ひとつめ
おひるねの庭
「先生とよぶのはやめませんか」
私がそう伝えるのは三回目だった。案内のために目の前を歩いている先輩にあたる人物、天野雨丸という人は、これまで私の名前を呼んだ四回とも全てに、先生とつけてくる。
私はそういう、上下関係を思わせるような敬称が嫌いだった。脇腹あたりがぞわぞわと嫌な感覚になる。
「そこまで嫌なものですか?」
雨丸は振り向かずに、すり抜けるような、そして不思議とよく通る声で返事をした。この手の施設には珍しい静かさで、廊下には私と雨丸の声しかない。そのせいか、対面で話しているような感覚になる。
「はい。私は嫌です。ここでは、先生と呼ぶことが義務ですか」
「いいえ。ただ、ここまで嫌がる方は初めてだったので……ごめんなさい、スス」
私がどう呼ばれたいのかを突然察したのか、元々そういう性分なのか。すこし驚いたが、心地の良い響きになって安心した。正直なところ、義務だと言われたらせっかく四階まで登ってきたのを降りるところだった。呼ばれ続けるのも、呼び続けるのも苦痛でしかない。
「どうして、先生と?」
先生と、そう呼ぶのにふさわしい役割はある。だが私ではないし、すでに二回も拒否していたのだ。四回も繰り返した理由が気になるのはおかしくないはず。
「私たちにとって、先生は愛称なんです。以前の施設では、そういった愛称で呼び合ったりはなかったのですか?」
愛称。そういわれると、合点がいく。私たちの関係に対ししてではないのだろう。
「ああ……そうだったんですか。ちゃん、くん、さん……はあったかもしれないです。最古参だったからか、私に揃えてくれる方が多かったもので」
「あ、そっか。ススは大先輩でした」
今思い出したといわんばかりに、軽く言われた。新鮮な、久しぶりの感想が湧き上がってくる。私の次の家になりそう、と。私をベテランだとか、なんでも知ってるとか、そういう風に言われたり頼られたりするのは本当に苦痛だ。
「そんな風に、言わないでほしいです」
雨丸は多分、私を探っていたんだろう。先生と呼びつづけたのも、他の短い雑談も。具体的に何を求めていたのかははっきりとしないけれど、何かを探した。
「ごめんなさい。ああ、あの部屋だよ」
雨丸は私に見えるように指をさす。引き戸の扉が並ぶ中、廊下の最奥の部屋をさしているようだ。
「一つ聞きたいのだけれど」
雨丸が指をさしたまま、ちらりと私を振り向いた。きれいな深緑色の瞳だ。
「雨丸は人間?」
この角度だと表情まではわからない。が、雨丸は私を見つめたまま、しっかりとうなずいた。
「もちろん、人間だよ」
私を探ろうとする気配はなく、好意的な優しい声で返事がされた。それからすぐに、指さしていた扉にたどり着く。そして私が立ち止まるのを確認してから、ほんの一瞬。いい?と私に問いかけるように目を見つめてきた。返事のようにまばたきをすると、雨丸は迎えてくれた時のような、柔らかな笑みを浮かべてから扉を開けた。引き戸の扉は、まさにちょっと古そうな、そんな控えめなからからとした音を立てながら部屋の中を露わにした。
部屋の中には、ぱっと見て数えられる人数。四人いた。
陽の光が差し込む部屋は、なんとも暖かそうな印象を持った。床にはふわふわとした薄灰色のカーペットが敷かれていて、大きさの違うクッションがまばらに置いてある。素朴な木製の小さな本棚に、おもちゃ箱らしき布製の収納ボックスやタンス、ローテーブルなど。
「あめまる!」
嬉しいのか、そういう話し方なのかまだ判別はつかないが、こちらを見つめていた一人がてこてこ駆け寄ってきた。ふわふわの茶髪を揺らして、可愛らしい笑みを浮かべて。あとの三人は、その場に留まっていた。というか、二人が一人にひっついていて、中心人物は動けないようだった。
「あめまるー?」
雨丸の腹部当たりまでの身長、つまりだいぶ背は低いその子は、雨丸を呼びつつも、近寄ったのは私だった。じっと、赤みの強い茶色の瞳が私を見上げている。多分、猫系だ。耳は、少し小さいだろうか。尻尾は長く、ほっそりとしている。
「あめまる!」
説明を求めたようだ。
「新しい人の話をしたのは覚えてるかな。この人がススだよ」
雨丸が説明をして名前が出ると、目の前の子はピンと耳と尻尾を立てた。警戒というより、興味が湧いたようだ。
「スス!」
事実を確認するように繰り返した。
「はじめまして、ススだよ。きみの名前を聞いてもいいかな」
立てた耳と尻尾を元に戻した。
「スス!スス。抱っこする?」
そういって、名前のかわりに両手をあげた。私はうなずいて、しゃがんでから両脇の下に腕を回して、抱き上げる。顔を見る隙もなく、両腕は首を、両脚は背中に巻きついた。
「スス。ぜーちゃん!よいこって名前らしいんだけど、かわいくないからぜーちゃんにした!」
「そっか、ぜーちゃん。教えてくれてありがとう」
「ぜーちゃんはいいこだから、お名前までいいこじゃなくてもいいのだ」
得意げに言うと、尻尾も得意げに揺れた。と思ったら、ぜーちゃんはあっという間に腕からすり抜けて降り立ち、雨丸の方に向かった。
「あめまる、あそぶ!」
「うん、遊ぼうね。ぜーちゃん、お散歩しない?お部屋からでてもいいよーって言いに行かなきゃいけないんだ」
「いいよー!」
効果音がつくなら、ぱぁっと花火のような笑顔を浮かべてたぜーちゃんは、雨丸の手を引っ張って部屋を退室していった。楽しそうな声が離れていくのを聞きながら、塊になっている三人に視線を戻す。くっついてる二人は血縁関係があるかもしれない。浅葱色の髪と、耳と尻尾の形が似ている。一人は膝の上に、もう一人は背中から抱きしめるように。
三人に近寄って、床に座ってみる。三人はずっと、私を目で追っている。
「私は、スス」
名前だけ伝えて様子を見る。ぜーちゃんと同じか、警戒するか、他の反応を示すか。
「むー」
背中から抱きついている、比べてみると一番背が高そうな一人が、鳴き声とも違う声を出した。
「スス。煤?」
発音の仕方で何をさしたのかがわかった。その煤ではない。
「ううん、スス」
「うん。煤だったらまっくろだもんね」
その子はくすくすと笑った。
「僕ねえ、アルン。で、そこのが……ん?」
「僕はメルン。わざとでしょー」
膝の上にいた子が訂正して、真ん中の子の頬に手を伸ばしたかと思えばつねった。小さく悲鳴があがった。
「なんでえぇ」
わーん、と言いたげに嘆くと、二人ともくすくすと笑った。頬をつねられた真ん中の子は、黒というよりは灰色に近い髪をしている。この子が一番背が低く見える。
「この子はてつ。てっちゃんは今日もかわいいねえ」
アルンが真ん中の子の頭をなでながら言う。
「てっちゃんはかわいいね。さっきジュースをぶちまけてたのもかわいいね」
「いわないでよ!なんで!」
「てっちゃんは今日三回目の転倒ですよ」
「なーん-でー!」
てつはもう一度、わーんと言いたげに嘆いた。二人は楽しそうで、その姿を楽しんでいるようだ。いじめているわけではなさそう。いじめてはいるんだろうけど。
私が聞いているだけでいると、二人はするりとてつから離れた。なあに?と言いたげに二人を見比べるてつに、メルンは立ち上がりつつ頭をぽんぽんと撫でた。
「てっちゃん、きりーつ」
アルンが言って、メルンが同じ言葉を繰り返した。メルンの方が声が低く、アルンの方が背が高いようだ。艶のある手入れの行き届いた浅葱色の尻尾が、陽の光できらきらと輝いている。
てつは、不思議そうにしながらも立ち上がる。その動きはだいぶゆっくりとしていた。さっきまでアルンに抑えられていたらしい長い耳が立ち上がっている。兎の耳に近い。
「じゃん」
二人は声をそろえて、どうだと言うようにてつに手を向けた。私の視線は、ゆっくりとした立ち上がりからずっと、下半身を見ている。
「あ……」
てつは、忘れていたと言うように声を漏らしてから、恥じらうように片足を、正常なもう片足の後ろに隠そうとした。こういった施設に新しい者がやってくることは、無くはないが頻度は高くないはず。この子にとっては、忘れてしまうくらい久しぶりだったのだろう。
「てつ、大丈夫」
もっとも、こういう場所に勤めたがる者が嫌がるなんてことはまずないだろう。それでも、てつにとっては大きな不安で、大きな不安を持ってしまうほど、嫌がられたことがあるのだろう。
てつの片足、左足。それは膝から下が、ねじれている。もしかすると歩くたびに痛むのではないかと思うほどに。隠そうとしても、その片足は右足の後ろに並ぶことはない。
「スス、痛そうにみえる?」
アルンが私に聞く。
「見える」
嘘をついていい事はない。すぐにわかってしまうものだと学んだ。
「あ、えっとね、痛くはないの……でも、見てると、痛いから嫌だって……」
「痛くないなら、大丈夫」
そこに嘘はない。もし痛みを伴っていて支障があるなら、どう手伝うのかを考える必要があった。でも、てつ自身が求めてないのなら、気にしない。
「わあ、ススいいひと。この前、お迎えに来たヒトがびっくりしちゃってねえ」
「ものすごく心配されちゃったものだから、てつびっくりしちゃったんだよ」
「う、うぅう。でも、やっぱり、ころんじゃうの、めいわくだよね」
よく転ぶというが、てつにケガらしいケガは見当たらない。それこそ、かすり傷も痣のような跡も。ここで私にわざわざ見せたのは、驚いて心配させないようにだろう。
「てつ、一つ聞いても良い?」
「な、なんだろう」
てつの声色は、怯えているように震えている。
「自分の脚、好き?」
てつの表情を伺う。怯えをぽろっと落としたように、ぽかんとしている。それから、ゆっくりと表情をかえた。
「うん、すき!」
ぜーちゃんとは違う、ゆっくりと花が咲いたような笑顔だった。
「すごーい」
「雨丸も最初は困ってたのに」
二人からゆるやかな拍手が起こった。まあ正直なところ、完全に気にしないことはしばらくできないだろう。それは多分、三人にもわかっている。ただ、私の姿勢は伝わったと思いたい。
「いい子なススちゃん、気になるだろぅ?」
ゆったりと、そしていつの間にか隣にいたメルンが、正座で座ったままだった私の太腿に、うつ伏せの状態で顎を置いた。一見すると辛そうな姿勢だが、メルンはこれが好きなのかもしれない。そしてメルンに気を取られている間に、アルンが後ろからのっしりと、体重をかけてくる。
「気になるだろぅ?てっちゃんのヒミツ」
耳元でアルンの声がした。
「秘密!?」
何を話したいのかは想像がついたが、てつだけは秘密を秘密と、そのままの意味で受け取ったらしくちょっと慌ててから、目の前で膝を抱えて座った。なんというか、ドキドキしていそうな表情。
そして話を聞いてみると、てつの脚は生まれつきだったようだ。生まれつき形成に異常があり、引き取られた主人の元で矯正など治療を試みられたが、どうにもならないまま。幼いころに引き取られたので、そのまま成長していく脚を見ているのが辛かったのかもしれない。てつの主人は、数年共に暮らした後、ここに預けてそれきりだという。ただ、捨てられたとも言えない状態で、所在もわかっていれば縁も繋がったまま、養育費は毎月振り込まれているそう。そんな生活を長く続けている。てつの気持ちはといえば、正直安心していると。心配され続け、世話をされ続け、直そうと奮闘され続けて、自分の脚はこのままではいけないものだと突きつけられるのが辛かった。主人が自分を引き取ったのは、この脚を直せるものだと思ったからで、この足を、体を愛してくれたわけじゃないのだ、と示し続けられるのが辛かったと言っていた。五体満足ではないというだけで、値段に差は出る。幼いころで、脚の異常というだけなら、安く買って整形した方が安い事もある。てつの主人はそう考えていたのかもしれない。
「だって、うまれてからずっと、この脚で、わたし……なんていうか、個性?とか、そういうものだと思ってたんだ。でもご主人様、直すっていうから……悲しくなっちゃった」
「でもー?」
「嫌いじゃー?」
「嫌いじゃないよ!……つ、つらかったけど。大好きって言ってくれたもん……てつは頑張っててえらいねってたくさんいってくれたもん」
そういうてつは、少し寂しそうだった。
「お手紙はくれるけど、会えないのはさみしい……」
「てっちゃんはよくぶかいねえ」
「まったくだねえ」
二人に言われて、そうだよねと同調しようとしたてつに、アルンは手を伸ばして、髪をぐしぐしと撫でた。反動で私も少し揺れると、メルンは愉快そうにくく、と笑みを漏らした。
「このアルンと……?ン?」
「メルン!メルンに構われても寂しいなんて、まったくてつちゃんは強欲な子だわあ」
「あ、あ!?ち、ちがうちがう!そうじゃないから!二人のことだいすきだもん!」
もん、と怒るように否定したてつに、二人は揃って笑っていた。
「んふふふう。ところでスス。ススはそんなご主人さまに、何か思う?」
突然話を振られたので、ちょっと面食らった。声はメルンだ。
「なにを?」
「なにって、そりゃあ。てつ、かわいそうだとかおもう?」
「かわいそう……とは、思わない。怒りもないよ」
「うわあ。すごい、ススちゃんは百点だ」
「雨丸は最初れいてんだったのに」
雨丸は憤ったのだろうか。あの姿からは想像もできないが、最初のころはそうなんだろう。私も、何度も見てきたことだ。
憤る気持ちは理解できる。自分勝手だ。安く済ませるために、わざわざ問題のある子を買って、手に負えないとわかると手放し、それでいて縁は切らず、金は払うから様子を知らせてくれ、というような状態なのだろう。
想像はできるが、それは私がするべきことではない。
「二人は、てつが大事なんだね」
私の感想は、これだけだ。
「ン?」
アルンが不思議そうにした。
「私をたくさん試してる。てつを傷つけそうだったら、やんわり離そうと思ってる」
「ア。やぁん、えっち」
メルンが太腿の上で身じろぎして、仰向けになった。
「え、そうなの?」
てつだけは心から不思議そうにしている。この様子から、二人は隠したかったのかもしれない。
「ごめん」
「んもぉ。でもいいやー、ススはいい子だ。いい子に僕たちの話をきかせてあげよう」
アルンが、てつに触れていた手を私のつむじの位置に置いた。てつも興味があるようで、耳がぴこんと動いたのが見えた。
「僕たち、不良だったんだよ」
それは、今の姿からは中々想像できない話だった。
アルンとメルンは、一般的に不良たちの住む”裏”で生まれ、早くに親が死に、二人だけで生きていたようだ。といっても、よく聞くほど凄惨ではなく、窃盗を元手に取引や小さな信頼関係をうまく築いて生きていた世渡り上手だった。が、手段が手段だ。裏切られることも裏切ることも多い。保護された詳細は伏せたが、保護されてこの施設、おひるねの庭にやってきた二人は、酷く暴れることこそ無かったものの、常に警戒し、態度を緩めたと思えば誰かに取り入ろうとしては環境の変化で焦ったのか口が回らず、味方という味方を作れず、孤立していた。基本的にこういう子は、慣れるまであまり干渉されない。特に飢えている様子もない二人のような子はむやみに構う方が事故が起きる。そんな中出会ったのが、てつだ。
他の子にとっても不良の子、特に”裏”から来たような子に積極的に接触しようとはしない。きっかけのない最初のうちは。だが、平和に平和に危険を全く知らずに育った子は、警戒という言葉を知らないと言ってもいいほど、警戒をしない事が多い。てつに関しては、心への負荷はあったとしても危険とは無縁だっただろう。
「てつね、僕たちの言うことをぜーんぶ信じるんだよ。さっきのぜーちゃんだってさ、クレヨンのうさぎさんが飛び出して走り回ってからお菓子になったなんて信じないよ」
「うぐ」
それを信じたというなら、確かにてつは抜きんでているかもしれない。てつからしても、今は恥ずかしい過去のようだ。
「最初はかわいそうな境遇の僕たちかわいそうだよねえって同情してもらってさ、まあいわば、何かあったときの盾にしたかったんだよねえ」
メルンもアルンも、相変わらずゆったりとした口調で喋る。
「でもさ、なんか、本気で大変だったんだね……って反応するし、試しに冗談言ったら全部信じるし、面白くなってきちゃってさ」
メルンがくすくすと笑って、てつがせめてもの抗議なのか、その頬をぎゅーっとつねった。メルンは面白そうに笑うだけだったが。
「急に全部馬鹿らしくなったんだよ。思えばご飯くれるし、あったかい布団で寝れるし、お風呂入れるし、みんな仲良さそうにべったりだし、平和じゃーんって。気ぃ抜けちゃってねえ」
「そんだけ、慣れつつあったんだろうねえ、僕たち。てっちゃんが衝撃的だっただけで」
「画面が割れたテレビの中でトマトを育てると電気トマトになってぴりぴりするーとか、きったない継ぎはぎみたいな話も信じちゃうんだから、そりゃ衝撃的だよね」
「ううう~~!」
「こんな子が生きていけるぐらい平和なんだなあ、ここ。ってねえ」
悶えるてつを気にせず、二人はそんなこともあったなあと思い出すように語っていた。
「気が抜けて、ふぃ~ってなるじゃん。いやちょっと待とう?ってなるじゃん?」
「いっくら平和でもてっちゃんはねえ、言葉で表せないよね。ついてきたらご主人に会えるよって言われたら絶対ついてくじゃん」
私がうなずくと、てつだけが不満そうにうなった。が、否定もしなかった。
「気が抜けたとはいえー、まあちょ~っと警戒してたし?逆に、このてつに近寄ってきてだますやつがいないか探そうと思って。ま、いなかった結果がこれなんだけど~」
また、メルンが膝の上で身をよじって、うつ伏せに戻った。
「うまい口の利き方も忘れちゃったもん。そういうカッコイイトコ期待しないでね、ススちゃん」
アルンからかけられる重みが増した気がする。
「うん、しないよ。今の二人はゆるくてかわいい」
二人そろって、おっ。と声を出した。てつは嬉しそうに頬を緩めた。
てつと違って、この二人は裏の不良だっただけあって、あまり飢える体質ではないのだろう。単独で構われるのは好まず、この三人でゆるく喋ったり、何かするのが好きそうに思える。もちろんまだわからないが、しばらくはそうやって付き合ってみるのがいいだろう。一つ答えを出しつつ、メルンの髪を軽く触ってみる。
「おー」
「メルンの変な声~」
てつが面白がって笑うと、アルンが微笑ましそうな吐息を漏らす。そして、あ。とも。
「ねえスス、すっかり忘れてた。てつの脚ね、痛みもないし歩けはするんだけどさ」
笑っていたてつも、あ。と言いたげな顔をした。
「転んだりは阻止できるんだけどさ、ぶっけたりすると結構折れるんだよね。矯正できなかったぐらい治癒能力?も高いんだけど」
ああ。それは知っておかなければいけないことだった。詳しい対処は誰かほかの、対応したことのある人に聞くとして、本人たちから聞けるのはありがたいことだ。こうやって聞いた方が、覚えやすい。
「そうなんだ。その時、必要な行動や物はあるかな」
「ン?骨折の……あぁ」
必須の処置以外に、必要なものがあるなら。二人は私を褒めてくれたが、一度で理解するアルン、そして多分わかっているメルンも流石の優秀さだ。裏で生きていて、搾取されず、暴力にも頼らずに生きていたというのはある種の才能だと、色々な話を聞いてきて思う。
「なあに?」
「てつ、脚が痛くなっちゃったら、いつもどうしてるっけ」
「どう?どう……アルンとメルンがぎゅーってしてくれる?あ、あと変な話してくれる……くれる?」
くれる、という事に疑問を持つあたり、自分が危うい自覚はあるようだ。今でも半分くらいはほら話を信じていそうで、何となく微笑ましい気持ちになった。その状況自体は全く笑えないが。
「そうだねえ。あと、も一個なかった?」
「んんー?痛いときのことなんて……あっ」
てつは頭に星でも落ちてきたかのように、かくんと首を傾げた。
「そーだ……いつも、約束してくれる……あし、元に戻してって、なおさないでっていうと、カン先生も、八鐘先生も、雨丸先生も灯火先生も……もとに戻すって約束してくれる……スス先生も、してくれる……?」
「うん、するよ。怖かったら何度も聞いていいからね」
耳ごとしなしなと脱力させたてつは、安心してくれたようだった。それくらい体を大切にできる子は中々居ない。素直に素敵だと、そう思った。
「てつ、私からも一つお願いしたいことがあるよ」
てつの耳がぴくりと動いた。文字通り耳を傾けてくれている。
「先生、はつけないでほしいんだけど……難しいかな」
てつは三回、大きくまばたきをした。そしてはっとしたように、目を丸くして驚いた顔をして、わぁーと言いそうな、困った顔をして頬に手を当てた。ころころと表情が変わる。
「ご、ごご、ごめんねスス……」
そこまで申し訳なくされることではないので、私としても申し訳なくなる。
「できたら……やめてほしいんだけど、てつがそう呼びたかったら、構わないよ」
そこに嘘はない。このどこかズレたかわいらしい子が先生と呼びたいのなら、私は甘んじて受け入れよう。名前になにかつけないと呼びにくいというのはわかる。急用だが一瞬躊躇ってしまう、なんてことは避けたい。
「ううん、あの……みんな優しくて色々教えてくれるから、そういう人、先生っていうらしくて、いつの間にか……」
照れたような、困ったような。本当に無自覚だったのだろう。
「先生って、なんか遠くの人って感じー」
アルンの声が聞こえた。意図はわからないが、ただの感想かもしれない。
てつが自分から接触してこないのを見るに、私たちに対してどこか線引をしているんじゃないかと思えた。その線を無理に越えたくはない。そのあたり、てつは言いたいことを我慢して許してくれる子でもないと、話を聞いていて感じている。あとはてつがどう出るかを待つ。よく聞いたらわぁ…と小声で繰り返し呟いていた。
「スス……嫌じゃないの、本当にわかってなくて。それで……気になるの、なんでやなの?」
嫌じゃないなら良かった。助かる。
「アルンが言った通りかな、遠くなるのは寂しいから。先生が遠くにいるってわけじゃないけど……私はそう感じるから」
おー、とアルンのなんとも言えない声がした。そういえばメルンは、と視線を落としてみると、手触りが良くて軽く撫でていたのが気に入ったのか、じっとしたまま尻尾がゆるく左右に揺れていた。メルンの髪はなめらかで指通りがいい。
「そっかあ……ススはどこにいるの?」
どこに。遠くにいるに対しての疑問。
「ここにいるよ」
てつは私の目をじっと見た。ころころと変わる表情を置いて、静かに何かを探るような、伺うような。ここに来て、出会って、ほんの少し。お互いに探り合うのはしばらく続くだろう。
