ふたつめ
ひとそうどう
おひるねの庭にやってきて、そろそろ一か月くらいになるだろうか。
普段は廊下でもお昼寝している子がいるくらい平和だけど、今日はそうもいかない。
今日、保護されたばかりの子が来ると灯火が言っていた。灯火にしてはかなり緊張した面持ちで、ゆっくりと告げられた言葉だった。
みんなを部屋に入れて、先生はそれに付き添う。だから今、その子を迎えているのは責任者の灯火と怪我などの為に八鐘、そして私だけだ。
鎮静剤で眠っているその子の顔は、とても静かだった。血色が悪い肌、汚れた手指、洗っていないのがわかるくらい重たそうな髪。体には暴れないように拘束具が巻いてあって、私には居心地が悪い。それがお互いにとって必要な境界線だとわかっていても。
不良と呼ばれる子たちは裏に住んでいる亜人をさす事がほとんどだ。その多くは、暴力に晒されながら暴力に頼って生きている。そういう子たちが、何かの拍子に露出して、一時的に保護される事がある。それが、今回。この事実を、さっきから何回も繰り返している。
立ち会うことは初めてではない。それでも緊張するのは、私がどうすればいいのかがわかっていないから。私が迎えに選ばれたのは、丈夫な体を持っているからだと思う。理由は聞いていない。
「ンート、そろそろ起きると思うよ。拾いたてホヤホヤだからガッツリ寝てるかもしれないけど」
八鐘が時間を確認して言った。普段安心して休むことが出来なかった子は、鎮静剤や睡眠薬などが効きすぎて寝続けることがあったと思う。灯火はずっと緊張している様子だけど、八鐘の方はいつも通りに見えた。裏の病院で働いていた八鐘にとっては、そこまで珍しい相手でも無いんだろうな。
「顔合わせの時、元気すぎると大変なんですけれどね……」
「まあねえ。ていうかどうするんだい灯火先生よう。一時保護受け入れちゃった後に送り返す事になったら辛いでしょ」
「それはそうなんですけど」
送り返す。嫌な言葉に耳を塞ぎたくなるのを我慢する。
どう努力しても、慣れることが出来ない子がいる。どこにも居場所がない世界に連れてこられ、帰すわけにもいかないとなれば、殺処分される。引きずりだされて、殺されてしまう。この子は死んでしまうかもしれない。私にできる最善って何なんだろう?と頭の中で言葉だけがぐるぐると回って、全然イメージが湧かない。
私は誰かの為に行動することが苦手だ。何を考えているのか想像するのが苦手だ。だから、自分がやりたい行動が好まれる場所を選んで、今ここにいる。全部自分の想像で動いて、今までどうにかしてきてしまった。
「ねえ灯火せんせ、ススでよかったの?すっごい緊張してらっしゃる」
逃げたいけど逃げたくない複雑な感情を持っていることが伝わるだろうか。
「適任だと、思っているんですけれど……スス?」
初めてではないけど、本当に、慣れない。
「この子の為に、何をしたらいいんだろう」
ぼそぼそとした声が肺から漏れた。
「んまあ」
八鐘は、なんだか予想していなかったと言いたげな声を上げた。いや、私が予想していない声だっただけ。
「ススは怖かったわけじゃないんだ?」
「こわいよ、この子が落ち着いてくれなかったら、きっとこの子は死んでしまう」
そういう話じゃないの?と訴えるように二人を見てみると、なんというか。やっぱり、そっちなんだ?と言うような目だった。
「あーまあ、ススは体が丈夫だから襲われる恐怖って薄いのか」
あ。いや、そっか。それは、ある。それはある。でも、会話する為に、あの子には犬がつける口輪みたいなマスクがついてる。体も拘束されているから怪我の心配はまずないのに、体の心配をする必要はないんじゃないかと思う。
「襲われるぐらいじゃ死には……」
「私、痛覚はちゃんとあるよ」
そういう話じゃないよ、という意思表示をしてみる。
「痛いよ。骨が折れるのも肉がえぐられていくのも、でもだって、そんなのどうだっていい」
触れて、抱きしめたい。そうしたらお風呂に入れて綺麗にして、あったかいごはんをゆっくり、おなかいっぱい食べてもらって、やわらかくて綺麗なシーツで眠ってほしい。
でもそれは全部、私の願望でしかない。この子がどうかはわからない。そんなもの求めてないかもしれない。そうしたら私は、どうしたらいいんだろう。
落ち着こう。一旦。
「なるほど適任」
「でしょ……ススは、自分の事よりこの子たちを想ってくれる」
自分勝手なだけ、とは言わない。多分言っても仕方ない。
一旦全部、無しにしよう。
目を閉じて、自分を体と切り離すみたいに。遠くにやる。
三つ数えて、戻ってくる。
ちょっとだけ、言葉が片付いた。
「あ」
八鐘の声が、違う。顔を上げる。
上げたかったんだけど。
私が一番近かったんだと思う。緊張しすぎてよくわかってなかったけど。
目の前に、敵意をむき出しにした瞳が鈍く光っている。結構な勢いで体当たりされて、背中が痛む。私で良かった。こういう時に一番してはいけないことが大きな声を出すこと。誰も何も言わなくて、よかった。
「おはよう」
言葉は通じるかな。敵意の奥、溢れんばかりの果汁みたいに、唸り声が耳に届く。
「今の君は、人間に保護されてる。私の言葉が届いている?」
微かに、何かの言葉に反応した。ぴくりと体が動いた。言葉は通じている。
「君を害するものはないよ、と信じられないと思うけど。ここには、ないよ。君が誰かを殺さないように体を縛っているんだ」
出来るだけゆっくりと、話してみる。信じろって言われても無理があると思うけど。
「君がここで誰かを殺すと、君は人間にもう一度捕まって、今度こそ殺される」
殺される、に強く反応した。私を壁に押し付けている力が強くなって、体が軋んだ。
「死にたくないと思う。私たちも君を殺したくない。だから、取引しない?」
「信じると?」
掠れた声だった。お水あげたい。
「信じなかったら、君はどうする?」
「全員殺して逃げてやる」
少し聞き取りにくい。たくさん叫んできたのかな。かっこいい声。
「その拘束、壊せる?」
返事はない。身じろぎして、私の体が更に壁にめり込もうとする。もぞもぞと動こうとして、動けないことに苛立ったのだろう。一瞬離れて、また体をぶつけてきた。
「信じなくていいから、取引の内容を聞いてみない?」
「黙れ」
唸り声交じりの言葉。鎖でどこかにつないだところで、繋いでいるものが壊れるだろうから動けるようにしていたけど、正解だったと思う。この力だったら間違いなく壊れて、無駄に修繕費がかかるだけだ。こうやって体当たりしか出来なくさせるのが、一番安全。人体は意外と丈夫だし、勝手に治る。
「私たちは君への衣食住を約束します」
灯火の声だった。それはさっきまで緊張していたのが嘘みたいに、凛と強い声。反応しかけたから飛んでいかないように抱きしめたら、そっちの方が気になってくれたみたいでもう一回体当たりされた。壁にがん、とぶつかるたびに骨への負担を感じる。
「清潔な衣類、清潔な水で体を洗える場所。安全で温かな食事を三食。屋根がある寝床。このすべてを約束します。もし貴方が、約束を破ったと感じたら私を殺してもいい」
「殺したらおれが死ぬ」
「はい。だから私たちはその約束を守ることを誓います」
返事はしない。唸り声だけ。私の方は抱きしめられてちょっと落ち着いている。
「これは取引です」
「おれに何を求める」
「ここにいることです」
「は?」
純粋な驚きだと思う。敵意も恐怖も無さそうな声だった。本当に、何だ?と言いたげに身じろぎした。
「ここに居て、生活することです。ここには他の亜人や、私たちのような人間がいます。仲良くしろとは言いません、言う事を聞けとも言いません。私達から貴方に求めるのは、ただここにいて生活すること」
「不公平だ」
「いいえ。これが全てです」
しばらく、静かになった。
これだけ攻撃的な子にしては、静かに話を聞いているのは珍しい気がした。嘘だうるさいと暴れ続ける子がほとんどだったと思う。この子は、どこかで探していたりしたのかな、安全な場所を。
「そんな、話」
灯火は答えなかった。この子の声が静寂に消えていく。
この子は一言も喋らなかった。私が触る事にも抵抗せず、ただ敵意のこもった目でずっと、全てを睨んでいた。
「灯火、八鐘。口の、外していいですか」
二人が静かにうなずいたので、私は口を覆っていたものを外した。
ら。
例えるなら、切れ味の鈍い包丁を勢いよく叩きつけたような感じだろうか。
予想はしていた。この子が私の腕を勢いよく噛んだ。すぱんと切れてしまうほどの切れ味はないにしろ、その圧と牙がじわじわと肉を裂いて、私の腕の中に侵入していく。
「いたい」
素直な感想を伝えてみる。
一瞬、力が強くなったけれど、すぐに弱まって、ゆっくりと離された。敵意はないと伝えるために、一切抵抗はしない。
「君の気が済むなら、私を咬みちぎってもいい。私は亜人で、死ににくい。けど、そこの二人や、ここに住むほかの人を殺してしまったら、君は殺される」
敵意の瞳は、私を見上げている。
「君を攻撃するものはいないよ。信じなくていい、ただ君には選択肢がないだろう。だから、ここを利用するつもりでいたらいい。気に食わなかったら、全部を道ずれに死んでしまえばいい」
「おれ……は。何をさせられる?」
「ここに縛られること」
「いけにえにでもするか?」
「そう、いけにえだよ」
睨まれた。そりゃそう。
「君はここで生活しなきゃいけない。ここで安全に暮らしてほしいって願う、私たちの勝手な願望のいけにえになる」
じぃっと、暗い赤色の瞳が私を見上げて。
なんというか、疲れたと言いたげに体の力を抜いて倒れた。意識はある。二人に確認をとりつつ、一つ一つ拘束具を解いていって、全部無くなってもなお、この子は動かなかった。
不良の子を迎えるにしては、驚くほど穏便に終わった。
あれからというもの、かろうじて聞き出せたのは柊という名前だけだった。立ち会った以上どうしても気になってしまうから隙を見ては会いに来ているけれど、ほとんど動こうとしなかった。まるで人形のように脱力している。
「柊、お腹すかない?」
お風呂に入れるときも一切動かなかったし、ご飯も自主的に食べない。これはこれで、ちょっと問題というか、心配だった。脅すように取引だなんだと言ってしまったのが原因だったら、どうやってそれをほどけばいいんだろう。
柊は、私に目を向けるだけ。横になっている柊に、私がしゃがんで目線を合わせると見てくれる。
「柊。嫌なことがあったら、教えてね。してほしいことがあったら教えてね。私たちは柊を好き勝手したいから迎えたんじゃないんだ」
「なら、なに」
しゃべった。
返事が来るとは思っていなくてびっくりした。
「好き勝手してる柊が見たいから。もちろん、動きたくなかったらそれでもいいんだ。でも、我慢はしなくていいからね」
「灯火とかいうやつを、殺してもいいのか」
「いいけど、君は死ぬと思うよ」
「ほらな」
面倒臭そうに瞳を閉じられてしまった。
急いでも仕方ない。わかっているはずだ、私は。根付いてしまったものは無くならないのだ。せめてこの子が、凍えたり飢えたりしなければそれでいい。
「また来てもいい?」
ちょっと待っても、やっぱり返事はない。
「また来るね」
そういって、柊が寝かされている個室から退出した。四階、みんなが眠る部屋の中にある小さな個室。出てもいいとは伝えてある。あとは、その日がいつか来ることを願うだけ。
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