君のなかに、僕はいない
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「雨音君!また君かね!」
都内の高層ビルの一角にあるオフィスに、机上を叩く音と、男性の怒鳴り声が響いた。
広い執務エリアには50名近い人数がPCと向き合って資料作成をしたり、打ち合わせを行ったりしているが、それは全員が思わず静まり返るほどの怒号だった。
怒鳴る年配の男性、課長の前で頭を下げる雨音と呼ばれた彼女は、低い位置で結ばれた黒髪を揺らしながら「申し訳ありません」と謝罪の言葉を述べた。
眉がヒクヒクと動いている課長は立ち上がると、問題のあった書類を彼女の胸元に突き付けた。
「申し訳ありません....すぐ修正します」
「全くこれだから困るんだよ....!いいよなぁ、女は。ペコペコ頭下げて涙浮かべてりゃ許されんだから」
彼は日頃の鬱憤を晴らすかのようにそう吐き捨てると、嫌味を突き付けてその場を去っていった。
いつもは賑わうオフィスの中、その場にいた誰もが口をつぐんでいたが、彼が去ると途端に空気が緩まっていく。
人知れず奥歯を噛み締めながら、雨音 あかりは無表情を作り座席に戻ると、突き付けられた資料に目を通し始めた。
すると目の前のPCにインストールされている社内のコミュニケーションアプリが起動し、チャット受信を告げる音を鳴らした。
<先輩、ごめんなさい!>
まるで、待ち合わせ場所に遅刻してきたかのような軽いトーンで謝罪文を送ってきたのは、先日入社したばかりの若い後輩の女の子だった。
ちらりと彼女に視線を送ると、会社規定の髪色ギリギリまで明るく染め、化粧もばっちり決めた後輩が申し訳なさそうに手を合わせあかりに向かって「ごめんなさい」というポーズをしていた。
しょうがない、とため息を吐くのを堪えながら小さく首を横に振り、目の前のモニターに視線を移すと彼女に返信をした。
<いいえ。修正して、提出しておきますね。>
彼女にチャットを送信すると、誰にも聞こえないように配慮しながら小さく息を吐いた。
以前、この後輩には同じような溜息をつかされたのを思い出す。
大事な客先とのメールのやり取りで、必ず自分が最終チェックをして送信するように徹底していたが、なぜかチェック後に後輩が文章を変えて送信してしまったのだ。
教育はどうなっているのだとクレームをもらったのはつい1ヶ月前のこと。
何故文章を変更したのか、と後輩に聞くと「私なりにわかりやすく変えてみました!」と悪びれもない様子で答えられたことを思い出していた。
「大丈夫ですか、雨音さん。俺、手伝いますよ!」
「いえ、ありがとうございます。大丈夫です、すぐ終わりますから」
隣席の男の同僚が真隣でPCに向かうあかりに近づき、小声で声をかけてきた。
彼は事あるごとに気遣って声をかけてきたり、食事の誘いをしてくるような、同い年の山野という男だった。
「そうですか...あ、今日金曜日ですし飲みに行きませんか?」
「あ...えっと、すみません今日は予定がありまして...いつもお誘いいただきありがとうございます」
愛想笑いを浮かべて断るあかりに、山野は一瞬落胆の表情を見せたがすぐ爽やかな笑顔を貼り付けて「わかりました」と隣の席に戻っていった。
「(そんなことより、今は集中集中)」
文章を打ち込むだけの簡単な資料作成であるため、修正もそこまで時間かかる見込みはない。ささっと修正してしまおうと取り掛かるあかりを横目に、後輩は新調した爪のネイルを見つめ口角を上げた。
暫くして資料を修正し課長に提出すると、またネチネチと嫌味を言われながらもなんとか受理されたことに、あかりはほっと胸を撫で下ろしていた。
思いの外別業務も重なったことでお昼時間が少し過ぎてしまったが、そろそろ食事を取ろうと席を立って休憩スペースへ移動した。
持参したお弁当をレンジで温めていると、少し離れた未使用の会議室の方からコソコソと女性の高い声が聞こえてきた。どうやら盛り上がっているようで、その声はどんどん大きくなっていっているようだった。
「今朝、まじやばかったよねぇ〜わざわざ間違った資料提出させてさぁ、ほんとウケたわ」
「課長怖いですぅ、って言ったらすぐOKしてくれてさ〜、ちょろいちょろい♪」
後輩のその同僚の女性たちの言葉が耳に届き、全身の血液が凍っていくように血の気が引いていくのがわかる。同時に胸にズキリとした痛みが走る。
彼女たちが誰のことを嘲笑っているのか、それは明らかだった。あかりはその場から逃げ出したい気持ちで溢れていたが、固まった体は動かず彼女達の会話は耳に流れこみ続けた。
「もうアラサーでしょ?ああいうおばさんの存在意義って、わからなくない?だから私が意味を与えてあげてるっていうかぁ」
「きゃはは、あんた、面倒事押し付けてるだけっしょ〜」
「ひどーい、そんなことないよぉ。やっぱり、引き立て役がいないとさぁ」
彼女たちのまるで刃物のような言葉は、あかりの身体に容赦なく突き刺さっていく。すると、電子レンジの「チン!」という間抜けな音が響いた。その瞬間、あかりは堰を切ったように走り出していた。
トイレの個室に駆け込み、込み上げてくる吐き気を抑え切れず嘔吐してしまった。誰も来ないことを祈りながら必死に呼吸を整え、手洗い場で口を濯ぎ、鏡に映る自分をみつめた。
黒く重たい印象を与える髪と、長すぎて目にかかる前髪、充血した目には涙が溜まり、その下にクマをつけた顔がそこにはあった。鏡に映る自分が酷く滑稽で醜い生き物のように思えて、あかりは思わず目を逸らした。
「…存在意義、かぁ」
自分の耳に情けない声が届き、自然に口から漏れてしまったのだと知る。想像以上に頼りなく震えた声に思わず自虐を浴びた笑みを浮かべた。
自分の顔を見るのが嫌で目を瞑ると、彼女達の言葉が鮮明に蘇る。考えちゃだめだ、と無理矢理首を横に振り、蛇口から流れ出る水を見つめた。
「(あ、レンジにお弁当入れっぱなしだ...)」
あの音に助けられたな、と苦笑を浮かべるあかりは頬を手のひらで叩き、お手洗い場を後にした。
あかりは昼間の出来事を忘れるように仕事に没頭し、気付けば周りに誰もおらず、時計は20時を指していた。
集中すると周りが見えなくなる自分に呆れながら、キリのいいところでPCの電源を落とすと、帰り支度をし重たい足取りで会社を出た。
キラキラと眩いネオン街を通り越して電車を乗り継ぎ、自宅の最寄駅へ到着すると、不思議と安心感が芽生えた。
煌びやかとは程遠い、各駅しか止まらない小さな駅ではあるが、生活するのには困らない程度の飲食店やスーパーが立ち並んでいた。
あかりは小さな商店街を抜けたところにある小さなアパートの自分の部屋を想像したが、真っ直ぐ帰る気になれず行きつけのこじんまりとしたバーへ向かった。
カランカラン、と小さな音を立てて開いた扉の隙間から恐る恐る店内を覗きこむ。
あかりの存在に気付いた店主のマスターはグラスを磨きながら微笑を浮かべて口を開いた。
「ああ、雨音さん。いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
仄暗い店内では、名も知らないジャズが流れている。余裕をみてもカウンター6席ほどの広さと、マスターの品のある落ち着いた対応が、あかりにとって居心地よく気に入っていた。
「ふふ、遠慮せずに入ってきて大丈夫ですよ」
扉の隙間から店内を覗き込む彼女を思い出しているのか、マスターはそう言いながら可笑しそうに小さく笑っている。あかりは気恥ずかしそうにお礼を言うといつもの席、入り口から一番遠いカウンター席へ腰を下ろした。
「今日はお疲れのようですね」
「あはは、ちょっと色々ありまして...」
マスターは手慣れた手つきでカクテルを作り始める。注文せずとも、マスターの『本日のおすすめ』が出てくるほどにはすっかり常連客と化していた。
「どうぞ、フローズンマルガリータです。」
「...いただきます。……わ、フローズン状になってるんですね。とても美味しい。レモン大好きなんです」
「ふふ、存じております」
口の中に広がる爽やかなレモンの風味と冷たいフローズンの舌触りに、あかりの表情がふっと和らぐ。
そんな彼女の表情をみると、マスターは目を細めて微笑を浮かべた。
暫く心地のいいメロディーを聴きながらゆったりお酒を呑んでいるあかりは頬杖をつきながら昼間の事を思い出していた。気が緩んだのか、思わず大きな溜息が漏れる。
「…今日は大変だったみたいですね。僕でよければ聞きますよ」
「マスターさん…」
「1人で苦しむよりも、誰かに話した方が和らぐものですから」
眉尻を下げて迷うあかりに、マスターはニコッと柔らかく笑いかける。その優しさに自然とあかりは口を開き、ゆっくり昼間の出来事を語り出したのだった。
「……なるほど、それは酷いですねぇ」
話し終えた頃にはカクテルも3杯目で、ほろ酔い状態のあかりはカウンターに項垂れながら口を尖らせていた。
「そうでしょう?どうせつまらない28の女ですよ…アラサーですよ…」
残り少なかったカクテルグラスに口をつけてそれを飲み干すあかりを見つめながら、マスターは苦笑を浮かべている。
「…僕の意見は参考にならないかもしれませんが、雨音さんは彼女たちの言うような人ではないですよ」
穏やかな笑みを浮かべているものの、どこか真剣味を帯びたその表情と声に、あかりは返事に困りながら身体を起こした。
「また、そんなことを…」
「本当のことです。可愛らしいと思いますよ。」
今度はにっこりと笑いながら、さらりと口説き文句を落とすマスターに、あかりは照れたようにはにかんでグラスに口をつけた。
子供のようにコロコロ変わる彼女の表情に胸を高鳴らせながら、マスターは平常を保つべくあかりに背を向けて心臓を落ち着かせているようだった。
ご機嫌なあかりは暫く経ったあと、ふと壁にかけられたアンティーク時計を見つめ驚きの声を上げた。時計の針は23時前を指している。
「では、マスターさん、またきますね!」
「はい、お待ちしております」
あかりはお財布から壱万円札を取り出し机上に置くと、席を立って入り口へ向かっていく。慌てたマスターが「雨音さん、お釣りを…!」と呼びかけたが、彼女は扉を開けて振り返りにこりと笑った。
「いいえ、今日は沢山愚痴を聞いてもらっちゃったので!おやすみなさい」
来店時より元気を取り戻した彼女の笑顔に、マスターは顔に熱が集まっていくのを感じながら、平常を装い「ありがとうございます」と笑顔を返した。
バーを出たあかりは少しだけふらついた足取りで、歩き慣れた道を行く。例え記憶が飛ぶほど呑んだとしても、家に辿り着く自信があるくらい、見慣れた光景になっていた。
商店街を抜けた先の曲がり角を曲がれば、小綺麗な3階建てのアパートが現れる。あかりは家のふかふかのベッドを考えながら1階のポストをチェックしたあと、軽い足取りで階段を登り、自分の部屋の玄関に向かった。
3階建てのアパートは1つの階に1つの部屋のみで、広さとしては2LDKで一人暮らしには十分すぎるほどである。
鞄の中にしまわれた鍵を漁りながら階段を登りきり、左手にある玄関へ視線を送る。そこにはいつもと違う光景が広がっており、あかりは思わず小さな声を上げた。
そこにはベージュ色の短い髪の若い男性が、玄関の隣の壁に背を預けるように座っていた。横には大きなスポーツバックが置かれている。
「っ....!!ど、どなたですか....」
俯いているため表情は読み取れないが、ゆるりと立ち上がる彼の背の高さに驚いた。190センチ以上はありそうで、150センチ程のあかりは内心恐怖心を抱きながら男を見上げた。白いTシャツに前開きの黒パーカーを纏った彼は黒縁メガネをかけ、無表情でこちらを見下ろしている。
アルコールで麻痺した脳も、その威圧感に思わず「助けを呼んだ方がいいのでは」と警鐘を鳴らし、足が勝手に後ずさっていく。
「ちょっと。久しぶりに会ったっていうのに、逃げようとするなんて失礼でしょ」
「へ、あの....す、すみません...(久しぶり…?)」
彼の口から出た言葉に理解が追いつかない彼女は無意識に謝罪の言葉を述べた。彼は呆れたような表情で、眉を顰めながら言葉を続けた。
「……忘れたの?僕のこと」
「え、えと…す、すみません...どちら様、でしょう…か…」
本当に身に覚えのなさそうなあかりの様子に、男は戸惑っているようだった。切なげに揺れる飴色の瞳に酷く心が痛むのを感じたあかりは、思わず胸に手を当て首を傾げた。
はぁっ、と溜息が聞こえて見上げると、彼は眉間に皺を顰め複雑な表情を浮かべていた。
「......まぁいいけど。僕、君の親戚なの。入れてくれる?」
「ご親戚、ですか…?でしたら、ど、どうぞ…」
有無を言わなさい彼の物言いに、狼狽えながらあかりは慌てて扉の鍵を開けた。
堂々とした様子で「お邪魔します」と言うなり何の躊躇いもなしに部屋へ入っていく後ろ姿を止める術もなく、あかりは後を追いかけるしかなかった。
1/3ページ