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みっつめ


くだん



台風が過ぎると、化けの皮が剥がれたかのような猛暑が続いた。幸いにも湿度は比較的低めで不快さはそこそこで留まっているものの、四十度がそれほど遠くない数字を何日も見続けるのは中々なものだと思う。外遊びも、こちらが注意喚起する前から自重しているようで、空調の効いた屋内でお昼寝している子が増えた。お昼寝の時間以外にも落ちている子が多く、空調が効いているとはいえ夏場ということで、落ちている子をチェックする係が自然に出来上がっていたりもした。そんな日々を少し、今日も暑い。本館に移動するだけで溶け落ちそうだ。実際に私がゾンビだったなら、ひどい臭いの腐肉がぼたぼたと溶け落ちていることだろう。
「毎日毎日……」
隣を歩くミントから、続きを言うのもだるそうなつぶやきが聞こえた。視線の先には花壇をいじっている山駆達が居る。昼も近い時間、皮がぱりっと焼けそうな日差しの中で日傘をさして陰を作りながら作業をしているが、ミントの言う通りよくやるなあと思わずにはいられなかった。ぼんやりと眺めながら歩いていると、てつと並んで作業していたマメが突然立ち上がった。
「え、あ、うわあ……」
ミントからなんとも言えない声が漏れたのは、マメが水やり用の大きめなジョウロを持ち上げて、ためらいなくてつにふりかけたからだろう。それも飛び跳ね制止役のメルンごと。
「ぴゃー!?」
「んふ、ふふ。あ〜」
「涼しい?」
「何してるんですか」
「暑いからてつにもお水あげたよ!あたしも!」
自信に満ちた顔でそう言うとマメは呆れと困惑の混じった反応をしている山駆にジョウロを差し出した。てつはワクワクと不快の並んだなんとも言えない顔をしていたが、メルンはもっと水に触れたくなったのか、しゃがみながらてつを抑えたままジョウロを見つめて尻尾を揺らしていた。掛けられた水で湿った尻尾は接地していて、美しい浅葱色の中に砂を巻き込んでいる。
「ええ?うーん……いいんですか?」
「暑いもん!」
浴びる気満々のマメが仁王立ちしていた。山駆は服ごと濡らすことに抵抗がありそう。
「ねぇ……」
ミントの声に我に返る。炎天下の中で足を止めていたぶんの熱が一気に押し寄せてきた。
「早く中入ろ」
私のシャツの裾を強制する気のない力で引っ張った。暑いと言いながらも毎日、今日に至っては早起きをしてまでこの短い移動に付き合ってくれるミントへの労りを乗せてその手を一瞬だけ撫でる。
「うん。ミントも毎日ありがとう」
「んー」
少しだけ高い音で返ってきた。

別れる前にミントの口に塩梅飴を入れ、なにか飲んでねと伝えてから二階へ向かう。亜人に優しい屋内は涼しく、体温が下がっていくのを感じながら階段を登りきると、灯火にべったり絡んでいるファインが見えた。成祈の姿は見つけられなかったが、どこかにいるのだろう。
「おはよう、スス」
「おはようございます。エンジェルは?」
「聖とぜーちゃんに引っ張られていったよ。面白い遊びをみつけたとかで」
「そっか。……幽霊さんがついてこないといいけれど」
「ん?……あ。そうですね。気を付けないと危険にさらしてしまうかも……」
ずっと居たのか今来たのかは謎だが、私の斜め後ろあたりにタオルケットを被った二人がいる。少しだけ首を動かすとタオルケットの端が見えた。
「今日も暑いからね」
「ですね……燃え尽きてしまうかもしれませんから」
ちとつの間のような音を鳴らしたのが聞こえた。暑さが嫌いな二人がついてくることはないと思うが、ここから動く気は無いようだ。
「ともたん」
「何かな」
べったり絡んでいるファインからべったりと甘い声がして、もしかすると灯火は行けないかもしれないと一瞬考えてしまった。流石に来ると思うけれど。
「なーののばか、なでたほうがいいかな」
「尻尾を踏み抜いたことを許せたらそうしてあげてください」
「むー」
何やら物騒な単語が出た。姿が見えないのは床に転がっているからなのだろう。ファインは灯火の手を口元に寄せていじりながら少し考えた素振りの後、まだ許さないとしたようだ。
「ろん、尻尾踏まれたのかな」
「りん、尻尾踏まれたのかな」
幽霊の声。見に行こっかとささやきあって、足音無く歩いていくのが見え、その背中を目で追っていくとソファに毛布の掛かった部分が見えてきた。気にしていなかったけれど、中身は成祈か。
「ファイン、大丈夫?」
「やちせんせーはだいしょぶだって」
一応聞いてみると、とろんとした声で返事をしながらいじっていた手を自身の頭上に置いて撫でることを要求していた。満足げにしている。八鐘か大丈夫と言うなら大丈夫だろう。
まだ時間もあるし、灯火はファインを、私は通りすがって腰を下ろした柊を構いながら少し。エンジェルが三月を連れて戻ってきた。新しい遊びが楽しかったのか、二人共ほわほわした雰囲気を身に纏っていた。
「おまたせ」
「おかえりなさい。楽しかった?」
「楽しいなのだよ」
ニコニコの三月が耳をゆんと動かしながら同意する姿のなんと愛らしいことか。その隣りにいるエンジェルもまた凛とした顔立ちを緩めており、視覚的な栄養価の高い空間が出来上がっていた。そこまで楽しい遊びとは一体何をしたのだろう。
「何したの?」
「ああ、聖がゲームのバグを見つけてね、面白い動きをするんだよ……ふふ。ついつい笑ってしまうね」
エンジェルの言葉に三月がニコニコのまま頷いた。
「んひひひ。いや〜だってねえ、ふふふ。面白かったけどお、おいらぁお外行けるのも楽しみだぜ」
三月の垂れた耳かゆんっと持ち上がり、ゆっくりと元に戻る。三月はあまり外出に行きたいと言い出さない子だけれど、イベントとなるとわくわくするのかな。いつもご機嫌そうではあるものの、ここまで上機嫌な三月は珍しい。
「だのに、皆さん結構落ち着いてらっしゃる。俺ちゃんだけやたらわくわくしてるみたいでさあ」
上機嫌なままぶすくれた表情を作るものだから思わず心の内が喉から出てしまい、それに対して不満を示しながら一回だけ床をどす、と踏みつけた。微塵も怒っていないのに怒ったふりをするほど楽しみにしていてくれたのなら、エンジェルもきっと嬉しいだろう。横で陽だまりのようなほほ笑みを浮かべているからきっとそう。
「暑いからねえ」
「楽しいが暑さに負けちゃった!?」
「一因ではあると思うなあ。暑いし知らない人に囲まれるし、それならお土産話聞いたりしたいみたいだよ」
「ふぬぬ……制作は皆乗り気だったのに。こうなりゃ全部売るしかねえやい」
「ふふ、頼りにしているね。実のところ少し緊張していたから、君がいてくれてすごく頼もしい」
「んん?エンジェルが緊張なんてするの?」
「そりゃあするよ。今回は特に、僕だけじゃなくて皆が関わったことだからね。全部の意味で成功させたいから」
「成功かあ。真面目ちゃんですねえ」
三月がエンジェルを撫でようとしたところで、横に転がっていた柊が身じろぎしたのを感じてそちらを見た。恐らくぴーちゃんが来るのだろう。声が通り過ぎて耳に刺さるらしく、ほんのり苦手だと言っていたのは記憶に新しい。立ち上がると三階へ向かってのそのそと歩いていった。
「ぴーちゃん?」
柊が動いてすぐ、ファインにも感知できたらしく、耳がぴこっと一瞬立ち上がった。そしてまもなく、一階からぴーちゃんがあがって来るのが見えた。複数人から注目されていた事に気が付いたぴーちゃんがはにかみながらててて、と小走りでやってくる。
「私が最後でしたのね」
「自然と集まっていたねえ。予定の時間よりはかなり早いよ」
「ですよね?私が遅れたわけではありませんわね!?」
「もちろん、もちろん。ぴーちゃんも十分早く来てくれましたよ」
「そだそだー」
ゆるいままのファインが灯火から離れ、ぴーちゃんにひっついた。くるんと丸まっているふわふわの尻尾がぱたぱた揺れている。
「えへへ、焦ってしまいました。ねえ、ファインは行けませんの?」
ファインの耳がぴこぴこっと素早く、光が点滅するかのように反応した。
「今回はお留守番です。一緒にお出かけしたい?」
「可愛いので……」
言いながら、見かけによらず力持ちなぴーちゃんがファインを抱っこした。ファイン本人はそれなりに驚いたらしく石化してしまったが、その様子も含めて愛おしそうに包みこんでいる。
「慰めにきてくれたファインが可愛いのでこのまま連行したいのですけれど」
「ふふ。わかるよ。でもまた今度にしましょう」
「ちぇーですわ……」
石化の解けたファインが、暗に一緒に居たいねと言われたことに気が付いて嬉しそうに笑った。一瞬ふてくされたぴーちゃんもすぐに笑みを取り戻し、なんとも可愛らしいやり取りが開始された。永遠に見ていられそうな光景を背景にしつつ、少し早めに集合した理由を思い出す。
「そろそろ確認しておく?」
「あ、そうですね。スケジュールの確認をします」
召集されていない子もされた私達も揃って返事をした。
昨日も一度改めているものの、おひるねの庭としては初めての試みであり、確認や微細な調整を重ねていく丁寧さに安心感を覚えると同時に、そこまで緊張しすぎなくてもいいのになとも思う。こういった施設住まいの亜人は、いざイベントなど人と情報の多い場所に連れて行くと大抵は借りてきた猫のように大人しくなる。ここでは自由奔放なおばけ二人も外では大人しいように、亜人に関わる事故はそう起きるものではない。それこそ、事件や事故で恐慌状態に陥らない限りは……とここまで考えて、ふと。迷子の場合やパニックになった場合の対策はいくつかしてあるものの、その事件や事故に対するものはないことに気が付いた。気が付いたけど、全体で意識しておかなければいけないほど世間は物騒ではない。今まで何があったかを思い出してみてぱっと浮かぶ最悪な事件は、亜人の立ち入りを規制していないだけの一般的な食品のフェアに過激な亜人排斥派が乱入して無許可で過激な抗議活動をした結果、亜人ではなく人間の子供にけが人が出た件か。何も悪くない亜人が疎まれた最悪の事件。私は母数が多いから遭遇率が高いだけな気もするけれど、亜人がいるだけで起きている事件はある。うーん。
「以上になります。私は責任者という立場ですが、私もこういった事は初めてで緊張しています。ぜひ助けてください」
灯火によるスケジュールの読み上げが終わり、順に回っていたファインが心臓より少し低い位置から私を見上げている。
杞憂だ。ただでさえどうなるのかと緊張している所に、蝉と正面衝突する確率より低いであろう不穏を投下するのはあまりにも無粋だろう。ちゃんと聞いていましたと言わんばかりにファインの髪をめちゃくちゃにする。
「わあー」
懸命に揺れる尻尾が喜びを表していて、余計なことを考えている場合ではないという結論が力強く押された。実際対策をしていた施設は片手で足りる数しか覚えがないし、していてもパニックを起こさなかった事はない。通り魔に気を付けようということを無意味という気はないが、不毛なことだと思う。それよりもエンジェルが思いの外多忙で遊ぶ暇が無いことが気になる。でもエンジェル自らがそれを選んだから、私達には何も言えない。
「何だか緊張してまいりましたわ」
「俺ちゃんも……」
「私もです……が、二人共。私達はただ売りに行くのではなく、お客さんにもなりますよ」
灯火の言葉に、ほんのり顔色を悪くしていた二人が反応する。それを見守るエンジェルの眼差しは綿毛のように柔らかい。
「他の方の出し物はたくさんありますから。物販、展示、ゲーム……様々なものと、その作り手さんに触れることができるって、わくわくしませんか」
灯火の言葉にぴーちゃんも三月も、楽しいが注ぎ込まれていくように表情が明るくなっていった。そのまま何があるかの雑談に移り、こちらはファインをめちゃくちゃにし終えてぱっと手を離す。ファインが口でぱっと音を付けてくれてかわいい。
「楽しもうね」
エンジェルの声に、各々が是と返した。



ファインを成祈の元に届けて引きずり出されたのを見届けてからすぐに出発した。お散歩やお買い物の時のように最後まで歩きではなく、一駅だけ電車に乗る。ぴーちゃんも三月も車の経験はあっても電車は無いらしく、駅を見渡して目を輝かせたり電車を見て驚いたりしていた。私達の乗る電車が来るまでに観察した結果、二人揃って扉が自動で閉まるのが怖いことが判明し、乗り込むときから目的の駅から出るまで私はぴーちゃんを、エンジェルは三月を抱っこしていた。目を回すほど素早く変わる景色については楽しそうだったので、今後遠出の許可が降りることがあれば三駅くらい電車に乗る旅程を入れるのはありかもしれない。
駅を出てからはエンジェルを先頭に、手を繋いで歩いていく。十分は掛からなかったかな、という所で学校の正門にたどり着いた。門は開かれており、私達同様入っていく様々な人たちがいた。相変わらずげんなりしそうな暑さで、野外の出し物はない。皆、大きな建物の中に入っていく。
「わー……」
「ガッコー、漫画で見たー」
「思ったより学校だろう?ここ、本当に人間の中学校でね。週に三日、僕たちのクラスが借りてるんだ」
「ほんもの!」
「本物ですわ……音楽室というものもあるのかしら?」
「もちろんあるよ。準備が終わったらススと探検しておいで」
門をゆっくりと通り過ぎなら楽しみだねと花を咲かせる二人。ここには、そういった光景が溢れていた。


与えられた教室の半分で、先に送っていた荷物を解き皆で考えたスペースを作っていく。メモと照合しながらじっくりと組み立てていく作業は、何だか編み物をしているような感覚だった。軽く挨拶を交わした隣のスペースは、ここから少し遠い保護施設から来ているらしい。挨拶をしてくれている保護者にぴったりとくっついて離れない犬っぽい耳を持つ子が可愛らしかった。もう一人の通話をしているらしい保護者には身体的な特徴が見つからない子がくっついていた。くっついている施設なのだろう。
灯火とエンジェルは運営側の打ち合わせに呼ばれたことでそう長くはないだろう空白の時間ができて、二人共教室の中をウロウロしたりしている。丸一日でも見ていられる。
「三月」
そんな中で視界に映ったものが気になり呼びかけると、柔らかな桜色の髪と耳がふわりと揺れた。
「裾、気を付けて。そこ、角がささくれているみたい」
「んおあ、マジですねえ」
三月がそれに気が付き、触らないようポンチョを手で押さえた。夏用の薄いポンチョを引っ掛けてしまうと大穴が開きそうな、敷物が届かなかった机の角のささくれ。この会議机も学校から提供してもらっている備品であり、ささくれといえど無許可で直接手を加えるのは気が引ける。
「これ危ないよねえ?」
「危ないね。なにか……紙当てておこう」
「えーここにい?」
「手頃な布がもうないからなあ。ハンドタオルぶら下がってても同じじゃない?」
「にゃー、そうかも。ねーぴーちゃーん」
お隣さんを凝視していたぴーちゃんが呼びかけに応えてぴょこぴょことこちらへやってくる。ご機嫌な様子だ。
「どうなさったの?」
「ここ見てよ」
「え?なに……イヤーッ!」
それは高く綺麗な悲鳴だった。ぴーちゃんにしては控えめな声量だったものの、案の定お隣さんが驚いている気配がして、二人共ハッとしていた。
「ご、ごめんなさいませ!なんでもありませんの!です!」
「うるさくしてこめんなさいー」
二人が直ぐに完璧な謝罪をしてくれたから私はなにも言うことがなく、合わせて頭を下げた。向こうも会釈を返してくれる。
「はあ、一回はやってしまいますわね……」
「ぴーちゃんの良いところだからねえ」
三月がよしよしと撫でる。とりあえずささくれを隠してしまおうとメモ用に持ってきたルーズリーフを一枚手に取ると、今度は小さめに驚きを含んだ悲鳴が聞こえた。ルーズリーフは戻した。
「どーしたのっ」
聞き慣れない声のする方を向くと、お隣さんの犬耳さんが二人にくっついていた。らいらいくらいの身長の子が、両手を広げて精一杯二人まとめて抱きしめている。
「さ……三月……」
「こりゃあ……」
かわいいねぇ……としみじみとした呟きが重なっていた。私も心の中で重ねた。二人が人見知りをしない、というより他人を警戒しにくい性格なのはわかっているが、お隣さんの保護者が慌ててこちらに来るので、やんわりと間に手を入れて分離しようとしたら私の腕にくっついた。大きくてきらきらした黒い瞳が私を見上げている。
「ヒナちゃん!す、すみません」
「大丈夫です、悲鳴を聞いてきてくれたんだよね」
慌てる保護者をよそに、ヒナちゃんと呼ばれた子はうん!と元気一杯に返事をしてくれた。後から良い子ですねぇ〜と三月の声。
「お騒がせしてすみません。ヒナちゃんもありがとう、大丈夫だよ」
「むん。なにあった?きになるよ?」
ヒナちゃんは声の主を聞き分けていたようで、ぴーちゃんを見ながら問いかけた。
「そこの、机の角っこがバリバリですの。擦ったら痛いと、思わず声を上げてしまいましたわ」
「もふ……」
「あらま、本当だ。危ないですね」
ヒナちゃんの耳がピンと上に伸び、保護者の人もささくれを確認してくれた。応急処置として、机の上から角に合わせて紙を曲げて垂らし重しか何か乗せておくと伝えれば、後ろで三月が可愛くないよなあ〜とため息を付いたのが聞こえた。
「それでぴーちゃんに案をもらおうかと思ったら悲鳴あげちゃったんですよお。なんか無い?」
「ええ、私にそんな期待をなさっていたの……?う〜ん、看板っぽいのは全部揃っていますし、そもそもここには商品を置いてませんし」
「そ〜なんだよね〜。でもさーあ?なんか……可愛くないじゃん」
「それはわかりますけど」
「なんか絵ぇ描けたらよかったんだけどなあ。今だけマーシュ召喚できない?」
「召喚の負荷で瀕死になりそうだからダメです」
なるほど絵か。それなら灯火とエンジェルが良い感じにしてくれるかも。とりあえず紙を当てて戻ってくるのを待つことにして、その間に二人とヒナちゃんはあっという間に仲良くなり交互に抱っこしたりされたりしていた。


「ああ……ですね。紙ではなくテープを貼ったところで結局不格好ですし、何か描きましょう」
戻ってきた灯火に留守の間のことを報告して、折り目の付いたルーズリーフを一枚渡したところで、視界の端で動きがあった。
「むん!」
「ん?わ……ヒナちゃん、ですね」
少し離れた位置で二人とくっついていたヒナちゃんが片耳を立てて走って来て、灯火の腰にひっついた。ここまでくると日常生活に支障が出ていないか気になる。
「むん!」
「どうしたの?保護者の方が慌てていますよ」
慌てている保護者の方もこちらがヒナちゃんを嫌がりはしないと察したらしく、引き剥がそうとまではしていないから本当にいつもこの様子なのだろう。ヒナちゃんは気にした様子もなく、尻尾を揺らしながら紙を見ている。折れ曲がった紙になにか面白い思い出でもあったのか、あるいは。
「ヒナちゃん、言わないと」
「むんぬぅー、わぅ!あふ!」
「ヒナちゃん人語に直して」
「わう?」
直して、と言われて不思議そうに首を傾げた。三回ほど指摘されては吐息多めの鳴き声で返答していたから、ヒナちゃんは言葉の分別が曖昧になりがちな子なのかも。珍しくはあるか居なくはない。人間の言語を聞き取れるし話せるけれど、自分で発音するときに鳴き声と混ざってしまうのだろう。
「ねえ、ヒナちゃんはその紙に興味があるようだけど、話を聞いていたんじゃないかな」
「わふ!」
エンジェルの言葉にヒナちゃんが反応した。黒い宝石のような瞳を存分に煌めかせている。
「ヒナ、落ち着いて……興奮しちゃってもう。ヒナちゃん、絵描きたいみたいです」
保護者の方から補足が入ると、それを肯定するようにわとうを混ぜような音を出しながら首を上下に小さく振ってくれた。灯火は嬉しそうに協力に対する感謝を伝えると、ヒナちゃんからうちの子達に目線を移す。そういえば名前、ヒナで終わりの子かな。
「二人もどう?一緒に描かない?」
描けなくて話を渡した二人がどよめいた。灯火も無理強いするつもりは一切無いだろうけれど、せっかく亜人、それもお隣さんが手を貸してくれるというなら声をかけたくなるのもわかる。
「んええ、うーん……」
「わたくし、いわゆるガハクというやつですのよ」
あまり向いていない、と言う二人からは絶対に嫌ではないが恥ずかしいのはなるべく避けたい、でも灯火が言うならと、そういった雰囲気が感じ取れた。それなら、でもそこまでしてやらせるのもなあとエンジェルに目線を逃がすと、ばっちり目があった。エンジェルもきょとんとして、それからふわりと微笑む。大輪の花のように愛らしく青空のようにきりりとしているな……と、端正な笑みを見て意識が遠くにいきかけると同時、エンジェルも緊張しているのだと根拠のわからない直感があった。
「絵といっても色々あるだろう?何を描くのか意見して良ければ、例のアイスクリームがいいのだけれど」
「ああ、そういえば。良いですね、ヒナちゃんにも見せて……ああ」
「うん、あれなら二人にも可愛く描けると思うんだ。もちろん僕も手伝うよ」
「あー……まあ……そう、かも?」
「わぅぁんむぁ!」
「ヒナちゃんなんて?」
いつの間にか保護者の方にくっつき直していたヒナの声は相変わらず人語では無いが、様子を見る限り肯定的な反応をしている。三月もまあそれなら、と乗り気になってくれたようだが、ぴーちゃんが何かを言いたげに手を手でむにむにしていた。
「ぴーちゃん?」
促してみると、私を一瞬見たあとにエンジェルを見た。表情が、なんというか。出だしに失礼ながら、とつきそうな顔をしている。
「ぴーちゃんはやめておく?」
「いえその……エンジェルさま!」
「うん」
「あれ、でも例のアイスクリームでもありませんわ!」
「ん、……は。ああ、ご、ごめん!」
ほんの一瞬、何?といわんばかりの沈黙が泡のように膨らんで弾けた。
「すまない、蔑ろにした呼び方をしてしまった。言い訳になるけれど、そんなつもりは一切ないんだ」
ぴーちゃんも気まずそうにしていて、わかっていますと小さく返事をした。
「エンジェルさま、正しくお呼びになってくださいませ」
「うん。おひるねアイスクリーム、だね。僕はレモンの子が好きだよ」
「はい、ありがとうございます。私もレモンちゃん好きです!」
緊張が滲み出た空気を察したのだろうぴーちゃんが、換気するように明るい声を出した。お隣さんの二人は少し困惑した様子だったが、ヒナがわふわふして保護者の方も納得してくれた。
「俺ちゃんコーラ食べたいなあ」
「コーラフロートでしてよ」
「おひるねアイスクリームガチ勢だあ」
「当たり前でしょう針音も関わって皆で作ったマスコットうちの子ですのよ」
「トーンが低いて〜」
三月の柔らかい声が空気を緩めて、エンジェルもほっとした様子だった。ぴーちゃんが歌以外でここまで思い入れがあるのも珍しいなと思ったが、針音の存在があるなら納得だ。住通問わずそれなりの人数が味の提案をしていると聞いたからぴーちゃん本人もおそらく関わっているだろうけれど、この様子だとデザイン案の方に針音がいるのだろう。いつの間にか出来ていて、皆が気に入っている事しか知らなかった。帰ったら聞いてみようかな。
「ぴ、ぴ。お二方、失礼いたしました。エンジェルさま!ぜひ描き方を教えてくださいませ!」
「うん、任せてくれ。ヒナちゃんも一緒にね」
「わふぁー、わ!あー……やる!」
気が付いたのか、人語が戻ってきた。


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