ひとつめ
よる
木々の間では、外よりも暗闇に包まれるのが早かった。何だか追い出されるように小さな森の中から出て、まだちらほら遊んでいる子たちを眺めつつのんびりと外を歩く。みんなが生活している建物の裏側を覗いてみると、比べると小さめな建物がある。ここは私たちが使うための建物だろう。通っている人はともかく、住み込みの人が使っているようなスペースが本館にはあるように見えなかったからだ。
「スス、帰る?」
針音の言い方からして、ほぼ間違いないだろう。
「ううん。私、まだどこに何があるかもわかっていないから、見に来ただけ」
そっか、と言うように、針音は一瞬、力を強めた。
その建物をぐるりと回ってみる。窓はあるが、全てカーテンが閉まっていて中を見ることはできない。あと、あまり日当たりが良くなさそうだが物干しざおが置いてある。今は何もかかっていない。
「スス。お腹すいた」
一周してきたな、と足を止めると同時に、針音がいう。確かに、もう良い時間だろう。というか、私は今日、ここに来てから一度も飲食をしていないのだ。元々飢えで苦しむような体質ではないものの、腹の中に何もないことを訴え始めている。
「うん。私もお腹すいたな。ご飯食べにいこっか」
ぴゅー、と綺麗な高音が漂った。
室内に戻ると、それは賑やかな空間になっていた。ただ、全員いるわけではないようだ。招集をかけるわけではなく、お腹がすいた子が自主的に集まってくるのだろう。
「針音、平気?」
「うん。今、ススだけ」
「音を選ぶのは、一つだけ?」
「うーん……うん。後から、聞いた音を分解できる。時間がかかる。会話には使えない」
針音は平然と話すが、やっぱりすごいことをしている。音の分析をできるのだ、それも記憶だけで。針音はすごい。
「すごいね」
この音はなんだ、なんていうありがちなクイズも、針音にとっては日ごろやっていて面白くも何ともないかもしれないな。
「いっぱい」
針音が、見渡しながらつぶやく。何十人はいる。大半はテーブルについてソワソワしていて、数人が配膳している。出入りしている先に厨房があるのだろう。本来であれば私も配膳を手伝うべきなのだが、誘ってくれた針音を一人にはしたくない。というか、一向に降りる気配がないのだ。机の近くに来ても、針音は引っ付いたままである。
「針音、座る?」
ぴょ。
なんというか、嫌そうだ。
「離れないから大丈夫だよ」
が、やはり離れる気がないようで呼吸以外の動きがない。とりあえず椅子に座る。そこでやっと動いたので腕を離すと、机に向かって座り直しただけで降りることはしなかった。ぐるりと周囲を見回して、私を見上げる。その時は無表情だったが、満足そうに微笑んでくれた。針音が満足そうで何より。
「スス」
「なあに」
反応があるのが嬉しいのかな。しばらく、呼ばれては返事をするを繰り返していたら、針音がキレのある動きで横を見た。
「雨丸だ」
「雨丸だね」
雨丸は私と針音を見て、やり取りが終わるのを待つつもりらしい。
「雨丸はおれを覚えるのにひと月」
それはまた。針音の言葉に雨丸が苦い顔をした。
「ここに来たときはまっさらな新人だったから……聞こえてないけど」
「雨丸がなにかいった」
音を選ぶと、完全に他の音は聞こえなくなるのか。
「新人だったから許してほしいって」
「ふふ。いじわるした」
出会ったときより、だいぶ楽しそうになった。それは雨丸も思ったようで、少しだけ目を大きく開いて、すぐ安堵の表情を浮かべた。そして、エプロンのポケットから片手サイズのメモ帳とペンを取り出して、記入し、針音に見せるように差し出す。
『少しだけススと話してもいい?』
雨丸の字は、しっかり机の上で書いたかのように綺麗だった。
「うん。まんぞく」
針音は一つうなずいて、他の誰かを追いかけることにしたようだ。それを見て、雨丸も浅くうなずく。
「謝罪させてください」
私を見る雨丸は、初対面で感じた含みのある表情や素振りが無さそうだった。
「しばらくぜーちゃんと三階にいてね、ススが降りてくるの、待ってたんだ。ぜーちゃんが遊んでほしいなら一緒に連れていけばよかっただけで、わざとススを置いてったんだ」
灯火の言っていた通り、試していたのだろう。私はすぐに降りては来なかった。それを、どう受け取ったのだろう。
「でも、中々来なくて。失礼なことしたなって……その、嫌だとは思うんだけど、本当に大先輩だった。ごめんなさい」
「ううん。ありがとう……というのもおかしいけど、てつ達と話せてよかった。裏の子たちが足の上で寝るくらい安心できる場所だっていうのもわかったから」
気になるのは、雨丸が試した理由だ。以前からだということは、試すようになったトラブルか何かがあったのだと思う。無自覚に嫌なことをして関係がこじれないように、何があったのかを軽く知れればいいんだけれど。
「スス……ありがとう。するべきだった説明もあるし、ご飯が終わったら……」
「裏の建物?」
「そう、もう見てきたんだね。そこに来てくれると嬉しいな、針音が離れたくなさそうだったら連れてきても大丈夫だから」
私が頷くと、雨丸も気を緩めて微笑んだ。そして針音に手を伸ばして、撫でた。針音からぴぃーと嬉しそうな音がする。振り向いた針音に軽く手を振って、雨丸は厨房の方へ向かった。
「終わった?」
「うん。針音、面白いものあった?」
「ん?んん。うん。一人じゃないから。あ、あそこ。さっきの、てつ」
さっきの、は話にあがっていたことかな。針音の視線を追いかけると、確かにてつがいた。が、てつだけしかいなかった。アルンとメルンはどうしたのだろう。
「ずっと、二人がいるのに、いない」
針音にとっても珍しいことみたいだ。てつは、遊び場の方をチラチラ見ている。その先に……浅葱色があった。きれいな色が合体している。
「どうしたんだろう」
疑問を声にしたところでわからないけど。針音が、私を引き止めるように服を掴んだ。私も何から何まで干渉する気はないし、見守るつもりだったのでじっとしている。
しばらくすると、針音が手を離した。私を見上げる。
「アルが、お迎えの人、遅くなるって連絡もらった。アルが悲しくなったのを、二人が慰めてる」
なるほど。
「ありがとう、針音。早くお迎えが来てくれたらいいね」
「うん……てつは、行かない?」
「てつは……多分、お迎えがくるの、寂しいんじゃないかな。悲しくなるから近寄らないけど、心配はしてる……とか」
「お迎え……てつ、お迎え、こない?」
「んー……機会があったら、てつと話してみて。良い子だよ」
「うん…」
針音は少しの間、心配そうに三人とてつを見てから、また違う方向を向いて、あれは誰、何をしてる、と教えてくれた。
それからしばらくして、もう一度雨丸がやってきた。その手にはお盆と、その上に乗る食器。一瞬遅れてやってきた、食事のあたたかな香り。
「針音、ご飯持ってきてくれたよ」
つつくと、これまたキレのある動きで机に向き直る。雨丸がゆっくりとお盆を置くと、雨丸とお盆、お盆から私、私からお盆に視線を動かしていた。
「ありがとう、雨丸。ここのご飯って、私も食べてもいいのかな」
「それはもちろん。住み込みの人は三食たべられるよ」
「そっか、ありがとう」
「待ってね、ススのも持ってくるから」
こうやって一つ一つ配膳しているようで、次はちゃんと私も配膳に参加しようと思った。
雨丸のおかげで食事が二人分揃ったが、さてどうしよう。針音は降りる気は無さそうなので、邪魔しないようにしばらく見ていることにした。
今日のご飯は、主食にお米、焼き鮭と人参が鮮やかな野菜炒め、大根とじゃがいもの浮いたお味噌汁……のようだが、針音の前に置かれているお盆には焼き鮭がない。全体的に量も少ないように見えるが、針音は気にしてい無さそうだった。周りを見てみると、逆に私よりも量が多いお盆もたくさんある。一人一人、量を調整してるのかな。そうだとしたら、だいぶ手間を掛けていると思う。以前いた施設も良いところだったとは思っているが一人一人で調整するようなことはしていなかった。
「スス、ご飯たべていい?」
一斉に食べるわけではないが、私が一緒にいるからだろう。私を見上げて針音が聞くので、うなずく。
「いただきます」
針音はしっかりと発音して、お味噌汁に手を付けた。静かに少し飲んで、動きを止めた。そしてあれ?と言いたげに私を見上げる。
「どうしたの?」
「スス、食べない?」
「ああ、ごめんね。上で食べて、零したりしたらわるいから」
針音は眉をひそめて、低めにぴぃと鳴き声を出した。それからお味噌汁を置いて、一度床に降りると隣の椅子をぴったりと私の座る椅子につけて、その椅子に座り、お盆を自分の前に移動させてから、私を見上げた。
「いいの?」
私が聞くと、針音はぴぃと高い音を出した。良いようだ。
「いただきます」
針音と同じ言葉をつぶやいて、私もお味噌汁に口を付ける。
あったかい。今日初めての食事が喉を温めて、お腹の中に落ちていく感覚。
「スス」
「うん」
「味噌汁」
味噌汁。針音はお味噌汁を飲み終えていた。
「すき」
にこ、と嬉しそうに微笑みながら、私を見上げた。好きなもの、嬉しいことを共有する。その相手に選んでくれることが、私には嬉しかった。
「おいしいね」
「うん。おれ、好き。味噌汁」
ふふ、と嬉しそうにしながら、また食事に戻る。ゆっくりと食べながら、時々私を見上げておいしい、好きと言って、私が同意すると満足そうに笑って食事に戻る。
率直に言って、針音は想像していたよりもだいぶ、かわいい。
もっと、難しい子だと思っていた。が、実際は良くしゃべるし、意思表示もしっかりするし、お行儀も良い、そしてよく笑う。この子が寂しい思いをする事が前より減るといいな。
そうしてゆっくりと、穏やかに食事は進み、針音は用意された食事を全て食べた。ほっと息を吐く針音がいる。
「針音、まだ何か食べる?」
針音が不思議そうに私を見上げた。
私はいつも、同席した子に聞いていることだった。限度があるとはいえ、我慢してほしくはないのだ。針音は目をぱちぱちさせて、長めにぴーと鳴いた。
「おみそしる……」
食べたい。そう言いたいようだが、言葉を続けずに、何か考えるように視線を漂わせる。私はそれを待つ。
十秒くらいだろうか。空中を眺めていた視線が、もう一度私に向けられた。
「もう少しだけ。食べたい。今日は、元気」
調子がいいからもう少し食べたい。小食のようだし、今日は、というのが大事な言葉だったのかもしれない。
「わかった。一緒に行こうか」
待ってて、と言われると思っていたのかもしれない。針音は少しだけ驚いたのか口をきゅっとしめて、嬉しそうに微笑んだ。
針音と一緒に、空になった食器を持って厨房の方へ向かう。中の方にカウンターがあって、そこにはすでに空になった食器の乗ったお盆がいくつか置いてあった。
「あれ、返しに来てくれたの?」
後ろから声が掛かって降りむと、数人分の食器とお盆を重ねたものを持っている人がいる。雨丸ではない。さっき配膳していた人の一人だったと思う。まったりとしたクリーム色の髪を後頭部の上の方で結っている。
「ありがとねー…って針音!…あれ?」
反応が鈍いことが不思議だったようだ。針音は私を見上げる。
「カンが何か言ってる」
この人がカンなのか。
「今、針音は私の声だけ聞いてる。えっと、回収を待った方がよかった?」
「えあ、ううん全然すごい助かる!……あれ、あなた……名前なんだっけ?忘れてる?」
「ううん、見たことないと思う。私はスス」
「あぁぁスス!ススか!ごめ……あっ。ごめんなさい」
「ううん、そのままがいいな」
ほっとした様子だった。横で針音が私とカンを交互に見ているので、とりあえずおかわりをもらえるか聞いてみると、カンは驚いて聞き返してきた。調子がいいようだと伝えると、嬉しそうにうなずいて、要望通りもう少しだけ、お味噌汁を入れてくれた。ニコニコしながらゆっくりと飲んでいる針音を見つつ、カンに向き直る。もう少し話をしたいようだったが、合っていたみたい。
「ありがとうね、スス。最近、食べる量がいつもより減ってたから気になってて……会いに行っても逃げちゃうし」
「逃げちゃう?」
「うん……最近つきっきりだった子が居てね、もう大丈夫になったんだけど、それも伝えられてなくて寂しくて死ぬところだった……あ、ごめんね名乗ってなかった!あたしカンっていうの、よろしくね、スス」
「ありがとう、カン。よろしくね」
カンは明るい、人当たりの良い笑顔を浮かべた。
「針音は、カンと仲良し?」
針音に声をかけると、カンの方をちらりと見てから私を見上げた。
「よく、一緒にいてくれる。歌を歌ってくれる、一緒に。最近は、忙しい」
「もう忙しくないんだようぅ……」
訴えかけるカンの言葉を私が繰り返すと、針音はそうなの?と言いたげにカンを見上げる。カンがうなずくと、お味噌汁の時以上にうれしそうに笑った。
「その子、ずっと側にいたの?」
「うん、発作でね。もう落ち着いたから大丈夫!針音ってね、歌うときはどれだけ近くで音がしてても大丈夫みたいなんだ。だから歌うの好きな子たち集めてみんなで歌って遊ぶんだ~」
「そうなんだ」
思い出しているのか楽しそうに微笑むカンを見て、いつも孤立しているわけではないことに安堵する。今日出会った中、そして初めて来た日の中で、おそらく一番近づくことを許してくれた子だ。針音に限ったことではないが、幸せに過ごしてほしい。
「おいしかった」
針音の方を見ると、空になったお椀を両手で包むように持ちながら、満足そうに笑顔を浮かべている姿があった。
「ふふ、針音はかわいいなあ。本当にいつみてもかわいいねえ」
カンはぼそっと呟いてから、針音の頭にそっと手を落として優しく撫でていた。針音も嬉しそうにしているし、針音のことは任せようかな。
「針音。私、離れてもいいかな」
「あ……行くの?」
撫でられていた針音がぱっと私を見る。表情には大きく、悲しいと書かれている。顔の真ん中にきゅっと力が入って、さっきまで幸せそうに細められていた瞳が、じっと私を見上げている。これで行かないでと言われたらどこにも行けなくなるな、と思う。
「うわあ針音かわいい。用事?」
「用事というか……用事かな?ご飯が終わった後、あの……離れの方に呼ばれてて」
「ああー、そうだよね。うん、針音が許してくれたらあたしが見てるよ」
「うん……針音、今日はカンが側にいてくれるって。カン、たくさん話したいんじゃないかな」
針音はしばらく無言で、お椀を持ったまま私を見ていたが、切り替えるようにぴぃっとホイッスルのような音を出すと、うなずいた。
「ありがとう、針音。また明日ね」
針音は、はっと息をのむように顔をこわばらせた。そうだった!と言いたげに。カンが針音はかわいいねと連呼し続けていたので、針音が音を切り替えたらたくさん言ってあげてね、と言わなくていい事を伝えて、離れた。本当は厨房の仕事も手伝うべきなんだろうけれど。厨房の奥の方で物音がしているので、多分誰かいる。明日か、もう少し後に挨拶をしに行こう。食事は、すべての生き物にとって大事なものだ。安全で、温かく、美味しいこと。それを毎日維持するのは、簡単なことではない。
遅れてご飯を食べに来た子、ご飯が終わってのんびりしている子。横目で見つつ、すっかり暗くなった外に出る。夜風は程よく冷えていて心地が良かった。
そのまま離れに向かうと、灯火が物干し竿にエプロンを干しているようだった。裾が千切れかけているエプロン。そういえば、さっきは私以外にご飯を食べている人がいなかった。みんな、もっと早くに食べてるのかな。そんなことを考えつつ近寄ると、声をかけるより先に灯火が気づいて、振り向いた。
「スス!来てくれてありがとう。見てください、これ」
灯火はそういうと、エプロンを指さした。その先には、最近よく見る漫画のキャラクターが描かれていた。元の絵柄は違うものの、とても上手だ。ただ自慢されたエプロンは濡れていた。見たところ、布用の筆記具で描かれたわけではないようで線が少し薄くなっている。
「上手だね」
「でしょー、あの子は絶対大物イラストレーターになれると思うんだけどねえ、そういうと謙遜するんだよねえ……」
灯火は一人でうなずいている。なれるかはともかく、上手なのは確かだ。ほぼ一発描きだろうに、迷いなく線を引ききっているのだから。
「ああそうだ、色々お話があるんでした。中、入ろうか」
洗ってしまった理由はわからないが、本来の目的は説明を受けることだ。灯火が離れの扉を開けて、中へ入っていく。明かりはついているが、ぼんやりとした明かりだった。その中へ、足を踏み入れる。
落ち着く程度の広さ。落ち着く程度の明かり。奥に階段がある。本館とは違う安心感が漂っていた。本館の方はどうしても施設という雰囲気がある。ならばここは、まさに住宅だ。
更にここは、入るものを制限しているわけではないようだ。普通に居る。
この、所謂職員用の部屋、あるいは住み込み用の部屋……おひるねの庭の風潮なら先生の部屋か。呼び方はともかく、大抵の施設は亜人の立ち入りを制限している。そこに明確な理由があったのかまでは知らない。だから、少し驚いた。
「好きなところ、座ってね」
灯火がそう言いつつ、同じ部屋にある台所でお湯を沸かし始めた。大きめな円形テーブルの周りに四つほどスツールが置いてあるので、一番近いところに座る。
そういえば。話せたらなと思ったのは灯火と成祈だったが、呼んでくれたのは雨丸だ。雨丸は、まだ厨房で仕事をしているだろうか。やっぱり手伝えばよかったかな。
と、考えている間にも音がする。お湯を沸かす火の音ではない。灯火が音の発生元に近寄っていた。
「相変わらず、ここでよく寝れるねえ」
そう。それはなにかものが入っていたのだろう、木箱。たしかにこの大きさは珍しいと思うが、そこに入って小さくいびきをかいている子がいる。もはや定着しているのか、クッションやタオルケットが詰められているようで、まるで巣箱だった。
灯火のひとり言にも起きず、熟睡しているようだった。呼吸のたびにぐるるるるる…と小さな寝息が聞こえる。
みーん。
今度は横から聞こえた。見てみると、白くて大きな耳がある。なんだろう、元の動物が思い浮かばない。無理やり当てはめるなら狐のように見えなくもない。尻尾は……二本あった。猫のような細めの尻尾が二つ、ゆっくりと揺れている。
興味を示されているようなので、名乗りつつ手を近づけて見る。それを目で追う。頭の近くに持っていく。自ら手に触れて柔らかいものが当たる。軽く揉むように撫でる。
むぴー、となんだか面白い音がする。ふわふわの髪をしばらく撫でて、満足したのか頭を引っ込めたので追うことはしない。
撫でた子はくるる、くるるとと短く繰り返しながら室内をウロウロして、最終的に先客のいる木箱の中に入った。先客は起きる気配もなく、中身の詰まった木箱になっていた。灯火はお茶の準備をしてくれているらしい。何だか客のようでそわそわする。
「スス」
灯火から呼ばれ、そちらを見る。
「ススはどのくらい、この仕事をしているの?」
定期的に聞かれる質問だった。そのたびに私は、少し悩んで沈黙を作る。
亜人という名前が広がりはじめた頃には、まだ保護施設はなかった。広まると言っても、このような倫理観の欠如した生き物を現代の人間が生み出したというのだから、半ば噂のようなものだった。私はその頃から、似たようなことをしている。こんな施設も無ければ自分で飼っている訳でもなく、ペットシッターとしてであったり、通り道にある路地に住み着いている子だったり。そのあたりのことも経歴に含めるべきなのか、いつも迷う。
こういう、きちんとした施設ができ始めたのは最近のことだ。
「嫌なこと聞いたかな」
私の沈黙に、灯火が優しく伺う。
「ううん……どう答えるか、迷う」
「あら、そうなの?」
そもそも、夕方の会話から灯火は履歴書を見ているはずだ。今まで務めていた施設に関しては知っていることに今気がついた。
「結構、最初の方から」
「最初の。二十年前くらい?」
世間的な問題になったのはそのくらいだった気がする。現実離れしているのに、でたらめだと言いきれないほどに広がっていた噂が肉体をもって歩いていたことが認知され始めた頃。
「そうなる……のかな?」
そもそも便宜上は仕事と呼んでいるが、私はこれを仕事だとは思っていない。私がやりたいことでしかないのだから。
「ススはすごいな……私は全然信じてなかった頃だ」
「それはそうだと思う。一般的には奴隷制度から縁遠い今の人間が、それに近いものを生み出して愛玩するなんて正気じゃないと思っているよ」
本当、あの頃の科学者だかなんだかわからないけど、正真正銘の人体実験の末うまれた、人の形をして同じような思考と言語を解する生き物を飼う、なんて。
「ふふ、正気じゃないかあ。わかるなあ」
人間と比較しても動物と比較しても、なにか足りていない。人のなりそこないのようなもの。愛玩のために、愛情に飢えるように作られたもの。今でこそ亜人という枠に入る対象は幅広くなったが、当時はまるで人に隷属し愛玩されるだけの生き物という蔑称のようにも感じた。
「灯火はどのくらい?」
「私は七年前くらいからかな、個人シッターで人様のお家に通ってました」
「そうなんだ……灯火は、嫌悪感はなかったの?」
「あったよ」
あっさりと認めた。まあ珍しいことではないけれど、今こうやって亜人のために働いている人が迷わずに口にするのは珍しい。
「何でこんなものが広まってるんだって気色悪かったなあ」
いつの間にか木箱から出ていた白い子が灯火の脇腹を殴りつけた。小さく呻いたが、灯火もそうなるとわかっていたようで、そのまま抱き上げた。白い子は、不満そうに唸っているが暴れたりはしない。
「当時はお金に困っててね、個人シッターってお給料良いもんだから渋々やってたわけです。渋々でもやる程度の人間性だったわけなんだけど」
嫌って言いながらねえとこぼしながら、白い子の耳元をかしかし搔くように撫でている。またんぴーと音がするので、この子は機嫌がいいと鳴くようだ。
「お金に困ってたなら、どうして施設に?」
「嫌だったけど、可愛いんだもの」
わかってはいたが、聞けると安心する言葉である。
「何であれこの子は生きてるんだよ。付き合ってるうちに、なんか……どうでもよくなってきて、この子達が死ぬまで幸せに生きて欲しくなった」
二本の尻尾がゆるゆる揺れる。
「命を大切にとかそういうんじゃなくてね……ススは?ススはどうして?」
私も概ね同じだ。
「同じ。可愛いから。最初の頃からずっとそう。倫理的な問題とか、別にどうでも良かった」
「どうでもよかったかあ」
灯火は面白そうに笑った。私は私で正気じゃないようなものだから、別にいいけど。普通に生きていた人からすれば、物議を醸す発言だとは思う。
「結局、広まった理由は人間の管理不足で脱走した子達が増えちゃったからで、最初期から飼ってる人の半分は、増えちゃった個体だった」
そのために人の手で作られた亜人というのは、極少数だった。それが今や保護施設ができるくらい増えているんだから、亜人に限らず動物の管理は大切なんだなと他人事のように思う。
「やっぱりそうなんだねえ……業が深いね、人間は」
「天国なんてあるのかな」
灯火は面白そうに笑ってた。灯火は多分人間だと思う。ここまで話していて、人間じゃなさそうな空気感は一度も出なかった。
「まあでも、そのお陰でススのような、人ではないものも生活しやすくなったみたいだよね」
確かに、大きく影響があった。今の亜人という言葉に含まれるのは、人工的に生み出された愛玩動物だけをさすものではない。本来の意味である、人間のようで人間でないものを幅広く包む言葉として広まった。その点に関してはたしかにありがたいので、素直にうなずく。
「私は、元々隠すものも少ないから恩恵は少ないけれど、大怪我して死ななくても引かれることは減ったから」
死なないことに理解できない嫌悪感をぶつけられていた以前より、今はああ、亜人か……と少し気味が悪い程度で済ませてくれるのは精神的に助かる。
「なんというか、大変だね……ゾンビも」
「ね、ゾンビって嫌われものだ」
ふふ、と笑ううちにようやくお湯が湧いたらしく、ポコポコと急かすような音に自然と視線が向く。と、同時に抱えられていた子が降りて、素早く火を止めた。
「ねいね。ありがとう」
ねいねと呼ばれた白い子は、口にためた空気を吐き出してぽふっと音を立てた。その意図をわかってか、下がってきたねいねを通りすがりになでて、お湯の処理を始める。ねいねはまた木箱の中に入り込んで、今度は丸くなったのか埋まってしまった。先客は相変わらず熟睡している。
「そろそろ、雨丸と来ると思う」
灯火が、三個のマグカップとポットを持ってきてくれた。
「ありがとう、おもてなしをしてもらってしまった」
「いいの、したかったから。ススはコーヒーのほうが好きだったりする?」
灯火が近くのスツールに座って、お茶を入れてくれる。その色は見慣れた素朴な薄緑色だ。ふわりと、慣れ親しんだ香りが漂う。
「ううん。コーヒーは苦手な子が多いから」
「ススはそこまで気を遣ってるんだ?」
「かっこつけた。コーヒーは苦い」
灯火はそんな気がした、と笑いつつ私にマグカップを渡してくれた。私は緑茶の優しさが好き。
「先に説明しておくと、一応ね?一応でいいんだけど、この現場での権限は私が一番上だから、困ったことでも相談でも、何でも教えてね」
うわ、と思った。ここまで近寄りやすい施設長は初めてかもしれない。私の採用を決めたのはこの人のはずで、体が強張ったのを隠せなかった。いくら嫌いでも、えらい人にはきちんと対応しないと怒られる。
「ああもう、気にしないでって。私も君と同じ、上とか下とか新参古参とか、気にしたくないんです。ね、ただの同僚というか……一緒に暮らす友達にしてほしい」
「そ、それは私からもで……ふつつかものですが」
「プロポーズは早いかなぁ」
焦って噛みかけながら言った私を灯火は笑って、心配しなくていいよと言うように安心させてくれる。もしかすると私は、かなり良いところに来れたのではないか、と。また、別れるのが惜しくなるようなところに。
後ろで扉が開いた音がした。
「あ、ススに灯火さん、ちょっとまって……」
入ってきた雨丸は、そのまま奥に向かって木箱に近寄り、その中に腕を伸ばした。
出てきたのはねいね。不機嫌丸出しの鳴き声をあげているねいねを、雨丸は構わずに抱きかかえた。
「ねいね、また薬飲んでないの?」
灯火の問いに、雨丸は手早く肯定を返した。
「うん、いないと思ったらまたここに。すぐ戻るね」
雨丸は、ねいねの文句と一緒に退室していった。
