上手な甘えかた
「んじゃあ、蛍ちゃん行ってくるな」
「…はい、気をつけて」
今日から一泊二日の出張に向かう黒尾は、いつもより少しだけ大きなビジネス鞄を持っている。そんな彼を見送るべく、月島は玄関先に立っていた。
「そんな寂しそうな顔するなって〜明日遅くなっちまうと思うけど、なるべく早く帰るから!」
手を前に組み唇を噤む月島に、胸がキュンと高鳴るのを感じた黒尾は愛しさを感じながらわしゃわしゃと頭を撫でた。
月島が大学生になるタイミングで上京し、2人暮らしを始めてから初めての出張、たった1日といえど黒尾の言うとおり「寂しい」と感じていた月島は図星を突かれ顔を赤らめた。
「べ、別に寂しくないですから!…ほら、遅刻しますよ」
「え〜やだやだ、行きたくなぁい〜」
口を尖らせながら否定する月島は仕事へ行くように促すが、黒尾は子供のように首を振る。また馬鹿なことを、と月島は呆れた様子で「何言ってんですか」とため息混じりに言葉を返した。
「なぁんてね。愛するハニーのために頑張ってきますよ」
「ハニー」と言う言葉にうわ、とドン引きする月島の顎先を指で掴む黒尾はその薄い唇にキスを落とそうとした。しかし月島ははっとして顔を逸らしたため、黒尾の唇は頬に当たった。
「ありゃ」
「ほ、ほら、もう僕も遅れるんで早く行ってください…!」
「ちぇ〜んじゃ、蛍も課題とバイト、頑張ってな。でもあんま無理すんなよ」
「っ、はいはい…行ってらっしゃい」
黒尾はいつもと様子の違う恋人の反応に首を傾げたが「急な出張でちょっと拗ねモードかな?」などと勝手な解釈を脳内で繰り広げ、またそんなとこも可愛いなと惚気ながら、名残惜しそうに家を出て行ったのだった。
パタンと扉が閉じられて、シーンとした玄関に取り残された月島は小さく息を吐いた。
「(口にしたら、黒尾さんに移しちゃうかもしれないし…危なかった)」
実は今朝から体調不良を感じていたのだ。身体が重く、こっそり熱を熱を測ると体温計には「37.9℃」と表示された。しかし今日は朝から予定が山積みのため休む訳にもいかず、黒尾も出張へ向かうため余計な心配をかけたくないという思いから何とか平静を装い彼を送り出したのだ。
「(今日は一限と二限終わったらバイト、夜は赤葦さんから課題で使えそうな本を借りるために会う予定だし…帰ったら少しでも課題進めないと)」
一日のスケジュールを脳内で確認しながら、ふと時計に視線を送ると間もなく家を出る時間が近付いており、朝食も取れないまま慌てて支度を進めるのだった。
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大学の講義とバイトを終えた18時頃、今朝より身体の調子が悪化していることは明らかだった。マスクを付けているせいか余計に熱を感じ、気分も悪い。
たびたび大学の友人やバイト先の同僚に心配の声を掛けられたが「大丈夫です」と意地を張り、何とかスケジュールをこなした。
バイト先を出るとちょうどスマホが振動し、画面を見ると赤葦からのメッセージを受信したようだった。「定時で上がれたから、いつもの場所に向かうね」と赤葦らしい簡潔な文章が画面に映し出される。「わかりました。」とすぐに返信をすると、待ち合わせ場所の駅まで向かうのだった。
待ち合わせ場所に辿り着いた月島は辺りを見回したが赤葦はまだ到着していないようだった。そこは誰もがよく待ち合わせに使う場所のため、また平日夜ということもあり人気が多い。
空いてる場所で立ち止まり壁に背を預けた途端、疲労感と熱のしんどさがどっと押し寄せてくる。
「(だめだ、立ってられない…)」
少しの間だけ、とその場にしゃがみ込みながら額に手を当てるがどれほど熱が上がってしまったのかもう予想ができないくらいだ。
「(まずいな、想像以上に悪化してる気がする…別日に改めてもらえばよかったな…でも課題の提出期限近いし…それに、)」
「月島…?」
突如聞き慣れた声が聞こえ、その思考回路は遮断される。ゆっくり顔を上げると、心配そうな表情を浮かべるスーツ姿の赤葦が立っていた。彼は視線を合わせるようにしゃがみ込み、徐に額に手を当てた。
「うわ、すごい熱…立てる?俺送っていくから」
「い、え…大丈夫です、これくらい」
月島はゆっくりと立ち上がったが、酷い立ちくらみに襲われ平衡感覚を失い思わず倒れそうになる。間一髪、その体を赤葦が支えた。
「こら、強がらないの。」
赤葦は有無を言わさないといった圧力で、月島の身体を支えながら無理やりタクシー乗り場へ向かったのだった。
ようやく家に到着し、赤葦は月島を部屋のベットに寝かせた。大人しくベッドに身体を沈める月島の呼吸は荒く、苦しげに顔を歪ませている。
「マスクしんどいでしょ、取るからね。はい、これで体温測って。あと冷蔵庫開けるね」
テキパキと、まるで母のように看病する赤葦の言う通り、手渡された体温計を脇の下に挟みながらマスクが外れたおかげで楽になった呼吸をゆっくり繰り返す。
冷蔵庫から取り出した冷えピタとスポーツドリンクを用意する赤葦は、ピピッと鳴った体温計の数値を見て驚愕の表情を浮かべた。
「39.3℃…!月島、薬はあるかな。ご飯は食べた?」
「たしか、薬は切らしてて…ご飯はなにも…」
「わかった。買ってくるから安静にしててね。」
そう言い終える頃には、既に上着を羽織り財布を片手に持っていた。「流石にそこまでしてもらうのは…」と断ろうとしたがあっという間に家を出てしまった。
額に貼られた冷えピタの冷たさを心地よく感じながら、体の節々の痛みと衣服が肌に擦れるたびに感じる痛みに耐える。そうして、月島の意識はそこで途絶えた。
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「大丈夫?月島」
「ん…あか、あしさ、ん…?(そうか、赤葦さんが連れて帰ってくれたんだっけ…)」
薄らと開かれた視界に映ったのは心配そうに覗き込む赤葦だった。あの後薬やレトルトのお粥、冷えピタなど必要なものを買い揃え帰ってきた彼は、食事を用意し寝室へ持ってきてくれたようだった。
「少しだけでも食べないとね。起きれる?」
月島は彼の言葉に力なく頷きゆっくりと上半身を起こす。
「すみません、仕事で疲れてるのにこんなことを…もう大丈夫、ですから…」
「そんなこといいから、気にしないで。今日黒尾さん帰ってこないんだよね。連絡を…」
「しないでください、お願いします…!心配、かけたくない…」
まるで子供のように縋る月島に、赤葦は小さく息を吐き頭を撫でた。必死な月島の表情に、ないはずの母性が擽られたらしい。
「…わかった。じゃあお粥食べて薬飲んで、今日はゆっくり安静にね。」
「…はい」
唇を少しだけへの字に傾かせながら、赤葦の言葉に大人しく頷き、少しずつお粥を口に運び始める。そんなしおらしい後輩の姿を見つめながら、赤葦は心の中で懺悔していた。
「(既に連絡してしまったとはもう言いづらいな…ごめん、月島…)」
実は先程買い出しに出かけた際、速攻黒尾に連絡していたのだ。月島が高熱を出していて看病しているが自分は夜中まで付いてあげられないことをメッセージで伝えていた。
しかし仕事が忙しいのか、返答はまだない。
黒尾の返事を気にかけていると「ごちそうさまでした」とか細い声が聞こえ、月島を見ると既に薬も飲み終えたようだった。
「ごめんね、レトルトしか用意できなくて…あ、寝巻きに着替えなきゃね。どこにある?」
「いえ、ありがとうございます…そこのクローゼットのなかに…」
熱のせいで頬を赤く染めながら、近くのクローゼットに視線を送る月島。もう彼の前で強がることを諦めたようだ。
赤葦は手早く空になった食器立ちをキッチンへ下げ、クローゼットから寝巻きを取り出した。
「これかな?」
目頭を抑え身体のしんどさに耐えながら、赤葦の言葉に視線を送ることさえ躊躇われ「はい」と短く言葉を返した。
「はい、バンザイして」
「ん…」
ぼーっとした頭で言われるがまま両手を小さく上げる。「よいしょ」という言葉と共に服を脱がされ、素早くスウェットを頭から被された。
「あ…(これ、黒尾さんの…気付かなかった…)」
ふわりと香る恋人の匂いにハッとして、よく見れば自分が袖を通しているスウェットは黒尾のものだと気付いた。しかしまた脱ぐのも億劫で、赤葦に面倒をかけるのも気が引ける。思わず声が出てしまったため「どうしたの?」と声をかけられたが、月島はなんでもないと首をゆっくり横に振った。
そして着替え終わりベッドに潜り込む月島を見届けた赤葦は、片付けを済ませちらりと時計に視線を送った。間もなく帰らなければならない時間である。
珍しく素直で可愛い後輩を置いて帰るのは非常に気が引けるな、と思いつつスマホを取り出し黒尾とのメッセージ画面を開いた。
<遅くなるけど一旦帰れるよう調整する。悪いな、超助かった>
<いえ、付いてあげられなくてすみません。今は食事取って薬飲んで、安静にしています。俺はもう帰りますね>
とりあえず黒尾が帰ってくるということで、安堵の息を吐く赤葦は帰るために一声かけるついでに、寝室へスポーツドリンクを持っていき、そっとベッドを覗き込んだ。
「月島、俺そろそろ帰るけど大丈夫…?」
「あ、はい…赤葦さん、今日は、本当にありがとうございました…」
「こういう時はお互い様でしょ?元気になったらまたご飯食べに行こうね。本はここ置いておくから」
よしよし、と頭を優しく撫でる赤葦は、紙袋に収められた本達をベットの横にそっと置く。そして後ろ髪引かれる思いで家を出たのだった。
黒尾の匂いが染み付いた服を纏っているためか、赤葦のお陰で無事に薬を飲み終えたからか…安心感に包まれた月島は静かに目を閉じ、眠りについたのだった。
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