それを壊すのは、いつも
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
一方、クリスマスイブのむさ苦しい会を終えた月島は寒さも相まって不機嫌そうな表情のまま帰路についていた。
「(何が悲しくてむさ苦しい男達とイブを過ごさないといけないわけ…?)」
最寄駅に着いたのは23時前。
すっかり遅くなってしまい、あかりはもう寝てしまってるだろうなと想像しながら月島の足取りは自然と早まっていた。
家に着いて玄関を開けると部屋の電気は消えており、やはり寝てるのか、と思いながら静かにリビングの電気をつけた。
だが部屋の雰囲気になんとなく違和感を覚えた月島は彼女の部屋の扉をコンコンと叩きゆっくり扉を開けた。
「いない…」
ベッドはもぬけの殻で、その部屋は彼女の不在を告げていた。驚きを隠せない月島はすぐにスマホを手に電話をかける。
だが、彼女がコールに出ることはなく、代わりに「おかけになった電話番号は〜」と無機質なアナウンスが流れた。
「(電源が入ってない…今日は赤葦さんの彼女と食事って言ってたし、こんなに遅くなるはずは…)」
月島はそのままスマホから赤葦の名を探し電話をかけた。彼はすぐに通話に出たが、その後ろからはガヤガヤした声が聞こえ、まだ家についてないと悟った月島は口を開いた。
「どうしたの、月島」
「赤葦さん、あかりがまだ帰ってきてなくて…何時まで呑んでたかわかりますか?」
「…すぐかけ直すから待ってて」
珍しく焦りを含む月島の声色に、赤葦は冷静さを保ったまま言葉を告げると電話を切った。
彼の言葉通り、すぐに赤葦からの着信があり応答すると「とっくに解散した」とのことだった。しかもすでに2時間も前の話だというのだ。
2人が会っていた場所は互いの中間地点で、最寄駅から30分ほどの駅だった。
まだ帰宅していないのは寄り道でもしてない限りありえないことで、すっかり酔いの覚めた頭をフル回転させながら彼女が足を運びそうな場所を考える月島は冷や汗を滲ませていた。
「もしかしてまだ帰ってないの?」
「…っはい、ちょっと探しに行ってきます」
赤葦の返事を聞く前に電話を切り、即座に家を出る。
帰る時は気付かなかったが、ふと空を見上げるとクリスマスイブとは思えないほどの、どんよりした分厚い雲に覆われていた。
「(クソ、嫌な予感がする)」
そんな天気のせいで、嫌でも脳裏に過るのは彼女が自分の前から消えた日のことだった。家の中の様子はいつもと変わらなかったし、自分に何も言わずに出て行く訳がないことは分かっていた。
しかし、状況を変えるのはいつも当事者だとは限らないのだ。思いもよらないところからまるで人攫いのように、瞬く間に日常を奪おうとしていく。
身を持って知っているからこそ、月島は焦りと動揺を抑えきれず、駅の方へ駆け出していた。
周りに気を配りながらひっそり静まり返った商店街を走り抜ける。閑散とした駅前まで着いてしまった月島は大きく肩を揺らしながら汗を拭い、周りを見渡したが彼女の姿は見えなかった。
「(そもそも、ここまで辿り着いてない可能性もある…けど終電はもう終わってるし、あの子が帰れないくらいに酔っ払うわけない…商店街の裏回ろう)」
呼吸を整えながら思考回路をフル回転させて、以前商店街の人混みを避けるためか裏道を使っていたことを思い出した月島はまた走り出した。
公園の横を通り過ぎると猫の鳴き声が聞こえ、月島は思わず足を止めた。飼い猫だろうか、草むらから突如現れた黒猫に足を止めた月島に擦り寄り、彼は困ったような表情を浮かべ見下ろした。
「なに、お前…いま構ってる場合じゃ」
邪険に扱うこともできず、しゃがみ込み頭を撫でると、黒猫は気持ちよさそうに目を細めながら擦り寄った。
「あれ〜、どこ行っちゃったんでしょう…」
「…あ」
「あ!」
散々焦っていた月島の視界に現れたのは、髪の毛に枯葉を付けてながら四つん這いで眉尻を下げるあかりだった。
「月島くん!あれ、どうしてこんなところに…!」
「どうしてって…バカじゃないの…!なにしてんのさ、こんなところで…!」
あんまりにもあっけらかんとしている彼女の反応に、月島は思わずしゃがみ込み安堵と呆れを混じりの深いため息を吐いた。
「す、すみません…!この子が段ボールに入れられてて、それで…」
「はぁー…」
彼女の言い訳を聞き流しながらスマホを取り出し、徐に電話をかけ始める月島に、相変わらずその猫は膝下に擦り寄っていた。
「赤葦さん、見つけました…お騒がせしました」
「ああ、よかった…サチさん、見つかったって」
電話越しに聞こえるのは赤葦の安心した声と、遠くから「よかった〜!!」というサチの大きな安堵のため息が聞こえた。
「彼女、どこにいたの?」
「…公園で猫と遊んでました」
「猫…?」
「これから問い詰めるところです」
「ほどほどにね…」
赤葦の声は訳わからないと言いたげで、それは月島も同じようだった。立ち上がったあかりは自分のスマホを取り出し電源が入っていないことを確認すると、「すみません…!」と何度も何度も頭を下げている。
そんな彼女を見下ろす月島は「じゃあまた」と言って電話を切った。
「…言い訳の続き、あるならどうぞ」
「…あっ、ありません……」
にっこりと笑う月島の背後にはどす黒い空気が纏い、ゴゴゴという地鳴りのような音が聞こえて来るようで、あかりは狼狽えながら後退りをした。
その圧に思わず逃げ出そうとするあかりの腰に手を回して引き寄せる月島はそのまま彼女を抱き締めて頭の上に顎を乗せた。
「…本当に心配した」
「ごめんなさい…」
あかりの小さな身体をすっぽり包み込みながら、安堵のため息を吐く月島の声は少し震えている。あかりは申し訳なさでいっぱいになりながら、彼の広い背中をぽんぽんと撫でた。
「また、いなくなるのかと思った」
そう呟く彼の声は今にも消え入りそうなほど小さくて、切なさを帯びていた。
あかりはゆっくり首を横に振りながら身体を離し、彼を見上げた。飴色の瞳が潤んでいるようにもみえて、冷たさで赤らんだ頬を慰めるように指先で撫でた。
「いなくならないですよ、絶対に。約束しましたから」
「…約束なかったらいなくなっちゃうわけ」
「あっ、ひねくれモードですね?」
唇をツンとさせて目を逸らす月島が可愛くてしょうがないといった表情で、あかりはクスクスと笑っている。
「…もー、寒いし早く帰ろ」
「あ、でも猫ちゃんが…」
下を見ると黒猫が尻尾をゆらゆらと揺らしながら呑気に欠伸をしている。
「まさか拾って帰ろうなんて思ってないよね?」
「だ、だってこんなイヴの日に可哀想です…それに天気も悪くて、今にも雪が…って、ほら、降ってきましたよ…!!」
じろっと睨む月島の視線に動揺しながら空を見上げるあかりの鼻先に白く冷たい結晶が触れた。するとその瞬間、黒猫は何かにものすごい速さで茂みに隠れてしまった。
「あれ、猫ちゃん…?」
「……っあかり。警察呼んで」
突如視界から消えた猫の跡を辿るように視線を向けるあかりを背で隠す月島は、緊張を含めた声でそう言い、自分のスマホを彼女に手渡した。
訳もわからずそれを受け取りながら月島の背中越しに見えたものに、あかりは今にも叫び出しそうになる口を抑えながら、自分でもみるみるうちに血の気が引いていくのがわかった。
あかりは震える指先でスマホ画面を操作し、警察へ電話する。
「なんでお前…」
「なんでって〜、釈放されたんだよぉ…よくやってくれたよなぁ、お前…、あかりちゃん、今助けてあげるからねぇ…」
2人の前にゆらりと立つのは半年以上前、あかりへのストーカー行為等で逮捕された山野だった。
元は爽やかな風貌をしていた彼はすっかりやつれ、見る影もない。彼は意味不明なことを呟きながらゆっくり2人に近づいてくる。
月島は動揺に瞳を揺らしながら唇を噛み、後ろで警察に事情を伝えている彼女を背に隠すことしかできずにいた。
まずは警察が来るまでの時間を稼がなければ、と月島は口を開く。
「…っ、目的はなんなの…」
「そんなの、決まってるだろぉ?復讐だよ…ふ、く、しゅ、う。1日だって忘れたことはなかったよぉ…」
ふひ、と気味の悪い笑みを溢しながらピタリと足を止める山野はポケットを探り、取り出したものをみた月島はゾッとした。
街灯の灯りに照らされる鋭い金属のそれに、雪がはらはらと落ちて滲むように消えていく。
すると電話を終えたあかりは、震える唇を強く噛み覚悟を決めた表情で山野を見据えて月島の横に立った。
「山野、さん…やめてください、こんなこと」
「なんで…っ?君のためにこうしてるんだよ…!?君を助けたくて君が好きで君を愛しているから…!そいつに洗脳されてるの?やっぱり悪だ、悪者なんだ…っ!」
「…っ彼は、関係ありません」
「嘘だ、言わされてるんだ、そうに決まってる、そうじゃなきゃおかしい…っ」
あかりは彼の狂った様子に腰が抜けそうになりながらも、月島だけは傷付けさせたくないという思いでその場に立っていた。
頭を抱える山野の手元で光る小さなナイフが異様な存在感を放ち、光が反射した瞬間、あかりは突然頭の血管がひっぱられるような鋭い痛みを感じ片手で頭を押さえた。
同時に微かにサイレンの音が3人の耳に届き、時間がないと察知した山野は半狂乱になりながらナイフを横に振り回した。
鋭い痛みに襲われているあかりは霞む視界のなかで、その刃が月島を狙っていると察知するやいなや、その身体は勝手に動き出していた。
「あかり!!!」
「っつ…!」
あかりの腕を覆っていた衣服はぱっくり切り裂かれ、その間から血が流れ出ている。腕を火で焼かれているような痛みと頭痛も相まって、さらに視界がぼんやりとしていくのを感じながら地面に膝を付いた。
山野は恍惚の表情を浮かべながらナイフを街頭に翳す。
「ひひっ、危ないだろぉ〜?でも安心して、傷物になっても、ぼくは、愛してるから」
「お前、許さない…!!!」
蹲る彼女の肩を抱きながら、月島は深い怒りに瞳を揺らしている。
すると200メートルほど先の角を曲がってくるパトカーの光が見えたことに焦った山野は両手でナイフを持ち直した。
「だめ、月島くん…!」
あかりの叫声も虚しく、彼は再び月島に斬りかかった。月島は間一髪相手の手首を掴み、最悪の事態を防ぐと彼の鳩尾を目掛けて思い切り蹴り飛ばした。
息詰まり呼吸困難になる山野は地面に膝をつけて芋虫のように嗚咽を繰り返している。同時に数人の足音が聞こえ、駆け付けた警察は山野を取り押さえた。
「大丈夫か、君たち…!」
「救急車、呼んでください…!この子、腕を斬られて…!」
焦りを含んだ表情を浮かべる警察と事情を説明する月島、そして取り押さえられる山野を朧げに見つめるあかりは安堵していた。
「(ああ、今度は、守れた……)」
自然と込み上げたその思いと同時に「前もこんなことが」と考えると頭の痛みの鋭さは増していく。まるで太い針で血管を刺されているような耐え難い痛みに、あかりはとうとう地面に倒れてしまった。
「あかり…!」
地面に顔から落ちる寸前、月島にギリギリのところで抱き止められたあかりは、痛みに耐えるように顔を顰めていていた。
近くにいた警官1名があかりの元へ駆け寄ったが、すぐに無線連絡が入りその場を数歩離れ、もう1人はパトカーの車内で書類を書いている。
そして山野は別の2人の警官に連れられ、月島達の横を通り過ぎた。その瞬間、両脇を押さえていた警官を振り払い、月島の方へ駆け出しながらポケットに入っていたもうひとつの小さなナイフを取り出した。
「おい!止めろ!!」
「待て!!」
突然声を荒げる警官に、月島は何事かと顔を上げた。周囲の混乱のなか、不思議と彼の頭はクリアで、気味の悪い笑みを浮かべた山野が姿勢を低くして向かってくる姿と、周りの警察官の焦りを含んだ表情がまるでスローモーションのように見えていた。
このままの体勢では、あかりにその刃が及ぶことになる。そう察知した月島は咄嗟に彼女を手放し反対側へ押し出した。
ナイフが届く直前、咄嗟に切先を素手で掴む。走り突っ込んできた彼の勢いにその手は押しこまれ、月島の腹部に刺さっているようだった。
「ぐっ…!!」
「つ、き…ま、く…っ…」
「はははっ、ざまぁみろ…!!!」
地面にうつ伏せで横たわっていたあかりの霞んだ視界に映るのは、自分を守るように刃を受け止める月島の後ろ姿だった。
背を丸めて痛みに耐える彼の腹部からナイフが抜かれ、その刃には赤い液体が付いている。
「…はっ、それは、こっちのセリフ」
ナイフが引き抜かれた反動で地面に座り込みながら、全身から汗が吹き出す。それに構わず、獲物を狙う鷲のように鋭い眼光を向ける月島は片側の口角を上げながら男を見上げた。これは言い逃れようのない、立派な殺人未遂だ。
それまで嘲笑の笑みを浮かべていた山野は、想像と異なる月島の反応に狼狽えて後退りをした瞬間、その場で再び警官に抑え付けられ、手錠をかけられると力無く引っ張られるようにして連行されていった。
あかりは、地面に座り込み上下に肩を揺らす月島に手を伸ばす。
「(ああ、ちがう、また…私は、……)」
絶え間なく刺さるような頭痛に、意識を朦朧とさせながら、あかりはとうとう気を失った。
最後に視界に映っていたのはこちらを振り向こうとする彼の背中と、住宅街に反射するパトカーの赤い光、そしてクリスマスを祝うようにハラハラと降り注ぐ小さな結晶が伸ばした腕の上に当たって溶けていく、そんな光景だった。
—————————————-
「…起きなさい」
私を目覚めさせたのは、酷く冷たい声だった。
規則的に耳に入っていた駆動音が止んで静まり返った後、ガチャっと扉を開ける音がする。
「お母さん…ここ、どこ…?」
「姉の家よ。暫くここで暮らすの」
母はそう言うと外へ出て、後部座席のドアを開けた。車庫の心許ない灯りがぼんやりと母の顔を照らしている。
寝ぼけた頭を精一杯回転させて思い出したのは、私たち親子は父を、故郷を、大切な人を捨ててここにきたということだ。
ああ、そうだ。もう彼には会えないのだ。
そう考えるとまた涙が出そうになる。けれど怒られたくなくて、私は堪えるように口の中を噛み、無理矢理笑顔を作って「わかった」と返事をした。
一瞬母は私から目を逸らしてから、「早く出なさい」と手を差し出した。こんな時でもそれがとても嬉しくて、迷わずその手を取って車から降りた。
その家は一階の大半が車庫になっていて、私たちは荷物を持って表の玄関の方へ向かった。
玄関の横のスペースには忙しなく彩り豊かに光るツリーが飾られていて、そういえば明日はクリスマスだったことに気付いた。その日は珍しく、けーくんとあきくんと遊ぶ約束をしていたのだ。
いつもなら私が勝手に家に押しかけるのだが、「クリスマスは絶対に家に来て!」と1週間も前からあきくんに言われていて、「言われなくても遊びに行くのにな」なんて思いながら、彼の後ろで不機嫌そうに顔を赤らめるけーくんが可笑しくて私は頷いた。
その約束も、もう果たせなくなってしまった。
「(かんがえちゃだめ。泣いたらまた、怒られちゃう…)」
必死に上を向いて堪えていると、先導して歩いていた母は家の前の道路に出ると急に足を止めて、荷物を落とした。私は思わず母の背中に顔面をぶつけ、じーんと痛む鼻を押さえて見上げた。
「おっ、お母さん、どうしたの…?」
「おいおい、どこ行くんだ、お前ら。なぁ?」
私の言葉に母は返事をせず、手で口を覆っている。母の代わりに聞こえたその声は、父のものだった。
「おねがい、もうやめて…限界なのよ…!」
「なんだよ、それ…お前も俺から逃げていくのか?あんなに大事にしてやったのに、なぁ…!」
どうして、父がこんなところに。
私は尻餅をつく母の後ろで呆然と立ち尽くしていた。
血走った目でぎょろりと母を見下ろす父の手には包丁が握られていて、彼がこれから何をしようとしているのか直感した私は母の前に立った。
「なんだよ。いつも殴られてメソメソ泣いてるくせに、そんなにそいつが大事か?」
「あかり…、だめ、…あかり!!」
「こんな時だけ母親面しやがって…!」
母は震えた声で私の名前を呼んだ。その様子に腹を立てた父は私の肩を掴み払い退けた。バランスを崩してよろけた私は地面に倒れそうになりながら、父に掴みかかった。
このままでは母が殺されてしまう、と思ったからだ。
「っ、このガキ…!」
「あかり…!!」
悲鳴にも似た声が聞こえると同時に、母は包丁を振り翳した父に背を向けて、私を真正面から抱き締め地面に膝をついた。
「お、お、お前が、悪いんだぞ…俺は、悪くない、悪く、ない…!愛してたのに…!!!」
目の前で半狂乱になる父は、酷く苦しそうな表情で母と私を見下ろす。
「おか、…さ」
「ごめ…ね、… あかり、ごめ、んね…」
母の背中に置かれていた手に生ぬるい何かが触れる。それはぬるりとしていて気持ちの悪い感触だった。同時にドクンと頭の血管が強く脈打ち、それは酷い痛みを生み出した。
「そうだ、お前が悪い…!なぁ、わかるだろ…?不安なんだよ、怖いんだよ…!そばに居てくれよ、なぁ…!」
病的な父の言葉は、歪んだ文字となって空気中を彷徨っている。その文字たちは突然チラつき始めた雪によって、力無く地面へ沈み溶け込んでいくようだった。
父は虚しさの漂う空間を切り裂くように、大きく振りかぶった包丁を母の小さな背中に何度も突き立てた。血を吐き、痛みに声を上げていた母はやがて反応を示さなくなっていった。
「やっ、やめ…やめて…おねが…」
幾度となく自分の身体に伝わる衝撃が、呆然とする私を揺さぶるように現実に引き戻した。だが母の体の力はどんどん抜けていき、その重みに耐えきれなくなった私はついに尻餅を付き地面に倒れてしまった。
すると父の手は突然止まり、振り上げられた手は力無く垂れ下がった。まるで機械が急停止したかのように暗紫の雲が浮かぶ空を見上げる父の頬に伝うものが、たまたまそこに落ちた雪だったのか、彼の涙だったのかは、今となっては分かりようがない。
けれど、その時の私の目には母の返り血に濡れる彼がまるで幼い子供みたいに、泣いているように思えた。
「おかあ、さん…ねぇ、…おか…あ、さん…」
「………あかり…」
耳を澄まさないと聞き取れないような声で、母は私の名を呼んだ。だが顔を上げる力はないのだろう、私の耳の横に、母の顔は地面を向いたままだらりと項垂れている。
母の血濡れたか細い手が私の体を這うように伸びていき、私の頭まで辿り着くとぎこちなく撫でた。私は「お母さん」と呼び続けることしかできなかった。
「…あい…し、て…あげ、…なくて、…ご、め、…な、さ…」
私の耳元で、母は途切れ途切れに蚊の鳴くような声でそう言った。そしてふっと彼女の身体は重みを増したような気がした。
それが事切れた瞬間なのだと気付くにはまだ幼すぎた私は、母の名を呼び続けた。
なんとか上半身だけ起こして目に映る、夥しい量の血が流れる背中は見るに耐えない状態で、私は酷く恐ろしくなり途端に込み上げてくるものを手で抑えながら顔を横に逸らして吐き出した。
口元に滴る唾液を拭う余裕もない私は、変わらずガンガンと内側から殴られているような酷い頭痛に耐えながら、不意に聞こえた乾いた笑い声に目を向けた。
「はは、は…はは」
未だ虚ろな目で上を見上げる父は、力の入らない体を両足で支えるようにして立ちながら、自らの手で血塗れにした母に視線を向けた後、表情を変えないまま私を見た。たしかに目があっているはずなのに、父は目の前の私を見てはいなかった。
歪んだ口元から濁った笑い声を漏らしながら、またゆっくり顔を上に向けた父は、ごく自然な素振りで包丁の切先を首に当てる。
その直後の光景に私は息を呑むばかりで、身体も声も制御された機械のように固まって、瞬く間に父は首から血飛沫をあげ、声もなくその場に倒れた。
「…っぁ、…っ!」
まだ温もりの残る母の身体に包まれながら、私は視界いっぱいに広がる濃紫の空に向かって口を開け、声にならない声を上げ泣き続けた。
玄関前に飾られた可愛らしいツリーは光をチカチカと点灯させながら、舞い落ちる雪をその葉で吸収するように受け止めていたけれど、どちらともわからない赤黒い血液はまるで意味を持たないと、地面へ滴り落ちていくだけだった。
そんな光景を最後に、私は深いショックと酷い頭痛に気を失った。
次目が覚めた時、私は自分の名前以外のことはほとんど思い出すことができなくなっていた。
「解離性健忘」
これが私に与えられた病名だった。