ひとつめ
しんや
二人を見送ってから、離れの二階をざっくりと見ることにした。のぼってすぐ、もらったリストと同じ表が掲示板に貼ってあるのがすぐにわかった。しばらくは覚えきれないし、コピーを貰えたのは有り難かった。灯火たちの帰り際に早口で説明された通り、居住用のスペースになっているようでいくつか部屋があり、私の名札が掛かった部屋を自由に使っていいとのことだ。階段のすぐ近くにある部屋に名札が掛かっていて、出入りしやすい部屋を私が……と何とも言えない気持ちになる。
中は簡素で、狭い。ベッドと書き物机とクローゼット、シェルフ。これだけでほとんど空きがない狭さだったが、このくらいが一番落ち着く。と言っても私にはほぼ手荷物がなく、先に送っていたボストンバッグがちょこんとベッドの上に置かれているだけ。中身は幾つかの着替えと、所持金に関わるものだけ。元々定住するには向かない身分なので、身軽が一番だ。
他に見るものも無さそうなので本館に戻ろうと部屋を出ると、ちょうど部屋から出てきたらしい成祈が居た。
「あ、ススせん……さん?ススでもいいですかね?」
「そのほうが嬉しい」
成祈は、はい!と人懐こそうな笑みを浮かべた。
「成祈は夜?」
「すね!仮眠してました。最近は夜中に居られるの俺しかいない日が多くて不安だったんで、ススが来てくれてほんと良かったです」
話しながら、一緒に一階に降りていく。
「そういえば、カンも通ってる人?」
さっきシフト表のある場所を教えてもらってたけど、見るの忘れてた。
「カンは住み込みすね。あん人、部屋に戻らないで寝てること多いんですよ……朝早いんでとっくに寝てると思います、風呂終わると大体」
成祈は話しつつ、台所の横にある冷蔵庫を開けて炭酸飲料らしきものをぷしゅっと開ける。その音で起きたのか、木箱からゴトッと鈍い音がした。
「ん?あ、ぽんのすけ」
あの子、ぽんのすけというのか。成祈が木箱に近寄って覗くと、目にも留まらぬ速さでビンタが飛んだらしく成祈のダメージボイスが聞こえた。
「あたりつよくない!?」
「なでな」
「なんで叩いたの!」
と言いつつ、成祈はしっかりと灰色がかった水色の髪をもしゃもしゃと撫で回していた。
「ぽんのすけ、ススに挨拶した?人見知りしてたら仲良くなれないっすよ」
「さっき雨丸といたひと。あいさつしてない」
そこまで聞いてやっと、私もしていないことを思い出して近付く。
「ごめんね、さっきも居たのに。私はスス、仲良くしてくれると嬉しいよ」
「ん。ぽんのすけ。ねこ。にゃーん」
木箱の中でしゃがむと、漫画やアニメで見るような捨て猫像が浮かぶ。勝手にいたたまれない気持ちになって私も撫でるのに参加した。
また寝る姿勢になったぽんのすけと、軽食をとるという成祈をそのままにして離れを出た。
当たり前だが外は真っ暗で、道を示すために置かれている小さな明かりと本館にちらほらついている明かりだけが頼りだった。導かれるままに本館に戻る。そういえば、カンが眠るのが早いなら、それなりの時間実質的に管理者が不在だったのではないか。
と、思っていたがもう一人居たらしい。表を見ていないので何人いるのかも把握できてないのはよくないな、後でちゃんと見よう。
「お疲れ様です」
ちゃんと挨拶をしてみる。その人は遊び場で寝ている子たちを眺めていた。
「ん?ああ……ふふ、きみがススくん。僕はエンジェル」
エンジェルという人は、鮮やかなマリーゴールドのような髪を持っていた。私に向けられた瞳は貫くような青色。見た目の印象は、強そう。
「はい、ご挨拶が遅れてしまってすみません、エンジェル先生」
「先生……ううん、灯火から聞いているから。楽にしてくれ、というか手伝ってくれ。この子たちを部屋に運びたいんだ」
「もちろん。私、部屋割りをまだ覚えていないんだけれど、教えてもらえるだろうか」
「そのつもりだよ。好きな子を抱っこしてついておいで」
そういわれたので一番近い子を抱き上げると、物音と話声で半分ほど覚醒した子が数人居た。その子たちを連れて、ゆっくりと四階にまで上がる。半分寝ていそうなのに危なげなく階段をあがっていくのは流石である。
それを何度か繰り返すと、遊び場にいた子たちはみんな部屋に収納された。二階、三階と見回りをして、くっついて寝ている子たちやソファの上などで眠っている子はそのままに、床や机に突っ伏して寝ている子を拾い上げて部屋に戻す。これも夜勤の仕事としてはよくある。
それにしても、意外にも起きている子も多かった。ここでは夜も無人でない限りは電気を落とさないらしく、二階で本を読んでいる子や三階で遊んでいる子もちらほらいる。夜の方が元気な子もいるし、眠れない子もいるし、そういえば夜間の預かりもやっているんだっけ。ここへの信頼度がまた上がっていく。
「うん、これでいいかな。助かったよ、ススくん。ふふ……あ、成祈先生は見たかい?」
運び終わった四階の廊下で、エンジェルが背伸びをしながらそう言った。少し笑っていたのは何故なんだろう。
「うん、軽食を食べてくるって」
「そうか。あの人は寝坊が多いものだから」
「そうなんだ……」
なんというか、まだよく知らないのに成祈っぽいなあ、と思ってしまった。流石に失礼だな。
「この後は何を?」
「ん?いや、夜中で音を立てるわけにはいかないからね。基本的には一時間ごとに巡回をしつつ、起きている子と遊んでいるよ」
よかった、基本はほかの施設と一緒みたいだ。
「ススくん、気を付けるんだよ」
「え?」
不穏な言葉を聞き返せば、エンジェルは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「夜は悪戯が好きなちびっ子の庭になるぞ」
思わず笑うと、エンジェルも笑ってくれた。私の性格上、あまり気の強い人とは相性が良くないのだけれど、エンジェルは大丈夫な気がする。
「あ、エンジェル。個人的なこと聞いても良い?」
「うん?何だろうか」
「エンジェルは人間?」
別に区別したいわけではないが、純粋な興味だった。その身に纏うものが今日出会った人たちとはどこか違う。皆とも、先生たちとも違うもの。エンジェルは、ふむ……と私を見下ろす。こうやって向かい合うと、ずいぶん背が高い人だ。そして、異様に思えるほど美しい。
「君も亜人だったね。君は自分の種に思い入れはあるか?それが良いものでも、悪いものでも」
「思い入れ……」
思い入れ。何かあるのかな。死なないことで受け入れたものはたくさんあるけれど、長く生きてよかったと思ったこと、あるのかな。じっと考えてみる。
ぐる。ぐるぐると。思い出せる限りのことを。
ばらばらに散った記憶たち。相変わらずマグカップが割れた日を思い出せない。
「スス?」
はっとした。
泥沼の中に沈んでいたような、よくわからない疲労感がある。エンジェルは変わらずに私を見ていた。
「多分、ない」
記憶だけがあった。川底にたまる泥や砂のように、溜まっていった記憶。私は常に満たされていたようにも感じるし、何もなかったかのようにも感じる。
自分のことについてあまり考えていたくなかった。得がない。
「そ、そう……すまない、大丈夫かい?」
「あれ、私そんなに、おかしかったかな」
「いや……大丈夫ならいいんだ。私もね、自分の種に思い入れがないんだ。まだ、自分が何であるかを定めたくない」
何であるかを。
私は何でもいいけれど、この人は何かでありたいのかな。私と近くて、反対の人。
「そっか。教えてくれてありがとう」
すると、エンジェルは何かが引っこ抜けたかのような顔をした。
「不誠実な対応をしたのに、君は礼を言うのか」
「言いたくないことはそれでいいとおもう……理由も教えてくれた。会ってすぐに聞く話じゃなかった、ごめん」
エンジェルは不思議そうにしていた。もしも親しい相手なら違うかもしれないけれど、出会って数十分の相手の事を執拗に気にする方がよっぽどおかしい。聞いた私が思うのもなんだけれど、そんな私にきちんと話してくれたのはとても誠実な対応ではないだろうか。
私の返事を聞いたエンジェルは、ゆっくりと目をそらしてそっぽを向いてしまった。まあ、嫌そうな反応ではなかったし良いか。他の子を見てくると背中に伝えて三階に降りる。
あれ。
「アル」
運んでいたから気づかなかったけど、アルが居た。遅れると針音が言っていたけど、こんな時間まで遅くなることはあるのだろうか。
アルは、ソファの上で座り込んでぼんやりと空を眺めていた。私の声に反応してくれなかったので心配になって近寄ると、その音と気配で気づいたのかゆっくりを視線が降りてくる。
「アル?」
視線は私の方に向けられた。が、焦点が定まっていない。何も見えてないんじゃないかと思うくらい、ふらふらと漂っている。
「アル」
思わず体に触れると、魂が戻ってきたみたいにびっくりした。耳と尻尾がまっすぐ上を向いている。
「す……す?スス?ああなんだか、ぼんやりしてて」
「大丈夫?どうかした?」
熱でもあったらと思って頬に手を触れる。私の手はいつも冷えているから温かく感じるけど、発熱しているような熱さではなかった。
「なんでここにいるの、とは聞かないのかな」
「気になるけど、具合悪かったとおもって。大丈夫?横になるならベッドまで運ぶよ」
「ううん、ありがとう……あのねスス、きいてくれる?」
うなずく。アルはどこか安心したように、隣に座ることを勧めてくれた。その勧めのまま座ると、アルが肩に寄りかかってきた。
「あのね、今日の夕方くらいに遅くなるかもって連絡……お迎えのね、きたんだ。でね、悲しくて泣いちゃって、寝ちゃって起きたら、カンから今日来れないって教えてもらってね、すっごい悲しくなっちゃった」
肩に縋りつくアルは、私まで悲しくなるくらい弱々しかった。
「アルンとメルンはいい子だから側にいてくれたんだけど、起こしておくのもわるいからね……無理やりお部屋に押し込んできちゃった。ねむいんだけど、ねれないんだあ……ぼくってさあ、こわいんだよ。だから、あんまり……聖くらいしか、あそんでくれない……」
眠いのは本当のようで、ろれつがふわりふわりと浮き始めていた。
体の向きを変えて、アルをちゃんと抱きしめる。驚いたのか体がこわばったのも一瞬で、首元でうー、うーと小さく鳴いていた。消えてしまいそうな声だった。
アル、体は大きいけれど持ち上げられるかな、とちょっと気合を入れてみる。
ちゃんと持ち上げられた。大体思った通りの重さだった。
「どこ、いくの?」
「夜のお散歩」
「おさんぽ……」
ほぼ寝ているのか、さっきよりもふわふわしている。私はゆっくり、できるだけ揺らさないように階段を上って四階に行く頃には真横から寝息が聞こえていた。
さっき教えてもらった部屋の一つへ、静かに入る。並んだベッドの一つに浅葱色の塊が乗っていて、いくら私が足音を殺していても、ある程度近づいた時に塊がうごめいた。何か音を出さないように、あらかじめ静かにしよう、という合図として人差し指を口に当てて、私が二人の視界に入るのを待つ。アルンの背が高いからなのか少し大きめなベッドは、二人で寝るのにちょうどいいらしい。そして、アルンが先に顔を上げた。部屋は暗いけど、見比べると耳の形が結構違う。
私の合図と、抱えている物に気づいたらしいアルンが起き上がり、メルンを起こした。ぽけーっとしていたメルンも、私とアルを見つけて覚醒したらしく、二人が寝ていたベッドが空いた。そこに、ゆっくりと、アルを降ろす。少しだけぎゅうっと服をつかまれたものの、数分耐えていたら無事に離してくれてほっとした。アルンと、メルンを見る。力強くうなずいてくれたので、後は二人に任せよう。
今度は目的をもって下の階に降りる。エンジェルと成祈にアルの状態を伝えておきたかった。別に暴れたりはしないだろうけど、あの子たちにとっての保護者という存在は生きる上で失えないものだ。起きて泣いてしまった時、早めに駆けつけてあげられるように。
無事に伝達し終えて、また一人になった。といってもちらほら起きている子がいるので孤独ではない。巡回の方はエンジェルがやるといい、まずはみんなといる時間を多くとってほしいと言われ、あまり居た時間も長くなかったしという理由だけで二階にやってきた。
ちゃんと見ていなかったが、二階は他の階層よりも全体的な照明が控えめらしく、一階や三階と比べると薄暗く感じる。だがそれも慣れれば気にはならず、充分な光であることがわかる。他の階が過剰なくらいの明るさなのは、夜に怖がる子たちが少しでも怖くないように、闇を追い払えるように、なのかもしれない。
ならば、二階は闇に隠れたい子たちの避難場所なのかもしれない。控えめな照明なのは長時間の読書や作業をしても疲れないようにだと思うけれど、背の高い本棚がある部屋や、授業をするのに使う部屋などの照明は落としてあり、持ち込んだ小さな明かりを持って本を読む子、暗闇の中で一人丸くなっている子。後者は落ち着かなくて眠れないと言うので、指でつついたりつつかれたりとゆるめに遊んでいたらウトウトして、そのまま寝てしまった。名前もわからないし、下手に刺激すると起きてしまいそうなので毛布だけかけてその場から離れた。
二階の広間に戻る。見える範囲で三人、本を読むか何か書いているか。少なくともこの子達はそうしたくてそうしているわけで、声を掛けたりして邪魔することはない。上か下かを見に行こう、と階段の方を向いた。
「ハッ」
かろうじて声が聞こえた。その何かは高速で私の背後に回り、振り向いたときにはすでにいなかった。残像が見えただけでどんな姿だったかもわからない。だが私が振り向いたときには声がして、真後ろにいたということは。標的は私だったのだろう。
探してみよう、と一階に向かうために階段を下る。標的が私であったなら、二階のどこかに隠れていたとしてもついてくるかもしれない。うっかり大きな音を立てたら悪い。
と、階段の最後の一歩を踏み出そうとしたときに、背中をとん、と押された。
これは、予告状だな。
押し出されて一階に降り立ち、階段に振り向く。薄暗い階段があるだけだ。
「うるさくしちゃ駄目だからね」
私の悲鳴は加味しないものとして。
基本的には私の背後にいると思う。まずは一階の、ダイニングと遊び場の方に向かう。
通り道の廊下に、保健室の看板がかかる部屋があった。八鐘先生はここにいるんだな。
試しに入れるかなと扉に手をかけると、あっさりと開いた。ほのかに病院のような匂いがする部屋に入ると、まだスイッチを押していないのに照明がつく。
「優しいね」
相変わらず返事はないけど。
部屋そのものには鍵が掛かっていなかったが、流石に薬品棚らしきものには見てわかる鍵がかけられていた。治療のための薬であっても、間違えて使えば猛毒になることがある。間違っても遊ばせていいものではない。
しかし、名前の通りの部屋という印象だ。学校にある保健室というのはこういう内装だったような気がする。私の想像する学校の保健室像はフィクション作品のものだから、間違いないとも思わないが。
二つ置いてあるベッドの周りには囲うように仕切りのカーテンがある。今はあいているけど。ここは怪我した子とかを一時的に寝かせておくんだろうな……と少し見つめてから、そろそろ出ようかと扉の方を向く。
位置的には真横だろうか。カーテンを勢いよく動かしたときの音がして、反射的にそちらを向く。
視界は遮られ、カーテンの白色だけが見える。しかもきちんとベッドを囲うように、きっちりと。随分かわいらしい事をするなあ。そう思いながら扉に手を掛けて、違和感。
鍵が閉まっている。廊下側から閉める鍵だったはずだ。
カーテンをきっちり閉める前にカーテンから離れることはいくらなんでも無理だろう。
二人掛かりでやってるのかな。
中に残っている子の仕掛けが済んだら開けてくれるだろうか。部屋の中に視線を戻すと、カチッとスイッチの音と共に照明が切られる。周りに街灯などがない建物の中では、窓から入る光なんてない。廊下からの光も遮断された今、暗闇の世界になってしまった。
不意に、肌に冷たい風が触った気がした。窓は閉まっている。
動いて転びたくないし、目が慣れるまでじっとしていた。その間、何かがごとり、ごとり。落ちているような転がるような音が、暗闇の中を動き回っていた。流石に気味が悪く、暑い季節に肝試しの企画をしたら良い評判になりそうだ。
まばたきをする。
音が止むと同時に目が少し慣れてきて、この部屋にある物の輪郭がぼんやりと見えるようになった。
動き回っていたのは、なにかの瓶だった。こんなものがどこかにあっただろうか、と拾い上げる。中身はカラで、触った感じヒビなども無い。ただ少しだけ、生臭い気がした。何が入っていたんだろう。
さて。私は今、だいぶ怖い気持ちになっている。
起きた出来事を自分の中で淡々と処理しているわけだが、傍から見たら怯えているのがわかるのではないかと思う。暗闇の中で、わざわざ瓶を上げては落とすような音を繰り返されていたのだ、怖い。しかも音が移動していたということは、わざわざ持ち上げて、ころがる前に拾い、少し動いて落として、ということだろう。怖い。
「そろそろ、やめない?」
私の声は暗闇の静寂に飲み込まれて消えていった。
瓶の音がする前に犯人がいたであろう、カーテンを開ける。しゃー、と流れるような音がいやにけたたましい。
カーテンが隠していたベッドは、中になにか居ることを示していた。何かが毛布をかぶり、丸まっている。膨らみがある。どれだけ無音かつ高速で動いたら、こんなことができるのだろう。
毛布をめくる。
びいっ、と。怯えた声が聞こえた。
あれ?と。その時、部屋に明かりが戻った。
照明がついた。
眼の前には、明らかに泣きそうになっている子が一人、いる。あれ?
縋るように抱きついてきたその子を抱きしめる。この部屋を見ていたときに、このベッドには誰もいなかった。寝ている姿も、中で丸まっていた膨らみもない。ならこの子は、暗くなってからここに入って、怯えていたはず。
脅かすつもりなら、ここをめくった私に追い打ちをかけるだろう。その覚悟をしていた。なのに出てきたのは半泣きで耳をぺたんこにしている子。
三人?安心させて、追い打ちをかける?
そう思いたかった。
部屋の扉が、叩かれている。
この位置からだと、カーテンに遮られて照明のスイッチも、扉も見えない。正直なところ、今見えなくてよかったと思っている。
ドンドンドンドン。尋常な音ではない。絶え間なく、まるで叫ぶように扉が叩かれている。音が聞こえ始めたとき、抱きしめた体の震えが強くなった。
いくらなんでも、これはやりすぎだ。
こんなこと、しないと思う。
ならこれは何?
自分が、震えた口呼吸をしていることに気付いたのは音が止んだあとだった。
しばらく、小さな体を抱きしめて動けずにいた。
ふと思い出した、瓶のこと。
瓶がないのだ。手に持っていた瓶が。夢を見ていたのかもしれないと思うくらい、跡形もなく。
一緒に震えて、少し落ち着きてきた。声も出さずに泣き出してしまった体を抱え直して、ベッドから立ち上がる。明るい今、見える範囲に異常はない。
ただ、間違いなく音が止むまでは、まともな状況ではなかった。
扉の方を見る。照明のスイッチの側にも誰もいない。
ゆっくり、扉に近づく。
扉に、手を伸ばす。
がちゃん。
鍵が開いた音。
「大丈夫すか!?」
成祈がいた。
成祈は勢いよく扉を開けて、私達を確認して、はぁと息を漏らした。
「よかった、なにかあったのかと……」
「成祈、来てくれてよかった……」
本心である。腕の中で震えて泣いているのに気づいたのか、成祈が優しい手付きでその子を撫でてくれた。
「ったく、流石にやりすぎですよね!外から鍵を掛けられちゃ出られないのに……」
「うん、本当に……よかった」
この怯えきった子の精神が朝までもっとは思えなかったから、本当にそう思う。
「危うく朝まで監禁ですよ、流石に怒ったほうがいいと思うんで、灯火さんに報告します。いくら巡回してるとはいえ、誰か気づくまで叩き続けるなんてキツいすもんね」
誰か気づくまで叩き続ける?
「成祈、それ……中から、聞こえた?」
絶対に聞かなくていいことだった。でも聞いてしまった。
「え?はい、通り掛かったら中からすげえ音しててビビりましたよ!鍵掛かってることに気付かなかったら逃げてました」
なんて、と冗談めかして笑う成祈。私はどんな顔をしているのだろう。
「スス?」
怖いこと、共有してもいいかな。いいよね。許して欲しい、成祈。そういうこと、信じない人かもしれないし。
「外から扉を叩く音がしてたんだ……」
「え?」
成祈は本当に、理解できないという顔をした。しなくていい。いいから聞いてほしい。
「私達、あの部屋のベッドにいたんだ。音が止んだから見に来た。扉なんて」
叩いてない。そう言う前に、成祈から悲鳴の一文字目が漏れたので、何とか口をふさいだのだった。
その後、なんとか持ち直した成祈と私は、一旦別れることにした。私達がくっついていてもしょうがないし。成祈はまだ青い顔をしていたが、一向に怯えから立ち直れないこの子を見て気持ちを奮い立たせたようだった。
この子は多分、今晩立ち直るのは無理だ。朝になったら他の人に事情を説明して引き継ごう。考えつつ三階に戻ってくると、ちょうど巡回しているらしいエンジェルと会った。その視線は当然、震えてしがみついている小さな体に向いている。
「どうしたんだ」
嘘をついても仕方ないし、この人は大丈夫な気がしたので、成祈よりももう少し詳しく保健室での出来事を伝えた。エンジェルは真剣に、茶化したり怯えたりもせずに聞いてくれていた。
「それは……そうか、まったく……」
聞き終わったエンジェルは、ひとり言のように呟く。そして、大丈夫、もう大丈夫だよと震える子を撫でた。
「ススくん、今晩は側にいてあげてほしい。言われなくても、だと思うけれど」
「うん……私も怖かったし、一緒に震えてるよ」
「ああ、そうしてほしい。だが大丈夫だ、僕は幽霊を退治できるからね」
優しく語りかける。震えは収まってきていて、時々顔を上げては私を見上げている。そしてエンジェルのことも。
「エンジェル、幽霊退治できるんだって。すごいね」
ゆっくり撫でると、ほんと?とかすれた小さな声が聞こえた。
「本当だよミント。僕は綺麗だろう」
ミントと呼ばれたこの子は不思議そうに、体の向きごとエンジェルを見た。
「幽霊は輝かしく美しいものに弱いんだ。僕が会いに行けば塵になってしまうだろう」
自信満々な発言に、ミントはじーっとエンジェルを見て、そして笑った。
「ふへへぇ……エンジェルはたまにへんなこという。ふふ、うん、エンジェル、がんばって」
エンジェルはニッコリと、輝かしい笑顔を向けてから下の階に降りていった。実際、あの人は美しい。容姿が整っているし、持っている色も濃く力強く、それを輝かせているのはエンジェル自身。エンジェルに対して、初対面のときになんとなく合わない気がした理由が、多分ここにある。気が強そうとか、そういうわけじゃなかった。
なんで、あのような人がここにいるのだろう、と。
「スス」
ぼんやりと消えた背中を思い出していると、腕の中から声がした。エンジェルのおかげでだいぶ持ち直していたが、やっぱりまだ怖い、と表情が物語っている。
「怖い思いさせて、ごめんね」
私があの部屋に入らなければ何も起きなかったかもしれない。
私の謝罪に、ミントは驚いてから慌てて首を横に振った。
「す、ススはわるくない、はじめて見る人脅かしてやるっておもったからついてっただけ……」
「うん。ついてきてくれて、よかった。私、一人きりだったら怖くて泣いてたよ」
ミントはきょとん、とした。本心である。かなり怖かったけど、この子がいてくれたから。
「本当はミントを置いて、扉を確認するべきだった。でも私は怖がりだから、連れて行った。ごめん」
「んや、や、ついてった!まってるほうがこわい!」
怖さがぶり返してしまったのかまた体にめり込んできた。落ち着いてから話すべきだったかも。
「そっか……ありがとう、ミント。私、今晩は一人になるのが怖い。一緒にいてくれる?」
「いる、いる、おいてかない……」
ぐりぐりとめり込んでくるミントを撫でる。どこか痛くしそうだから程々に……という気持ちを込めて。
その後、ミントはすぐに寝てしまった。どこかで寝かそうかと一瞬考えたけれど、せっかく一緒にいてくれると言ってくれたからそのまま連れていくことにした。ミントの、淡い緑色……こういう色は白緑というんだったか。それが視界に入るたびに、心が落ち着く。何となく建物内にいるのが落ち着かなかったので、ミントを毛布で包んでから外に出た。敷地内の巡回という指示はなかったけど、つい半年ほど前まで、私の日課と言えるような仕事だった。
夜は少し冷える。六月にしては寒い方だと思う。今日と明日だけ、平均気温より低くなるとアナウンサーが告げているのを聞いた覚えがある。
地面を踏みしめる度に、私はここにいる実感を得る。別に、いつもがないわけじゃないけれど。静かすぎて考えることもない今、私がいる音と、隣の寝息しか聞き取れる音がなかった。
もう少ししたら、この世界に光が戻るかな。
