願掛けは、嫌いだけれど
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
あかりは無駄に席を立ったり座ったり、掃除をしたりしながら落ち着かない様子でその日を過ごし、気付けば夕方になっていた。
何度もスマホの画面を開き、連絡の有無を確認する。だが何の音沙汰もないことに、いよいよ心配が募っていった。
そんな時、ふと突如スマホが振動し、反射的にそれを手に取り画面を確認すると待ちに待った月島からの電話であった。
彼の父親に何事もなければ良いが、最悪のパターンもあり得る。あかりは身構えながら電話を取った。
「も、もしもし…」
「…なんで君がそんな緊張してるワケ」
電話越しの月島の声はどこか穏やかで、あかりは「大事にはなっていない」と直感し、思わず安堵のため息を吐いた。
「ご無事だったのですね、お父様…!」
「うん。母さんが大袈裟に言ってるだけだった。まあ歳だし打ち所によっては危ないんだろうけど…明日には退院できるみたい。」
月島のほっとしたような安心感が伝わり、あかりは思わず笑みを溢した。
「心配かけてごめん」
「いいえ、私にはそれしかできませんでしたから。ところで、お帰りはいつ頃のご予定ですか…?」
「明日帰ろうかと思ったんだけど兄貴と母さんが煩くて…月曜日の夜遅くなるかもしれない」
すっかり父親の心配をしていて月島の誕生日が月曜日であることを失念していたあかりは、3秒ほど固まった。そして返事をしなければ、とハッと我に返り「わかりました!」といつものと変わらない返事をした。
「久々の実家ですから、ゆっくりなさってくださいね!」
「(…なんだろ、今の間…)うん、ありがとう」
そして電話を切ったあかりは小さく息を吐きながらカレンダーを見つめた。もしかしたら当日、日付を超えてから帰宅するかもわからないと考えたあかりは、悶々と思考回路を巡らせていると不意に手に持っていたスマホが振動した。
「(あ、サチさん!)もしもし!」
ディスプレイに表示された「サチさん」の名前に表情を明るくさせたあかりはスワイプしてそれを耳に当てた。
「あかりさん!ねぇねぇ、眼鏡くんの誕生日どうなった?いま実家帰ってるんでしょ?」
「それが…」
かくかくしかじか。
あかりは事情を説明すると、サチは驚愕の声を上げた。誕生日に彼の帰宅が間に合うかどうかすらわからないという事実に何故か落胆してるようだった。
「たしかにその状況じゃ、帰ってきてとも言いづらいけど…」
「そうなのです…でもサチさんに話せて少しスッキリしました!準備して帰りを待とうと思います!」
「もーどこまでいい子なの…寂しくなったらいつでも連絡しておいで!」
サチは歯痒い思いを抱えて電話を切った。
付きあって初めての誕生日、自分だったら「早く帰ってきて!」と急かしてしまうだろう。
「どうでした?あかりさん」
「ん〜、眼鏡くんのお父さん、大事には至らなかったらしいんだけど、月曜までは向こうにいるみたい。誕生日のうちに帰ってくるかわからないっぽくて…」
「へぇ、珍しい…月島ならあの子との事を優先しそうなのに」
赤葦とサチはソファに座り少しの間考え込んでいた。そして同時に「もしかして」と顔を見合わせる。
「あかりさんが誕生日知ってるってことを知らないんじゃ…?」
「あり得ますね。彼女に変な気を遣わせたくないからとか思ってそうですし」
「うわ」と顔を引き攣らせるサチに、赤葦は冷静を保ったまま月島の考えを読んだ。2人は暫しの沈黙の後、ほぼ同時にため息が漏れ出てしまうのだった。
一方、あかりは1人分の食事を作り食べ終え片付けをしていた。
「(ひとり分の食事を作るのって、なんだか楽しくない…)」
月島と暮らし始めてから、必ず2人分の材料で料理を作っていたが、急に1人分の食事で良くなると途端にやる気が失われる。
食卓を共に囲んだ時の、注意深く見なければわからないような表情の変化。綺麗な姿勢で食事を取る彼の表情が一瞬和らぐ瞬間。きっと彼自身も気づいていないであろうその瞬間が、あかりにとって幸せを感じる瞬間でもあった。
たった2、3日とはいえ、それが急に無くなってしまうのは予想以上に物寂しいものだった。
今日寝て、明日が終わればもう月曜。少しの辛抱だと言い聞かせてその日は眠りについた。
次の日の日曜日、あかりは彼の誕生日プレゼントを買いにショッピングへ繰り出していた。
「(スポーツグッズといっても色々ありますよね…衣服はサイズがわからないですし、バレーですから指や腕につけるもの、ネックレスも危ないかも…)」
むーっと考える素振りを見せながら歩き回るあかり。色々見て回ったが、納得できず悩ましげな表情を浮かべている。
そんな中、たまたま通りかかった電気屋さんを眺めていると待ち合わせ中とランニング中の月島の姿が脳裏をよぎった。
「(そういえばいつもはイヤホンをしているのに、走ってる時はしてないんですよね…)」
同居して最初の頃に見た待ち合わせ場所に立つ彼はイヤホンを付けていたし、たまに家の中でもヘッドフォンをつけていることがある。だがランニングの際にはそのイヤホンは付けていない。
「(そういえば高校時代、バレー部の仲間が言ってた気が…たしか、ワイヤーが付いているものだと走るたびに耳から外れて不便だって…)」
それだ!と思わず声をあげるあかり。一旦通り過ぎた電気屋へ戻り店員さんにも相談しながら慎重に選んだのは、ワイヤレスイヤホンだった。
フィット感が重視された品で、ランニングをするなら周囲の音を聞き取れる方が良いと思い骨伝導のものを購入した。
そして雑貨屋でメッセージカードと、最寄駅に戻り食材を購入し帰宅した。散々プレゼントで悩んだため既に日が暮れており、自分の優柔不断さに苦笑が溢れる。
「(でも良いものが買えてよかったです…!明日中にお渡しできればいいのですが…)」
ソファー前のローテーブルに置かれたプレゼント用の包みに視線を送りながら思わず笑みを浮かべた。あとは明日午後休を貰っていたため、帰宅後にケーキを作って次の日でも食べれるメニューを作り置く作戦だ。
よーし、と気合を入れてご飯を食べて片付けを終わらせて、お風呂に入る。そして寝支度を済ませたあかりはリビングの電気を消し部屋へ入った。こんな静かな我が家は久しぶりだと感じながら、ベッドに入り何も通知されていないスマホの画面を眺めた。
彼からの連絡もなく、メッセージを送ってみようかなとも思ったが家族水入らずの時間を邪魔してはいけないとディスプレイの電源を落とす。これを今日だけでも何度繰り返したかわからない。
「(寂しい、なんて言ったら引かれるでしょうか…)」
小さく息を吐き、スマホを手に持ったまま静かに目を閉じた瞬間、メッセージの受信を告げる音ともにそれが短く振動した。
ハッと目を開けて画面を確認するとそこには月島からのメッセージが表示されていた。
<もう寝た?>
たった5文字、だがそれが彼の言葉だと思うと胸が高鳴る。ちょうど彼のことを考えていただけに、身体中が喜ぶように震えるのを感じた。
<ちょうど、ベッドに入ったところでした。どうかされましたか?>
メッセージを返事すると、すぐに電話が鳴った。驚きを隠せないあかりは慌ててスマホを耳に当てた。
「どっ、どうされましたか月島くん…!」
「どうしたってことはないんだケド… なにしてるのかなって思って」
機械越しに聞こえる彼の声は少しだけ低く聴こえて、思わずドキリと心臓が跳ねる。
「もう寝ようかなあと、ベッドでゴロゴロしていましたよ。月島くんはゆっくりできていますか?」
「そうでもないよ。兄ちゃんも母さんも、過保護だし口煩いから」
うんざりしている彼の声に歳下の弟っぽさを感じ、思わずふふっと笑みを溢した。
「月島くん、末っ子ですもんね!可愛くて仕方ないんだと思います!」
「ちょっと、君まで子供扱いしないでくれる」
電話越しの彼の表情を想像したあかりは、また小さく笑った。
「ふふ、でもなんだか変な感じです。耳に直接月島くんの声が聞こえるの、ちょっと恥ずかしいです」
「君がそういうこと言うと、僕まで気になるからやめて」
「ええっ、す、すみません…!」
正直なあかりの感想に、月島は照れ隠しをするかのように鼻で笑っている。続けて彼は「ああ」と口を開いた。
「でもちょっと意外だった」
「え…?」
「もっと連絡してくるもんだと思ってたから」
外で話しているのだろうか、車の通る音が聞こえる。それにかき消されそうになる彼の声は少しばかり残念そうに聞こえて、あかりは口を開いた。
「がっ我慢してるんですよ…!久しぶりのご実家なのですから!」
「…ふーん」
意味深な間と月島のつまらなそうな相槌に、あかりは何て言葉を返そうか迷っていると、先に口を開いたのは彼の方だった。
「………気にしなくていいのに」
だが、彼の声は外の車の走行音によって遮られてしまい、あかりの耳には届かなかった。
「すみません、車の音が…今なんて…」
「なんでもない」
月島の声は明らかに不機嫌さを帯びていて、あかりは不思議そうな表情を浮かべて聞き返したが、その言葉が繰り返されることはなかった。
彼の言葉が気になりつつも、ベッドに転がるあかりは棚の上に飾っているブレスレットを眺めた。
「…なんだか月島くんが、すごく遠く感じます」
「…まぁ、宮城だからね」
「そ、そういう物理的な意味もなくはないですけど、そうじゃなくてですね…!」
センチメンタルな彼女の呟きに、さらっと真面目な返答をする月島。電話越しに、彼が笑った時に漏れる吐息の音が聞こえて、思わずつられたあかりもツッコミを入れた後に笑ってしまった。
「コホンッ…明日気をつけて帰ってきてくださいね」
「…ああ、うん。たぶん結構遅くなると思うし、先寝てていいから」
「あ…わ、わかりました」
また変な間が、と心に引っかかりを覚えた月島が口を開いた瞬間、思わず口をつぐんだのは突然後ろに現れた兄のせいだった。
「蛍ー?風呂、入っていいぞー!」
スマホ越しに遠くから聞こえる男の人の声とその内容から、お兄さんの明くんだ、と懐かしくなる。不機嫌そうな月島の返事にクスリと笑いながら「じゃあまた」と電話を切った。
あと3時間後には彼の誕生日を迎える。
だがスマホ越しではなく、彼の顔をみて「おめでとう」と伝えたかったあかりは明日彼の帰宅が間に合うことを願いつつゆっくり瞼を閉じるのだった。
—————————————
ついに当日、あかりはお昼過ぎに会社から帰るとケーキと食事の用意を始めた。
作り終えたのは陽が沈みかける頃で、大きな苺のショートケーキや彩鮮やかな料理を冷蔵庫にしまう。ひと段落してスマホに目を向けるもやはり通知はなく、画面を裏にしてお風呂場へ向かった。
湯船に浸かるもなかなか落ち着かず、すぐにお風呂から上がり寝支度を整えていると、干しっぱなしになっていた洗濯物の存在に気付き慌ててベランダへ出た。
「(うっかりしてました…どれだけ月島くんのことでいっぱいになっちゃってるんだか…)」
自分に呆れ返りながら小さく息を吐く。
洗濯物を全てカゴに入れ終えると、あかりはぽっかりと浮かぶ半分欠けた月を見上げた。
「会いたいなぁ」
秋の訪れを告げるような心地いい風が、まるで返事をするかのように、あかりの前髪をふわりと撫でる。
指先で髪を耳にかけながら、あかりは暫く空を見上げていた。
—————————
「蛍、おめでとう!もう23歳かぁ〜早いなぁ、兄ちゃんはちょっと寂しい…!」
「もういい歳なんだからこういうのやめてほしいんだけど…」
昼過ぎ、父の退院祝いと僕の誕生日祝いを兼ねて食卓には豪勢な料理が並べられていた。兄である明光は相変わらず人懐っこい笑顔を僕に向ける。母はにこにこしながらキッチンに立ち、何品目かもわからない料理を作っていた。
テーブルの中心には、「happy birthday」とご丁寧に僕の名前が書かれたプレートを乗せたケーキが置かれていた。張り切った兄が地元で有名なケーキ屋で買ってきたらしい。
「そうだ、蛍。あかりちゃんもお前の誕生日祝うの待ってるんじゃないか?」
「いや…言ってないし、知らないと思う」
「はぁ〜、お前それくらいは言ってやりなさいよ…」
兄は大袈裟な態度でため息を吐き、落胆しているようだった。僕は首を傾げてケーキの味を噛み締めながら兄を見つめた。
「(蛍のことだから、何かしら考えて言わないでいるんだろうけど…)」
悩ましげな表情を浮かべる兄に、母も父も苦笑いを浮かべている。意味がわからず、僕は少しムッとしてケーキを食べ終えるとチラッと時計を見た。
向こうについてからの終電も考慮すると、21時の新幹線に乗れば無事に辿り着ける。帰宅するのは0時回るだろうけど、先に寝ててと言っておいたし問題ないだろう。
僕がざっと帰りの時間の計算をしていると、兄はまた口を開いた。
「(まあ、そこまで彼女を大事にしてるってことで…)本当、昔から蛍はあかりちゃんのこと大好きだもんなぁ」
「べっ、別に…」
「も〜恥ずかしがっちゃって。お母さんもびっくりしたのよ。すっかり忘れちゃってると思ってたのに、あかりちゃんのことを調べるのを手伝って欲しいだなんて急に言い出すんだもの」
思いもかけない兄の言葉に僕は動揺を隠すようにそっぽを向いた。だが畳み掛けるような悪気のない母の言葉に、顔に熱が集まるのを感じ思わず俯いた。
「大事にしてあげなさい、蛍」
ずっと口を閉ざしたままの父が珍しく口を開く。全て見透かすような父の瞳を見つめながら、僕は羞恥に耐えるために顔を顰め、黙って頷いた。
やがて母の料理の手が止まりキッチンから離れ、椅子に腰掛けた。「張り切りすぎちゃった」と笑う母に、父はフッと満更でもない顔で箸を進めている。
そして暫く4人で談笑をしながら食事をとっていると、気付けば15時過ぎになっていた。
「蛍、スマホ鳴ってる〜」
お手洗いで席を立った僕に、兄がスマホを渡してくれた。画面を見ると「山口」と表示されていて僕は表情を変えることなく電話に出た。
「ツッキー!誕生日おめでとう!」
「ああ、うん…どうも…ちょっと待って」
たまにメッセージのやり取りはしていたものの、声を聞くのは久しぶりだ。だがついこの間聞いたようなその声に大した感動はなく、僕はいつも通りの反応を示した。
2階へ行きベランダに出て「で、何の用?」と言うと彼は何故か嬉しそうな声で話し出した。
「ごめん、ツッキー。邪魔しちゃった?彼女さんと一緒?」
「ううん、色々あって実家戻ってきてる。今日もう帰るケド」
「え!?宮城にいるの!?誕生日なのに!?」
うるさい、と言いながら僕は眉を顰めた。兄に次いで山口にまで言われる始末だ。僕の表情を電話越しに読み取ったかのように、山口は少しの間を置いておずおずと言葉を続けた。
「もしかして、言ってないとか?」
「……だったらなに」
「いや、ほらツッキーから色々聞いてたからさ。その気持ちもわかるなあって。変な気を遣わせたくないんだよね」
ああ、そうだった、彼は昔からこういう奴だ。
僕のことを、たぶん僕以上に理解しているような気さえする。
「それにきっと頑張りすぎちゃう彼女さんだろうから、心配だよね。でも…たぶん僕が彼女の立場だったら、一緒に過ごしたいって思うだろうなぁ」
彼の言葉に僕は目を見開いた。いつの間にか勝手な解釈を押し付けるばかりでおざなりになっていた、相手の立場に立って考えるということ。気付けば彼女を傷つけたくないあまりに、自分の考えを優先してしまっていたのかもしれない。
またひとつ先を行く彼に、僕はふっと笑みを溢した。
「ごめん、ツッキー。知ったようなこと言って…!」
「…いや、やっぱりお前はかっこいいよ」
「ええっ、つ、ツッキー…?大丈夫…?」
電話越しだからか、僕が怒っているとでも勘違いしているのだろう。変なところで気にするのは今も昔も変わらない。
「ありがとう。じゃ、また」
「あっ、うん!またね、ツッキー!」
僕の声に怒っていないことを感じ取ったのか、いつものように明るい声で電話を切った。
「(帰ろ…早く会いたし)」
自然と会いたい、と思ってしまっている自分が可笑しくて頰が緩むのを感じる。
たった2日間、気付けば彼女のことを考えている自分がいた。何度もスマホを眺めては、連絡をするか迷ってはやめてを繰り返し、昨日はつい耐えきれず電話をしてしまったのだ。
自分がそんなに他人のことで頭がいっぱいになる日が来るとは全く思わなかった。
荷物を纏めながら物思いに耽っていると、またスマホが鳴り始めた。
「(珍しい、赤葦さんからだ)はい、月島です」
「ああ、月島。ごめん、忙しいときに。まだ地元かな」
彼の質問に僕は「はい」と答え、話の続きを待った。
「ちょっと言いづらいんだけどさ…たぶん彼女さん、家で月島の誕生日祝うために待ってる、と思うんだよね」
「なんでわかるんです?」
珍しく言い淀む彼に、僕は怪訝な表情を浮かべた。もしかして、と嫌な予感がして僕は彼より先に口を開いた。
「もしかして…」
「…ああ、悪い。話の流れで、ね。言ってなかったなんてまさか思わなくて」
「…いえ、別にいいです。僕が思い込んでただけですし」
やっぱり、と予感は的中した。彼の言い分は最もで、別に悪いことじゃないし、僕も全く怒ってなどいない。
だが、なおさら早く帰らないと。彼の話はそんな気持ちにさせた。すると僕の焦りを見透かしたように電話越しの彼はクスッと笑った。
「じゃあ、また練習で。帰り、気をつけてね」
「はい、ありがとうございます」
スマホを切った僕は手早く荷物を纏めて部屋を出た。リビングに行くと片付けをしている母と椅子に腰掛け新聞を読む父、縁側で寛ぐ兄がいた。
「あらっ?蛍、出るの夜って言ってなかったかしら」
「ああ、うん、その予定だったんだけど」
母が不思議そうな顔をして洗い物の手を止めた。僕は帰る時間を早めた理由を伝えるか迷っていたところ、縁側にいた兄が立ち上がり腰に手を当てこっちを見つめ口を開いた。
「ほら、早く帰った帰った!彼女が待ってるんだろ?」
「兄ちゃん、一言余計…」
母は「ああっ」と手を叩き閃いたかのような表情をしている。「そうだ」と言い徐にエプロンのポケットから出してきた可愛らしい封筒を僕に手渡した。
「ほら、手紙届いてなかったって言ってたじゃない?だからそのお詫び。あかりちゃんに渡してね。あ、こっそり見ちゃダメよ」
「……」
「ふふ、今度は2人で帰ってらっしゃい」
母は得意げに笑いながら僕を見上げた。やはり母親には敵わないものだ、と思いながら「はいはい」とその封筒を大切にバックへしまった。
「じゃ、帰るよ。父さん、気を付けてよね」
「ああ、お前もな」
全くカッコつけてどの口が言ってるんだか、と軽く鼻で笑い僕は足早に実家を出た。
「蛍、送っていくよ!」
「兄ちゃん、いいって…すぐそこだし」
「まぁまぁ。たまにはいいだろ?」
屈託のない笑顔を浮かべる兄に、僕は口を尖らせて早足を少し遅めた。
「あかりちゃん、俺のこと覚えてるかな」
「さあ。忘れてるんじゃない」
「ええっ、ひど…っ!」
昔彼女は兄によくバレーを教えてもらっていたことを思い出す。そのせいで少しだけもやっとした僕は意地悪をしたつもりで笑う。だが兄は想像以上にショック受けてるようだった。
「まあ、蛍の事覚えてるならそれでいいけどさ」
「…兄ちゃん、好きだったじゃん」
僕の言葉に、兄は一瞬止まったあと焦ったように冷や汗をかき、明らかに動揺していた。
「そっ、そんなことないぞ!!今俺彼女いるし!」
「……だったって言ってるデショ」
兄に別の彼女がいることは知っていたし、あかりのことは僕自身が言ったように「昔の話」だと分かっていたのだが、彼の焦りようから少しムッとしてしまう自分いた。
「でも、あかりちゃんは蛍のことしか見てなかったしさ」
「…」
「蛍が上京するって聞いた時は正直驚いたけど、でもお前たちはそういう運命なんだろうなって思ったよ」
兄の言葉に、僕は「うわ」と心底ドン引きした顔をしていたと思う。いつから兄はこんなポエマーになってしまったんだろう。
まあ兄の言う言葉はクサすぎるし、そんなものは誰かがそう思いたいだけだということも、映像や画面の中だけの話だと言うことも知っている。
運命だって、手を伸ばさなければ絶対に掴むことができないのだ。
「…僕のこと、覚えてたわけじゃないよ。昔の記憶、全部なかったから」
「は、……?」
「うん。最近昔のことは思い出せたみたいだけど。でもまだ両親との最期の記憶は…」
開いた口が塞がらないって顔をしている兄を横目に、僕は出来るだけ無表情を保ってできるだけ簡潔に話せる範囲のことを話した。
視線を感じて隣を見ると、兄が目に涙を浮かべてこちらを見ていた。優しい兄のことだから、彼女と僕のことを考えて「不憫だ」とか「大変だったんだな」とかいろんな感情が生まれているのだろう。
「蛍、お前…」
「ちょっと、そういう顔やめて。僕はなにもしてないし、彼女が思い出す努力をしてくれただけ……それがあの子にとって良いことだったのか、僕にはわからないけど」
最後の言葉は僕の本心だった。あまりに辛すぎる出来事で彼女が壊れてしまわないように脳が守るためにそれに蓋をしたものを、明らかに僕がきっかけでそれを開けることになってしまったのだ。
「馬鹿だなあ、蛍は」
「……」
「そんなの、彼女の顔見ればわかるんじゃないか?」
兄は真剣な表情で僕の頭を撫でた。思わぬ行動に僕は顔を顰めながら、幸せそうに笑う彼女の表情が脳裏を過った。
「お前もそんな顔するんだなぁ、兄ちゃんは嬉しいよ…!」
「ちょっと、いつまで触ってんのさ…!」
わしゃわしゃと頭を撫でる兄は心底嬉しそうに笑っていた。自分がどんな顔をしているかわからないが彼の言葉に大体の想像はつく。気恥ずかしさが勝って、その手を無理やり払い除けて歩く速度を早めると、兄は小走りで後をついてきていたのだった。
駅までたどり着き、ご丁寧に改札口まで見送ってくれた兄は恥ずかしいくらいに手を振って僕を送り出した。
正直やめて欲しい、と思う反面、兄は昔から変わらないなと少し口角を上げ、振り返らずに電車に乗り込んだのだった。
適当な席に腰を下ろし電車に揺られながらスマホの時計を見る。時刻は17時過ぎだった。この時間に出れたなら、21時前には着けるだろう。
念のためあかりに帰宅時間のメッセージを作成し、送信する。だがその後、新幹線に乗り替えてからしばらく経っても返事はなかった。
そんなことは今までに無く、大抵即返信してくれるタイプなのに、と僕は少し考えていると嫌な想像がばかりが膨らんでいった。
まさかね、とスマホを握り焦る気持ちを抑えながら、新幹線の窓からすっかり日が落ちた移りゆく景色を眺めていた。