過去も君の、一部だから
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それから長引いた筋肉痛がすっかり消えた週末、あかりは来週の今頃のことを考えながら家路についていた。
来週の金曜日は月島とナイトプール付きのホテルでお泊まりがあるのだ。どんな場所なんだろう、と想像しながら着ていく洋服を考えながら歩いていると、スマホが小さく振動した。
画面をみると月島からで内容はいつもと変わらず、<帰ってる途中なんだけど、買うものある?>という素っ気ない彼らしい文章だった。
思わず頬が緩むのを感じながら<お疲れ様です。特にないので、気をつけて帰ってきてくださいね>と返事を送りスマホをカバンにしまった。
気付けばもう家の前で、軽い足取りで階段を登る。
3階に上がる途中で、自分の家の玄関前に不自然な人影があることに気付いたあかりは、早くなる鼓動を抑えるように胸に手を当てながら、恐る恐る階段を登った。
「(女性...?)あ、あの....」
露出の高い安物の服に身を包んだその人はゆっくりと後ろを振り向き、あかりをみて狐のような細い目を三日月のように歪めて笑った。
「...久しぶりぃ。も〜〜探したよぉ、あかり。」
「......っ、ど、うし...て...」
吐き気を催しそうなほどの歪んだ笑みに、あかりはフラッシュバックを起こしていた。身体は震え、その場に座り込み、床に落としたカバンからはスマホやポーチなどが散らばる。
そんなことを気にする余裕もなく、絶望の色で淀むあかりの瞳には涙が溜まっていた。
「...かっ、帰って、ください....!」
「大層なご挨拶だねぇ。何年振りかの再会だってのに」
あかりの様子に、楽しげにケラケラと笑いながら「やれやれ」と言いたげな身振りで目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「ねぇ、中入れてよ。彼氏に家追い出されちゃってさぁ。ちょっとの間だけ、ね?」
その艶かしい声はまるで自分の体に蛞蝓が這うようで、非常に気持ちが悪い。家の中にだけは入れたくない、だけど逃げることもできない、そんな2つの考えがぐちゃぐちゃになり言葉も出てこない。
何か言わなきゃ、そう思った瞬間、月島の姿が頭に浮かんだ。彼との場所に、この人を招いては絶対にダメだ、と脳が警鐘を鳴らす。
「嫌、です....っ、いや...」
「なんでよぉ...あ、もしかして、彼氏?」
あかりは図星を突かれてカアっと顔に熱が集まるのを感じた。しまった、と思ったがもう遅かった。
目の前で不安定に揺らめく彼女の手はあかりの頬を叩いていた。
「はっ、このビッチが!誰に似たんだろう、ねぇ...っ!」
半笑いで立ち上がる彼女のハイヒールが何度もあかりの体を打ち付ける。服は汚れ、叩かれた頬は赤くなり、反射的に溢れる涙を止める術が見つからないまま、何度も嗚咽した。
「ねぇ、あんたの彼氏にバラしてやろうか。あんたが昔何をしてきたのか。どう?良い考えだと思わない?」
「やっ、やめ...てくだ....」
これ以上ないほどに口角を上げて厭らしい笑みを浮かべる彼女への恐怖心と体の痛みに、あかりの声はか細く震えていた。
「おね、が...いしま、す...もう、帰って...」
声を出すことで精一杯のあかりはへたり込んだまま俯きながら縋るように言葉を紡いでいる。
「あたしの人生あんたに狂わされたんだからさ、あんたのもめちゃくちゃに壊さないと割りに合わないじゃん?....ねぇ?」
またその場にしゃがんだ彼女は、あかりの髪の根本をぐしゃりと掴み、自分の目線と合わせた。髪を引っ張られる頭皮の痛みに顔を歪ませながら、玩具を見つけた子供のような瞳で笑う彼女を見つめた。
すると、下の方から階段を上がる音が聞こえ、あかりは戦慄した。
「あれぇ?彼氏のお出ましかなぁ〜?」
彼女は愉快そうに顔を歪ませながら、階段の方に視線を送っていた。
やがて、月島が階段に背を向けて座り込むあかりの後ろ姿に気付き思わず足を止めた。
「....あかり?(なんでそんなところで...ん?誰かいる、のか)」
彼女は立ち上がり階段下にいる月島を見下ろしながら、あかりを無理矢理立たせた。体の痛みと胃の気持ち悪さでふらつくあかりは彼女と月島が顔を合わせてしまったことの絶望感から言葉も出ず、涙がとめどなく溢れ出ている。
彼女はあかりを押し除けて、月島に近づくため階段を降りながら艶っぽい笑みを向けた。
「へぇ〜超良い男じゃ〜ん。ちょっと堅物そうだけど」
「誰ですか、あなた。」
「レディに名を聞く時は自分からって教わってないのぉ?ダメな子だねぇ」
彼女の細すぎる指先は月島の顎に触れかける。
気持ち悪い、その一心でその手を振り払うと「月島蛍」とだけ短く名乗り彼女を避けながら階段を上がった。
玄関前で立ち尽くすあかりの瞳からは止めど無く涙が溢れて、その瞳は恐怖に染まっていた。暗がりで分かりづらいがよく見れば髪は乱れて、服は汚れてしまっている。
「あたしはミサキ。よろしくね、蛍くん」
「あんた、この子とどういう関係なの」
「えぇ〜そうだねぇ...なんていえば良いのかなぁ」
勿体ぶるような言い方で階段をゆっくり上がるミサキ。流行りに乗っ取らないタイトなミニスカートが、より一層彼女を下品に見せた。
「家族?かなぁ〜ねぇ、あかり」
ミサキの言葉に体をびくりとさせるあかりはちがう、そうじゃないと、声を出す気力もなく、微かに首を横に振ることしかできないようだった。
「ひどぉい、あんなに面倒みてやったのにさぁ。ね、蛍くんも、酷いと思わない?」
「家族じゃないみたいなんで、帰ってください。警察呼びますよ」
「え〜じゃーあ、その前にぃ....私たちが本当はどんな関係か、みせてあげる」
階段を登り切りニンマリと笑う彼女を、怒りの籠った瞳で睨みつける月島。
恐怖の色が色濃く揺らめく瞳が自分の目の前に立つミサキを捉えた。そしてニヤリと笑いながらその手を高く上げる。
叩かれる、そう直感したあかりは頭を覆い蹲った。
酷く掠れた声で「ごめんなさい」と数回呟くあかりを嘲笑うかのように見下ろすミサキ。
「あは!まだ怖いんだぁ〜、もう良い歳でしょ〜?こいつ昔から大袈裟なんだよねぇ!あはは!」
彼女の声は明るく、雷を怖がる大人を揶揄うような言い方で、それが一層あかりの恐怖心を掻き立てた。
そんな光景を目の当たりした月島は苦虫を噛み潰したような表情で奥歯を強く噛み、あかりの前に立ちミサキと対峙した。
「教えてあげようか、この子の秘密」
待ってましたとばかりに、ミサキはさらに一歩足を前に出し月島に近づくと、猫撫で声でそう言った。
「結構です」
「あのねぇ、この子中学生のときぃ...」
「や、やめ...っ、てく、だ....さ」
勝手に喋り続けるミサキを止める術もなく、彼女は変わらない笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「毎日、万引きしてたんだよぉ?しかも何取って捕まったと思う?…コンドームだよ〜!?頼んでもないのにさぁ〜ほんと、このビッチ、手癖悪いから気をつけてねぇ?」
ああ、まただ。
幸せが壊れるのはいつも突然で、簡単なことなのだ。積み上げられたアンバランスな積み木を指先で弾くだけ。
他人よって崩されるその積み木は、いつも突然バラバラと崩されていく。
あかりは否定する気力も起きぬまま、目を開けたまま瞬くことも忘れ、顔を真っ赤に染め上げていた。
「......言いたいことは、それだけですか?」
ニヤニヤと口角を上げていたミサキは、予想外な月島の発言に「は?」と顔を顰めた。
「あぁ、すみません。あんまりに勿体ぶるから何かと思えば、どうでも良いことすぎて反応できなくって」
「何言ってんの、あんた。揃いも揃ってバカなんじゃないの?」
「あんたこそ馬鹿なんじゃないですか」
顔を引き攣らせて笑うミサキに、月島は彼女を見下ろしながら嘲笑を向けた。あかりは耳を疑いながら、目の前で背を向ける月島に視線を送る。
「今の話を一通り聞けば、この子がやりたくてやったわけじゃないことくらいわかりますよ」
「はぁ?私指示なんてしてないし!このビッチがやりたくてやったことでしょ!?あたしのせいにしないでよ!」
「まあそもそもどっちでもいいです。時効なんで。その話、この子には効くかもしれませんけど、僕には意味ないですよ」
的を得た月島の言葉に、追い詰められていくミサキは悔しそうに奥歯を噛みながら恨めしそうな表情を浮かべてあかりを睨みつけた。
「....許さないからね、あんたのこと」
月島は彼女の視線の先を塞ぐように体を横にずらした。ミサキは苛立った表情で、踵を返し階段を降りていった。
カンカン、と安っぽいハイヒールの高い音が完全に聞こえなくなると、月島は外に散らばったカバンの中身を集めて、放心状態の彼女を抱き上げると、家に入りソファに優しく降ろした。
「遅くなってごめん」
力無くソファに座り俯いていたあかりは彼の言葉に思わず顔を上げ、涙と冷や汗と汚れでぐしゃぐしゃの顔を横に振った。
貴方が謝ることじゃない、とそれだけはわかってほしかったのだ。むしろ謝るのは自分の方なのに、と心の中では何度も何度も謝罪の言葉を述べるが、肝心の声が出ずただ涙を流すことしかできずにいた。
月島は今にも何かが壊れそうな細い糸を張ったような状態の彼女に「ちょっと、待ってて」と声をかけ、すぐ湿布と絆創膏、消毒液を用意し机の上に並べた。
「痛かったでしょ」
月島は細心の注意を払い、内出血を起こした肘や腕に湿布を貼りながら、あかりの服の所々の汚れに視線を送る。相当痛めつけられたような跡に、思わず眉を顰めて奥歯をギリっと噛んだ。
「....体、自分で貼りづらいところがあったら言って。」
煮えたぎるように沸々と沸き起こる真っ黒な感情を隠す月島は、それを表に出さないように取り繕い、できる限りの優しい声をかけた。
「...っ、ごめ、なさ....い....私の、せいで.....っ」
また顔を伏せて泣きじゃくるあかりをそっと抱きしめた。「大丈夫だから」と優しく背中を摩る。
なんて小さい身体なんだろうと、もう何度目かもわからない感想を抱いた。
こんな身体で、彼女はどれだけの痛みに耐えてきたのだろうと、到底想像も付かないことを考えてしまう。
「...好きだよ、あかり」
「...っ....そんなこと、...!(嘘に決まって…)」
「...ずっと好きだったから。君が思うより前から、ずっとね。残念だけど、あんなことじゃ揺らぎもしないんで」
泣きすぎて枯れかけた声のあかりを抱き締める手に、力が込められる。
「まぁさすがに生き物を殺すのが趣味、とか言われたらどうしようかと思ったけど」
半笑いで冗談を言う月島の言葉に、あかりは黙ったまま力なく首を横に振った。
「どんな君でも受け入れる覚悟はできてるから。安心していいよ」
彼の言葉に拭いても拭いても涙が止まらず、しゃくりをあげながら抱き締め返すあかりの手は震えていた。
暫くの間彼女が落ち着くまで背中を優しくさすると、月島は体を離して目線を合わせた。
「だから、話してほしい。これまでのこと」
あかりは目を見開いて、眉を寄せ真剣な顔をする月島を見つめた。
「無理に話してほしいわけじゃない。元々、言いたくないなら、過去のことは聞かなくても良いと思ってたし」
でも、と月島は続けた。
「あの人、たぶんまた来ると思う。もうこんなに君が傷つくのは正直見ていられないし、対処法も考えたいから」
あかりは今まで見たことのない彼の煮えたぎるような怒りの色を揺らす瞳に、ゆっくりと震える唇を開いた。
———————————-
中学の頃、私の身の回りの筆記用具や私物は無くなることがとても多かった。
あれがいじめだったと気付くには、あの頃の私は鈍感すぎたし、それよりも無くなったものを彼女にどう説明して買ってもらうかを考えることで精一杯だった。
2階建ての古めかしい戸建ての玄関を開けて、恐る恐る「ただいま帰りました」と小さな声で言いながら、無造作に散らばった見覚えのない大きな靴に視線を向けた。
まただ、と心臓がドクリと嫌な音を立てる。
2階へ行くにはリビングを通らなければいけないため、なるべく足音を立てないように廊下を進むが、木造の床はよく軋んだ。
リビングの扉を開けた瞬間、むせ返りそうなタバコの煙と生臭い臭いが鼻をつく。
ソファに座る男の上に対面で跨る女は、私を見ると冷ややかな目を向けて、短く舌打ちをした。
ごめんなさい、と反射的に謝罪の言葉を述べると小走りで階段を駆け登り自分の部屋に入る。部屋と言えば聞こえはいいが、物置小屋のような部屋の隅が私の居場所だった。
縮こまるように体育座りをして、時が経つのを待っていたが、いつの間にか眠気に襲われその場に横たわり眠ってしまった。こんなことは日常茶飯事だった。
ハッと目覚めた時には、すでに21時を回っておりお腹の音を聞きながら恐る恐る一階の様子を見に降りた。
既に男は帰ったようで、彼女は1人で最低限の灯りを灯してソファに座っていた。使い古したようなキャミソールの肩紐は伸び切っていて、片側は力無く垂れ下がっている。
私はその背中に恐怖ともの寂しさを感じながら、おずおずと声をかけた。
「ミサキさん、あの...消しゴムを買いたくて....」
私の言葉にピクリと体を反応させた彼女は酷く苛立った様子でタバコに火をつけた。
「そんな金、あるわけないでしょ!?何度も何度も馬鹿じゃないの!?あんたが何とかしなさいよ!!」
堰を切ったように大声で私を怒鳴りつけるミサキさんが言う事は間違っていないと思った。まだ入学してから1ヶ月の間で3回も同じことが起こっていたのだから、苛立つのは当たり前である。
「もう決めたわ。あんたに金はやらない。食べ物もなんでも自分でなんとかしな」
「そんな...っ、ごめんなさい、ごめんなさい...!」
ポロポロ涙を落としながら、許しを乞うが彼女は嘲笑を浮かべて、タバコを待つ反対側の拳を机に叩きつけた。
「あんたがここにいるせいで男からも逃げられて、金もでていく一方で...!どっかで野垂れ死んでくれればあたしも幸せになれるのに...!!」
彼女の言葉は鋭く何度も私を突き刺す。恐ろしさからミサキさんの顔を見ることもできず、俯いてるとそばにあった灰皿が自分目掛けて投げつけられ、たっぷり入った灰がぶち撒けられた。
彼女は汚れることも構わず私を殴ったり、蹴ったりし続けたが、時折見せる寂しげな表情はとても印象的で今でもよく覚えている。
それからだった。
食べるものに関しては家の残飯や水でなんとか凌ぐことができた。だが学生生活で必要なものも買うことができなくなり、教師にも疑いの眼差しを向けられた私はとうとう耐えきれなくなってしまった。
ある日の学校帰り、近くの文房具屋さんに入るとレジ前で居眠りをするおじいちゃんを確認した後、消しゴムとノート、鉛筆を一つずつそっとカバンに入れた。
私は足早にそこから立ち去り、走り出した。
なんてことをしてしまったんだ、という罪悪感に押し潰されそうながら「ごめんなさい」と何度も繰り返し涙が溢れて止まらなかった。
もうこんな思いはしたくない、と学生生活で必要なものを無くさないように、私は常にできる限りのものを持ち歩くことにしてから文房具が無くなることは少なくなったのは何よりの救いだった。
それから数ヶ月間、相変わらずミサキさんからの暴力に耐えながら日々を過ごしていた。明らかに痩せ細っていく私の身体には青痣が絶えず、思考回路も曖昧になっていった。
「生きるためだから」と言い聞かせて、スーパーでおにぎりやお饅頭を盗み、それらを数日に分けて食べる。いつか捕まるかもしれない、それでもいいとすら思い始めていた頃の事だ。
学校から帰ると、また知らない男とミサキさんが絡み合っていて、いつものようにそそくさと階段を上がろうとすると、珍しく呼び止められて足を止めた。
「ねぇ、コンビニでゴム買ってきてよぉ」
「おいおい、子供に何頼んでんだよ」
「大丈夫よ、この子は。そういう子だから」
ゴム、がなんなのかはよくわからなかった。そんな私を見透かしたように空っぽの残骸が投げられ、私はそれを力無く拾い上げた。
要するにこれと同じものを買ってこい、ということだった。
「....あ、の...」
「早く行きな」
買うお金がないことを告げようとしたが、彼女の冷たい視線がそれを許さない。私は押し黙り空箱を手に持ち制服のままコンビニへ向かった。
店内に入ると夕方の時間帯だったため多くの人がいた。私はバックに入った空箱と同じものを探し回りようやく見つけたそれを手に取りポッケにいれた。
店内を出ようとしたところ、私の肩を掴んだのは店員さんだった。ああ、やっと気付いてくれた。これで、解放される。
私はそんな思いで店員さんの後に着いていき、レジ後ろの事務所に連れて行かれた。
だがその後、面倒くさそうな表情でコンビニに訪れたミサキさんは店員さんの前で私を何度も殴りつけた。
さすがに店員さんが止めに入ったが、私はその痛みよりどうして警察を呼んでくれなかったんだろうという絶望感で押し潰されそうになっていた。
家に帰ったあとは散々だった。
半狂乱になったミサキさんはいつも以上に酷い暴力を振るった。意識が遠のくたびに頬を平手打ちして呼び起こし、また恐怖に震える私の反応を楽しんでいるようにもみえた。
学校では既に噂が広まっていて、聞くに耐えないあだ名や好奇の眼差しを向けられ続けた。そこでようやく、中学生が買うような代物ではなかったのだ、と気付いたがそれももはやどうでもよくなっていた。
そんな中学生時代を過ごし、高校生になる直前、突然ミサキさんはいなくなった。ほんの少しのお金を置いて、彼女は前触れもなく消えたのだった。
突然訪れた開放感と、自由に戸惑い、涙が溢れて止まらなかった。涙が枯れ果てた後、私の心に残ったのはぽっかりと空いた寂しさだった。
私が選んだ高校は知っている人が誰もいない、少し遠い公立だった。
予め中学時代に少しでも高校の入学金や授業料などのお金のかからない方法を調べてあったため、早々に役所手続きを済ませると、すぐにアルバイトを3つ掛け持ちをし、私は一刻も早くこの土地を離れるために死に物狂いで働いた。
そうして、半年程経過し、ようやく小さなワンルームのアパートに引っ越すことができた。
ようやくあの土地から離れることができた喜びを噛みしめながら、アルバイトの量を減らし、こっそり入部届を出していたバレー部の活動に力を入れ始めたのだった。
同級生には半年程先を越されて、ろくに顔を出すこともできていなかったこともあり中学時代が思い出され不安でいっぱいだったが、彼女たちは私を快く受け入れてくれたのだった。
毎日が目まぐるしく過ぎていく中、部活とバイト、勉強に明けくれて、本当に大変ではあったがとても充実していたように思う。
部活では2年生でレギュラー入りを果たし、壁にぶつかったりもしたけれどそれも乗り越えてセッターとしての力を付けていった。
3年になり、最後のインターハイは全国3位の成績を残した私たちが最後の春高に向けて準備をしている頃、数名がVリーグのチーム関係者から声をかけられていた。
ありがたいことに私もそのうちのひとりで、私はすぐ二つ返事で頷いた。
春高は惜しくも優勝を逃し準優勝という形で、私の高校時代のバレーは終わってしまった。
ああ、でもこれで終わりじゃない。
まだ続くんだ。もっとやりたい。
バレーボールをしていたい。
優勝を逃した瞬間、悔しさのあまり涙が止まらずメンバー全員で大泣きしたが、次の日にはそんな気持ちで私は前を向いていた。
ある夜アパートで一人、バレーボールを触っていると、ハイヒールの高い音が外から聞こえ、やがてインターホンが鳴った。
こんな夜に、と私は疑問に思いながら扉を開けると、そこには少しやつれた顔のミサキさんが立っていたのだった。
「良い御身分じゃない...あんた」
「な、なんで、ここが...」
「あれだけニュースにでてりゃ嫌でもわかるでしょぉ?」
インターハイや春高は全国放送される大きな大会だ。たまたま彼女の目に止まってしまったのだろう。学校名が知られれば、住所を調べることなんて簡単なことだった。
酷く動揺する私に、大層嬉しそうな笑みを浮かべるミサキさんはずかずかと土足で部屋にあがっていった。
「誰のおかげで、ここまで生きてこれたの?ねぇ?あたしのおかげでしょ?わかってるわよね?」
相変わらず有無を言わさない話し方と高圧的な態度に、またあの頃の恐怖と身体の痛みが再燃していくようだった。
「だからさぁ、お金、返してよ」
「....いくら、ですか」
「あんたの面倒みてた間の食費とか光熱費でしょ〜私が置いてあったお金と〜私の人生めちゃくちゃにしてくれた慰謝料で〜」
正直、無茶苦茶な話だと言いたかった。
けれど、お金で彼女との縁が切れるなら、私はそれでもいいと思った。
だが金額を聞いた私は愕然とした。
「500万」
「....っ!む、無理です、そんなお金あるわけ....」
「大丈夫っしょ?卒業したら働けばいいんだし」
なんてことない、というようにミサキさんはタバコに火をつけながらそう言った。
「で、でも私...バレー、がしたくて」
「はっ、ありえないでしょ。なんであんただけ....っ!!」
私の言葉が癪に触ったのか、彼女のタバコを持つ反対の手は私の首に伸びた。咄嗟に避けることも抵抗することもできず、私は玄関の扉に押し付けられ苦しさに悶えていた。
「...っぐ....ぁ...」
「自由になりたいなら、金を用意しな。」
吐き捨てられた言葉とともに、私は首を掴まれたまま部屋の床に転がされた。呼吸の仕方を忘れてしまったように私は酷く咳き込みながら嗚咽を繰り返した。
「月に15万、月末に取りに来るから。」
彼女は勝手に話を進めながら、部屋に転がり落ちたバレーボールに火のついたタバコをぐりぐりと押し付け、そのまま手を離した。
そしてミサキさんは私を見下しながら、部屋から出ていった。安いアパート中に響いているであろうハイヒールの音は、まるで幸せな日々が夢であったかのように嘲笑っているみたいだった。
立ち上がる気力も無く床に這つくばったまま、ぼやける視界に映ったそのボールからは異臭がして、悲しげにゆらゆらと揺れていた。
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「提示された金額はきっちり返して、私は彼女と縁を切ったつもりでいました。それから引越してここへ...」
あかりは震えた声でぼんやりと朧げな瞳を天井へ向けていた。
軽蔑されただろうか。こんな汚い人間なんだと、嫌われただろうか。ソファに座る自分の目の前の床に腰を下ろし、俯き黙ったままの彼の反応を見るのがとても怖い。
あかりは天井から視線を外し、顔を背けて自虐的な笑みを浮かべた。
「...きっと、もっといいやり方だってあったはずで...バレーにのめり込み過ぎて勉強を疎かにしてたから、ですかね。本当にバカで......あはは」
相槌や返事を聞くことすら怖く思えて、あかりは今更平静を取り繕うように無理矢理に作った笑顔を貼り付けて言葉を続けた。
「....でも、サチさん風に言うと、結果オーライっていうか」
「......」
「チームに入っても私のことだから上手くいかなくてクビになっちゃって、路頭に迷うことになってたかもしれませんし....っ」
「…あかり」
「だから高校卒業してすぐ一般企業で働けてよかったんです。あはは…本当、人生どう転ぶかわからないっていうか...っ」
月島が名前を呼ぶ。
あかりは声を止めてしまうことを恐ろしく思い、適当な言葉が口からすらすら出てくるのを止めることもできないまま、その瞳からは大粒の涙が流れ落ちていった。
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる月島は、彼女の手を優しく引き寄せて、抱き締めた。
「もう、いいから...、あかり」
耳元で聞こえた包み込むような優しい声に、あかりはしゃくりをあげながらぽろぽろと大きい雨粒のような涙を落とした。
「ほんと...は...あんな...っ!あんなこと、したくなかった....っ!普通で、いたかった、だけ...なのに...」
「...うん」
「バレーだって、本当は…っ!」
痛む腕に構うことなく、あかりはまるで子供のように泣き続けた。月島は彼女を抱き締めながら、赤ん坊をあやすように、背中をぽんぽんと撫で続けている。
「どう、して....また...っ、私、なんのために、頑張ったの...月島くん、まで...」
これで2度目だ。
築き上げてきた幸せを、あの人が一瞬で全てを壊していく。
きっと彼も、浅はかな選択ばかりを取り続けてきたことに呆れているだろう。気持ち悪く思っているだろう。もう明日には出て行ってしまうかもしれない。
次々にそんな考えが浮かび、嫌だ、とあかりは首を振った。
「...あかり」
「いや...ごめっ、な...さい....!」
「違う」
月島は身体を離し、頭を撫でながら彼女の目を見た。
彼の瞳には深い悲しみと、怒りが混ざり合っている。
「さっきも言ったけど。僕は君が好きだよ。だから、安心して」
「...そんなわけ、ない...ほんとは...今から、でも...離れ、たいと....」
「そんな覚悟で、僕はここにきたわけじゃない」
月島の言葉を素直に受け取ることができないあかりは、震える声で絶えず涙を溢していたが、遮るように彼はまた口を開いた。
指先で自分の涙を拭ってくれる月島の言葉に、また自分が情けなく思えて力なく首を横に振った。
「大丈夫。僕はいなくなるつもりもないし、君が嫌だと言ってもそばにいる。まぁ君こそ、覚悟しててよ」
片側の口角を上げて笑う月島は彼女と目線を合わせたままそう言った。
「それに...君が言ったんでしょ。この前の約束…もう破る気?」
先日の海での記憶が蘇る。
<私は、月島くんの傍にいますから>
浜辺で花火をしていたとき、まるで恋のようなその儚さに彼の瞳が揺らいでいて、あかりはそう約束をしたのだ。
月島は気恥ずかしいのか、バツの悪そうな顔をしている。その彼の様子に、あかりは気が抜けたように、ふっと笑みを浮かべ涙を流した。
「ちょっと、泣くか笑うか、どっちかにしなよ...」
「ふ、すみませ...っ...」
ああ、今回は失わなくていいのだ、と強い安堵感に涙を流しながら、こんな時でもいつも通りでいてくれる彼がありがたくて、嬉しくて、あかりは思わず笑みを溢すのだった。
「....頑張ったね、本当に。あかり」
月島の言葉に、あかりは時が止まったような感覚に落ちた。
本当のことを誰も言えずに乗り越えて、思い出したくないからと蓋をし続けてきたあかりにとって、彼の言葉は1番欲しかったものだったのだ。
自分自身そのことに気付いていなかったあかりは、ようやく止まった涙が再びが溢れだし、慌ててそれを拭った。
「あれ...っ?悲しく、ないのに...何故か、涙が...あれ、...なんでかな...」
拭っても拭ってもその涙が止まることはなかった。
月島は何も言わず、自問自答する彼女をまた抱き締めて、背中をポンポンと撫で続けた。
一方、彼女を抱き締める月島の顔には憤激の色が漲っていた。
どうして周りの大人は助けてやらなかったのか、誰も気付かなかったのか、何故この子がここまで辛い目に合わないといけないのか。
なによりも、1番辛い時にそばに居てやれなかった自分が許せないのだ。
考えれば考えるほど、沸々と湧き上がるドロドロとした真っ黒な怒りに震えそうになる。
月島は怒りの全てを悟られないように仕舞い込み、あかりが落ち着くまでそばに居続けた。