当たり前のように、君は
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七夕祭りから2日後の金曜日、あかりは火照る体に違和感を覚えながらアラームが鳴るよりも先に目を覚ました。体の節々に痛みがあり、喉に酷い違和感を感じ思わず顔を歪める。
風邪を引いたのだ、と気付くのに数秒もかからず不甲斐ない自分に呆れて溜息しか出ないといった様子だった。
「(月島くんに心配をかけるのは...何か理由をつけて、先に行ってもらいましょう...)」
朦朧とする頭で計画を立てると、ベッドから起き上がり朝ごはんとお弁当を作るためキッチンに立った。
「(1人暮らしを始めてから熱なんて出さなかったのですが、油断しちゃいましたね...)」
目玉焼きの黄身はフライパンに落とした瞬間に割れ、パンも少し焦げている。お弁当には昨晩の残り物を詰めたが、追加で詰めるために作ったウィンナーや卵焼きは少々焦げてしまった。
「ど、どうしたの今日...大丈夫?」
「あぁっ、月島くん、おはようございます。ごめんなさい、ちょっと失敗しちゃって...」
程なく起床し着替え以外済ませた月島が、リビングの扉を開けてテーブルを見て、心配そうな声色でキッチンを覗いた。
覗いた先で情けなく笑うあかりに、違和感を覚えたようだ。
「お弁当が、反対…大丈夫でしょうか...」
可笑しな日本語混じりで、少し焦げた卵焼きを切るあかり。辿々しい包丁の刃先を見ると、危なげで誤って指先を切ったとしても不思議ではない。
「(まさか祭りの日のあれを気にして...いや、それにしては動揺っぷりが昨日の比じゃない...もしかして)」
「あの、今日野暮な予定がありまして...先にお家を出てくださいませんか?」
「野暮....?」
顎に指先を当てて考える素振りを見せながら、首を傾げる月島は、終始怪訝な表情を浮かべた。
「今日は1人で大丈夫です...パン焼き上がりますから、不出来で申し訳ないですが....」
すると月島はキッチンから離れ、リビングに置かれた小さな棚の引き出しからある物を取り出し、威圧感のある顔であかりにそれを渡した。
観念した顔で、手渡された体温計を脇の下に挟むあかりは口を開いた。
「ほ、ほら、月島くん遅刻しちゃいます。早く朝食を...」
「君、何か誤魔化そうとしてるでしょ」
ジロリと睨む月島は、焦ったような声色の彼女の目の前から頑なに離れようとしない。
「あのさぁ、僕のこと欺けるとでも思ったわけ?」
「そ、そんなことは...(ゔっ…図星…)」
彼の言葉がグサグサと音を立ててあかりの心に突き刺さっていき、最後に嘲笑と共に放たれた「安直」という2文字によりトドメを刺された。
すると、ピピっと機械音が鳴り響き、取り出した体温計が示した体温は「39.1」だった。一瞬固まったあかりはすぐに体温計の電源を落とし、月島にニコッと笑いかけた。
「37℃でした。微熱ですし、大丈夫です…」
「…そう」
にっこり笑みを返す月島は、その体温計を奪い電源をいれる。すると直前に計った体温が表示された。
「あのさぁ」
月島は「39.1」の表示を確認すると、静かに口を開いた。微かな怒りの籠った声色が聞こえると同時に、あかりの体がふわりと浮き上がる。
「わっ....!」
無表情で彼女を抱き抱える月島は、あかりの部屋のベッドまで移動し優しくその上に降ろした。
「そんなに頼りないわけ」
「....へ?」
彼は自分に対する不甲斐なさや怒りを何処にぶつければいいのかわからない、そんな苦虫を噛んだような表情でベッドに降ろした彼女を見下ろしている。
あかりが言葉に詰まっていると、月島はキッチンへ向かい冷えピタやお水、必要そうな物をお盆に乗せて彼女の部屋に戻った。
「当欠は難しいから、今日早めに帰る。それまで安静にしてて。」
「....大丈夫、です(どうしましょう、結局迷惑を...お弁当も朝食も中途半端で.....)」
ベッドに横たわるあかりに布団をかけながら、眼鏡の奥にある瞳には心配と微かに怒りの色が窺える。
あかりはそれを感じながらも、体の気だるさと重力から解放された安心感で声を出すことも億劫になっていた。
月島はすっかり大人しくなってしまったあかりの額に冷えピタを貼り、頭を撫でる。
「ごめん、すぐ帰るから」
あかりは自分への情けなさで涙が溢れそうになるのを必死に抑えながら、首を横に振った。
熱のせいかまるで置いて行かれる子供ような気持ちを抱きながら、部屋を出ていく月島の後ろ姿を見送る。
ぼんやりとしたあかりの脳に過るのは、中学時代に共に生活をしていたある人のことだった。
中学時代、あかりは父方の叔母の家で生活をしながら、都内の平凡な中学校に通っていた。
ある時、仏壇に2つの写真が飾られていて、叔母に尋ねると冷ややかな表情で「あんたの両親だ」と冷たく言い放たれた。続けてその人は「なんでよりによってあんただけ」と、呟くように、でもたしかにあかりに届く声でそう言った。
ああ、きっと両親は私のせいで亡くなったんだと、その時に初めて気付かされたのだ。
まだ何も知らなかった頃は、いつか会えるのだろうかと夢にまで見た。いつか、その声が聞けるのだろうか、と。だがもうそんな夢を見ることはできないのだと、現実が何度も彼女の心を突き刺した。
次の日、知恵熱のように高熱が出てしまい、リビングでぼーっとしていると、その姿を見た叔母はあかりを冷酷な視線を突き刺しながら舌打ちをした。
あかりは理由も分からず「ごめんなさい」と言うと、「それ、うつさないでね」と言い残しその人は自室に戻っていった。
体が熱を発しているのか、身体が軋み頭痛も酷くなっているようだったが、薬や冷えピタ等がどこにあるのかもわからず、当時聞く勇気すらなかった彼女は慌てて布団に潜り込み、ただ耐えるしかなかった。
誰もいない日中を見計らって、あかりはなんとか水分補給をし、布団に戻る。
気を抜けば意識が遠のいてゆき、同時にもう目覚めることはないのではないかと恐怖が襲う。
助けを呼ぶ術も、頼る人もいないなか、ただひとり布団に包まり祈るように朝を待った。
それを丸三日繰り返し、ようやく熱が下がった頃、その人は突然部屋の扉を開けてあかりを見た。
心配している様子は少しもなく、あっけらかんとした声で「なんだ、生きてたんだ」とその人は言った。つまらないものを見るかのような、そんな目をしていた。
「死んじゃえばよかったのに」と、その表情が言葉もなく訴えていたのをあかりは痛いほどに感じた。
今までは思い出すだけでも、胸が張り裂けるような感覚に襲われていた。
だが今はチクリと棘が刺さるような、小さな痛みがするくらいで、確かに傷が和らいでいるのをあかりは感じていた。
その理由は、ただ一つである。
「(早く会いたいです。月島くん)」
まだ微かに残る首筋の跡に手を置き、彼の温もりを思い出しながらあかりは静かに眠りについた。
——————————
ふと目を開けると、そこには見覚えのある庭が広がっていた。
「あかり、危ない」
目の前には懐かしい顔をした男の子が立っている。
その言葉とは真逆のテンションで、彼は私にそう言った。
彼が打ったボールは山なりに弧を描き、その落下地点には幼い私がいた。
「いたーっ!けーくんひどい!」
ぼーっとしていたのだろうか、ボールは私の頭の上を跳ねて、地面を転がっていく。
けーくん、と私が呼んだその男の子は呆れた表情を浮かべながら、かけていた黒縁の眼鏡の位置を指先で正している。
その風貌と体格をみれば、中学生と言われても不思議ではないくらいだ。だが、私の5つ歳下の彼はまだ小学2年生になる直前のはずである。
それほど、彼は酷く落ち着いていた。
なにしてんの、と軽いため息を吐きながらも、転んだ私に手を差し伸べてくれる彼のことが、私は大好きだったのだ。
小学生の頃はみんな友達、という感覚で年齢関係なくよく遊んでいた。
彼は大抵乗り気じゃなかったけれど、私が無理矢理誘った記憶がたくさんある。
いつもゲーム片手に不機嫌そうな顔をして、決まって一つ二つの文句を言いながらも、最終的には「しょうがないな」と一緒に来てくれるのだ。
よく覚えているのはクリスマスが近付く真冬の昼間、いつものように数人の友達と遊んでいた時、遠くに行ってしまったボールを追って走った途端、突然季節外れの大雨に見舞われた日のことだ。
私は強風で転がっていくボールを追うのに必死で、気づけば草が生い茂る見覚えのない場所まできていて、大雨のせいで方向感覚も失われてしまった。
焦って走り出した私が何度か転び泥だらけになりながらたどり着いたのは、とにかく雨が凌そうな大きな木の下。まるで嵐のように雨と風が突き刺さるように降り注ぎ、雷鳴は轟いている。
風で蠢く草原はまるで生き物のようで、幼い頃の私にはとても恐ろしく思えて動けずにいた。
「けーくん、助けて...怖い...!」
転んだ際に擦りむいた足からは血が滲んでいる。私はその痛みと寒さ、恐怖で涙を流しながら、その場に蹲って、なんとか絞り出した蚊の鳴くような声で私は彼の名前を呼び続けた。
「っあかり!」
ずっと待っていた彼の声が聞こえて、驚いた私はハッと顔を上げた。
そこにはずぶ濡れになって息を切らす、けーくんがいたのだ。彼は私の顔を見ると、安堵の表情を浮かべたように見えた。
「あかり、こっちにきて」
だがすぐに真剣な表情になると、私の前に背を向けてしゃがみ込み無理矢理おぶさった。
確かに背は高いがその体は細く、5つも歳の離れた女の子を背負うには負担が重すぎて、その足取りは酷くゆっくりだった。
「けーくん、いいよ、重いから....!」
「足、怪我してる、でしょ」
息を切らしながら、一歩ずつ確実に大きな木から離れていく。風が嘲笑うように音を立てて吹き荒れる中、一際強い閃光が走り、同時に鼓膜を直接揺さぶられているような大きい音が鳴り響いた。
けーくんと私は、落雷の衝撃により進行方向に吹っ飛ばされてしまった。意識が飛んだのか、気付けば目の前に割れた眼鏡をかけたけーくんが、必死に倒れた私を呼んでいた。
何が起きたのかわからず、体中傷だらけのなか体を起こし後ろを振り返ると、私が数分前まで蹲っていたその大きな木は見事なまでに真っ二つに割れていたのだ。
「....っのバカ!!雷鳴ってるのにあんな大きい木の下にいくバカがどこにいるんだよ!」
「なっ!バカバカって...しらなかったんだからしょうがないでしょ....!」
「だからバカっていってんだよバカ!!」
唖然としている私の顔を両手で包み、けーくんは大声をあげた。私は思わず言い返しながら、ポロポロと涙を流し泣き出してしまった。
けーくんはその両手を離し、顔を歪めると私の体を抱きしめた。まだ止まない雨の中、冷え切った体を抱きしめるけーくんは微かに震えていた。
きっとけーくんも怖かったんだ。
それでも彼は、私を守るように抱きしめ続けた。
そのあと、けーくんのお兄ちゃんのあきくんが両親を連れてやってきて、私たちは無事に保護された。
けーくんのお父さんとお母さんはいつも優しくて、温かくて、その時も涙を浮かべて怒りながら優しく抱きしめてくれた。
私もけーくんも、そして何故かあきくんも、みんなで一緒にたくさん泣いて、雨か涙わからないくらいに顔がぐしゃぐしゃになっていた。
家でお風呂に入ってから帰りなさい、とけーくんのお母さんが優しく誘ってくれたけれど、私は早く帰らなきゃいけないと思ってお断りした。
心配そうな視線が向けられている中、私はそのまま家まで走った。
泥だけで、傷だらけ。
こんな姿を見たら、お母さんはあんなふうに心配してくれるのだろうか。
今となってはそんな期待を抱く自分に腹が立つし、けーくんが言うように私は本当にバカなんだと思う。
玄関の扉を勢いよく開けると、たまたまお母さんがいて驚いた眼差しで私を見た。するとその瞬間、眉間に皺を寄せて私の方へ勢いよく歩いてくると、思い切り頬を引っ叩かれた。
あまりの衝撃と痛みに、私はその場に倒れ込んだ。
見当違いな期待をしていたが故に、理解が追いつかなかったのだ。
「あんた、なにしてるの...!?そんなに汚して!!!またお父さんに怒られるでしょう!?」
お母さんはそう怒鳴りながら、何度も何度も、私の体を蹴り飛ばした。激しい痛みに、私は声を出すこともできず靴を脱ぐ場所で丸く蹲ることしかできなかった。
「あんたがそんなだから!あたしが...!!」
ついに動けなくなった私に手を上げることをやめたお母さんは、ふらついて頭を抱えるとその場にへたり込んだ。座り込んでしまったお母さんが心配で、私は這いつくばったまま「ごめんなさい」と言い続けた。
「うるさい...うるさい!...もしかしてまた、あんた...!月島さんに迷惑をかけたんじゃないでしょうね!?そんなことをしたらまたあたしがお父さんに!!」
お母さんは、親戚の月島家に迷惑をかけるのが嫌だったわけじゃない。私が洋服を汚して傷だらけだったことが嫌だったわけでもない。
今だからわかるのは、お母さんはただお父さんに嫌われたくなかったのだ。お母さんはお父さんのことを愛し、そして恐れていた。
「あのガキ...!いつも生意気な顔して!!あいつは遊ぶなって言ってるでしょ!?」
お母さんは私の前髪を掴み顔を持ち上げる。
でも、私は頑なに首を縦に振らなかった。
けーくんのことを毛嫌いしているお母さんは、これまで何度も同じことを言ったが、私はその度に彼の顔を思い出して口を閉した。
「このメスガキが...!」
何度目かもわからない平手打ちを受けて、私は意識を失った。
次に目が覚めた時には、薄い布団の上で、家には誰もいなかった。お母さんもお父さんも仕事に行っているようだった。
見れば真冬なのに暖房はついていない。だが尋常じゃない汗と体の痛みに、熱が出たのだと自覚するまで時間はかからなかった。
幸い土曜日だったため学校は休みで、私は鉛のついたような重い体を動かすこともできず布団の上で横たわることしかできなかった。
「(けーくんとあそびたいな。あいたいな。おはなししたい。)」
私は頭頭でぼんやりとそんなことを考えながら、目を閉じた。
「......あかり。...あかり」
あぁ、けーくんの声が聞こえる。
私は夢見心地のまま、薄らと目を開けた。
心配そうな表情を浮かべて私を見つめるずぶ濡れのけーくんが、私の横に座って覗き込んでいた。
「...けーくん、すき」
無意識に私はそう言うと、目の前で驚いた表情を浮かべる彼に手を伸ばした。
迷わずその手を握り、今にも叫び出しそうなほどに切ない温もりがまだ夢見心地の私を包む。
「……また、おこられちゃった。どうしたら、いいかわからないよ、けーくん」
彼は私の言葉に頷きながら、頭を撫でてくれる。
その手は冷えていて、それでいて温かくて、私は涙が溢れ出て止まらなかった。泣きじゃくりながら何度もお母さんを呼び、彼の腕の中で私は深い眠りに落ちた。
どれだけ眠りについていたのかはわからない。
ただ確かなのは、目が覚めた私が寝ている場所は布団の上ではなく、ガタガタと揺れる車の中ということだった。
「お母、さん?」
「....逃げるのよ、アイツらから!!」
ブツブツと呟きながら、お母さんは車のハンドルを握り血走った目で暗い道を見つめた。
後部座席に横たわった私は訳もわからず、ただ額に貼られた冷えピタがカラカラに乾いてしまっていることが気がかりだった。それに気付かれないように、私は口を開いた。
「アイツらって.....」
「お父さんも、あの月島のガキも!!なんなのよ、人を見下すような目で!!!」
お母さんの言葉に、けーくんの顔がすぐに思い浮かんだ。私は取れかかった冷えピタを手に取り握りしめる。
「けーくん...?」
「私がいない間に上がり込んで...!!あいつの親に話がいけばまた面倒なことに!!!」
「ねぇ…なん、て、…何て言って、たの、けーくん…」
私は彼女の言葉に、もうあの家には戻れないと悟る。
ただ彼の最後の言葉が聞きたくて、ほんの僅かな希望に縋りたくて、声を振り絞った。
「はっ…あいつ、あんたをください〜だって…ッ!ふざけんじゃないわよ、あのクソガキ!」
「…っけーくん…」
「いますぐには無理だけど、いつか迎えにいきますってさ。すぐ引っ叩いて追い返したけどね…っ!」
月島家の人に迷惑をかけるとどうなるか、と散々言われていた私は驚いた。まさかお母さんがけーくんに手をあげるなんて。
だが、その意味をすぐに理解した。彼女はそれを気にする必要はもうなくなったのだ。私は車のバックドアのガラスから遠ざかっていく故郷を見て、もうあの場所に戻れないのだと確信した。
「いやっ、いやぁ....っ!!けーくん...っ、けーくん!」
私は朦朧とする頭で彼の名を叫んだけれど、状況が変わることはない。目から涙が出ていたことがわかったのは、お母さんに頬を叩かれて雫が口元に垂れたからだった。
「っ、うるさい!!!」
叫ぶようなお母さんの言葉に、後部座席に横たわった私は涙を静かに流しながら気を失った。
—————————————
「....っ!!あかり!」
切羽詰まった声に呼ばれて、私は目を覚ました。
見慣れた自分の部屋の天井、ふかふかのベッド、そして焦りの色が滲む瞳で私を覗き込む彼の顔が視界に映る。
ああ、あの時と同じだ、とぼんやりした頭で夢の内容を整理しながら心配そうに覗く目の前の月島くんを見た。
どうして、私は彼を忘れることができたのだろう。私は彼の手を引き、身体を抱き寄せた。
「....けーくん、すき」
勝手に口から出た言葉を、私は驚かなかったが、彼は体を固まらせて目を見開いた。
「......昔の夢、みてたの?」
横たわるを私を抱きしめながら、月島くんは耳元で優しくそう呟いた。その切なげな声色に胸が締め付けられる。
寝惚けているだとか、変な誤解をされたくなくて、私は再度口を開いた。
「.......月島くん、好き、です」
私は両手で彼を体から優しく離して小さく頷き、飴色の瞳を揺らす彼を見つめた。
「.....思い出したんだ」
抑えきれない涙を溢しながら、私は何度も頷いた。
ごめんなさいとありがとうが入り混じり、口を開きかけては閉じ、言葉が出てこない。
私は返事をする代わりに想いを込めて、彼の服を軽く自分の方へ引っ張り、その額に唇を落とした。
ゆっくり顔を離すと、月島くんは悩ましげな表情を浮かべて、今度は私に口付けをした。何度も優しく唇に触れて、彼はまた私を抱き締めた。
「....あの時、何もできなくて、ごめん」
その声は震えていて、私の体を抱きしめる手には力が込められる。もしかしたら泣いてるのかもしれないと思いながら、私は首を横に振り彼の頭を優しく撫でた。
同時に彼がこの家の玄関前に現れた時のことが思い出される。
彼の名前を聞いて何も思い出せずポカンとしていたとき、一瞬酷く傷ついたような顔をしていたこと。
あるとき、何も思い出せないと伝えた日に「思い出したくないこともある」と言った寂しげな彼の姿。
たくさん傷つけたのは私の方なのに、いつも心配して、全力で助けてくれること。
お母さんづてに聞いた月島くんの最後の言葉を、守ってくれたのだ。私が忘れてしまった言葉も、彼はずっと覚えてくれていた。
私は彼への抱え切れないほどの想いを馳せながら、口を開いた。
「私を、いつも、守ってくれてありがとう…たくさん、傷つけてごめんなさい。」
「…ほんと、君は昔からそそっかしいからね」
「…ふふ、ひどいです」
抱きしめる力を緩めて、月島くんは少し赤みを帯びた目をしながら鼻で笑った。そのやりとりがなんだか可笑しくて、私も釣られて笑ってしまう。
「あっ、ごめんなさい。私風邪なのに....」
私は、自分が熱を出していることもすっかり忘れてしまっていた。思い出して声を上げると、月島くんは顔を赤らめて私から目を逸らす。
「.......僕がしたことだから、気にしないで」
彼の様子に、思わず笑みが溢れる。
照れると目を逸らして声が小さくなる癖は昔から変わらない。それを私は愛おしく感じて、顔が緩むのを感じた。
「あ、あの、そういえば今は何時でしょう...」
「13時過ぎ。今お昼作るから待ってて」
緩む顔を掛け布団で隠しながら、カーテンの隙間から溢れる光に目が眩みそうなりハッとした。どれくらい眠りについていたのか、全くわからなかったのだ。
月島くんはさらっと答えると、立ち上がった。
「え!?月島くん、お仕事は....!」
「午後休貰った。君は大人しく寝てて」
「ごっごめんなさい...また迷惑を....」
腰に手を当てて私を見下ろす月島くんは、何事もないような言い方で、私は彼の優しさにまた申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
月島くんは、すこしムッとした表情を浮かべている。
「僕がしたいと思ったからそうした、ただそれだけ。君、謝るの禁止ね」
「ご、ごめ...あ、えっと...」
「はい、だめ」
月島くんはまたベッドで横になる私のそばでしゃがむと、掛け布団を少しだけめくり上げて、露わになった首筋に彼の唇が当たった。
そこは七夕祭りの日に跡をつけられた場所だった。
「あっ、つ、月島、くん....?」
「君の身体、これ以上僕に傷つけさせないでね」
首筋から名残惜しそうに唇が離れていく。唖然とする私は、にっこりと爽やかな笑みを浮かべる彼を見て
内に秘めた怒りのような感情を読み取り大人しく頷いた。
月島くんは私の部屋を出るとキッチンへ向かい、言葉通りお昼ご飯を作ってくれようとしているようだ。
まだ混乱が冷めやらぬ脳を落ち着かせるべく、少し目を瞑り深い呼吸を繰り返す。
昔、月島くんと離れ離れになってから、私はお母さんと暮らしていたはずだ。
だがそのあたりのことはまだ思い出せず、考えても同じ光景で記憶がぷっつり途切れてしまうのだった。
「(でも...月島くんのこと、思い出すことができて本当によかった..)」
胸が張り裂けそうな、辛い思い出。
思い返すたびに涙が出そうになる、悲しい思い出だ。
けれど、そんな中でも彼いてくれたから、その辛く悲しい思い出さえも今は愛おしく思えた。
そして、先程の月島くんとのキスが思い返される。
余裕がなさそうな、悩ましげな表情で何度も唇を落とす彼の温もりがまだ自分の唇にも残っていた。
顔に熱が集まっていくのを感じ、布団に潜る。
すると程なくして、お盆にうどんを乗せて月島くんが部屋に入ってきた。私は布団を剥ぎ、上半身を起こした。
「あっ、ありがとうございます、月島くん」
「どういたしまして」
月島くんは近くのテーブルに一旦お盆を置くと、冷えピタを持ちベッドの横に立つと額に貼られた冷えピタを取り替えてくれた。
「ふふ、前と真逆になっちゃいましたね」
「ふふ、じゃないでしょ。」
額に貼られた新しい冷えピタの上から軽く指先でこづき、月島くんは少し呆れ顔で体温計を私に手渡した。
大人しく体温を測ると「38.5」という数字が表示された。その数字を見た月島くんは特に表情を変えずに体温計の電源を切ると、小さなお皿にうどんを少し取り手渡した。
「すごい、月島くんってお料理できるんですね」
「...なに、バカにしてるの?」
「いえ!違います、でも新鮮で...」
「まぁ味は保証しないけど」
小皿には小ネギの乗った温泉卵も添えられていて、底をついた食欲がすこし沸き立つのを感じた。
少し冷ましてから少量のうどんを口にいれると、思わず笑みが溢れる。
「...美味しい...!」
「.....よかったね。じゃ、何かあったら呼んで。食べ終わったらそのままでいいから、薬飲んで早く寝て」
少しほっとしたような顔を浮かべた月島くんは、私に背を向けて部屋の扉を開けた。なんだか、早くこの部屋から出たがっているような、そんな言い方が気になってしまい私はおずおずと声をかけた。
「あ、あの...月島くん...?」
「...食べ辛いでしょ。僕はリビングにいるから、安心して(これ以上ここにいると、歯止めが利かなくなりそうで怖い.....とはダサすぎて絶対言いたくない...)」
不安げな私の表情を汲み取ってくれたのか、月島くんは安心させるような声色でそう言うと部屋から出てゆっくり扉を閉めた。
私は彼の気遣いに頬を緩ませながら、少しずつ食事を食べ進める。
月島くんの看病の甲斐あって、私の熱は翌日にすっかり平熱に戻った。ただの知恵熱だったようで、月島くんが体調を崩すこともなく平穏な日々を過ごしていた。
ただ、お互いに自分の言動を思い返すと恥ずかしく、なかなか普段通りに話せない日が続いたのだった。