出会いからあの日まで
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それは、決して容易い女ではなかった。
「あらあら、夕神さんはどうしてそんなにしかめっ面なんでしょう。そんな顔で、人の心理状態を学べるのでしょうかー?」
「へっ!しょっちゅう機械の相手をしてやがるおめえさんにだけは言われたくねェなァ」
「ちょっと、迅!……ごめん、ナマエ。うちの弟、全然可愛げのないヤツで」
大河原宇宙センターの一室で。
夕神迅は、自分が師匠と仰ぐ希月真理の親戚にあたる、希月ナマエに出会ってからというもの、このような馴れ合いしか出来ずにいた。
というのもこのナマエという、『あの事件』が起こる前、この時未だ20歳にも満たなかった少女と呼べる彼女は。
「いいんですよー、かぐやさん。
夕神さんに可愛げなんて求めてないですし、そもそも間違ったことは言ってないですしー。
……わたしは、人の心理状態を分析できるだけの機械のような人間だもの」
にこり、とナマエは微笑んだ。……完璧な、愛想笑いだった。
けれどその眼差しは静かでありながらも、強さがあったのだ。
『心理学を学ぶのなら、勝手に頑張ればいいでしょう』
『けれどあなたに、わたしの心理状態が理解できるのでしょうか?』
それは、挑発的な挑戦状だった。裁判を行う際に心理学を利用しようとする検事、夕神迅への宣戦布告のようなものを感じた。
そんな言葉を交わしたわけではない。ただ、眼差しだけで通じたのだ。
心理学を学ぶ上で、迅は師匠に教えを請いながらも、傍らで師匠の娘である希月心音と会話するナマエを見てきた。
『心音。まだ、雑音 のように感じますかー?』
『……うん、ごめんね』
『あらあら、謝ることではないのですよー。むしろ、謝るべきなのは力になれていないわたしなのです。
……一方的に受けてしまう側というのは辛いのですよねぇ』
ナマエは憂いを帯びた声色でそう呟いた。
それはまるで、『自分がそうだったから理解できる』と言わんばかりの表情でもあった。
「……おめえさんは、そういう気持ちがわかんのかぃ?」
「あらあら、それは心音が持つ能力について言っているのですか?」
ある日。
タブレットを眺めながら、ナマエは自分の研究室にやってきた迅に視線を向けることすらせずにいつものようにのんびりと話をする。
それに対して、『人と話す時は顔を向けろや』と苦々しく思っていると。
「わたしは心音のように感情を音として聞くわけではないのですよー。
……わたしの場合は、きちんとした意味を持った言葉として聞こえるのですよ」
「!?おめえさんも、同じ能力を持ってやがるっていうのか!?」
「うーん……同じ、とも言い切れないですねぇ。もっと正確に言うなら……『聞く』よりも『読む』という感覚に近いのだし」
「?」
「そうですねぇ……例えるなら、人の感情を音として聞く心音は、『音読されている状態』で。
わたしの場合は、人を感知するとその相手の心を『黙読する状態』なのですよー」
ナマエの言い分を聞けば、心音は現在ずっと他人の感情の情報を受け取る、『読み聞かせられている側』であり、自分のように『自由に読み上げる側』ではないために苦労しているのだろうという。
そのため母親が作った特別製のヘッドフォンで、ある程度の制御の仕方を学ぶ必要があるのだと説明した。
「結局は、感覚的なものだもの。言葉だけじゃ、うまく説明できない部分ってあるでしょう?
だからあのヘッドフォンは、重苦しいかもしれないけれど……真理さんとの合作でようやくあそこまでの物が作れてよかったですねぇ」
「……なァ」
「はいー?」
「……じゃあ、よ。おめえさんの時は、どうだったんだ?」
迅の言葉に、ナマエはしばらく黙って。
「……あらあら、幼少期のわたしのことまで気遣ってくれるのですねぇ。夕神さん、そんなに紳士だったのですか?」
「べ、別に気遣ってるっつーか、その、人が隠してるような心理が読み解けちまうっていうのは、……単純にしんどいだろうが」
人の心理というのは、決して綺麗なものばかりではないのだ。現に心音は、他人の感情に振り回されている。
人の心がわかってしまうというのが、必ずしも良いことばかりではないことぐらい迅でも理解できる。伊達に法廷で被告人たちなどの醜い部分を見てきていない。
だからこそ、本来だったら聞かなくてもいいものが、知りたくなかったものがわかってしまうのは精神的に辛いだろう。
そう思い、迅は聞いたのだが。
「そうですねぇ……でも、真理さんという理解者もいたし。わたしっていうデータがあらかじめにあったから、心音の力になれるのだもの。
それって、わたしの苦悩にもちゃんと意味や理由があったということでしょう?」
そこで、ナマエは迅に振り向いた。
「辛くとも、それでもそんな自分の積み上げてきたものが大切な誰かの役に立てるのは……それはとても、素敵なことだと思いませんか?」
迅は目を見開いた。
………彼女が、『初めて微笑んでみせた』から。
ただ嬉しそうに、誇らしげに、そして優しい想いを込められた笑顔は。
(……何だァ)
迅は無意識に、『それ』を単純に思った。
「おめえさん、笑えば可愛いンじゃねェか」
「え?」
「あ?………………あっ!!?」
迅は慌てて口を腕で覆う。
……それがもう遅いことがわかっていても、だ。
「ち、ちがっ!あ、……っ、嘘言ってもおめえさんにはバレんのかよ!
チクショウ!つまりは、」
「『俺の本心で思ってることが筒抜けってことじゃねェか』。
……はいー、よくできましたー」
その通りですよー。とナマエはただのんびりと笑う。
……こいつの笑顔は、今は腹が立つ。と迅は苦し紛れにきつく睨む。
けれどナマエは笑ったまま。
「まあ、夕神さんの心を黙読してしまっているわたしはずるいので、わたしも夕神さんにひとつ、秘密を教えておきましょうか」
「あ?」
「実はですねぇ……
…………わたし、『可愛いもの』が大好きなのですよー」
「…………?それが、何だってンだ?」
「鈍い人ですねぇ。心理学、きちんと学べているのですか?」
「おめえさんの心理が難解すぎるだけだろうが!」
「あらあらー。……じゃあ、もっとわかりやすく教えてあげましょう」
ナマエは机にタブレットを置き、からんころん、と白衣の下の和服に合わせた下駄の音を立てながら。
「わたしは、『可愛いもの』が大好きです。そして、」
迅を見つめて、ただ無邪気に、にこりと笑って。
「わたしは、あなたがとても『可愛い』と思っています。
……ここまで言えば、わかりますー?」
「……、……っ!!?」
「あらあらー、顔を真っ赤にさせてー。いつもの仏頂面がこうも可愛い反応をするとギャップがあって、とっても可愛いものになるのは不思議ですねぇ?」
「ば、バカじゃねェのか!?男を可愛いとか、よりによって俺みたいな男を可愛いって抜かす女は、」
「ええ、そうですねぇ。わたしくらいなのでしょうか?
けれど、『女は皆カッコイイ男に惚れる』という思考は改めたほうがいいですよー?」
世の中には、色々な人がいるのですからー。とくすくすと笑ってナマエはからころと下駄の音を響かせて、迅を通り過ぎる。
そんなナマエに、振り向きながら。
「っ、どうせわかってるだろうから言うけどなァ!
俺は、おめえさんのそういう、揶揄い癖が気に喰わねェんだよ!!」
__そうやって、誤魔化すように愛想笑いばかりを繰り返す。
__誤魔化すように、人を揶揄う。
__そんなお前が。
「……気に喰わねェんだよ」
__俺を、少しは信頼しろ。
__お前に、悪感情なんて抱かねェから。
__お前を、大切にする輩はここにもいるンだよ。
そう思って、一見睨んでいるように見つめれば。
「……うふふ。夕神さんは、存外紳士なのですねぇ。
あまり、そういう風に優しくしていると勘違いされますよー?」
「あ?」
「うら若き乙女の純情を惑わさないでくださいなー。あなたは、自分がどれほど魅力的な男の人なのかわかってませんねぇ?」
「??」
魅力的って、どこがだ?と迅が首を傾げると、ナマエははぁ、とわかりやすくため息を落として。
「本当に……あなたは鈍いです。
……わたしがあなたに惚れてしまったら、どうしてくれるんですかっていうお話ですよー?」
「……、……はァ!?」
「言ーってあげよ、言ってあげよう♪かぐやさんに言ってあげよ♪
……かぐやさーん!あなたの弟さんに口説かれているのですがどうしましょう~?」
「ば!?バカヤロウ!!姉貴にチクるな、てめえのことになると師匠同様、姉貴がどんだけ甘くなるのかわかってンだろうが!?」
廊下を、かぐやを呼びながら、そんなことを告げ口するナマエの後を追って、迅は走る。
姉のかぐやは、希月真理と同じくらいにナマエを大切に思っているのだ。
そんなかぐやが『迅がナマエを口説いた』などという言葉を聞いたものなら……
(……絶対 ェに、タダで済むはずがねェだろうが!!)
「マジでやめろ、ナマエ!!今日を俺の命日にする気か、てめえ!!」
「きゃー、夕神さんったら。純粋な乙女を追いかけてくれるなんて、情熱的な男の人ですねぇ?」
「てめえのどこが純粋なんだってンだ!!純粋な女は大の男を揶揄って、笑ったりしねェんだよ!!」
「うふふ、あははは!夕神さん、とっても楽しい人ですねぇ!」
ナマエは、本当に無邪気に笑って見せて。
「……わたしを心から笑わせるなんて、あなたはとっても素敵な人ですよ?」
「っ!?」
「『そこで無邪気な笑顔は反則』ですか?……うふふ。本当にあなたは、わたしに悪感情を見せないのですねぇ?」
からころ。からころ。と楽しく踊るように、下駄の音が響く。
ころころ。ころころ。と彼女は鈴の音が転ぶように愛らしく笑う。楽しそうに、嬉しそうに。
ゆらゆら。ひらひら。と、掴もうとすれば容易く逃げる、風に乗った花びらのような女だと迅は思った。
年上の自分を揶揄って笑うような奴だった。
自分自身を誤魔化して笑うような奴だった。
__そんな奴を、好きで好きで、仕方がなかった。
(…………そんな俺が、今更だよなァ)
そんな彼女との出会いや、やり取りを……まるで走馬灯のように夢で見ていた。
…………牢屋の中で。
有罪判決から7年が経っても、夕神迅は諦めてはいなかった。
『亡霊』の尻尾を掴むべく、そして、師と仰いだ人の娘を守ることを諦めることはできなかった。
それは、迅一人が強かったわけではなかった。
「…………俺の信念を曲げないために、そこまですることなかっただろうが」
『あなたが望むように、わたしはあなたにこれ以上追究することはしませんよ。あなたが、わたしや心音を大切に思っていることくらい、わかってますからねぇ。
けれど、わたしにも矜持というものはあるのですよ?』
一度だけ、面会にやってきたナマエは笑って言った。
『あなたが、自分の信念を曲げたら……諦めたら。
そうしたら、わたしの心をあなたにあげましょう』
『……どういう意味だ?』
『あなたが嫌がる手段で、あなたがやるべきことを、諦めさせないでおきたいのですよー。
……わたしはただ、あなたの冤罪を知る人間として足掻くのですよ』
『!』
『あなたの無実を知る人間が、心音だけだと思っていないでしょう?だからあなたは、わたしに会いに来て欲しくなかったでしょう?
そんなあなたが、どうすれば諦めないか。わたしは知っているのです』
あなたの心理をよく知る人間であり。
あなたに恋する女として。あなたが大切に想ってくれた女として。
わたしは、あなたがどうすれば『自分を諦めないのか』を知った上で実行します。
そう語ったナマエの、綺麗で鋭い微笑を見た迅は背筋は伸びる思いだった。
そして彼女が語ったことも、あまりに鋭い刃のようだった。
『あなたがすべてを諦めた時は、そうしたらわたしは一生、あなたを想いながら生きますよ?』
『!?な、』
『あなたが死んでも一生、誰にも寄り添わず、寄り添わせないまま、ずっと独りで生きていきましょう。
……わたしの恋心は、あなたのせいで一生、尽きるのですよ』
迅は絶句した。
(……やめろ)
そんなことを、自分は望んでないのだ。
自分はただ、守りたかっただけだ。大切な師匠が大切にしてきた者を、そして、自分が大切に想ってきた者を守りたかっただけだ。
有罪判決を受け、死刑を待つ囚人となった自分に、好きな女の一生を左右する権利などないと迅は思っていたのだ。
なのに。
(……んなこと、言われたら、俺は)
『逃げられない』と思った。
自分が被った偽りの罪から、自分が追い求める『亡霊の正体』を突き止めることから。
そして、目の前でただ綺麗に、しかし冷笑をもって『心の死刑宣告』をする女からも。
(…………死刑囚に、俺に、どこまで残酷な真似しやがるんだ、ナマエ)
自分が好きになった女は、どうやらずいぶんと怒っているらしいと迅は自嘲した。
というか、笑うしかなかったのだ。
一体、どこに死刑囚のために『このまま大人しく諦めたら、自分の心の一生を捧げる』なんて脅しを仕掛けてくるのだ。
そんなもの、誰も幸せになどならないのに。
死刑囚に心の一生を捧げる。それは、『自分の幸せを投げ捨てる』と言っているのと同義だ。
けれど。
(………本当に、気に喰わねェよなァ)
牢屋で、それを思い出しながら迅は呆れたように笑った。
気に喰わないやり方だ。
身も心も凍るような、けれど確かに自分にやる気を起こさせるやり方だった。
「…………全く、とんでもねェ女を掴めたもんだなァ」
__別に、ナマエと恋人ではない。
迅は、直接彼女に想いを伝えたわけではないのだ。ただ、『あの事件』が起こった日、彼女は非番であったが。
「なァ。明日、話があるからセンターに来てくれ」
「あらあらー。明日、わたしは非番なのですけれどー?」
「だから言ってンだよ」
「……ふぅん?それって、とっても大事なことなんです?」
わたしが、心を読める人間だとしても伝えたいことですか?とナマエは不思議そうに聞いた。
それに対し、迅は鼻で笑いながら。
「へっ!わかってねェなァ、おめえさんは」
「?」
首を傾げるナマエに、迅は頭をトントンと指で示すように叩きながら。
「心が読めるからって怠惰になるンじゃねェよ。よく言うだろうが。
……本当に大事なことは、口に出すべきなんだよ」
そう言って、迅は必死に思考を読まれないように努める。
けれど、そんな迅を見たナマエはただ笑って。
「……うふふ。律儀で、真面目な人ですねぇ。てっきりわたしは、『わかるんだから察しろ!』って言うタイプだと思ってましたよー」
「……俺はとりあえず、おめえさんに空気を読むことをオススメするぜェ」
バレバレじゃねェか。と迅は苦々しい顔をする。
……若干、顔に熱が集まるのを感じながら。
それでも。
「じゃあ、わたしは明日、夕神さんにとっても素敵なことを話してもらえることを期待しながら待ちましょう」
「……わかっててハードル上げるの、やめろや」
「楽しみですねぇ。きっと、すごく素敵なことを言うのでしょうねぇ?」
「…………、……っあー!!期待に満ちた目で、そンでもって物凄く嬉しそうな顔で俺を見るンじゃねェ!!」
おめえさん、マジで性格が悪ぃな!!と迅はナマエの目を手で覆う。
これ以上、情けない顔を見られないためだ。
そう、思うのに。
「いいじゃないですかー。……言ったでしょう?わたし、『可愛いもの』が大好きなのです。
ですから、わたしはそんなあなたをずっと見ていられますよ?」
「ぅぐっ!?」
「うふふ。口説く行為が、男の人の特権だと思わないでくださいな?
今時の女だって、口説きますよー?可愛い男の人がいたらねぇ?」
「……俺を可愛いって抜かす女はおめえさんが初めてだぜェ」
「あらあらー。夕神さんを口説く、初めての女になれて嬉しいですねぇ?」
ナマエは、そう言って笑っていた。
笑って、迅の『大事なこと』を聞く時を……楽しみにしてくれていたのだ。
だが、それを台無しにしたのは。
「……師匠が死んだから、……いや」
台無しにしたのは、結局俺かと迅は目を閉じる。
師匠の娘である心音を守ったことを、後悔はしていない。
だが結局、自分は大切な者を取りこぼしている。
守りたいと思ったモノは、守るどころか傷つけた。
愛したいと思った者は、愛するどころかその心を殺す羽目となる。
だけどきっと、何度同じ時に戻っても……自分は同じことをしたのだろうとも思う。
それが、夕神迅の変わらぬ心理だ。
(……何で、こんな俺を見限らねェんだ)
冤罪だと、無実だとわかっているから?
夕神迅という人間は、希月真理にとって、大事な弟子だったから?
(………違ェなァ)
希月ナマエという女は、そんな容易い女ではなかったのだ。
たった一人の男を、容易く罪人というレッテルで判別し、そして別離を許すような、そんな浅い愛情を施すような女ではなかった。
自分の気に入った人には、ことごとく彼女は甘い。そういう者たちには愛想笑いなどではなく、本当の笑顔をもって接する。
その笑顔を向けられることが、迅は嬉しかったし、心地よかった。
よく揶揄われたことに腹を立てたこともあったが、内心、本当に怒ってはいなかった。
師匠に、『あの子は、気に入った人しかあまり揶揄わないわよ』と教えられて、怒ることが出来なかったのだ。
(………今更、どの面下げてって話だけどよォ)
「………会いたい気持ちっていうのは、消えねェもんだなァ」
もし、諦めることなく己が信念とやるべきことを果たして、そしてその報酬として何か願っていいと言われたなら。
(もし、許されるなら、俺は)
__あの日言えなかった『大事なこと』を、今度こそ、伝えたい。
__たとえ、受け入れてもらえなくとも。
「………へっ!そんなもん、当たり前だろうが」
仮に冤罪が晴れたとして、自分が探し続けた『亡霊』を追い詰められたとしても、戻らないものはあるのだ。
そう信じて、迅は強く目を閉じることに集中する。
そんな奇跡は、起こらないのだと思っていた。
けれどこの今の状況が、まさか……逆転されることなど思いもしなかったのだった。
「あらあら、夕神さんはどうしてそんなにしかめっ面なんでしょう。そんな顔で、人の心理状態を学べるのでしょうかー?」
「へっ!しょっちゅう機械の相手をしてやがるおめえさんにだけは言われたくねェなァ」
「ちょっと、迅!……ごめん、ナマエ。うちの弟、全然可愛げのないヤツで」
大河原宇宙センターの一室で。
夕神迅は、自分が師匠と仰ぐ希月真理の親戚にあたる、希月ナマエに出会ってからというもの、このような馴れ合いしか出来ずにいた。
というのもこのナマエという、『あの事件』が起こる前、この時未だ20歳にも満たなかった少女と呼べる彼女は。
「いいんですよー、かぐやさん。
夕神さんに可愛げなんて求めてないですし、そもそも間違ったことは言ってないですしー。
……わたしは、人の心理状態を分析できるだけの機械のような人間だもの」
にこり、とナマエは微笑んだ。……完璧な、愛想笑いだった。
けれどその眼差しは静かでありながらも、強さがあったのだ。
『心理学を学ぶのなら、勝手に頑張ればいいでしょう』
『けれどあなたに、わたしの心理状態が理解できるのでしょうか?』
それは、挑発的な挑戦状だった。裁判を行う際に心理学を利用しようとする検事、夕神迅への宣戦布告のようなものを感じた。
そんな言葉を交わしたわけではない。ただ、眼差しだけで通じたのだ。
心理学を学ぶ上で、迅は師匠に教えを請いながらも、傍らで師匠の娘である希月心音と会話するナマエを見てきた。
『心音。まだ、
『……うん、ごめんね』
『あらあら、謝ることではないのですよー。むしろ、謝るべきなのは力になれていないわたしなのです。
……一方的に受けてしまう側というのは辛いのですよねぇ』
ナマエは憂いを帯びた声色でそう呟いた。
それはまるで、『自分がそうだったから理解できる』と言わんばかりの表情でもあった。
「……おめえさんは、そういう気持ちがわかんのかぃ?」
「あらあら、それは心音が持つ能力について言っているのですか?」
ある日。
タブレットを眺めながら、ナマエは自分の研究室にやってきた迅に視線を向けることすらせずにいつものようにのんびりと話をする。
それに対して、『人と話す時は顔を向けろや』と苦々しく思っていると。
「わたしは心音のように感情を音として聞くわけではないのですよー。
……わたしの場合は、きちんとした意味を持った言葉として聞こえるのですよ」
「!?おめえさんも、同じ能力を持ってやがるっていうのか!?」
「うーん……同じ、とも言い切れないですねぇ。もっと正確に言うなら……『聞く』よりも『読む』という感覚に近いのだし」
「?」
「そうですねぇ……例えるなら、人の感情を音として聞く心音は、『音読されている状態』で。
わたしの場合は、人を感知するとその相手の心を『黙読する状態』なのですよー」
ナマエの言い分を聞けば、心音は現在ずっと他人の感情の情報を受け取る、『読み聞かせられている側』であり、自分のように『自由に読み上げる側』ではないために苦労しているのだろうという。
そのため母親が作った特別製のヘッドフォンで、ある程度の制御の仕方を学ぶ必要があるのだと説明した。
「結局は、感覚的なものだもの。言葉だけじゃ、うまく説明できない部分ってあるでしょう?
だからあのヘッドフォンは、重苦しいかもしれないけれど……真理さんとの合作でようやくあそこまでの物が作れてよかったですねぇ」
「……なァ」
「はいー?」
「……じゃあ、よ。おめえさんの時は、どうだったんだ?」
迅の言葉に、ナマエはしばらく黙って。
「……あらあら、幼少期のわたしのことまで気遣ってくれるのですねぇ。夕神さん、そんなに紳士だったのですか?」
「べ、別に気遣ってるっつーか、その、人が隠してるような心理が読み解けちまうっていうのは、……単純にしんどいだろうが」
人の心理というのは、決して綺麗なものばかりではないのだ。現に心音は、他人の感情に振り回されている。
人の心がわかってしまうというのが、必ずしも良いことばかりではないことぐらい迅でも理解できる。伊達に法廷で被告人たちなどの醜い部分を見てきていない。
だからこそ、本来だったら聞かなくてもいいものが、知りたくなかったものがわかってしまうのは精神的に辛いだろう。
そう思い、迅は聞いたのだが。
「そうですねぇ……でも、真理さんという理解者もいたし。わたしっていうデータがあらかじめにあったから、心音の力になれるのだもの。
それって、わたしの苦悩にもちゃんと意味や理由があったということでしょう?」
そこで、ナマエは迅に振り向いた。
「辛くとも、それでもそんな自分の積み上げてきたものが大切な誰かの役に立てるのは……それはとても、素敵なことだと思いませんか?」
迅は目を見開いた。
………彼女が、『初めて微笑んでみせた』から。
ただ嬉しそうに、誇らしげに、そして優しい想いを込められた笑顔は。
(……何だァ)
迅は無意識に、『それ』を単純に思った。
「おめえさん、笑えば可愛いンじゃねェか」
「え?」
「あ?………………あっ!!?」
迅は慌てて口を腕で覆う。
……それがもう遅いことがわかっていても、だ。
「ち、ちがっ!あ、……っ、嘘言ってもおめえさんにはバレんのかよ!
チクショウ!つまりは、」
「『俺の本心で思ってることが筒抜けってことじゃねェか』。
……はいー、よくできましたー」
その通りですよー。とナマエはただのんびりと笑う。
……こいつの笑顔は、今は腹が立つ。と迅は苦し紛れにきつく睨む。
けれどナマエは笑ったまま。
「まあ、夕神さんの心を黙読してしまっているわたしはずるいので、わたしも夕神さんにひとつ、秘密を教えておきましょうか」
「あ?」
「実はですねぇ……
…………わたし、『可愛いもの』が大好きなのですよー」
「…………?それが、何だってンだ?」
「鈍い人ですねぇ。心理学、きちんと学べているのですか?」
「おめえさんの心理が難解すぎるだけだろうが!」
「あらあらー。……じゃあ、もっとわかりやすく教えてあげましょう」
ナマエは机にタブレットを置き、からんころん、と白衣の下の和服に合わせた下駄の音を立てながら。
「わたしは、『可愛いもの』が大好きです。そして、」
迅を見つめて、ただ無邪気に、にこりと笑って。
「わたしは、あなたがとても『可愛い』と思っています。
……ここまで言えば、わかりますー?」
「……、……っ!!?」
「あらあらー、顔を真っ赤にさせてー。いつもの仏頂面がこうも可愛い反応をするとギャップがあって、とっても可愛いものになるのは不思議ですねぇ?」
「ば、バカじゃねェのか!?男を可愛いとか、よりによって俺みたいな男を可愛いって抜かす女は、」
「ええ、そうですねぇ。わたしくらいなのでしょうか?
けれど、『女は皆カッコイイ男に惚れる』という思考は改めたほうがいいですよー?」
世の中には、色々な人がいるのですからー。とくすくすと笑ってナマエはからころと下駄の音を響かせて、迅を通り過ぎる。
そんなナマエに、振り向きながら。
「っ、どうせわかってるだろうから言うけどなァ!
俺は、おめえさんのそういう、揶揄い癖が気に喰わねェんだよ!!」
__そうやって、誤魔化すように愛想笑いばかりを繰り返す。
__誤魔化すように、人を揶揄う。
__そんなお前が。
「……気に喰わねェんだよ」
__俺を、少しは信頼しろ。
__お前に、悪感情なんて抱かねェから。
__お前を、大切にする輩はここにもいるンだよ。
そう思って、一見睨んでいるように見つめれば。
「……うふふ。夕神さんは、存外紳士なのですねぇ。
あまり、そういう風に優しくしていると勘違いされますよー?」
「あ?」
「うら若き乙女の純情を惑わさないでくださいなー。あなたは、自分がどれほど魅力的な男の人なのかわかってませんねぇ?」
「??」
魅力的って、どこがだ?と迅が首を傾げると、ナマエははぁ、とわかりやすくため息を落として。
「本当に……あなたは鈍いです。
……わたしがあなたに惚れてしまったら、どうしてくれるんですかっていうお話ですよー?」
「……、……はァ!?」
「言ーってあげよ、言ってあげよう♪かぐやさんに言ってあげよ♪
……かぐやさーん!あなたの弟さんに口説かれているのですがどうしましょう~?」
「ば!?バカヤロウ!!姉貴にチクるな、てめえのことになると師匠同様、姉貴がどんだけ甘くなるのかわかってンだろうが!?」
廊下を、かぐやを呼びながら、そんなことを告げ口するナマエの後を追って、迅は走る。
姉のかぐやは、希月真理と同じくらいにナマエを大切に思っているのだ。
そんなかぐやが『迅がナマエを口説いた』などという言葉を聞いたものなら……
(……
「マジでやめろ、ナマエ!!今日を俺の命日にする気か、てめえ!!」
「きゃー、夕神さんったら。純粋な乙女を追いかけてくれるなんて、情熱的な男の人ですねぇ?」
「てめえのどこが純粋なんだってンだ!!純粋な女は大の男を揶揄って、笑ったりしねェんだよ!!」
「うふふ、あははは!夕神さん、とっても楽しい人ですねぇ!」
ナマエは、本当に無邪気に笑って見せて。
「……わたしを心から笑わせるなんて、あなたはとっても素敵な人ですよ?」
「っ!?」
「『そこで無邪気な笑顔は反則』ですか?……うふふ。本当にあなたは、わたしに悪感情を見せないのですねぇ?」
からころ。からころ。と楽しく踊るように、下駄の音が響く。
ころころ。ころころ。と彼女は鈴の音が転ぶように愛らしく笑う。楽しそうに、嬉しそうに。
ゆらゆら。ひらひら。と、掴もうとすれば容易く逃げる、風に乗った花びらのような女だと迅は思った。
年上の自分を揶揄って笑うような奴だった。
自分自身を誤魔化して笑うような奴だった。
__そんな奴を、好きで好きで、仕方がなかった。
(…………そんな俺が、今更だよなァ)
そんな彼女との出会いや、やり取りを……まるで走馬灯のように夢で見ていた。
…………牢屋の中で。
有罪判決から7年が経っても、夕神迅は諦めてはいなかった。
『亡霊』の尻尾を掴むべく、そして、師と仰いだ人の娘を守ることを諦めることはできなかった。
それは、迅一人が強かったわけではなかった。
「…………俺の信念を曲げないために、そこまですることなかっただろうが」
『あなたが望むように、わたしはあなたにこれ以上追究することはしませんよ。あなたが、わたしや心音を大切に思っていることくらい、わかってますからねぇ。
けれど、わたしにも矜持というものはあるのですよ?』
一度だけ、面会にやってきたナマエは笑って言った。
『あなたが、自分の信念を曲げたら……諦めたら。
そうしたら、わたしの心をあなたにあげましょう』
『……どういう意味だ?』
『あなたが嫌がる手段で、あなたがやるべきことを、諦めさせないでおきたいのですよー。
……わたしはただ、あなたの冤罪を知る人間として足掻くのですよ』
『!』
『あなたの無実を知る人間が、心音だけだと思っていないでしょう?だからあなたは、わたしに会いに来て欲しくなかったでしょう?
そんなあなたが、どうすれば諦めないか。わたしは知っているのです』
あなたの心理をよく知る人間であり。
あなたに恋する女として。あなたが大切に想ってくれた女として。
わたしは、あなたがどうすれば『自分を諦めないのか』を知った上で実行します。
そう語ったナマエの、綺麗で鋭い微笑を見た迅は背筋は伸びる思いだった。
そして彼女が語ったことも、あまりに鋭い刃のようだった。
『あなたがすべてを諦めた時は、そうしたらわたしは一生、あなたを想いながら生きますよ?』
『!?な、』
『あなたが死んでも一生、誰にも寄り添わず、寄り添わせないまま、ずっと独りで生きていきましょう。
……わたしの恋心は、あなたのせいで一生、尽きるのですよ』
迅は絶句した。
(……やめろ)
そんなことを、自分は望んでないのだ。
自分はただ、守りたかっただけだ。大切な師匠が大切にしてきた者を、そして、自分が大切に想ってきた者を守りたかっただけだ。
有罪判決を受け、死刑を待つ囚人となった自分に、好きな女の一生を左右する権利などないと迅は思っていたのだ。
なのに。
(……んなこと、言われたら、俺は)
『逃げられない』と思った。
自分が被った偽りの罪から、自分が追い求める『亡霊の正体』を突き止めることから。
そして、目の前でただ綺麗に、しかし冷笑をもって『心の死刑宣告』をする女からも。
(…………死刑囚に、俺に、どこまで残酷な真似しやがるんだ、ナマエ)
自分が好きになった女は、どうやらずいぶんと怒っているらしいと迅は自嘲した。
というか、笑うしかなかったのだ。
一体、どこに死刑囚のために『このまま大人しく諦めたら、自分の心の一生を捧げる』なんて脅しを仕掛けてくるのだ。
そんなもの、誰も幸せになどならないのに。
死刑囚に心の一生を捧げる。それは、『自分の幸せを投げ捨てる』と言っているのと同義だ。
けれど。
(………本当に、気に喰わねェよなァ)
牢屋で、それを思い出しながら迅は呆れたように笑った。
気に喰わないやり方だ。
身も心も凍るような、けれど確かに自分にやる気を起こさせるやり方だった。
「…………全く、とんでもねェ女を掴めたもんだなァ」
__別に、ナマエと恋人ではない。
迅は、直接彼女に想いを伝えたわけではないのだ。ただ、『あの事件』が起こった日、彼女は非番であったが。
「なァ。明日、話があるからセンターに来てくれ」
「あらあらー。明日、わたしは非番なのですけれどー?」
「だから言ってンだよ」
「……ふぅん?それって、とっても大事なことなんです?」
わたしが、心を読める人間だとしても伝えたいことですか?とナマエは不思議そうに聞いた。
それに対し、迅は鼻で笑いながら。
「へっ!わかってねェなァ、おめえさんは」
「?」
首を傾げるナマエに、迅は頭をトントンと指で示すように叩きながら。
「心が読めるからって怠惰になるンじゃねェよ。よく言うだろうが。
……本当に大事なことは、口に出すべきなんだよ」
そう言って、迅は必死に思考を読まれないように努める。
けれど、そんな迅を見たナマエはただ笑って。
「……うふふ。律儀で、真面目な人ですねぇ。てっきりわたしは、『わかるんだから察しろ!』って言うタイプだと思ってましたよー」
「……俺はとりあえず、おめえさんに空気を読むことをオススメするぜェ」
バレバレじゃねェか。と迅は苦々しい顔をする。
……若干、顔に熱が集まるのを感じながら。
それでも。
「じゃあ、わたしは明日、夕神さんにとっても素敵なことを話してもらえることを期待しながら待ちましょう」
「……わかっててハードル上げるの、やめろや」
「楽しみですねぇ。きっと、すごく素敵なことを言うのでしょうねぇ?」
「…………、……っあー!!期待に満ちた目で、そンでもって物凄く嬉しそうな顔で俺を見るンじゃねェ!!」
おめえさん、マジで性格が悪ぃな!!と迅はナマエの目を手で覆う。
これ以上、情けない顔を見られないためだ。
そう、思うのに。
「いいじゃないですかー。……言ったでしょう?わたし、『可愛いもの』が大好きなのです。
ですから、わたしはそんなあなたをずっと見ていられますよ?」
「ぅぐっ!?」
「うふふ。口説く行為が、男の人の特権だと思わないでくださいな?
今時の女だって、口説きますよー?可愛い男の人がいたらねぇ?」
「……俺を可愛いって抜かす女はおめえさんが初めてだぜェ」
「あらあらー。夕神さんを口説く、初めての女になれて嬉しいですねぇ?」
ナマエは、そう言って笑っていた。
笑って、迅の『大事なこと』を聞く時を……楽しみにしてくれていたのだ。
だが、それを台無しにしたのは。
「……師匠が死んだから、……いや」
台無しにしたのは、結局俺かと迅は目を閉じる。
師匠の娘である心音を守ったことを、後悔はしていない。
だが結局、自分は大切な者を取りこぼしている。
守りたいと思ったモノは、守るどころか傷つけた。
愛したいと思った者は、愛するどころかその心を殺す羽目となる。
だけどきっと、何度同じ時に戻っても……自分は同じことをしたのだろうとも思う。
それが、夕神迅の変わらぬ心理だ。
(……何で、こんな俺を見限らねェんだ)
冤罪だと、無実だとわかっているから?
夕神迅という人間は、希月真理にとって、大事な弟子だったから?
(………違ェなァ)
希月ナマエという女は、そんな容易い女ではなかったのだ。
たった一人の男を、容易く罪人というレッテルで判別し、そして別離を許すような、そんな浅い愛情を施すような女ではなかった。
自分の気に入った人には、ことごとく彼女は甘い。そういう者たちには愛想笑いなどではなく、本当の笑顔をもって接する。
その笑顔を向けられることが、迅は嬉しかったし、心地よかった。
よく揶揄われたことに腹を立てたこともあったが、内心、本当に怒ってはいなかった。
師匠に、『あの子は、気に入った人しかあまり揶揄わないわよ』と教えられて、怒ることが出来なかったのだ。
(………今更、どの面下げてって話だけどよォ)
「………会いたい気持ちっていうのは、消えねェもんだなァ」
もし、諦めることなく己が信念とやるべきことを果たして、そしてその報酬として何か願っていいと言われたなら。
(もし、許されるなら、俺は)
__あの日言えなかった『大事なこと』を、今度こそ、伝えたい。
__たとえ、受け入れてもらえなくとも。
「………へっ!そんなもん、当たり前だろうが」
仮に冤罪が晴れたとして、自分が探し続けた『亡霊』を追い詰められたとしても、戻らないものはあるのだ。
そう信じて、迅は強く目を閉じることに集中する。
そんな奇跡は、起こらないのだと思っていた。
けれどこの今の状況が、まさか……逆転されることなど思いもしなかったのだった。
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