
「く、黒尾さん…どうして…?今日は帰ってこないはずじゃ…」
額に冷えピタを貼った月島はベッドの上で上半身を起こし、膝にPCを乗せた状態で驚愕の表情を浮かべている。ベッド上には数冊の本が置かれていて、課題をしていのだろうということは明らかだった。
「赤葦から連絡もらってさ。明日、というかもう今日か。朝イチで向こう戻らないといけないんだけど、蛍が心配で」
ベッドへ近づきながら説明する彼の言葉に、月島は布団をぎゅっと掴み眉間に皺を寄せた。
「もー、大人しく寝てなさいっての…!課題なんて明日でもできるでしょうが…!なんでそんな無理すんの」
「…ん、で…って」
「ん?」
「そんなの、こっちのセリフですよ…っなんで…ったかだか風邪なんですから、これくらいで帰ってこないでください…!」
そこまで言い終えて、月島はゴホゴホと咳き込んだ。
黒尾は慌てて背中を摩りながら近くにあったスポーツドリンクのキャップを開けて手渡す。
「ほら、これ飲んで。」
しかしそれはいつまでも受け取ってもらえず、痺れを切らした黒尾はそのスポーツドリンクを煽った。その行動にギョッとした月島が呆然と見つめていると、その顎先は黒尾の指先に捕らえられ、気付けば唇が重なっていた。
そこから送り込まれる甘い液体に、月島は抗うこともできずコクリと喉を鳴らして飲み干した。冷たく感じる黒尾の薄い唇が心地良いと感じながら、名残惜しそうに離れていくのを見つめる月島は動揺を隠せず、顔を赤らめ震えていた。
「〜〜っ、な、な、…っ(風邪、移っちゃうのに…!)」
「なんで帰ってきたの、なんて答えは一個しかねぇだろ。何よりも蛍が大事だから、それ以上も以下もねーよ」
黒尾はいつものように片方の口角だけを小さく吊り上げながら笑うと同時に優しく頭を撫でた。
「そっ、そんなの、僕も同じです…!だから無理して欲しくなかったのに」
「ったく、気にすんなって言っても無理だもんなぁ〜蛍ちゃんは。そんなとこも大好きなんだけど。」
子供のように口を尖らせて俯く月島に、黒尾は思わず苦笑を浮かべながら冷えピタが貼られた額にキスをする。
「それで?次は俺の質問に答える番。なんでこんな時まで課題やってるのかな…?」
「そ、それは…その…」
逃れようのない黒尾の問いかけに口籠る月島は、観念したかのようにゆっくり話し始めた。
「…課題、少しでも進めたかったので…」
「そんなに期限迫ってるの?量がやばいとか?」
「まぁ量はそこそこですけど、そうじゃなくて…その」
計画的に物事を進めるタイプの彼にしては珍しいなと思いながら予想するも、それは検討はずれだったようだ。月島は首を横に振り、彼から視線を逸らしながらバツの悪そうな表情を浮かべた。
「く、黒尾さんと…過ごせる時間、限られてるし…なるべく課題のことは考えなくていいようにしておき…た、くて…」
そんな意地らしい恋人の言葉にハッとした黒尾は、ぶわわっと顔を赤らめ片手で顔を覆った。
「(かっっっ…)」
「…?黒尾さん?」
「い、いや何でもありまセン…(相手は病人、病人…!)」
いつもならこんな素直な言葉をかけられれば、すぐにでも襲いかかっているだろう。黒尾は沸き起こる胸の高鳴りを必死に押さえつけながら、平静を装っていた。
「ありがとな。家のことも色々やってくれてバイトも大学も行って大変なのに、俺との時間も大切にしてくれて」
「べ、別に…お礼を言われることじゃ…」
「いーや!いつも感謝してるぜ。だから、こんな時くらい甘えなさいよ」
歯を出してニッと笑う黒尾に、月島は小さな声で「はい」と頷いた。そして黒尾がさっさとベッドの上を片付け、月島をベッドに潜らせた。
「と、ところで蛍ちゃん」
「はい」
「その寝巻き、俺の…」
「!!あ、こ、これは…っ赤葦さんが着せてくれて、その」
うっかり黒尾のスウェットを身につけていることを忘れていた月島は慌てた様子で言い訳をしている。その言葉に、黒尾はピシッと雷に撃たれたように固まった。
恋人が、別の男に脱がされて着替えを…?
そんないかがわしい妄想に、黒尾はよろけてベッドの上に腰掛けた。
「蛍ちゃん……これから具合悪い時は必ず俺に言って」
「え、なんで…」
「あーもうこの話はあとあと!ってか着替えなくて平気?蛍の服持ってこよか?」
鼻まで掛け布団を被る月島は不思議そうな表情をしている。が、その瞳はうつらうつらで、黒尾の問い掛けに答えようとなんとか口を開いた。
「ん……だいじょ、ぶ…です…黒尾さん、良い匂い、だ…か…」
その言葉の直後、スーっという寝息とともに月島は眠りについてしまった。とんだ爆弾を投下された黒尾は顔を両手で覆い、声もなく大きな溜息を吐いた。
「(俺の恋人が可愛すぎてツライ…!!!)」
彼の胸の高鳴りはしばらく止むことなく、スヤスヤと寝息を立てる恋人の寝顔を見つめ、その愛しさを更に募らせるのだった。
(君のためなら熱をも奪う)
(もっと愛したいの)