恋人らしく
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それからしばらく。
幸か不幸か、それからナユタの検事の仕事と摂政の公務が重なり。
ナマエに触れ損ねたという何とも言えない残念感を胸に秘めながらも、彼女は彼女でナユタと接する時間がわずかであったことがどこか安心を与えたようで、だからこそ二人がそうした雰囲気になることがなかった。
(いえ、そうした雰囲気を常に望んでいるようでは……あまりに不浄ですね)
ナマエの心の成長を実感したのだし、あまり性急なことはよろしくない。
少しずつでいいではないか、大人として僧侶としての余裕を保てば彼女の心の平穏だって訪れるのだ。
……だからこれは決して未練だとか不満とかを抱いているわけではない。決して。
そうした納得をナユタがしたのも、つかの間。
「あ、そういえばナユタ。お前の誕生日が近いから、ナマエちゃんが何か贈ろうとしてるみたいだぞ?」
「え?」
王泥喜法律事務所で、ナユタが整理し終わった裁判記録や依頼書をまとめて持ち帰ろうとした時に、幼馴染兼義弟の王泥喜法介にそう教えられた。
………誕生日?とナユタは小首を傾げる。
そして、日にちを確認してから「ああ」と頷いた。そういえばそうでしたね、とナユタが言えば法介は怪訝そうに見てくる。
「そういえば、って……気づいてなかったのかよ」
「この歳で誕生日を喜ぶのも、あまり感じなくなったもので」
「年寄りみたいだな、お前……」
「人を爺呼ばわりするのはこの口でしょうか?」
「いだだだだだだ!!?それ口じゃねぇ、髪!!髪を引っ張るな!!痛い!!」
ナユタがツノのような法介の髪を引っ張りながら「それで、誕生日にナマエさんが何ですか?」と訊く。
「あなたの誕生日でもないのに、何故あなたがナマエさんの動向を知っているのです?」
「き、聞かれたから!!ナユタが何をあげたら喜ぶか聞かれたんだよ!!」
「ほう?それで?」
「その前に、髪!!髪をいい加減引っ張るのやめろ!!」
法介の大音量の抗議の声にナユタは「騒々しいですよ」と手を離す。法介は涙目で髪と頭を撫でながら、「お前のせいだろ!!」と睨む。
「いてて……お前さ、彼女に関係することをオレが指摘すると攻撃的になるのやめろよな。いや、元々お前は攻撃的なとこあるけどさ……」
「いいから早く仰いなさい。彼女は拙僧に何を贈ろうと?」
「……それは、言わない約束してるから言わないよ。そもそも、彼女『自信ないです』って言ってたし」
「?自信がない?」
「お前にそのプレゼントを贈って、喜んでもらえる自信がないんだと。だからオレが言えるのは、ちゃんと受け取ってやれってことと、……お前がちゃんと想われてるってことだけだ」
「??」
今度はナユタが怪訝そうに見つめる番だった。法介の言葉だけではどうも要領が得ない。
ナマエに訊くべきだろうかと考え始め、しかしそこで法介に遮られる。
「とりあえず誕生日までお前は何も知らない振りでもしてろよ。誕生日プレゼントは何ですか?なんて野暮なこと訊こうとするなよ?
……自分の恋人が、ちゃんとプレゼントを準備してるってだけでその日が来るのが待ち遠しくなるだろ?」
「……確かに、そうですね」
色恋やデリカシーの欠片もない義弟だった存在にそう諭されてしまえば、ナユタもさすがに何も言えない。
だからナユタは結局自分の誕生日まで、ナマエに詳しく聞くことはやめたのだった。
ナユタの誕生日ということで、家族だけで一緒に少し豪勢な食事をすることとなった。そこには王泥喜法介も呼ばれ、和気あいあいとした、楽しい晩餐会であった。
母アマラには新しいスカーフを、妹のレイファはなんと初めて料理をし、ケーキを作ってくれた。不格好だが、味は確かでナユタが美味しいと伝えると自信満々に「当然じゃ!」と誇らしげだった。
「そのケーキはナマエが一緒に手伝って教えてくれたのじゃ!」
「そうなのですか?」
驚いてナマエを見遣ると、彼女は口元を緩めて微かに笑った。
「わたしの家では、お養父さんが誕生日を祝う時にケーキを買ってきてくれて……一緒に食べたので。
だから、逆にお養父さんの誕生日はわたしがケーキを作りました。大して立派じゃないケーキを、嬉しそうに食べてくれたので……その話をレイファ様にしたらやってみたいと頼まれたんですよ」
「そうじゃ!じゃからそのケーキはワラワの作ったモノでもあるし、ナマエの思い出のケーキでもあるのじゃ!ありがたく食べるようにな、おに、」
「?『おに』?」
ナユタが首を傾げ、レイファは顔を赤らめて俯く。
……そんなレイファの後ろで、ナマエがひそひそと何事かを呟いて、元気づけるように肩を撫でた。
レイファは顔を赤らめながら、キリっと決意した顔立ちで。
「っ、……お、おに、……っお兄様!いくら美味しいからと言って、食べ過ぎて腹を壊さぬようにな!!」
「!」
ナユタは目を見開く。初めて兄と言った妹の呼び声が、じんわりと胸を温かくさせる。
そしてその時、レイファが何度も『おに』と自分を呼んでいたことの伏線をようやく理解した。
……ここで、『レイファ様』と呼ぶのは無粋、というものでしょうね。
ナユタは薄く微笑んで、嬉しそうに答える。
「ええ、優しいお気遣いありがとうございます。……レイファ」
ナユタの兄としての言葉に、レイファは照れていたが嬉しそうに笑った。
そんな兄妹を、温かい目で『家族』は見守っていた。
そんな楽しく、嬉しい晩餐会はあっという間に終わり。
ナユタが自分の居住区へ戻ろうとする時のことだった。
「あの、ナユタさん」
躊躇いがちな声にナユタが振り向くとそこには気まずそうに立ち竦むナマエがいた。
どうしたのだろうと彼が首を傾げながら近づくと。
「……た、誕生日、おめでとうございます」
「はい。ありがとうございます」
改まって、お祝いの言葉を言われナユタは嬉しそうに答える。
そんな彼に、ナマエは何やらもじもじとしている。
「?どうか、なさいましたか?」
「……えっと、わたし、お養父さんの誕生日には、必ず手紙を書くんです。今までの感謝と、これからもよろしくお願いしますっていう願いを込めて」
「そうなのですか。それは、とても素敵ですね。きっとお父上は大層お喜びになるでしょう」
「だから、……ナユタさんにも、って思ったんです」
「拙僧に、手紙を書いて下さったのですか?」
「…………」
ナユタの言葉に、ナマエは黙り込んでしまう。
そこに疑問に感じながら、彼女の手元にある手紙に目を留めて。
「それが、拙僧の?」
「そ、……そうです、けど」
「そうですか。嬉しいです。読んでもかまわ、」
ナユタが手紙を受取ろうとする手を………ナマエはサッと避けた。
「?ナマエさん?」
「……初めて、なんです。誰かに、こんな手紙を書くのは」
「??」
「作法とか、文脈も、大した事ありません。ただ、拙くて……あまり、見せられたものではないんです」
「そうしたことはあまり気になさらないで宜しいのですよ。手紙とは、気持ちが重要なものなのですから」
「……その、気持ちが……ほんとに、拙いんです」
「……どういう意味ですか?」
いまいちナマエが何を言いたいのか察することができない。
ナユタにとっては、ナマエが書いた手紙というだけでも重要なことだ。養父だけでなく、自分の誕生日にも手紙を贈ろうとする彼女の優しさが酷く嬉しく、愛おしく思う。
けれどナマエは手紙を渡すことに、何やら酷く抵抗感を示している。
それに。
(何故、こんなにも恥ずかしそうにするのでしょうか?)
他人に手紙を寄越すことはそれほど羞恥することだっただろうかと思うナユタの疑問に、しばらくするとナマエはようやく話してくれた。
「あの、
…………ラブレター、なんて……わたし、初めて、書いたんです」
「………………は?」
ナユタは目を丸くさせる。ラブレター。つまり、恋文ともいう。
一般的に、懸想をしている想い人に宛てる手紙で、特別なものだ。
それを、ナマエは『初めて』書いた。
ナユタの誕生日に、『ナユタのため』に。
__『恋人のナユタに贈るため』に。
「あ、あの、……こんなもので、がっかりさせてすみません。……これ、部屋に戻ったらよん、」
そう言って手紙を渡すナマエの手ごと掴んで、ナユタは自分の部屋へ向かって歩き出した。
「え、あ、あの、ナユタさん?」
「狡い方ですね」
「え」
「……本当に、あなたは狡い」
ナユタはそれだけしか言えない。
……他にも、言葉は頭を駆け巡っているのに、気の利いた言葉ひとつ言えなかった。
ただ、このままナマエを帰すことだけは、どうしてもできなかったのだ。
「あの、ほんとに、ほんとに……大したこと書いてないんです!短いし、拙い言葉しかなくて、」
ナマエが必死に目の前で読まないでほしいと嘆願するが、ナユタは聞かなかった。
自室のソファーにナマエを隣に座らせて、そして彼女からのラブレターを読むことを断行した。
綺麗な便せんに、ナマエが練習して書いた綺麗なクライン語で綴られた文章がある。
一枚だけにしか書かれていない、彼女が言う『拙いモノ』をナユタは読んでいき……そして嬉しそうに微笑む。
………どこが、拙いというのでしょう。
『恋を知らなかったわたしに、恋を教えてくれたあなたへ』
『ずっと気づかないでいてごめんなさい。あなたの想いに向き合わなかった時間を返してあげられなくてごめんなさい』
『ただ、このわたしの〈好き〉という想いがこれからのあなたを彩ることができたら。少しでも想いに報いることができるなら』
『それだけで、わたしは幸せです』
『これからも、どうかたくさんの〈好き〉が訪れますように』
「……これほど素敵で、嬉しい恋文を貰ったのは初めてです」
「え、……でも、」
「何でしょう?」
「…………ナユタさんは、ラブレターを貰ったこと、あると思ってたので」
「どなたかが、そう言っておりましたか?」
「いえ、……勝手な、想像です」
「そうですね……」
ナユタはナマエからのラブレターを丁寧に指でなぞってから、綺麗に閉じながら答える。
「国際検事となり、その先で何度か連絡先が書かれたメモを女性に渡されそうにはなりましたね」
「そう、ですか」
「ですが受け取ったことはございません。たまに書類に紛れて渡されたことがありましたが、それも処分いたしました。
……答える気がございませんでしたので」
「……じゃあ、わたしのものは、いいんですか?」
「何故ご自分のものは駄目だとお思いになるのですか?」
「え、だって」
「ナマエさんのこの恋文はきちんと受け取りますよ。……応える気があるのですから」
微笑みながらそう言ってのけるナユタに、ナマエは目を丸くさせる。
そんな彼女を見つめながら、楽しそうに話す。
「と言いますか今でなくても、たとえ革命前でも日本の検事局で、もしあなたに恋文を頂いていたら……処分しようなどと考えもしなかったでしょうね。
ただ、どうやったらあなたの想いに応えられるのか、頭を悩ませておりましたよきっと」
「……そう、ですか?」
「ええ。……これほど情熱的に口説かれては、拙僧も情けなく狼狽したでしょうとも」
「う、……恥ずかしいので、あんまり内容について触れないでください」
かぁ、とナマエの頬が赤く染まり、視線を避けるように手で顔を隠してしまう。
__わかっておりませんね。
ナユタはナマエが手で顔を隠していることを良いことに、ひっそりと笑う。
こんなに自分を男として意識していながら、彼女は男に対しての危機感がまるで足りていないと。
それはきっとナユタが優しい大人で、綺麗なモノだと信じているからだ。
(教えなくてはなりませんね)
夜分に、自分を恋い慕う男の部屋に連れ込まれたら……どうなるのか。
「ナマエさん。ひとつ、お教えしておきましょう」
「?」
「いくら信頼しているとはいえ、男の部屋に何の危機感も抱かずに入ってはいけませんよ」
「え、でも」
「『ナユタさんは良い人だから』。それだけでは、駄目です。
……大人だから、そんな下心とは無縁そうだからと思い込んで、あなたを恋い慕う『男』の私が何もしないという保証は確約できないのですよ。
言ったはずでしょう?……『絶対』などないのですよ」
「……、……っ!?」
ナユタの言葉を今思い出したかのようにナマエはあからさまに身を引いた。
しかしその距離を、すぐにナユタが肩を抱き寄せて詰めてしまう。
「……ですから、今後はこのようなことは軽率になさいませんように。約束、できますか?」
「っ、は、ぃ……っ」
「良いお返事です。……では、『先日の続き』をさせて下さいませ」
「?『先日の続き』?」
「お忘れですか?……私は、あれほどのお預けを喰らったのはなかなかありませんでしたので、ずっと心残りでしたのに」
「……、……おあずけって?」
ナマエの、本当に不思議がる顔を見つめて、ナユタは微笑んで見せる。
「……初めての恋文も嬉しかったのですが、私としては『こちら』も欲しいのです」
そう告げて、ナユタはナマエの唇を親指でなぞった。
唐突なことに彼女は目を見開いて、身体を硬直させる。
だけど嫌がる素振りはなく、ただ、恥じらいだけが身体を支配しているようだった。
そんな彼女を、甘い眼差しで見つめて。
「……駄目、でしょうか?」
「……っ、だ、だめ、というか」
ナマエは困惑しつつも、自分の唇をなぞるナユタの手に触れる。
「……キス、したことないから、やり方とか、わからないです」
「……ふ」
「!わ、笑わないでください…どうせ、わたしは経験不足ですよ」
「違うのです。馬鹿にしたわけなどではありません。
……私の恋人は、本当に可愛らしくて初心だと思ったのです」
ナユタは甘く微笑んで、ナマエの頬を優しく手で包むと。
「さて……目を閉じて、私を信じて委ねて下さりますか?
……それとも見つめ合ったまま、口づけても?」
「っ!」
きゅう、と素直に目を閉じるナマエに、ナユタは愛しさを込めてそっと口づける。
柔らかく、そしてどこか甘いのは最後にケーキを食べた残り香だろうか。それとも愛しい彼女に触れているという幸福に酔って、甘く感じているのだろうかとナユタは思う。
「……っ、」
「……息を止めなくともよいのですよ。唇を塞いでいるだけなのですから」
言外に鼻で息をしろと助言をし、もう一度口づける。
角度を変えて、唇を食めば、強張っていたナマエの身体が徐々に解けていく。
そして手持ち無沙汰だった彼女の手が、おずおずといった様子でナユタの背中に触れた。
「ふ、ぅ……んっ、」
「ん……、……はぁ」
『もう限界だ』と言うように背中を掻かれたので、唇を離す。
……服を脱いでいたら、引っ搔き傷でも出来ただろうかと考え、ナユタは思考を中断させるように一度、目を閉じる。
(それ以上想像したら、どうにかなってしまいそうです)
「……ナユタさん、キスしたことあるんですか?」
「ございませんが、何故そのようなことを?」
「……緊張とか、してないように見えて」
ナマエの言葉に、ナユタは薄く微笑んでから自分の腕の中に閉じ込めるように抱きしめる。
そして彼女の耳が自分の胸に、……早鐘のように鼓動している音が聞こえるようにして、
「……私も、緊張はしますし余裕などないのがお分かりになりましたか?」
「……は、はい…」
「分かれば宜しいのです。……それにしても、愛しい人と口づけを交わすというのは、忍耐力が試されますね」
「?忍耐力、ですか?」
不思議そうに見つめてくるナマエに「こちらの都合です」とナユタは曖昧に誤魔化す。
触れれば触れるほど、『もっと、ずっと』と欲深くなっていく。
愛し合う者同士なのだから、という理由でこれ以上性急な真似をしないためにナユタは「部屋までお送りいたしましょう」と手を差し伸べた。
「……日本で見る月とクライン王国で見る月は、違いますね」
宮殿内の廊下を歩いていると、丁度外の庭の様子が見える場所でナマエがそんなことを呟いた。
その呟きに、「そうですね」とナユタが言葉を返す。
『部屋まで送る』と言っておきながら、まだ離れがたくて。手を繋いだまま、月を見上げる。
「拙僧は、日本ではあまり月の美しさに目を留めていなかったのですが……こうして見ると違うものですね。
ナマエさんは、どちらの月がお好きですか?」
「ううん……見慣れているのは日本ですけど。どっちが好きとかは、特にないですよ。
ただ、月の呼び方にも色々あるのが面白いと思って、そういうものをよく調べていた時がありました」
「そうなのですか?」
ナユタが「例えば?」と興味を示すと、ナマエは月を見上げながら。
「例えば、満月にも他の呼び方があって、『望月』って言うとか。その時の月の状態や時期で色々呼び方があるみたいです。他にも、空や雨とか……桜にも呼び方があったかな?
……昔の人のほうが想像力や表現力があるんだなぁって思いました」
「成る程。……そういう意味でも、日本語は難しいところがございますよね。拙僧は日常会話は何とか習得に至りましたが、まだまだ日本について知らないことが多いですし」
「例えば、何が知りたいんですか?」
今度はナマエがナユタに訊く立場になる。
ナユタは「そうですね」と少し考え込んで、
「日本固有、というわけではありませんが……日本はとても多くの、知らない行事があることが不思議でしたね。クライン王国はクライン教だけですので、新たに行事を作るということが少ないのです。
ですので、日本へ赴くだけで新たな催事が知ることが出来て新鮮です」
「ああ……それは、そうかもしれないですねぇ。わたしは日本人ですけど、たまに今流行っているのは何のイベントなのかわからないことがありますもん」
「それは、日本で過ごされていても次々と新たな催事が発展していくということですか?……やはり日本は奥深いのですね」
しみじみといった様子でそう感じ入っているナユタを見て、ナマエは単純に思ったことを口に出す。
「いつか、ナユタさんと普通に日本で出掛けられたらいいのに」
「え」
「え?……あ、すみません」
ナマエは謝る。今の発言は、多忙なナユタを困らせるものでしかないと判断したためだ。
ただでさえ、執務の合間にわざわざ時間を作って共に過ごす機会を調整しているのだ。ナユタの仕事を手伝えることも出来ず、尚且つクライン王国での生活に慣れるように手配までしてくれているのに、これ以上の我が儘は言えないとナマエは自重する。
けれどナユタは嬉しそうに微笑んで。
「……まさか、あなたからそのようなお誘いを受けるとは」
「え」
「そうですね。すぐに、というわけにはいきませんが……いつか、日本へあなたと出掛けたいですね。
お忍びデートと洒落込みましょう」
「え、え!?で、デート、ですか!?」
「デートでしょう?拙僧たちは、恋仲なのですから。
……よくよく考えたら、拙僧はあなたにそうしたお誘いがなかなかできておりませんね。大してデートや旅行にも連れて行けないのですから、これでは甲斐性なしの恋人だとなじられても何も言えません」
「いえ、その、そんなことを言う気はないのですけど……」
革命を果たしたばかりの国を放ってそんなことはできないだろうということは理解している。だからそんな風に責めることはない。
ナマエはそう諭したが、ナユタは良い顔をしなかった。
「ですがそれではあなたが不憫です。理解があるから、許されているからと仕事にかまけて、気が付いたらあなたと語る思い出がないまま愛想を尽かされる、という場合だって想定しなければ」
「……そんな心配、してたんですか?」
「……実を言えば、拙僧がアマラ様と公務のスケジュール確認をしている際に言われるのです。
『ナユタ。あなた、いくら理解の深い婚約者といえど、仕事に熱中しすぎて思い出話が出来ないですって言われないようになさいね?』
……と」
その時のことを思い出しているのか、ナユタの表情は暗い。
「あまりに現実味を帯びている助言でしたので、血の気が引くのを感じましたよ…」
「で、でもほら、ナユタさん、よく散歩に付き合ってくれますし!」
宮殿で勉強ばかりに打ち込むのも良くはないと言って、時々ナユタはナマエを連れて町に下りることがある。
それだって、デートだと言えるはずだと慰めようとしたが。
「……ですがナマエさんは初めて拙僧がお誘いした時に、
『あ!町の視察ですね?ナユタさんは仕事熱心ですねぇ』
と仰いましたよ……?」
「う!」
全く慰めにならなかった。むしろ、悪化した。
しかしだからこそ、ナユタは決意を新たにできたようで。
「決めました。なるべく早くあなたと過ごす休暇(長期)を取るべく、より一層邁進いたします。ですのでどこか行きたい場所がございましたら教えて下さい」
「え、ええ!?いや、でも、無理しなくてい」
「仕事のことしか考えられなくなり、あなたを蔑ろにするほうが私には無理です。そんな男に成り果てる己が、私には無理なのです」
くんっ、とナユタは繋いでいた手を引いて、ナマエを抱きしめる。
抱き締めながら、囁く。
「……とりあえず次の休暇が取れましたら、ホースケを呼びます」
「え?王泥喜さん?」
「ええ。ホースケも、私と同じでこれまでまともな休暇を取っておりませんから、この際、共同戦線でお互いのために労働環境を整えようと持ち掛けます。
……いくら弁護士が一人だけだからと言って、現状のホースケの労働環境は『ぶらっく企業』だと訴えられても言い返せませんので」
「…………ええと、わたしに何かできることがあったら遠慮なく言ってくださいね?」
現在、これといった仕事が決められていないナマエなので、王泥喜法介に舞い込んでくる弁護以外の依頼の手伝いをしてもいいのだ。
そう提案するけれど、ナユタは「それはあまり推奨できません」と首を振る。
「これは、正式に決まったことではないので言っておりませんでしたが……アマラ様、母上はナマエさんに花嫁修業なるものを施そうと計画しております」
「え」
「更にレイファにいたっては『信頼できるから』という理由で次なるバアヤ、いえ、侍従役としてあなたを狙っております。
……私の婚約者との時間をことごとく削いでしまうのですよ、あのお二人は。悪意がないので叱ることも出来ません」
「え、あの?…わたし、」
特に、それについては拒否しません。と言いかけた口は塞がれた。
……ナユタのキスで。
「っ!?」
「……あなたは断ることはないのでしょうが、それでも少しは私の恋人としての自覚もなさいませ。仲が良いのはとても喜ばしいことですが、
…………そんなあなたを、時々無性に独り占めしたくなるのですよ」
「ひ、独り占め、ですか?」
「ええ。……私はどうやら、あなたのことになりますと狭量になるタチのようで。先日にもホースケに注意を受けましたよ」
自分の誕生日に、愛しい彼女がプレゼントの相談をしていた。
……『他の男』に。
そのプレゼントは、確かにとても嬉しくて、とても心満たされるものだったけれど……
(狭量。未熟。そして、嫉妬深い。……そう判断されることは仕方がない。自覚はしている)
そもそも彼女はきっと、本当に自分に喜んで欲しかっただけだ。だから同じ男で、好みを知っているであろう法介に相談したのだ。それを、ナユタは理解している。
その結果、ナユタが喜ぶ、彼女の『初めてのもの』を貰えた。特別な人にしかあげられない『モノ』を、彼女はくれたわけだが……
(ならば私は、あなたに何を差し上げられているのでしょう?)
「……ナマエさん」
「はい?」
ナユタの腕の中で、ナマエは見つめてくる。
無垢な瞳で。……自分を見透かされているように感じ、一時期はその視線を避けていた、けれど結局はナユタが愛しているだけだった眼差しで。
そんな彼女に。
「好きです。……大した口説き文句が言えず、情けないですが、それでも何度でも申しましょう。
……愛しております。私の、たった一人の愛しい人」
優しく、愛おしそうにナユタが告白すれば、ナマエは目を見張って頬を赤く染める。
そして何も言わずに、ナユタに擦り寄って背中に腕を回す。
(恋文では、あれほど情熱的な言葉を下さったのに)
『好き』と言えない恥ずかしさはよくわかる。けれどその代わりに、恥ずかしがりながらも抱き着いてくる彼女の、何て愛らしいことか。
(なら、この温もりだけで私には充分です)
しばらくそうして抱き合って、それからナユタは愛しい彼女を部屋まで送り届けたのだった。
後日。
「先日発売された雑誌の『クライン特集』に出てる、色々と不詳なモデルさんは誰なんだって噂されてて……
唯一明らかになってる『クライン王国に滞在中』っていう情報を元に、オレに探し出して欲しいっていう依頼が殺到してるんだけど、どうしたらいい?」
「そうした電話はクライン王国の出版社などにも殺到しているようですよ」
「……ナユタ、」
「そうした電話が殺到しておりますが、業務に差し支えるのならば無視するように伝えてあります」
「……オレの依頼は?」
「その件に関しての依頼は断りなさい。
もしどうしてもと言ってきたら『クライン王国の摂政がその件を預かっているので手出しできない』と言っておきなさい」
「…………あのさ」
「ホースケ、無責任に真実を口外しようものなら……拙僧がある程度抑制している依頼量をそっくりそのままお渡ししますが宜しいですか?」
「何でもない何も気づいてない全然気にしないから弁護以外の依頼をこれからもある程度抑制してください!!!」
「ええ、その意志、しかと受け止めました。お互いに、より良き労働環境を整えましょう」
ブラック企業並みのクライン王国の弁護士事務所は、ブラックな微笑を浮かべる検事で摂政である男によって、こうしてある程度の依頼量が安定出来ているのだった。
幸か不幸か、それからナユタの検事の仕事と摂政の公務が重なり。
ナマエに触れ損ねたという何とも言えない残念感を胸に秘めながらも、彼女は彼女でナユタと接する時間がわずかであったことがどこか安心を与えたようで、だからこそ二人がそうした雰囲気になることがなかった。
(いえ、そうした雰囲気を常に望んでいるようでは……あまりに不浄ですね)
ナマエの心の成長を実感したのだし、あまり性急なことはよろしくない。
少しずつでいいではないか、大人として僧侶としての余裕を保てば彼女の心の平穏だって訪れるのだ。
……だからこれは決して未練だとか不満とかを抱いているわけではない。決して。
そうした納得をナユタがしたのも、つかの間。
「あ、そういえばナユタ。お前の誕生日が近いから、ナマエちゃんが何か贈ろうとしてるみたいだぞ?」
「え?」
王泥喜法律事務所で、ナユタが整理し終わった裁判記録や依頼書をまとめて持ち帰ろうとした時に、幼馴染兼義弟の王泥喜法介にそう教えられた。
………誕生日?とナユタは小首を傾げる。
そして、日にちを確認してから「ああ」と頷いた。そういえばそうでしたね、とナユタが言えば法介は怪訝そうに見てくる。
「そういえば、って……気づいてなかったのかよ」
「この歳で誕生日を喜ぶのも、あまり感じなくなったもので」
「年寄りみたいだな、お前……」
「人を爺呼ばわりするのはこの口でしょうか?」
「いだだだだだだ!!?それ口じゃねぇ、髪!!髪を引っ張るな!!痛い!!」
ナユタがツノのような法介の髪を引っ張りながら「それで、誕生日にナマエさんが何ですか?」と訊く。
「あなたの誕生日でもないのに、何故あなたがナマエさんの動向を知っているのです?」
「き、聞かれたから!!ナユタが何をあげたら喜ぶか聞かれたんだよ!!」
「ほう?それで?」
「その前に、髪!!髪をいい加減引っ張るのやめろ!!」
法介の大音量の抗議の声にナユタは「騒々しいですよ」と手を離す。法介は涙目で髪と頭を撫でながら、「お前のせいだろ!!」と睨む。
「いてて……お前さ、彼女に関係することをオレが指摘すると攻撃的になるのやめろよな。いや、元々お前は攻撃的なとこあるけどさ……」
「いいから早く仰いなさい。彼女は拙僧に何を贈ろうと?」
「……それは、言わない約束してるから言わないよ。そもそも、彼女『自信ないです』って言ってたし」
「?自信がない?」
「お前にそのプレゼントを贈って、喜んでもらえる自信がないんだと。だからオレが言えるのは、ちゃんと受け取ってやれってことと、……お前がちゃんと想われてるってことだけだ」
「??」
今度はナユタが怪訝そうに見つめる番だった。法介の言葉だけではどうも要領が得ない。
ナマエに訊くべきだろうかと考え始め、しかしそこで法介に遮られる。
「とりあえず誕生日までお前は何も知らない振りでもしてろよ。誕生日プレゼントは何ですか?なんて野暮なこと訊こうとするなよ?
……自分の恋人が、ちゃんとプレゼントを準備してるってだけでその日が来るのが待ち遠しくなるだろ?」
「……確かに、そうですね」
色恋やデリカシーの欠片もない義弟だった存在にそう諭されてしまえば、ナユタもさすがに何も言えない。
だからナユタは結局自分の誕生日まで、ナマエに詳しく聞くことはやめたのだった。
ナユタの誕生日ということで、家族だけで一緒に少し豪勢な食事をすることとなった。そこには王泥喜法介も呼ばれ、和気あいあいとした、楽しい晩餐会であった。
母アマラには新しいスカーフを、妹のレイファはなんと初めて料理をし、ケーキを作ってくれた。不格好だが、味は確かでナユタが美味しいと伝えると自信満々に「当然じゃ!」と誇らしげだった。
「そのケーキはナマエが一緒に手伝って教えてくれたのじゃ!」
「そうなのですか?」
驚いてナマエを見遣ると、彼女は口元を緩めて微かに笑った。
「わたしの家では、お養父さんが誕生日を祝う時にケーキを買ってきてくれて……一緒に食べたので。
だから、逆にお養父さんの誕生日はわたしがケーキを作りました。大して立派じゃないケーキを、嬉しそうに食べてくれたので……その話をレイファ様にしたらやってみたいと頼まれたんですよ」
「そうじゃ!じゃからそのケーキはワラワの作ったモノでもあるし、ナマエの思い出のケーキでもあるのじゃ!ありがたく食べるようにな、おに、」
「?『おに』?」
ナユタが首を傾げ、レイファは顔を赤らめて俯く。
……そんなレイファの後ろで、ナマエがひそひそと何事かを呟いて、元気づけるように肩を撫でた。
レイファは顔を赤らめながら、キリっと決意した顔立ちで。
「っ、……お、おに、……っお兄様!いくら美味しいからと言って、食べ過ぎて腹を壊さぬようにな!!」
「!」
ナユタは目を見開く。初めて兄と言った妹の呼び声が、じんわりと胸を温かくさせる。
そしてその時、レイファが何度も『おに』と自分を呼んでいたことの伏線をようやく理解した。
……ここで、『レイファ様』と呼ぶのは無粋、というものでしょうね。
ナユタは薄く微笑んで、嬉しそうに答える。
「ええ、優しいお気遣いありがとうございます。……レイファ」
ナユタの兄としての言葉に、レイファは照れていたが嬉しそうに笑った。
そんな兄妹を、温かい目で『家族』は見守っていた。
そんな楽しく、嬉しい晩餐会はあっという間に終わり。
ナユタが自分の居住区へ戻ろうとする時のことだった。
「あの、ナユタさん」
躊躇いがちな声にナユタが振り向くとそこには気まずそうに立ち竦むナマエがいた。
どうしたのだろうと彼が首を傾げながら近づくと。
「……た、誕生日、おめでとうございます」
「はい。ありがとうございます」
改まって、お祝いの言葉を言われナユタは嬉しそうに答える。
そんな彼に、ナマエは何やらもじもじとしている。
「?どうか、なさいましたか?」
「……えっと、わたし、お養父さんの誕生日には、必ず手紙を書くんです。今までの感謝と、これからもよろしくお願いしますっていう願いを込めて」
「そうなのですか。それは、とても素敵ですね。きっとお父上は大層お喜びになるでしょう」
「だから、……ナユタさんにも、って思ったんです」
「拙僧に、手紙を書いて下さったのですか?」
「…………」
ナユタの言葉に、ナマエは黙り込んでしまう。
そこに疑問に感じながら、彼女の手元にある手紙に目を留めて。
「それが、拙僧の?」
「そ、……そうです、けど」
「そうですか。嬉しいです。読んでもかまわ、」
ナユタが手紙を受取ろうとする手を………ナマエはサッと避けた。
「?ナマエさん?」
「……初めて、なんです。誰かに、こんな手紙を書くのは」
「??」
「作法とか、文脈も、大した事ありません。ただ、拙くて……あまり、見せられたものではないんです」
「そうしたことはあまり気になさらないで宜しいのですよ。手紙とは、気持ちが重要なものなのですから」
「……その、気持ちが……ほんとに、拙いんです」
「……どういう意味ですか?」
いまいちナマエが何を言いたいのか察することができない。
ナユタにとっては、ナマエが書いた手紙というだけでも重要なことだ。養父だけでなく、自分の誕生日にも手紙を贈ろうとする彼女の優しさが酷く嬉しく、愛おしく思う。
けれどナマエは手紙を渡すことに、何やら酷く抵抗感を示している。
それに。
(何故、こんなにも恥ずかしそうにするのでしょうか?)
他人に手紙を寄越すことはそれほど羞恥することだっただろうかと思うナユタの疑問に、しばらくするとナマエはようやく話してくれた。
「あの、
…………ラブレター、なんて……わたし、初めて、書いたんです」
「………………は?」
ナユタは目を丸くさせる。ラブレター。つまり、恋文ともいう。
一般的に、懸想をしている想い人に宛てる手紙で、特別なものだ。
それを、ナマエは『初めて』書いた。
ナユタの誕生日に、『ナユタのため』に。
__『恋人のナユタに贈るため』に。
「あ、あの、……こんなもので、がっかりさせてすみません。……これ、部屋に戻ったらよん、」
そう言って手紙を渡すナマエの手ごと掴んで、ナユタは自分の部屋へ向かって歩き出した。
「え、あ、あの、ナユタさん?」
「狡い方ですね」
「え」
「……本当に、あなたは狡い」
ナユタはそれだけしか言えない。
……他にも、言葉は頭を駆け巡っているのに、気の利いた言葉ひとつ言えなかった。
ただ、このままナマエを帰すことだけは、どうしてもできなかったのだ。
「あの、ほんとに、ほんとに……大したこと書いてないんです!短いし、拙い言葉しかなくて、」
ナマエが必死に目の前で読まないでほしいと嘆願するが、ナユタは聞かなかった。
自室のソファーにナマエを隣に座らせて、そして彼女からのラブレターを読むことを断行した。
綺麗な便せんに、ナマエが練習して書いた綺麗なクライン語で綴られた文章がある。
一枚だけにしか書かれていない、彼女が言う『拙いモノ』をナユタは読んでいき……そして嬉しそうに微笑む。
………どこが、拙いというのでしょう。
『恋を知らなかったわたしに、恋を教えてくれたあなたへ』
『ずっと気づかないでいてごめんなさい。あなたの想いに向き合わなかった時間を返してあげられなくてごめんなさい』
『ただ、このわたしの〈好き〉という想いがこれからのあなたを彩ることができたら。少しでも想いに報いることができるなら』
『それだけで、わたしは幸せです』
『これからも、どうかたくさんの〈好き〉が訪れますように』
「……これほど素敵で、嬉しい恋文を貰ったのは初めてです」
「え、……でも、」
「何でしょう?」
「…………ナユタさんは、ラブレターを貰ったこと、あると思ってたので」
「どなたかが、そう言っておりましたか?」
「いえ、……勝手な、想像です」
「そうですね……」
ナユタはナマエからのラブレターを丁寧に指でなぞってから、綺麗に閉じながら答える。
「国際検事となり、その先で何度か連絡先が書かれたメモを女性に渡されそうにはなりましたね」
「そう、ですか」
「ですが受け取ったことはございません。たまに書類に紛れて渡されたことがありましたが、それも処分いたしました。
……答える気がございませんでしたので」
「……じゃあ、わたしのものは、いいんですか?」
「何故ご自分のものは駄目だとお思いになるのですか?」
「え、だって」
「ナマエさんのこの恋文はきちんと受け取りますよ。……応える気があるのですから」
微笑みながらそう言ってのけるナユタに、ナマエは目を丸くさせる。
そんな彼女を見つめながら、楽しそうに話す。
「と言いますか今でなくても、たとえ革命前でも日本の検事局で、もしあなたに恋文を頂いていたら……処分しようなどと考えもしなかったでしょうね。
ただ、どうやったらあなたの想いに応えられるのか、頭を悩ませておりましたよきっと」
「……そう、ですか?」
「ええ。……これほど情熱的に口説かれては、拙僧も情けなく狼狽したでしょうとも」
「う、……恥ずかしいので、あんまり内容について触れないでください」
かぁ、とナマエの頬が赤く染まり、視線を避けるように手で顔を隠してしまう。
__わかっておりませんね。
ナユタはナマエが手で顔を隠していることを良いことに、ひっそりと笑う。
こんなに自分を男として意識していながら、彼女は男に対しての危機感がまるで足りていないと。
それはきっとナユタが優しい大人で、綺麗なモノだと信じているからだ。
(教えなくてはなりませんね)
夜分に、自分を恋い慕う男の部屋に連れ込まれたら……どうなるのか。
「ナマエさん。ひとつ、お教えしておきましょう」
「?」
「いくら信頼しているとはいえ、男の部屋に何の危機感も抱かずに入ってはいけませんよ」
「え、でも」
「『ナユタさんは良い人だから』。それだけでは、駄目です。
……大人だから、そんな下心とは無縁そうだからと思い込んで、あなたを恋い慕う『男』の私が何もしないという保証は確約できないのですよ。
言ったはずでしょう?……『絶対』などないのですよ」
「……、……っ!?」
ナユタの言葉を今思い出したかのようにナマエはあからさまに身を引いた。
しかしその距離を、すぐにナユタが肩を抱き寄せて詰めてしまう。
「……ですから、今後はこのようなことは軽率になさいませんように。約束、できますか?」
「っ、は、ぃ……っ」
「良いお返事です。……では、『先日の続き』をさせて下さいませ」
「?『先日の続き』?」
「お忘れですか?……私は、あれほどのお預けを喰らったのはなかなかありませんでしたので、ずっと心残りでしたのに」
「……、……おあずけって?」
ナマエの、本当に不思議がる顔を見つめて、ナユタは微笑んで見せる。
「……初めての恋文も嬉しかったのですが、私としては『こちら』も欲しいのです」
そう告げて、ナユタはナマエの唇を親指でなぞった。
唐突なことに彼女は目を見開いて、身体を硬直させる。
だけど嫌がる素振りはなく、ただ、恥じらいだけが身体を支配しているようだった。
そんな彼女を、甘い眼差しで見つめて。
「……駄目、でしょうか?」
「……っ、だ、だめ、というか」
ナマエは困惑しつつも、自分の唇をなぞるナユタの手に触れる。
「……キス、したことないから、やり方とか、わからないです」
「……ふ」
「!わ、笑わないでください…どうせ、わたしは経験不足ですよ」
「違うのです。馬鹿にしたわけなどではありません。
……私の恋人は、本当に可愛らしくて初心だと思ったのです」
ナユタは甘く微笑んで、ナマエの頬を優しく手で包むと。
「さて……目を閉じて、私を信じて委ねて下さりますか?
……それとも見つめ合ったまま、口づけても?」
「っ!」
きゅう、と素直に目を閉じるナマエに、ナユタは愛しさを込めてそっと口づける。
柔らかく、そしてどこか甘いのは最後にケーキを食べた残り香だろうか。それとも愛しい彼女に触れているという幸福に酔って、甘く感じているのだろうかとナユタは思う。
「……っ、」
「……息を止めなくともよいのですよ。唇を塞いでいるだけなのですから」
言外に鼻で息をしろと助言をし、もう一度口づける。
角度を変えて、唇を食めば、強張っていたナマエの身体が徐々に解けていく。
そして手持ち無沙汰だった彼女の手が、おずおずといった様子でナユタの背中に触れた。
「ふ、ぅ……んっ、」
「ん……、……はぁ」
『もう限界だ』と言うように背中を掻かれたので、唇を離す。
……服を脱いでいたら、引っ搔き傷でも出来ただろうかと考え、ナユタは思考を中断させるように一度、目を閉じる。
(それ以上想像したら、どうにかなってしまいそうです)
「……ナユタさん、キスしたことあるんですか?」
「ございませんが、何故そのようなことを?」
「……緊張とか、してないように見えて」
ナマエの言葉に、ナユタは薄く微笑んでから自分の腕の中に閉じ込めるように抱きしめる。
そして彼女の耳が自分の胸に、……早鐘のように鼓動している音が聞こえるようにして、
「……私も、緊張はしますし余裕などないのがお分かりになりましたか?」
「……は、はい…」
「分かれば宜しいのです。……それにしても、愛しい人と口づけを交わすというのは、忍耐力が試されますね」
「?忍耐力、ですか?」
不思議そうに見つめてくるナマエに「こちらの都合です」とナユタは曖昧に誤魔化す。
触れれば触れるほど、『もっと、ずっと』と欲深くなっていく。
愛し合う者同士なのだから、という理由でこれ以上性急な真似をしないためにナユタは「部屋までお送りいたしましょう」と手を差し伸べた。
「……日本で見る月とクライン王国で見る月は、違いますね」
宮殿内の廊下を歩いていると、丁度外の庭の様子が見える場所でナマエがそんなことを呟いた。
その呟きに、「そうですね」とナユタが言葉を返す。
『部屋まで送る』と言っておきながら、まだ離れがたくて。手を繋いだまま、月を見上げる。
「拙僧は、日本ではあまり月の美しさに目を留めていなかったのですが……こうして見ると違うものですね。
ナマエさんは、どちらの月がお好きですか?」
「ううん……見慣れているのは日本ですけど。どっちが好きとかは、特にないですよ。
ただ、月の呼び方にも色々あるのが面白いと思って、そういうものをよく調べていた時がありました」
「そうなのですか?」
ナユタが「例えば?」と興味を示すと、ナマエは月を見上げながら。
「例えば、満月にも他の呼び方があって、『望月』って言うとか。その時の月の状態や時期で色々呼び方があるみたいです。他にも、空や雨とか……桜にも呼び方があったかな?
……昔の人のほうが想像力や表現力があるんだなぁって思いました」
「成る程。……そういう意味でも、日本語は難しいところがございますよね。拙僧は日常会話は何とか習得に至りましたが、まだまだ日本について知らないことが多いですし」
「例えば、何が知りたいんですか?」
今度はナマエがナユタに訊く立場になる。
ナユタは「そうですね」と少し考え込んで、
「日本固有、というわけではありませんが……日本はとても多くの、知らない行事があることが不思議でしたね。クライン王国はクライン教だけですので、新たに行事を作るということが少ないのです。
ですので、日本へ赴くだけで新たな催事が知ることが出来て新鮮です」
「ああ……それは、そうかもしれないですねぇ。わたしは日本人ですけど、たまに今流行っているのは何のイベントなのかわからないことがありますもん」
「それは、日本で過ごされていても次々と新たな催事が発展していくということですか?……やはり日本は奥深いのですね」
しみじみといった様子でそう感じ入っているナユタを見て、ナマエは単純に思ったことを口に出す。
「いつか、ナユタさんと普通に日本で出掛けられたらいいのに」
「え」
「え?……あ、すみません」
ナマエは謝る。今の発言は、多忙なナユタを困らせるものでしかないと判断したためだ。
ただでさえ、執務の合間にわざわざ時間を作って共に過ごす機会を調整しているのだ。ナユタの仕事を手伝えることも出来ず、尚且つクライン王国での生活に慣れるように手配までしてくれているのに、これ以上の我が儘は言えないとナマエは自重する。
けれどナユタは嬉しそうに微笑んで。
「……まさか、あなたからそのようなお誘いを受けるとは」
「え」
「そうですね。すぐに、というわけにはいきませんが……いつか、日本へあなたと出掛けたいですね。
お忍びデートと洒落込みましょう」
「え、え!?で、デート、ですか!?」
「デートでしょう?拙僧たちは、恋仲なのですから。
……よくよく考えたら、拙僧はあなたにそうしたお誘いがなかなかできておりませんね。大してデートや旅行にも連れて行けないのですから、これでは甲斐性なしの恋人だとなじられても何も言えません」
「いえ、その、そんなことを言う気はないのですけど……」
革命を果たしたばかりの国を放ってそんなことはできないだろうということは理解している。だからそんな風に責めることはない。
ナマエはそう諭したが、ナユタは良い顔をしなかった。
「ですがそれではあなたが不憫です。理解があるから、許されているからと仕事にかまけて、気が付いたらあなたと語る思い出がないまま愛想を尽かされる、という場合だって想定しなければ」
「……そんな心配、してたんですか?」
「……実を言えば、拙僧がアマラ様と公務のスケジュール確認をしている際に言われるのです。
『ナユタ。あなた、いくら理解の深い婚約者といえど、仕事に熱中しすぎて思い出話が出来ないですって言われないようになさいね?』
……と」
その時のことを思い出しているのか、ナユタの表情は暗い。
「あまりに現実味を帯びている助言でしたので、血の気が引くのを感じましたよ…」
「で、でもほら、ナユタさん、よく散歩に付き合ってくれますし!」
宮殿で勉強ばかりに打ち込むのも良くはないと言って、時々ナユタはナマエを連れて町に下りることがある。
それだって、デートだと言えるはずだと慰めようとしたが。
「……ですがナマエさんは初めて拙僧がお誘いした時に、
『あ!町の視察ですね?ナユタさんは仕事熱心ですねぇ』
と仰いましたよ……?」
「う!」
全く慰めにならなかった。むしろ、悪化した。
しかしだからこそ、ナユタは決意を新たにできたようで。
「決めました。なるべく早くあなたと過ごす休暇(長期)を取るべく、より一層邁進いたします。ですのでどこか行きたい場所がございましたら教えて下さい」
「え、ええ!?いや、でも、無理しなくてい」
「仕事のことしか考えられなくなり、あなたを蔑ろにするほうが私には無理です。そんな男に成り果てる己が、私には無理なのです」
くんっ、とナユタは繋いでいた手を引いて、ナマエを抱きしめる。
抱き締めながら、囁く。
「……とりあえず次の休暇が取れましたら、ホースケを呼びます」
「え?王泥喜さん?」
「ええ。ホースケも、私と同じでこれまでまともな休暇を取っておりませんから、この際、共同戦線でお互いのために労働環境を整えようと持ち掛けます。
……いくら弁護士が一人だけだからと言って、現状のホースケの労働環境は『ぶらっく企業』だと訴えられても言い返せませんので」
「…………ええと、わたしに何かできることがあったら遠慮なく言ってくださいね?」
現在、これといった仕事が決められていないナマエなので、王泥喜法介に舞い込んでくる弁護以外の依頼の手伝いをしてもいいのだ。
そう提案するけれど、ナユタは「それはあまり推奨できません」と首を振る。
「これは、正式に決まったことではないので言っておりませんでしたが……アマラ様、母上はナマエさんに花嫁修業なるものを施そうと計画しております」
「え」
「更にレイファにいたっては『信頼できるから』という理由で次なるバアヤ、いえ、侍従役としてあなたを狙っております。
……私の婚約者との時間をことごとく削いでしまうのですよ、あのお二人は。悪意がないので叱ることも出来ません」
「え、あの?…わたし、」
特に、それについては拒否しません。と言いかけた口は塞がれた。
……ナユタのキスで。
「っ!?」
「……あなたは断ることはないのでしょうが、それでも少しは私の恋人としての自覚もなさいませ。仲が良いのはとても喜ばしいことですが、
…………そんなあなたを、時々無性に独り占めしたくなるのですよ」
「ひ、独り占め、ですか?」
「ええ。……私はどうやら、あなたのことになりますと狭量になるタチのようで。先日にもホースケに注意を受けましたよ」
自分の誕生日に、愛しい彼女がプレゼントの相談をしていた。
……『他の男』に。
そのプレゼントは、確かにとても嬉しくて、とても心満たされるものだったけれど……
(狭量。未熟。そして、嫉妬深い。……そう判断されることは仕方がない。自覚はしている)
そもそも彼女はきっと、本当に自分に喜んで欲しかっただけだ。だから同じ男で、好みを知っているであろう法介に相談したのだ。それを、ナユタは理解している。
その結果、ナユタが喜ぶ、彼女の『初めてのもの』を貰えた。特別な人にしかあげられない『モノ』を、彼女はくれたわけだが……
(ならば私は、あなたに何を差し上げられているのでしょう?)
「……ナマエさん」
「はい?」
ナユタの腕の中で、ナマエは見つめてくる。
無垢な瞳で。……自分を見透かされているように感じ、一時期はその視線を避けていた、けれど結局はナユタが愛しているだけだった眼差しで。
そんな彼女に。
「好きです。……大した口説き文句が言えず、情けないですが、それでも何度でも申しましょう。
……愛しております。私の、たった一人の愛しい人」
優しく、愛おしそうにナユタが告白すれば、ナマエは目を見張って頬を赤く染める。
そして何も言わずに、ナユタに擦り寄って背中に腕を回す。
(恋文では、あれほど情熱的な言葉を下さったのに)
『好き』と言えない恥ずかしさはよくわかる。けれどその代わりに、恥ずかしがりながらも抱き着いてくる彼女の、何て愛らしいことか。
(なら、この温もりだけで私には充分です)
しばらくそうして抱き合って、それからナユタは愛しい彼女を部屋まで送り届けたのだった。
後日。
「先日発売された雑誌の『クライン特集』に出てる、色々と不詳なモデルさんは誰なんだって噂されてて……
唯一明らかになってる『クライン王国に滞在中』っていう情報を元に、オレに探し出して欲しいっていう依頼が殺到してるんだけど、どうしたらいい?」
「そうした電話はクライン王国の出版社などにも殺到しているようですよ」
「……ナユタ、」
「そうした電話が殺到しておりますが、業務に差し支えるのならば無視するように伝えてあります」
「……オレの依頼は?」
「その件に関しての依頼は断りなさい。
もしどうしてもと言ってきたら『クライン王国の摂政がその件を預かっているので手出しできない』と言っておきなさい」
「…………あのさ」
「ホースケ、無責任に真実を口外しようものなら……拙僧がある程度抑制している依頼量をそっくりそのままお渡ししますが宜しいですか?」
「何でもない何も気づいてない全然気にしないから弁護以外の依頼をこれからもある程度抑制してください!!!」
「ええ、その意志、しかと受け止めました。お互いに、より良き労働環境を整えましょう」
ブラック企業並みのクライン王国の弁護士事務所は、ブラックな微笑を浮かべる検事で摂政である男によって、こうしてある程度の依頼量が安定出来ているのだった。