みっつめ
がうにごう
正午をすぎると、嵐の勢いが少し弱くなったのを感じた。未だに風は強いが、窓の外が白くなるほど雨が強くなることはなくなったようだ。廊下の窓から外の様子を見ながら、洗い場に向かう。腕からはみ出ている尻尾が迷子のようにゆらゆらと揺れていた。
「クリック、降ろすよ」
抱えていたタオルを被った生き物が動く。寒がりなクリックにとって、夏場とはいえ大雨に晒されながら転んだのは相当堪えたようだった。ゆっくりと降ろすと、とりあえず自力で立つことはしてくれたが、それがやっと。かたかた震えながら泣いている様を早く止めてあげたい。
「服脱げるかな」
念のため聞いてみると、ゆっくりとシャツの裾を握って持ち上げようとしてくれた。が、もう動くのが億劫なんだと言うように動かなくなってしまった。
「私が手伝ってもいいかな」
小さく頷いてくれたのを見てから、これ以上不安にならないように、ゆっくりと濡れた服を脱がせる。薄手のタートルネックはずぶ濡れでとても冷たかった。その上にバスタオルを被せて、なるべく見えないようにその下の衣服も脱がせていく。ただでさえ肌をあまり晒したくないというクリックにとって、人前で肌を晒すうえに脱衣を手伝ってもらうということがどれだけ恥ずかしいことなのか、想像することはできる。
冷たい服を脱がし終え、タオルでくるんだクリックをもう一度抱き上げてお風呂場に入る。こういった事態に備えられた小型の浴槽には人肌より少し温かい程度のお湯で満ちていた。顔や手足についた泥をシャワーで流したあと、浴槽の縁へ足だけ浸かるように座らせてから、エプロンのポケットに突っ込んでいたペットボトルの水を近くに置く。
「のぼせてないか見に来るけど、ゆっくり温まっていいからね。着替えは出てすぐの籠に入れておくから」
はずかしがりやのクリックにはこれ以上構わないほうがいい。体が動くようになれば髪なども自分で洗ってくれるだろうし、きっと今は一人で居たいと思う。無言で頷いたクリックを少しだけ撫でさせてもらってから、お風呂場を出た。さて、着替えを用意したら濡れた衣服を洗おう。泥汚れが酷いものを放置すればもっと酷いことになる。
作業の前に代わりの着替えを共用のクローゼットへ取りに行くと、手に布を持ったマヌゥが顔を出した。
「ぬーちゃん」
声をかけると耳がぷる、と震えた。そして私に差し出した布は、マヌゥが最近買っていたお気に入りのカーディガンだった。綺麗に畳まれている。
「くりーく、なんか、大変そうだから……」
聞くよりも前に呟いたマヌゥにいつもの快活さはなく、心から心配そうにしているようだった。
「ありがとう、きっと喜んでくれるよ」
「そー……だよね!くりーく、さみしがりだもん」
「うん、さみしがりだもんね」
私がカーディガンを受け取ると、いつもの愛らしい笑みを浮かべて去っていった。
「それで、何がありましたか」
事務机で暇そうにしていた八鐘にクリックの様子を見てきてほしいと伝えてから、灯火に一連の出来事を報告しようとしていたら先に声をかけらた。外から預けられている子だからか、表情がいつもより厳しい。
「うん。話してくれたのは、クリックが外で傘を差したくて屋上に出ていたこと。そうしたら突風が吹いて、傘が手から離れてしまったこと。幸い敷地内に落ちたけれど、焦って急いで取りに出て、ぬかるんだ地面で転んだこと。私は走ってるクリックを追いかけてみたら外で転んでいるのが見えたから連れ戻した」
「あー……なるほど」
「回収までにそこまで時間差はなかったと思うけど、雨が強くなっていたのと浅い水たまりに入っちゃってて、すごく濡れてた。私が見た限りは怪我は無かった」
「そうですか……」
流石に、クリックが私達を悪く言うことも、人柄から考えて保護者に苦情を入れられることもないとは思うが、監督不行届と言われてしまえばそうだと認める他ない事態ではある。亜人の保護者というのはどうしても過保護になるものだ。灯火はそれを想像して、暗い表情を浮かべたのだろう。以前勤めていた施設には、こういった事態を起こさないために厳格な管理がされていた所もあった。
「うん、わかりました、保護者の方に連絡しておきます。こちらのことは気にせず、クリックの事をよろしくお願いしますね」
灯火は暗い表情をすぐに消して、いつもの穏やかな微笑を浮かべた。私もそれに応えよう。
「あ、傘の方は?」
「うん、木に引っかかってしまっているから、これから取りに行こうかと」
「そうですか、わかりました。よろしくお願いします」
もう一度頷いて、行こうと後ろを振り返ると、離れた席にトヌルが居た。そういえば、と自然と足が向く。トヌルも私を見ていて、話は聞いたと言いたげな凛々しい表情をしていた。
「スス、行こう。今、雨も風も弱くなっているから」
いつも控えめに伏せられなちな目は、怒りにも似た熱意を帯びながら開かれていた。頼もしい限りではあるが、悪天候の中での作業になる。難しいか、はたまたすぐ終わる程度の具合かはわからないが、気疲れして転んだりしたら仲良くお風呂に入ることになるだろう。
「うん。近くまで抱っこしていい?」
「へ?」
程々にね。ぽかんとしたトヌルを軽く撫でてから手を繋ごうと差し出す。なんとなく私の意図が伝わったのか、はにかみながら応えてくれた。
結局抱っこはしなかったが、手を繋いで林の方にやってきた。そこまで密集もしていないため、揺れる木々の枝に包容されるように引っ掛かっているオレンジ色の傘はすぐに見つかった。先程はここにあるという確認しかしなかったが、近づいてみてみると奇跡的とも表現できそうな絡まり具合であることわかった。複数の木から伸びている細い枝が重なり合う部分に入り込んでおり、今日が台風で嵐であることを踏まえたとしても、何かが意図的にねじ込んだのではないか、と。そんなふうに見える。果たしてここからトヌルの力だけで傘を救出できるだろうか。何本か枝を切るか?
「うわあー…これ、よく……」
トヌルからも驚いた声のような、あるいは気色悪そうな声が聞こえた。
「トヌル、取れそうかな」
「うーん……少し枝を折らないと難しいかも。折ってもいい?」
「私も切ろうかと思ってた。折れる?」
「うん、多分あの辺りを空ければ……」
実在する魔法使いは、杖を用いたり手をかざしたりはしない。いや、少なくともトヌルはそうだった。私が亜人であるからなのか、魔力というものをわずかに感じ取れる。例えるならばそれは煙のように漂い、炎のように揺らめく。目に見えているわけでもないそれが、存在することを感覚が認めていた。それはトヌルが纏うもので、その一部が切り離されてふわりと飛んでいっている、そんな気がした。
パキン。
パキ、パキ。
細い枝は小さくて軽い音を立てて折れていく。雨と風にかき消されてしまう音も多かった。それでも、撫でれば折れるほど脆くはない。それを、一歩も動かずにただ見つめているだけのトヌルが折っている。優しくて聡明な魔法使いがそれを滅多に扱わない理由は、愛しながらも恐れているからなのだろう。
ぱらぱらと折れた枝が地面に落ちていた。小気味良い音は止み、傘の、下部というよりは上部にいくらか隙間ができていることが確認できたが、ここから取り出せるのだろうか。私には見ていることしかできないでいる。
「ん……あ」
何かに気が付いたトヌルの声が届いた瞬間、雨の音さえ掻き消す突風が吹いた。咄嗟にトヌルの手を握ったし、トヌルは浮かび上がろうとした傘を掴んだらしい。
「あっ」
ものを落としたときに、慌てて力いっぱいに手を伸ばすのと同じだと思う。おそらく上から慎重に抜き出すつもりだったものを、隙間の少ない下の方へ引っ張ってしまった。その時、たまたま硬い枝が混ざっていたんだと思う。びり、というかばりっと音を立ててから、傘は手に取れる位置に滞空した。開いたままのそれが、たった一箇所縦穴が空いただけで済んでいるなら、生還ということにしてもいいと思う。おそらく青い顔をしているだろうトヌルを、濡れることも気にせず抱き上げた。
「おかえりススちゃ……ん?とぬー?」
おそらくクリックのことで話があるのだろう八鐘が玄関で待っていた。そして抱き上げられているトヌルを見て首を傾げる。
「突風で少し破けちゃった」
「あら。うんうん、トヌルは頑張ってるよ。てかね、大丈夫っぽいよ」
「大丈夫?」
思わず聞き返した。確実に責められはしないだろうが、傘を大事にしているクリックなら落ち込みはしそうだなと思っていた。不思議に思ったのか、トヌルも丸めていた体を伸ばして八鐘の方を向いたからついでに雨合羽のボタンを外してしまおう。
「うん。傘でなんか作りたかったんだって。だから……いや、自分で聞いて。クリックがススがいいってさ。俺フラれちゃったよ」
「私?いいけど……八鐘、嫌われてるの?」
「そんなあ、てやめんか。八鐘せんせ忙しいからいいって。つまりはススちゃん、暇人認定されてるぞ」
なるほど。クリックらしい理由だった。ボタンも外し終わった。じゃあよろしく、と立ち去ろうとした八鐘が一歩踏み出しただけで止まって、もう一度こちらを見た。
「そう、怪我もないしすぐお風呂入れてくれたから大丈夫だと思うわ。くーちゃん冷えにめっぽう弱いけどそれ以外は強い子だし。これ以上は何もできんから、心配しすぎるなよ」
そう言って今度こそ去っていった。気にしすぎるほうがクリックには負担になるということだ。聞こえるかはわからないが小さな背中にお礼を言って、まずはトヌルを拭くことにした。
大丈夫と言われたものの、やはり落ち込んでいるトヌルを伴って洗い場に向かう。一応、脱衣所に入る前にノックをして声をかけてみると、既にお風呂を出ているらしいクリックの了承の言葉を聞き終えてから入室した。
クリックは部屋の隅にある木製の長椅子に座っていた。ちゃんとカーディガンも着ていて、不安そうに裾を撫でていた。マヌゥはちゃんとクリックの力になっている。こちらを見たとき、私の隣にトヌルがいることに驚いた様子はあったが、今は落ち着いている様子だった。
「あ……傘」
トヌルが抱えていたものを確認して、そう呟いた。
「取りに行ってくれた……の?ごめんなさい……」
「え、いや、謝るのは自分のほうで」
「え?」
申し訳無さそうなクリックに申し訳無さそうなトヌルが謝り、なんとも困った空気になっていた。トヌルは謝罪の根拠となる傘を見せるためにクリックの方へ向けて、手で押さえながらゆっくりと開いた。残念ながら縦穴が消えていたりはしなかった。
「ここ、取るときに引っ掛けちゃって……ごめんね、丁寧にやるつもりだったのに」
トヌルが指で示す。クリックは一瞬、小突かれたような表情を浮かべた後に大慌てで首と腕を使い、否定の意を表した。
「謝らないで、トヌルあの、そんな顔、ううん違うの、えっとね……」
クリックは言わなければいけないが言葉がまとまらないといった様子で、あのそのと繰り返した。私とトヌルもなにか事情がありそうだという考えは一致しているようで、クリックの言葉を待つ。ぱちん、と傘を閉じる音が聞こえた。
「あの……二人とも、私が……その、こんな……こと、になった理由、聞いてくれる?」
話の筋を見つけられたのか、手をぱたぱたさせていたクリックが動きを止めてこちらを見た。私達が頷くと、無意識に動かしていたらしい手に気が付いたのか、脚の上にそっと置かれた。
「あのね、その傘で……その、私も、何かできないかなって……思ったの。でもそれは、上手くできなかったりしたら、傘じゃ無くなってしまうから、最後に傘として使いたくって」
そこまで言うと、自分の行動を思い出して恥じているのかうつむいてしまった。今はなにか言うべきではないだろう。話の続きをじっと待つ。一方のトヌルは不安なのか、私を見上げた。撫でた。
「今日の台風しか、雨、降らなくて……いや、その、バザー……にだしたいわけじゃ、ないんだけど」
ああ。そういえば。確かに、天気予報を見る限りバザー当日までにこの台風以外で雨が降る日は無かったことを思い出した。季節柄ゲリラ豪雨などがなくはないけれど、予測できるものでもない。最も傘らしく使うためには、今日しかなかったのだろうと考えられる。
「し、締切みたいに思ってたから……だから、こんなことして……だっだから、だからね!トヌルはなんにも、悪くないよ、元々、切るつもりだったから……ごめんね、ごめんなさい、取りに行ってくれたのに、悲しい気持ちにさせて」
「へあ、あっあの、ううんあの、大丈夫です、というか、その、自分もその、手伝えたらと進んでやって、酷いことしちゃったと思って……」
二人とも困ってしまった。一人は申し訳なさと恥ずかしさで、もう一人はそれを慰めたいがどうしたらいいかわからないといった様子で。困りすぎて泣きそうになっていた。とりあえずトヌルから傘をそっと受け取って近くに立て掛けて、トヌルを撫でる。助けを求めるように見上げてきたトヌルの手を握って、同じく困り果てているクリックの隣に座らせて、両手で二人の手を握る。このまま抱きしめたいがまずは話をしたほうがいいだろう。
「トヌル、こうなってしまって、悔しい?」
「くやしい…うん。たぶん……そう。上手くやりたかった」
「うん。悔しいけど、傘を取り戻せたのはトヌルのおかげだね」
「ん……そうかも」
「嬉しい?」
そう問うと、トヌルは一瞬眉間を見ようとするように目を寄せてから、その表情をゆるりと和らげた。
「うん」
にこ、と微笑んだトヌルに取り繕った様子はなく、自然なものだった。そしてふっと息を吐いて、横にいるクリックの方を向く。クリックもそれに応え、二人は見つめあっていた。
「うん……嬉しい。ねえ、クリック、その……言い方は、ちょっと……悪いと思うんだけど、魔法が使えて嬉しかったんだ。使う理由が出来た」
「りゆうが……できた」
「うん。うれしい。だから、今度はちゃんと、クリックの力になりたい。だからね、えっと……自分が思ったのは、クリックに怪我がなくて良かった。それから、クリックのこと応援したい」
「お……応援?」
トヌルが頷いて、空いているもう片方の手でクリックの手を握った。私から見て内側の手を握っているせいで、腕をクロスさせているのは辛いだろうとトヌルから手を放そうとしたらぎゅっと握られた。想いを伝える勇気になるのならいいのだけれど。
「クリックは、その……出ないでって言われてるのが危ないからってわかってると思う。だからその……そうなんだと、思うし。自分もそう思う、良い事じゃなかったとは、思うけど、でも!クリックがしたかったこと、すごく素敵だと思った。自分は考えたことないけど、クリックが本当に傘が好きなんだって嬉しくなった。それにね、心配かける事って悪い事じゃないんだよ」
トヌルのいつになく饒舌な姿にけおされているのか、クリックはどこか困惑した様子だった。それでも、澄んだ瞳をトヌルから目を逸らさないのは話をしっかりと聞いているからだと思う。
「心配してるってことは、クリックのことすきって事だから……その、心配してもらえてるって開き直っちゃっても、いいかも?なんて……どうかな」
最期は少し自信が無くなってしまったのか、少し声は小さくなっていた。クリックはというと、ぽかんとした後にふっと緊張を解いたような息を吐いた。私の手を握るトヌルの手が強張った気がする。
「そうかも……ただ怒ったり、注意するわけじゃないよね。私……しんぱい?」
クリックが私を見る。そこに不安はなく、確信しているような明るい表情だった。嘘偽りなくゆっくりと大きくうなずく。
「私たちは、クリックもトヌルも元気でいてほしい。だから危ないことはしてほしくないし、してほしくないことは注意する。けれど、注意したことは悪い事ではないんだ。それは焦って転んだら危ないからであって、一緒に行けば焦ったときに手を引ける。私たちはクリックのしたい事を笑ったり後回しにしたりしない、やりたい事を尊重するって約束する。確かに、屋上から風に乗って傘で飛びたいと言われたら頷けないけれど」
最後の例えで二人が少しだけ笑ってくれて、心のなかでほっとした。
「私たちはクリックが、トヌルが大好きだからちっちゃなことでも心配になってしまうんだ。だから、心配してほしくないなあと思ってくれるなら、相談してくれると嬉しいな」
多分、保護者として言うべきことは言えた。多分。クリックの表情も明るいままだ。
「うん……ごめんなさい」
その言葉はクリックにとっても区切りになると思う。
「うん、ありがとう。あと、私もクリックの考えは素敵だと思うよ」
トヌルのだよね!という同調する声とクリックの手が驚きでこわばったのはほぼ同時だった。ここまで反応されるのなら、恥ずかしいというよりは触れてほしくない部分なのかもしれないな、と今更考えつく。
「どうか、こんなことで、とは思わないでほしいな。それだけ伝えたかった」
トヌルが頷いてくれて、クリックもぎこちなく、やっぱり恥ずかしそうに微笑む。ちょっと突っ込み過ぎたかもしれないな。なるべく不自然にならないように話を切り替えるには何がいいだろう、と頭に浮かんだのは、穴の開いたオレンジ色の傘だった。
「そういえばクリック、傘に穴をあけるって、何をするの?」
それはトヌルも考えたようで、私が言おうとした言葉がそのままトヌルの声で紡がれた。クリックの反応を見てみると、照れというよりも先ほどのように言葉をまとめているような表情をしていた。悪い選択では無かったと思う。私が言ったわけじゃないけれど。
「ん-とね……あ、パッチワークだ。あのね、傘に何個か穴を開けて、柄の入った生地を縫い付けたらかわいいかなあって。みっともない感じになるか、かわいくなるかはわからないけど……」
「パッチワーク……て、あの……カバンとかにする?」
「うん、そう……その、そんなに綺麗には出来ないよ?でもその、ねねちゃ、あっご主人様がね、いっぱい柄の入った生地の切れ端があるんだけど、何かしない?って言っててね。それで、バザーでみんなが作ってるの見て、思いついたんだ」
「なるほど……いいね!もし、もしよかったらでいいんだけど、作るところ見てみたいなあ……とか、だめかな」
トヌルが控えめに聞くと、クリックは豆が一つだけぶつかったような表情をした。
「えっ……そ、そんなに面白いものじゃないよ?」
「見てみたい……お世辞とかじゃなくて。えー……正直に言うとね、クリックとはなし……んん、これも違う気がする。クリックの……近くにいたい?」
「ちかくにいたい」
全く想定できていなかったらしいクリックが感情の抜けた声で復唱すると、トヌルも少し焦った様子でごめん、と口にした。
「困らせたくはないんだ、ごめんね。今言う事じゃなかった。応援してる」
話を一気に切り上げようとしたトヌルに今度はクリックが焦ったようであっと声を零した。
「えっとあの、ううん。びっくりしただけ……どうしてか聞いてもいい?」
問われると、トヌルは困ったような言うべきか迷うような声を漏らして数秒、私を見た。手が離されないためにここに居るだけだった私に向けられた視線になんと応えればいいのか。
「な、なんかこれ、自分がクリックだいすきみたいな言い方になる……」
いいと思う。
「いいと思う」
「え!?」
「だ、だよねごめんね怖いよねっ」
「えっいや、え?ううんだいじょうぶ?ん?うん?」
驚きと困惑で様子がおかしくなったクリックと、積極的に人と過ごしたりしないクリックからしたら迷惑だろうと考えたらしいトヌル。お互いに手は繋いだままだった。
「トヌル、私が言うのも違う気はするんだけどね、クリックは大丈夫だよ」
何の情報もない言葉だな、と言ってから気が付いたが、なんというかこれ以上クリックを混乱させたくもなかった。私から見たクリックは、一人でも過ごす事は出来るが誰かと居ることが大好きな、だが慎重で恥ずかしがり屋なため中々積極的にいけない、という子だ。受動的になりがちで、トヌルもその面をよく見ていたのだろう。
「大丈夫……かな?」
「たぶん?」
「ええ……えっと。うん……その。クリックとはそこまで話さないけど、でも話すときって結構、楽しい話が多かったなあと思って。今回もクリックのことで、役に立ちたかったのも……もっと、知りたいっていうか話したいっていうか……みたいな。あー……仲良くなりたい。うん。あでも作業見たいって言うのはそのために邪魔したいわけじゃなくて、知りたいのもあるけど本当に興味があるの。静かにしてる」
トヌルもあまり社交的な方ではないから、ここまで積極的な姿は初めて見た。それはクリックにも同じようで、驚いている。豆一つどころではない表情だが、思った通り嫌そうではなかった。
「わ、わ、わたし……しりたい……?」
「うん。あー……や、やっぱり作業はだめかな……見られてたら落ち着かないとかあるだろうし……断りにくいかな……」
最後の方は小声になっていたから混乱したクリックに聞こえたかはわからないが、手がぎゅっとしてからゆるまった。
「私も、あの……実はその、パズルの話もっと聞いてみたいなと思ってて……他のことも。私も、トヌルと、な……、な、なかよくなりたい……な」
わかりやすく顔が赤くなっているし、声も震えていた。それでも言い切り、逸したいだろう目も合わせたまま。受動的な姿勢を変えたいと言っていたクリックの挑戦結果は、トヌルの満開の笑顔だ。
「うれしい」
それを見たクリックもこわばっていた頬をゆるめた。外は台風だが、ここだけは晴天の中ネモフィラが咲き誇っているかのような雰囲気があった。この光景を見られるというなら台風もただ厄介な天候ではないかもしれない。トラブルであっても、こうやって何かしらのきっかけになる可能性はある。良くも悪くも。
「それなら、トヌル。一緒にやる?」
「え。いいの?」
「うん……大きい傘じゃないし、担当するところを決めてになると思うけど、私家から生地持ってくるから、トヌルに選んでほしいな」
「い、いいの?見てるだけでも……」
「ううん、全部私でもつまんない気がするし」
「わー……あ。ねえね、マヌゥとかも誘ってみる?そういうの好きそう」
「マヌゥ……」
名前を聞いたクリックが表情を曇らせたのを見て、トヌルが不思議そうに首を傾げた。何か揉めたというわけではないし、トヌルが知らないのは当然だろう。今度はクリックが、私に問いかけるような視線を向けた。
「いいと思う」
トヌルと同じことを同じ声色で伝えることになった。まるで機械のようだが、これ以上の返答も無いと思う。クリックが受け入れ切れていないか、あるいはそういった態度をとったことを気にしているのかまではわからないけれど、貶めるような話し方はしないのはわかっている。トヌルがどうであれ、その気持ちに対して攻撃的になったり嫌悪感を抱いたりはしないだろう。
「そうかな……私、マヌゥが切った角で物作りしたいって聞いた時、ちょっと嫌だなって……思って、言っちゃった。身近なものにもたくさん、そういうものがあるのはわかってる、はずなんだけど……」
「ちょっといや……」
「何でだろう、私もわからなくて……マヌゥとかマーシュがって、知ってる人なのが引っかかるみたいなんだけど……それから、あまり話してなくて。謝った方がいいとは思うんだけど、まだわかんないままで謝るのも違う気がしてて」
「んー……そっかあ。何となく、いやー感じなんだ?」
「うぅんん……私、この尻尾……たまに、その。えっと……ちょ、ちょっと気持ち悪いかも、なんだけど。ぺりぺりって、皮むける事があって、その想像が頭にひっついてる感じ……?」
「んー……?あー。そっか……クリックはちゃんと、血が通ったものって思ってるんだ?」
「え?うん、そうでしょう?」
「そりゃそうなんだけど……二人は、たぶんだけど。自分から採れる物だと思ってるっぽい?」
「もの」
「たぶんだけど、歯が抜けちゃったみたいな感じではないと思う」
「あ」
それかも、と言いたげなクリックの表情が見えた。
「クリックの考えはクリックの考えだからいいと思うし、ヌゥちゃん全然気にしてなさそうだったから謝る必要は無いと……自分は思うけど……ごめん、聞かれてないのに」
「え、いや!えっと……聞こうとは思っていて……だから……トヌルは、角とか、髪って……どう、思うの?」
「えへ……ごめん。んーとね、体の一部だとは思うかな。でもなんか、んー。地面と植物みたいな関係に思える……かも?」
不思議な例えをしたな、と思ったのはクリックも同じだったようだ。んー?と言いたげに首を傾げたクリックに、トヌルが苦笑いした。
「上手く言えなくてごめんね。地面が体だとして、そこからお花とか木とかが生えてる。そんな感じ?あー……まあ、取れちゃった後は別のものだと思ってるって事なのかな」
「地面が体……」
クリックが斜め上を見つめた。どうも上を見る癖があるらしくて考え事している時はすぐにわかる。邪魔をしないように出来るのはありがたい。トヌルの手を握る力が強くなったのは不安からだろうか。
数秒後、クリックの視線がトヌルへと戻った。解せないと言いたげな表情ではあったが。
「何となく、うん。わかった……かな。わかるのに、なんで私……マヌゥのこと、好きなのに」
「うーん。好きだから、とか」
「すきだから」
その可能性を排除していたらしいクリックが頭に星がぶつかったような顔をした。トヌルはそれに不思議そうにした。自分はもしやマヌゥが嫌いなのではと考えていたのかもしれない。正直、私や他の先生もトヌルと同じことを考えていたから、支障が出るほど悩んでいる様子もないため見守る姿勢で居た。
クリックは、受動的だ。自分からマヌゥに話しかける事は滅多にないし、マヌゥは仲良しな子も多く毎日色んな子と遊んでいる。だから話す機会が中々無いのだという事は来たばかりの私でもわかった。そしてクリックは基本、話しかけてくれる子が大好きだ。第三者がちらりと見るだけで明らかに嬉しそうになったクリックを何度も見た。一人で居るときにクリックを見かけると声をかけてくれるマヌゥの事も大好きだろうし、マヌゥのような明るくて活発な子を尊敬している様子もあった。
「すきだから……?」
クリックが繰り返す。
恐らく、大好きなマヌゥの体の一部である角をただの物には思えなかったのだと思う。極端に解釈するなら、私が直るからといってどこか骨、それこそ歯を抜き取り加工しようとすれば流石に正気か?と問われるだろう。クリックが尻尾から剥けた皮で鞄を作るか、というクリックの考え方の話だ。クリックは別に、マヌゥがそうすることを嫌だとは言わなかったし、実際にそこまで思ってはいないだろう。ただ何となく、違和感があって完全には受け入れがたいのだ、と。
「ひえ」
思考の末、何かには行き着いたらしいクリックが気の抜けた、というより恐ろしい事実に気が付いてしまったという風な悲鳴をあげ、口がほんの少し開いたままになった。トヌルもそれに驚いてえっ、と声を上げる。
「わ、わ……わたし……ただわたし……が」
わわわ、としている。恐らくはただ思いついて口にしただけだったのだろうトヌルはその様子を酷く不安そうに見つめて、何か言いたいが何に気が付いたのかわからずにどうしようもなくなっているようだった。
「なんてあさましい」
僅かに開いていた口から何だか物々しい言葉が飛び出して、トヌルがわけもわからずぎょっとしていた。
「く、クリック?大丈夫?」
「わ……わたしのあさましい考えで、人の……ひとのこうどうに……もんくをつけた……」
「え?えっと……」
実際のその場面を見ていないトヌルは困った様子で私を見る。血の気の引いた表情で固まっているクリックの手が急に熱を帯びてきたのを感じていた。
「ねえクリック」
私はいつも通りに抑揚の少ない声で話しかけて、きゅっと手を握りしめる。震えた瞳が私を見つめ、その首には逃げたくても逃げ出せない、善良の紐に括られているように見えた。
「クリックは文句をつけていないよ」
「つっ……けた」
震えた声は一度詰まってなお、己の行動を責めていた。
「ううん。クリックは、マヌゥにどうしたのって聞かれて、お返事しただけだよ。どうして?って聞かれて、それに答えた」
「でも……でもっ……いわなくてもよかったこと」
「そうだったかもしれない。けれど、マヌゥはクリックが表情を変えた理由を知りたくて聞いて、クリックはそれに答えた。誠実な対応だ」
「でも……」
「クリック。マヌゥはただ、知りたかった。それだけだよ。今あなたが着ているものがその証拠にならないかな」
そう言うと、クリックは視線を下げ、羽織っているカーディガンの袖を見つめた。クリックにとっても見覚えはあるはず。詳しくは聞いていないが、それなりの値段だったもので最近はずっと着ていたものだから、話していなくても見かけてはいるだろう。
「これ、やっぱり……マヌゥの?」
「うん。心配していたよ。寂しがりやだからって、貸してくれたんだ」
「マヌゥ……」
クリックが切なげに目を伏せる。クリックを伺うような沈黙の幕が降下りる中、二人の掌の熱をじんわりと感じていた。震えはなく、強張りもない。そしてトヌルが私から手を離した。
「クリック」
沈痛な表情で顔を伏せていたクリックの手に、トヌルの手がもう一枚重なる。トヌルの表情に迷いはなく、霧の晴れた森林のような凛々しさを感じた。
「マヌゥに会いに行こう」
「え」
澄んだ瞳が肩を押されたような表情でトヌルを見つめた。
「クリック、いくら自分だけで考えてても辛いだけだよ。ヌゥちゃんと話そう。ヌゥちゃんはクリックの話しをちゃんと聞いてくれる」
「それは……うん。でも、私のこんな……」
「クリックだけが辛くなってヌゥちゃんから離れたら、何もわかんないヌゥちゃんが一番悲しいよ」
「あ……」
「クリックも、ヌゥちゃんのこと好き。ヌゥちゃんもクリック好き……だし、それに。今どう考えてるかわからないけど、ヌゥちゃんの作ってるものを見てほしい。色々考えるのはそれからでもいいんじゃないかなって、思うんだけど……」
なんとか二人を繋ごうと頑張るトヌルが、最後は自信なさげに音量を下げていた。多分この二人の今の関係にはこのくらい踏み込んで仲立ちしてもらう方がいいと思う。自信を持ってほしい。
「そう、かも……」
「ね。行ってみようよ、きっと心配してる」
クリックが自信なさげにでも頷いて、トヌルがふわっと微笑んだ。良い感じにまとまったしと見送る姿勢で居たけれど、クリックは私の手を離さなかった。まだまだ今日は続いていく。
