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ふたつめ


いけにえの庭



今日は、暑い。
遠くから響く歌は屋上からだろうか。真昼が過ぎ去って強過ぎた光が和らいできて、じっとりとした夜がゆっくりと歩み寄ってきている気配がする時間。朝昼と遊んでいた元気な子たちが、暑さに削られた体力の回復に努めている時間でもある。一階も二階も三階も、廊下だろうが物置だろうが各々お気に入りの場所で力尽きた屍のように横たわっている。流石に廊下にいる子は何かの拍子に踏み抜きそうなので移動させながら、陽が高いうちでは一番静かなこの時間に掃除を進めている。灯火達は事務的な仕事をしているようだし、カンは一緒に遊んでいたから疲れてしまったのだろう、一緒に昼寝をしている。いつもは幸せそうな声が聞こえるものだが、今日は音源である雨丸もいない。掃除といっても大きな汚れがないのは皆が協力的なおかげである。物は片づける、汚したら自分で掃除する、を言われなくてもやってくれるのだからありがたい。もちろん時と場合があったり、そのままな事もあるけど愛しいの範疇だ。
「死んでるのか」
まだ聞きなれないその声の主は、室内を照らす光を避けて立っている。影から暗い赤色がこちらを見ていた。
「暑くて、疲れちゃったみたい」
この時間、起きている子は二階にいることが多い。遊びまわっていた子も二階で大人しく本を読んでいたりゆったりとお喋りをしていたりするから、休憩時間のようなものなのだろう。柊の足元には起きる気配がない子がだらんと脱力して転がっている。
「いけにえみたい?」
迎えた時に、いけにえという言葉が出たことを思い出して言ってみた。特に何も考えてなかったけれど、まだ冗談を言うには早かったかもしれないと、言葉から手を離した後に思う。ちり取りに小さなごみを集めながら、反応を待つ。立ち去った気配はなく、まだそこにいる。
「お前は、自分が救っているとは思わないのか」
「救っている?何を?」
突然何を聞かれるのだろう。わからずに思わず柊に視線を戻すが、相変わらず光に当たらない場所で、長い黒髪を垂らしたまま立っている。柊は、何を聞きに来たのだろう。何を求めに来たのだろう。
「いけにえなど。お前たちは、その善性で、救っているんじゃないのか?可哀想なものを」
あの時、いけにえと言った意図をわかったうえで聞いているようだった。
「さあ……他の人はわからないけど、私に善性は無いよ」
「なら、なぜ。お前はここにいる」
「私がいたいから。私の為にいるんだよ、救うつもりなんてない。救われるためにいるんだ」
くう、くう。寝息が聞こえる。その髪を撫でる。それを許してくれるのはこの子たちだけだ。
振りまかれるだけの愛など気味が悪いだけだろう。普通の人間であれば。けれど、この子たちのほとんどはそれがないと息もできない。気を引くために愛らしくあろうとする。育んできた人格を破壊したって求める子もいる。こうやって一つ撫でられるために、一言かわいいと言われるために。
客観的に見れば、それはあまりにも可哀想で、歪な姿だろう。柊が何を問いたいのかが、何となくわかる。自分が持っている返答が、正解だと思えないことも。
「柊は、私を知りたい?それとも、ここの事を知りたい?」
「何が違う」
「私は新人で、亜人で、考えが違うと思う。ものすごく雑に区別するなら、私は施設のことがどうでもいい」
もちろん本当にどうでもいいわけじゃない。ここが閉鎖になってしまえば、この子たちは散り散りになってしまうし、私もまた家を求めることになる。私にとっても居心地のいいこの家を失いたくはない。ただ私がここに居るのは仕事だからではないし、亜人の為でもない。ここが保護施設だろうとなかろうと、同じように生活できるならなんだっていい。
「そう……お前は、なぜここにいる?」
「私は幸せに暮らしている子を見ていたいし、愛したい。それが私の幸せだから。その為に出来ることはやる、だから働いている。救いたいとも可哀想とも思っていないけれど、似てるとは思う」
撫でていた子の兎っぽい耳がぴるっと素早く動いた。起きる様子はないし、身じろぎのようなものだろう。
「私はみんなに、あなたに、幸せと平穏であることを強要している」
「それを強要と思うのか?」
「混沌と不幸が好きな人もいる。あなたがそうだとしても、私はあなたの幸せと平穏を願う。それは一種の暴力だ」
柊は多分、この暴力かどうかを聞きたかったのだと思う。押しつけがましい善意を、自分が救われるべき存在であると名札を付けられることを。いつかはいい子で愛想よくなると期待されることを、疑っているんじゃないかと。平穏を望まないのならここは地獄のような場所だろうな。
「お前は愛されたいのか?」
「私はどうでもいいよ。触れることが出来るなら嬉しいけれど、出来なくても忘れられても、幸せでいてくれるならいい。愛しいと思わせてくれれば何だっていい」
「なら、お前は俺が嫌いか」
「な……なんで?好きだよ、いや好きって言うのもちょっと早い気がするけど」
どうして嫌いになるんだろう、とびっくりしてしまった。柊の表情はよく見えない……というより、無表情に見える。しいていえば少し眉をひそめているように見えるか。
「その愛しいとかいうの、俺には思えないだろ」
「柊、どうしてそう思うの」
と言ったところで、さっき自分で考えていたいつかはいい子に、愛想よくなることをというくだりを思い出した。柊はそこに自分が当てはまらないだろう、と言っているのか。
「俺はこの通りだ」
わずかに肩をすくめた柊にここまで心を許されていて、理解しようとされていて、そこからはみ出ていると思わないでほしい、と言いそうになるのを我慢する。
「思うよ、柊。あなたは嫌かもしれないけれど、私はあなたを愛しく思っている、抱きしめさせてくれた時から。傷だらけで汚れた体を綺麗にさせてくれた、ご飯を食べてくれた、危険のない場所で眠ってくれた。部屋から出て心地のいい場所を探したり、他の人と会話して歩み寄ろうとしている。ここにいていいのか確かめているあなたを愛しいと思わないわけないんだよ」
飲み込んだものも結局形を整えて口から出してしまった。
「柊、私は察するのは苦手なんだ。だから、事前に何かすることは得意じゃないけど、心地いい環境に求めるものを教えてくれたら、ここを破壊すること以外ならがんばれる。私が一番話しかけやすいなら、私を利用すると思って、教えてほしい」
言いたいことを言いきって、柊の反応を見る。多分こんなに喋られるとは思っていなかっただろうし、もしかすると気味が悪いかもしれない。でも嘘は得意じゃないし、柊が私を教えろと聞いてきた。ならそのまま答えないと、後々軋轢になりかねない。
とりあえず、撫でるのをやめてちりとりの作業を再開しよう。耳と尻尾がある子が多いから抜け毛が人間の家より多い。
「つよいままでいたい」
震えた声だった。
「なりさがりたくないんだ」
柊の、芯のあった声がひどく不安げにゆれている。
私は間違っていたようだ。おそらく、灯火も他の人も。
柊は多分、完全に適合していたわけではない。
しているフリをしてずっと生きていた。それくらい、生きることに生かされていたんだろう。生きるというのは本能だ。
裏のことはあまり知らない。ただ、迷子を捜しに行った時、少し踏み込んだ路地裏にぴくりとも動かない体が横たわっていたのを思い出す。いつの間にかむせ返るほどの、雑多な臭いに包まれたことを。
「柊、あなたは強いよ」
どこまでも生き抜いて、今ここにいる。手に入らなかったはずの平穏に身を落とす事を受け入れようとしている。
「柊」
流石に、話し声で起きたのだろう。何人かがもそもそと身じろぎしている。それを踏まないように避けて、柊の近くに向かう。
「弱くなるわけじゃない。あなたはとても強い」
何が、と言えるほど柊を知らないけれど、強いことだけはわかる。それだけを伝える。曖昧に持ち上げたところで不安の穴を増やすだけだろう。
背中を丸めていても、私は少し見上げる形になる。
「柊は柊のままだから。大丈夫」
触れない。見上げるだけ。走り去ってどこかに隠れても良いし、私を噛みちぎっても良いし、誰かを拾い上げて抱きしめてもいい。あなたを捻じ曲げたいと思っている存在は、どこにもいない事だけ伝わればいい。柊は、わかっていると思う。
暗い赤色が、ゆらゆらと揺れる。夜の帳みたいな髪を垂らして、困っている。捕まって保護されなければ不安になることはなかっただろう。生き抜いて死んでいくだけだったはずだ。私に愛してると言われてどんな気持ちだっただろう。わかるのは苦痛を与えていることだけ。
「落ち着いたら、柊のことが知りたいな」
血色の良くなった手が、ふらふらと揺れている。中途半端に持ち上げられて、行き先がわからずに困り果てている。
「休んで、柊」
そう声をかけると、困り果てていた柊はゆっくりと手を降ろして、私を覗き込んだ。それから一歩、後ろに下がる。どう出るかを伺っている様子だったので、私は掃除に戻ることにした。もそもそと起き出した子が近くで寝ている子の上で寝なおしていて、敷かれた子が不機嫌そうに唸っていて小さく笑ってしまった。

遊び場の掃除を一通り終える頃にはぽつぽつと起きてくる子がいて、お腹がすいたといわんばかりに他の子に噛みついたり不機嫌そうに空を眺めていたりしていた。こういう時は個包装のお菓子を一つ渡すと夕飯まで待ってくれる。今日は一袋三枚入りのビスケットと牛乳一杯を配ることにした。牛乳が苦手な子には紅茶を渡しながら、寝起きでぼんやりしているらしく起き上がった途端頭から転んだ子を回収して、第一に怪我の確認、次に泣き出しそうかの確認。幸い怪我もなく半分寝ている状態だったようで静かだった。ビスケットを食べている子にドジだねえと笑われていた。怪我は無さそうとは言っても頭から転んだのはちょっと怖いし、座らせて覚醒するまで隣に座った。その間にもゆったりのったりと屍が起き上がって、あくびをしたり呻いたりしている。そして私が何もしないでも、覚醒しきった子が半覚醒の子が転ばないように座らせたり、不機嫌な子に出しておいたビスケットをあげたりしている。
のんびりした光景の一角で、見慣れた取っ組み合いが始まった。赤毛の子が深緑色の髪の子へ体当たりし、それを受け止めた深緑色の子は赤毛の子を投げた。どてっと音を立てて転がったもののすぐに立ち直って、ギッと威嚇した。それを合図にして、掴んだり投げたり、打撃を受け止めたり……と、喧嘩のような遊びが始まる。この子たちはいつもこうやって遊んでいる。そしていつも過激になりすぎる。
他の子も音に気付いて一瞬そちらを見るものの、日常の風景だなという様子で別のことに興味を向ける。行き過ぎた際にはいつもの子が止めるだろう……と、そういえばこの子がそうだったと隣に座らせた子の様子を見る。
じぃっと二人を見つめていた。
「首とか痛くない?」
耳だけぴこっと動いた。
「なんで」
「さっき頭から転んでたよ」
「だから頭痛いのね」
返事をしながら視線は賑やかな二人に向けられている。おそらく強打したであろうおでこの近くをかるくさすると、満足げな声が聞こえた。
そろそろか、というタイミングで隣の子が消えたのを見届けて、移動するために玄関を通りかかると勤務する為ではなさそうな雨丸が靴を整えて上がってきているところだった。
「雨丸?」
ちょっとびっくりしながら声をかけてみると、雨丸にもびっくりされた。普段は帰りの時に見るような服を着ている。
「す、スス……いやあの、すぐ帰るつもりなんだけど……」
と、何やら口をもごもごさせている。ここの職員なのだから何か言うつもりはないし、興味だけで言いにくいことを言わせたくない。軽く挨拶だけして二階に向かった。
並ぶ机の中、灯火が書類とにらめっこしていた。二時間前は八鐘もいたのに、今は灯火だけが書類と電子機器を机に広げて、忙しなく手を動かしている。
その近くで気を引きたいらしいぜーちゃんがうろうろしているが、邪魔をしたら怒られるかもしれない、という様子で直接的にアピールはしていなかった。他の子も寝ているか一人で自由に過ごしているようで、遊んでほしいとは言いにくい雰囲気が漂っている。とりあえずぜーちゃんを拾おう。
「むぎゅっ」
抱き上げる。ぜーちゃん、心なしか重たくなった気がする。体重増えたのかな、よかった。少しやせ気味だった。
「すすす」
名前なのか何かの音なのか微妙な声が腕の中から聞こえ、灯火もその声で反応した。私たちをじっと見ると、はぁ…と小さく固まったものを溶かすような息を吐いて、肩の力を抜いたようだった。
「今日はいつもより忙しそう」
そう声をかけると、灯火はゆるりとした微笑を浮かべた。
「さっきまでは大丈夫だったんですが……ぜーちゃん、ごめん。ずっといた?」
「ふん」
声だけは不満そうだが、灯火がこっちを見てぱぁっと嬉しそうな雰囲気になったのを私は見ている。ぜーちゃんは本当にいい子だな、と撫でたくなったから撫でた。耳がみょーんとした。
「手伝う?」
「いえ、問題ないです。この時間は寝ている子も多いし、寂しかったよね。ごめん」
「むー。おてつだう?」
「ううん。ほら、さっき八鐘先生が誘拐されちゃったでしょ?幾つか急いでたから、先にやりたくて」
ぜーちゃんが動きたそうに足を前後にぱたぱたと動かしたから灯火の脚の上に置いた。自分で位置調整をして満足したらしいぜーちゃんはフフンと言いたげな顔で私を見上げた。
「八鐘が誘拐って珍しい」
確かに背は低いけれど、あの人は抱き上げて移動するような好かれ方はあまりしていないと思っていた。好かれていないわけじゃないけれど、八鐘はわざと皆と一本線を引いて接しているように見える。寄ってくる子は拒まないし、具合が悪そうな子には声をかける。だがそれ以外では、あまり自ら接触していないようだった。本人は口を開くとあの子のどこが好きだとかあの子のこういうところが愛しいと喋り始めるから、そういう愛し方なのだろうと思っているけど。
わざわざ誘拐するような子が思い浮かばない。たまたまだろうか。
たっぷり首をひねっていたが、灯火はそれが面白かったのか勿体ぶってか、私が戻ってくるまで口を閉じていた。
「柊が猫抱き上げるみたいに持ち上げてね、そのまま上にいっちゃった」
柊が。多少目は大きくなったかもしれないが、先程の様子を思い出すとそこまで驚くことでもなかった。慣れるまでまだ時間が必要なのは確かだと思うけれど、こちらからの信頼というよりは、柊自身が受け入れるために必要な時間という様子だった。色々と試して、信頼を確かめようとしているのだと考えられる。それを知らない灯火は意外そうな顔をしていた。
「下でなにか話したの?」
あまり反応を示さなかったことと、柊も私も一階からのぼってきたことから考えたのだろう。
「うん」
うなずいて、一階で柊と話したことを伝える。あわれみを受け、自分が弱いものになるのかと。身を委ねたい気持ちと拒みたい気持ちがあるようだと。灯火も納得したように浅くうなずいた。
「柊、思ってたより早かったね」
「うん……ぜーちゃんは柊に遊んでもらった?」
「柊?近寄るとミッてするよ」
そう言うと、その再現をしてくれた。前傾姿勢になってじーっと睨んでくる。手を差し出すと軽い力ではじかれた。ぜーちゃんにとっては遊びになるな、と納得しながら手をぺちぺち叩かれていた。
「柊はどんな感じ?」
ざっくり聞いてみる。ぜーちゃんはンーと首を左右にかくんかくんとメトロノームのように傾けはじめ、なんだか首が心配だなと思ったと同時に灯火が手を当てて止めた。ぜーちゃんはニコニコだった。
「柊ちゃんは素直じゃないんね。ぜーちゃんとあそびたいくせにつんつんするのよ」
つんつんされている自覚はあるようだ。そこに躊躇いなく突っ込んでいけるのはぜーちゃんの強みだと思う。おそらく勝てない相手であっても、というところが。
「ぜーちゃんいい子だねえ」
「そう!ぜーちゃんはいいこなのだ!柊と遊んであげるのだ」
自信満々というふうに笑むぜーちゃんをぽんぽんする。微笑ましい気持ちになりつつ、そういえばと広げてある書類を見る。契約の更新書類のようだ。
「フレア……」
上にあるから当たり前ではあるが、真っ先に目に入った名前だった。無意識に呟いたことで、思っていたよりフレアの事を気にしていたのだと自覚する。体調も、態度も、エンジェルとの話も。謎多き人物だ。
「ん?あぁ、フレアも継続で……あ、そうだ。体調良くなったらしくてね、ちょっと早いけど明日から来るって」
「明日から」
それはまた急な。あの倒れそうな……一度倒れたほど体調が悪かった姿を思い出す。灯火は私の様子に気付いて、私もそう思ったよと微笑んだ。
「今回はちゃんと確認させてもらった。まだ体力が戻り切ってないとは言っていたから、来週まではリハビリのつもりでお仕事は控えめにしてもらって、皆の事見ててもらう事にしたよ」
「そっか、それならよかった。ぜーちゃんもうれしい?」
「う?ウー。ウウウ」
予想外にぜーちゃんは首を傾げた。ぜーちゃんは全員と仲良しのつもりかと思っていたけれど、そうでもないのだろうか。ウウウン、と何やら唸っている。
「ふりゃはねー、なんか……ぜーちゃんのことあんまり好きじゃないでしょ?」
「えっ」
灯火と一緒に面食らってしまった。ぜーちゃんはそれを特に気にしていない様子で、続ける言葉を探している。
「ふりゃーって呼ぶとね、ンギッッて顔するんだよ。なんかこう、ゴーヤたべたみたいに……うぇぇ」
苦い顔をゴーヤに例えたぜーちゃんが自爆しているらしかった。味を思い出してウェーと苦そうにしているぜーちゃんを撫でておく。にしても、だ。ふりゃーと呼ばれて苦い顔をする、とは。
「嫌そうにしてる?」
「だってゴーヤ苦いもん嫌いだもん!」
間髪入れずに嫌だ!と抗議された。ゴーヤのような癖の強い食材を使う献立を見たことはないが、カンが個人的に作って食べていたのは見たことがある。もしかするとその時にもらったのかもしれない。私も少し貰って、苦味は強かったが美味しかった覚えがある。
話が逸れた。苦い顔というと、本当に嫌か雨丸のように何かを隠したいかの二択になる。そしてフレアが囲まれていた時の様子を思い出すと、特にそういう嫌そうな顔はしていなかったし、具合は悪そうだったが穏やかな表情をしていたように思う。名前に並々ならぬ愛情や執着があるならまだしも、フレアというのも愛称のようなものだから違うような気がする。
「ぜーちゃんのこと好きなんじゃないかなあ」
私の同じ答えにたどり着いたらしい灯火が、なんだかとても穏やかな顔をして言った。長く生きている人が庭で咲いた花に今年も咲いたねと語りかけるときのような。
「ぜーちゃん苦くないよ?」
ぜーちゃんは不思議そうに灯火と私を交互に見る。多分私も灯火のような顔になっている。
「フレア、もちまるになるとそうなるんじゃないかな」
「もちまる?もちもち?」
私がわざとぼかした言い方をして、余計な疑問符を増やしてしまった……と思ったが、言葉をつづける前にぜーちゃんは浮かべていた疑問符を感嘆符に変えた。小さめの耳が精一杯伸ばされている。
「つまりぜーちゃんがかわいい!?」
「だと思うよ。かわいい子が名前呼んでくれて、色々大事なものが剝がれないように頑張ってるんじゃないかな」
「だいじなもの?はがれる?」
「フレアが雨丸みたいになるって想像できる?」
ぜーちゃんはしばし考えた。それはもう、真剣に。灯火がちょっと笑っていた。その結果は。
「できぬ!」
デン!と効果音がつきそうな凛々しい声であった。私が出来ないのはまだしも、ぜーちゃんにも出来なくて灯火は笑っている。きっと、八鐘の言っていた通り本当にまじめな人なんだろうな。
「明日来たらいっぱい呼んであげようね、ぜーちゃん」
半笑いの灯火にそういわれ、ぜーちゃんはうん!と元気いっぱいに返事をした。実に優しい子だと思う。
「さて、丁度急ぎも片付いたので。ぜーちゃん、遊ぶ?」
「あーそーぶ!さっきねらいらいと変な音の出し方発見したんだよ!」
「そっかあ、どうやるのかな」
ぜーちゃんはふふんと自信ありげに手を口に当てて、何やらもごもごと手を動かして……ぽふん、と気が抜ける音がした。ぜーちゃんの口元から発せられた音に思えるが、喉から出ているような音ではない気がした。まるでラッパみたいな音。不思議そうにしている灯火と私を見て、ぜーちゃんは手を離して満足そうに笑っていた。
「ンフー。らいらいのオスミツキよお!」
「すごいね。らいらいとは音探ししてたの?」
「そう!プランター動かす音もできるよ!」
そう言うとぜーちゃんは口をもごもごさせて、じゃりじゃり言い始めた。プランターを引きずる時の音に似ているけれど、今聞こえるのはぜーちゃんの声だとわかるもの。懸命にマイナーな物真似をしているぜーちゃんが面白かったのは私だけじゃなかったようで安心した。
「ふふふ、ふふっ……かわいいね、ぜーちゃん」
「じゃむっ……かわいかろう!似てた?」
「かわいいねえ」
「にてた!?」
そのあともぼかし続けて笑っていると、ぜーちゃんはジッと不満げに口角を下げてから、ぱかっと口をあけた。
グエェ、と。
おそらくそれはげっぷの音である。一瞬の静寂。
「どうだ!」
何と言わないのは、完成度を誇っているからだろう。こればっかりはあまり誇らないでほしい。
「ぜーちゃん、自慢げにしないの」
灯火が苦笑いしながらぽんぽん撫でた。
「ふんだー」
「ごめんね?上手だったよ、プランターの音……ふふ」
「ともしびぃーなんでわらうのだ」
何でプランターを引きずる音なんだろうとは聞かないけれど、多分灯火も同じことを考えているんだろうな……といった所で、一階がどたばたと騒がしい事に気が付いた。ぜーちゃんを一撫でしてから、様子を見に行くことにした。


夢見が悪かったらしい子が興奮して、それに釣られて楽しくなっちゃった子が一階を爆走していたのを非番の雨丸と何とか捕まえて落ち着かせたり、夢見が悪かった子を見守りつつ横では雨丸に対して非番の人がやたらと来てはいけないだろうと魔族の子に窘められてたり、ぐっすり昼寝してしまっていたらしいカンと料理を手伝う気の子たちが厨房に駆け込んでいったり。夢見が悪かった子は口にしたくないほどの夢を見たようで、かたかたと振動が伝わるほど震えながら動けない様子だったから、帰宅早々ではあったが人を落ち着かせる力があるエンジェルに任せたあと、夕飯を食べさせないと食べない子を見たり片付けを手伝ったりして、ようやく柊の部屋に夕飯を届けに行く。
ノックをしてから、返事がないことを確認して扉を開ける。内側から鍵が掛かっていない限りは開ける。
「お夕飯……」
思わず声が途切れた。
「ススくん、助けてくれんか」
茶化したように言うが、実のところ珍しい光景だと思う。すっかり日が暮れた時間に八鐘がいるのも、人を巻き込んだまま寝ている柊も。持ってきたお盆をテーブルに置いてからじっくり見ていても、起きる気配がない。寝たふりというようにも見えないのは、ゆっくりと深い呼吸が繰り返されているからだろう。警戒している時はもう少し呼吸が浅いと思う。
「柊、八鐘のこと好きなのかな」
「それはなさそーだけどなあ。ほぼ喋ったことないんだけど」
八鐘は今、ベッドの上で蹲るような姿勢で寝ている柊の下にいる。普通に喋っているが、八鐘の体では相当重いのではないだろうか。喋っていても動かないしとりあえず動かそう、と指先を柊の腕に近づける。
「ぐえ」
指がふれた瞬間、柊が身じろぎした。八鐘にしがみついたらしく、うめき声がした。
「柊、驚かせてごめんね。少し動ける?」
起きたかと思って声をかけてみたけれど、反応はない。ゆっくりと触れなおしても動かなかったので、触れる面積を増やす。ゆっくりたっぷり時間をかけて、八鐘が抜け出せる程度に柊の位置をずらした。八鐘を掴む力が弱かったのが幸いだった。
「ふいー、このまま柊と一晩過ごすところだった。俺は良いけど」
ベッドと柊の間から抜け出した八鐘がぐっと伸びをした。
「帰らないと大変なんでしょ」
「んふふ。愛されるって大変だあわ。どうしたのかねえ可愛くなっちゃって」
八鐘は柊の髪をぐしぐしと雑に撫でたあと、髪の束をすくい上げて口付けをした。それでも柊は呼吸をするばかりで、抵抗も何もしないまま寝ている。元々動かなかったといえばそうなのだけれど。
「完全に寝てるよねえ」
「寝てるふりには見えないもんね……やっとぐっすり寝れたのかな」
「そうかもねえ。一晩置いておけるものにしといてあげて」
八鐘が目で指したのは夕飯のお盆だ。流石にハンバーグやおひたしなどの料理をそのまま置いておくわけにもいかない。
「そうする。八鐘、食べる?」
このまま冷蔵庫に戻して明日のご飯に回してもいいが、まだ温かい料理を冷やすのも勿体ない気がした。
「いいのー?お味噌汁だけちょーだい。ここんちのお味噌汁好き」
「他と違う?」
「カンちゃんのお味噌汁って野菜くず煮てから作るから日によって風味が変わるじゃない?……スス、ちゃんとご飯食べてる?」
「相席を求められた日は」
今日のように食べさせることだけ求められる日は食べていない。忘れる。
「ゾンビらしく食欲に従って食べろいやい。今不都合がなくたって突然飢餓状態になって動けなくなるかもしれないんだぞ」
「そう……か。うん、動けないの困るね。なにか食べるようにする」
空腹は感じるが、その感覚も慣れてしまって後回しにして忘れることが多い。三日も食べないと主張が激しくなってきて食べるが、大丈夫だと思ってきていた。八鐘の言うとおり、いつ大丈夫じゃなくなるかはわからないのだ。なぜ大丈夫なのかわからないのだから。
「そうしな。食費込みなんだから勿体ないぜ?」
「それは別に構わないんだけど……おいしいよね。作りたての焼きおにぎりとか……」
「おいしいよねえ。いっぱいお食べよ」
冗談めかして笑うと、八鐘は味噌汁のお椀だけ持って部屋を出て行った。
柊は、ベッドの上でうずくまったまま。静かな部屋の中で、もう少し見守っていようとじっとしていると聞こえる、寝息に混じった微かな音。時折、小さなうめき声が混じっている事に気が付いた。いびきでもないし、歯ぎしりでもない。具合が悪い時に漏らす声のような、小さな声。何か悪い夢でも見ているんだろうか。
そうっと、そっと。自己満足から伸びた手を止める術はなく、美しく艶を取り戻した黒髪に指を通す。指に伝わる熱。耳がぴく、と動いたものの起きる気配は無く。四回くらい、ゆっくりと髪を梳いてから、離れる。できるだけ音が出ないようにしながら、夕飯のお盆をもって部屋から出た。



一応許可は取れていたけれど、実質職務放棄をして一晩。触れている間はうめき声が止むことに気が付いたのをいい事にずっと柊の隣に居た。お日様がカーテンの隙間から朝を告げて来る時間に、息をするだけだった体が生き物らしい動きをした。ずる、と崩れるように横倒しになった柊から自然と手が離れる。髪が顔にかかっていて表情が読めないから、髪をよけるとまだ眠たそうな瞳が覗いていた。
「おはよう、柊」
私の行動に、柊はどう反応するのだろう。上から見下ろしている私と、柊の視線が噛み合う感覚があった。何かを言おうと口が少しだけ開いたものの、しばらく音は出ない。ぼーっとしている柊が、私を見上げている。
ああ、と少しかすれた声が聞こえた。
「なにを」
している、までは続かなかった。警戒心も敵意も無さそうな、純粋な疑問といった様子で、三文字の言葉に対する返事を待っている。
「撫でてた」
事実だけを告げる。柊はぱち、ぱちとゆっくりと瞬きを繰り返していた。
「お腹すいてない?パンとお菓子はすぐ食べれるよ」
柊はゆっくりと上半身を起こした。私と向かい合う姿勢になる。
「なぜ」
それは私の撫でてた、という言葉に対する疑問だろうか。
「苦しそうに見えたから。撫でると落ち着くように見えた」
「くるしそうに?」
「うん。嫌だったら出ていくよ」
柊は否定も肯定もしなかった。その代わりに立ち上がって、テーブルに置いていた一斤の食パンを袋ごと持って、ベッドに戻ってきた。切ってはあるものの、柊は袋を開けて二枚掴み取ると、そのままかじりついて静かに咀嚼して、やがて飲み込んだ。それを繰り返してあっという間に消えた食パン。器用なもので目に見えるパンくずは出なかった。
「まだ食べる?」
空っぽになった袋を受け取りながら聞く。柊は少し考えた後に喉が渇いたと呟いた。ハムとチーズなら挟めるから、サンドイッチでも作って一緒に持ってこよう、と数時間ぶりに部屋を出た。
個室から出るとすっかり明るくなっていた。まだベッドで寝ている子も、起きてはいるがごろごろしている子もいる。朝の光景を眺めながら、一階の厨房に向かう。
「おはよーススちゃん」
朝食の支度を始めようとしていたらしいカンがいた。朝食はお手伝いしてくれる子がいたりいなかったりするようで、今日は一人だけのようだ。私が料理に時間をかけすぎることを知っているので怪訝な顔を向けられている。
「カン、トヌル。おはよう」
「お手伝いしてくれるのかな?」
カンの冗談に対して、トヌルが申し訳ないが心からやめてほしそうな表情をしていた。私も慣れたい気持ちだけはあるんだけどなあ、なんで出来ないのだろう。
「いや……サンドイッチ作っていこうかと思って、あとお水。自分で作るから大丈夫」
「そっかー。柊ちゃんの好きなものわかったらぜひ教えてほしいかな」
うん、とうなずいて会話を終えてから、サンドイッチを用意する。まな板に食パンを一枚乗せて、その上にパックのハムとスライスチーズを乗せて、もう一枚食パンを乗せて、真ん中で切り分けるだけ。切り分けるのにだいぶかけてしまったけれど、ちゃんと切れた。ちょっとだけケチャップつけようかな。
と、挟んだだけのサンドイッチと呼んでいいのか微妙な代物が完成した。これだけでもおいしくはなる。既製品万歳だ。食パン四枚分、四個のサンドイッチを作ったから、後はピッチャーとコップを用意して、水を注いで。
「ススちゃん、これも持っていきなー」
準備できた、と思った私の前にカンが乗せようと思っていたお盆を出してくれた。そこにはスクランブルエッグとブロッコリーが乗っていた。熱を感じるのは作りたての証拠。
「食べなかったらススちゃん食べてね」
「カン、ありが……ありがとう」
お礼を聞く前に行ってしまったので聞き取ってもらえたか確信は持てなかったけれど、お礼を言いきってから全てをお盆に乗せて、四階を目指す。上から降りてくる子とぶつからないように気を付けつつ、無事に個室にたどり着いた。

顔をしかめた柊が待っていた。
「喉が渇いた、と言っただろ」
「たべる?」
聞くと、相変わらずうんともいやとも言わない。お盆ごと差し出すと、少し間を置いてからサンドイッチに手を付けていた。ピッチャーはテーブルに置いて、お盆はベッドの上に置く。コップに水を入れてから、柊の隣に着席した。しばらく食事をする柊を見ていた。
「お前は食わないの」
サンドイッチを飲み込んだ柊が、そういった。少なくとも他人に興味はあるようだ。
「私は大丈夫。全部食べていいよ」
「そう……」
柊はそのまま、サンドイッチとカンがつけてくれたスクランブルエッグとブロッコリーも食べきったのを見届けてから、コップを差し出す。素直に受け取ってぐいっと一気に飲み切ると、ふうと一息ついた。机に置いていたビスケットが包みだけになっていたのを見るに、かなりお腹がすいていたようだ。
「朝ごはんも作ってるから、もう少し待ってね」
「別にいい……足りた」
「それは嘘」
この身長ならもっと食べるだろう。言い合いになる事を察したらしい柊はそれ以上何も言わなかった。
柊も起きたし、繋ぎのものを食べた。お風呂には入るだろうか。
「スス」
柊は私を見ていた。私を見て、名前を呼んでくれた。私はそれだけで、柊の望むことを何でも叶えたくなる。どんな言葉が続くのだろう。私は何時間だって待てる。平和に怯えた顔を平和で溶けるようにするためなら。話をしたそうに、何を話したらいいのか迷っている幼い子のためなら。

「違法種」
たっぷりと、時間をかけて選ばれた言葉だった。
それが意味するのは、抱きしめたくなる過去を持っているだろうということ。そして柊は、おそらくそれを望んでいること。
「俺は違法種……っていうらしい。親が人間だった。……でも俺は失敗だったらしい。よく聞くような……処分されなかったのは幸運だったのかな」
何が失敗だったのかはわからないが、違法種の処分は前もって準備しておかないと難しいという話は聞いたことがあった。失敗作は危険で、すぐに肉塊に戻せないなら放った方が安全だという、噂。柊の親は、完璧に作れると思ったのかもしれない。
「最初はそれなりに……なに、良いナリしてたからな。生き残って金持ちに囲われたときに、そこが家だと思ったんだ……所詮は裏稼業だ、贈り物か何だか知らないが、包んで渡されて二度と帰らなかった。まあ帰るつもりもなかったが」
柊が目を伏せる。記憶を消化するように、ぽつりぽつりと紡いでいた言葉が区切られた。柊は今、何を見ているのだろう。
「何になる?」
話し始めたことへの疑問。
「私が聞きたい」
私が話を聞きたいと言っていたのは事実だ。話す理由はそれでじゅうぶんだろう。私のせいにしてしまえばいい。
「そう……そう。……まあ、何。結局頼る……とか、信頼とかできるやつ、居なかった。盗みとか殺し方教えてくれた奴は死んで、そっからは一人。力は強いから用心棒とか臨時戦闘員とかしてた。そんでこの前死にかけて、乗り込んできた人間にとっ捕まって……からー、あいつ商品の掃除でもしようとしてたのか?見張りを巻き込みやがって」
「人間が乗り込んでくる商売っていうと、やっぱり奴隷商?」
「あ?……そうだよ。ぜってえバレるのに表の人間かっさらってきやがって馬鹿じゃねえの。あと三日で終わりだったから終わったらソッコー逃げようと思ってたのに。あいつ死んだのか?」
口調が砕けてきたのは思い出し苛立ちのせいか、素なのか。
「表の人に手を出してるからなあ、死んでるんじゃないかな。さらってきてすぐだったなら、元々裏の方に用事があるような人が手を回したんじゃない?」
「だろーなあ、人間の子供が来て二日目の朝方か?商品部屋に液体撒いて閉じ込められて子供は皆死んで、背が高いのもそのうち死んだ。悲鳴だけで何も撒き散らさなかったから助かった」
「よく生きてたね。耐性ある?」
「さあ。商品は死んでたけど俺だけは生きてた。体がデカいから回りきらなかったんだろうって医者っぽいのが言ってた。俺も商品だと思ったらしいから保護したんだと……だから生かされたんだろうな」
「そっか。柊は良かったと思う?」
「知るか」
後悔していないならよかった。だが、喜んでいるわけでもない。喜べとは思わないけれど、一つくらいは良い事があったと思ってくれたら嬉しい。
「お前は」
立ち上がるようにゆるりと、暗い赤色が私を見つめた。
「よかったと思うのか?」
多分、柊は質問を返しただけ。話し方やその内容からは想像できないほど、純粋な問いだと感じた。
「よくも、わるくもないかなあ」
「そうなのか?」
「私はここで保護しますって話を聞くまで、柊の事知らなかったから。柊のことを知ってから、ここにいてくれることは嬉しいと思うけれど。生き延びたことそのものは、どちらでもない」
不可解そうに顔をしかめられた。まあ良いか悪いかしか選択肢がないのなら迷いなく良かったと思う。ただそれは、柊だからではなくなってしまう。それは言いたくない。
「てっきりよかったっていうのかと」
「嘘をつくとびっくりするくらいすぐバレるんだよねえ」
「なにそれ。……お前から見たら、俺は良かったのか?」
「よかったと思う」
柊は、別に終わりにしようとはしていない。この世と命に絶望しているようには全く見えないし、きっと這ってでも生き抜こうとしていたと思う。だから、迎えるときもすぐに落ち着いたんじゃないかと。柊にとっては、良かったんじゃないかなあ。
「そう……俺、よかったのかな」
「柊、死にたくはないでしょ」
「そりゃそうだろ。……そっか、俺生き残ったもんな。あのままだったら死んでた」
「うん。こうやってご飯食べれるし、悪くはないんじゃないかな」
「そうかも。……でも俺……」
赤色が、また彷徨った。
「柊。あなたは弱くない。これから弱くなるわけでもない」
今まで頑張ってきた全部が、無くなってしまうわけじゃないんだよ。確かに、頑張ってきて身に着けたものを常に振るえる環境は私たちが奪ってしまったけれど。無いわけではないし、頑張ってきたことは消えない。
「寝てるだけだ」
「そうしたいんでしょう?」
「したいけど。そんなん生ゴミみてえなもんだ」
「やることはたくさんあるよ、柊。それをやるかやらないかを選ぶことができるようになっただけ。柊は今まで、やらないといけなかった」
生きることだけをひたすらに考えていたから、純粋さを守れたんじゃないかと思うのだ。多分、多分だけれど。柊はきっと、与えられてきたものも、奪われたものも少ないのだと思う。
「選ぶ?」
「うん。例えば今、朝ごはんの準備を手伝ってる子がいる。目覚めが悪くて不機嫌な子をなだめてくれる子がいる。逆に不満があって邪魔をしたり、机の上で走り回ったりする子もいるし、ずーっと遊んでる子もいる。柊は何したっていいんだよ」
赤色が困った。露骨に、わかりやすく、困った。
「なにを……しても?……何をする?」
「何でも」
「なに……寝てるのは……」
「だらけてる、でもそうしていいんだよ。身の回りのことを頼ってもいいし、頼らなくてもいい。私たちはそれを見てかわいいかわいいって言ってるだけだから」
柊は難しそうな顔をしていた。もし柊が、落ち着いていられないなら手伝いを頼んでみよう。このまま寝ていたいなら触り心地のいいクッションを用意しようかな。
「選べるだけだよ、柊」
「選ぶ……頼らなかったら強い?」
「強いと思うなら」
「お前は思わない?」
「私には強いも弱いもない。私だけじゃなくて、ほかの人にとっても」
「なんでだ。動けない奴は、弱い」
「うん、弱い。客観的に見れば弱いね」
なら、と噛みつきそうな勢いだった柊の両頬を手のひらで包む。あったかい。
「私たちにとって差はない。いや……まあ、ここまで思うのは私だけかもしれないけど。弱いから助けるとか、強いから放任するとか、そういうのは無い。頼られたことに対処するだけだよ」
柔らかい頬。手を離すと、柊が手を目で追ってから、また私の目を見る。
「私たちにとっては、ね。柊が強くあることを否定しないから」
「つよく……」
つよく。何かを探すように零れ落ちた言葉。
頭のてっぺんが見えた。うつむいた柊から黒い髪がベールのように垂れる。それは私と柊を隔てるようで、一人きりで何かを考えているような姿。歩み寄ろうとする姿勢をすっ飛ばして抱きしめたくなるのを意識して抑えないと、無意識にやってしまいそうな気がする。
「つよく……いれば」
いれば。
そこに何が続くのか、ぼんやりと言葉の輪郭が浮かぶ。
「ほめ……て。くれ、ると……思って」
震えた、小さな声。
「い……一回、だけ。ちゃんと。できた、ときに。よくやったって……いってくれた……弱いのはダメだ、怒られる……甘えんなって……」
柊が唯一、与えられたものだったのかもしれない。
「弱者は奪われる。潰される。弄ばれる。殺される。だからお前は強くならなければならない、劣勢でも吠えて、最期まで強くあれ」
震えた声ながら、なぞる様に呟く言葉はっきりと力強く。その人の言葉だったのだろう。
「だから……」
柊自身の声は、寂しそうだった。
「柊は、強いままがいい?」
何でもできる、一人で大丈夫な柊のままを、望むのだろうか。そんなことはない、とは言いきれない。だからちゃんと、聞かないといけない。
遠くから、賑やかな声が聞こえる気がする。
「わからない……でもせんせいは……でも……せんせいは、もう、しんでる、だから、もう、ほめてくれない」
確かめるように。
「じゃあ……だれも?ほめてくれない?」
「ううん。ほめてくれる」
「誰が」
「みんなが」
「みんな?」
また、赤い瞳と視線が合う。
「私も、灯火も。今まで遊んでくれた子たちも、えいも」
「つよいから?」
「強くても、弱くても」
欲しかったものを思い出して、あふれでたものを落とすだけの瞳。
愛おしいと、思う。思うけれど、一つ考えてしまうことがある。
どうせ作るなら、愛情への渇望を削ぎ落してしまえばいいのに。まあ、そんなことはどうだっていいのだろうな。私だってそうだ。
「今まで頑張って、えらかったね」
何も拾い上げられなくなるほど、何もなかった柊はなにを好きになるだろう。唸らずに眠れるようになるだろうか。好きな食べ物ができるだろうか。みんなと遊べるかな。
もういいだろうか、と。腕と体の隙間から背中に手を回して、ぐっと抱き寄せる。柊が自立を少しでも望んでいるならと考えたけれど、少なくとも今は皆に甘やかしてもらうべきだ。柊がずっとそれを求めていたなら、まずはそれでいっぱいにしよう。
しがみつくように抱き返してくれる大きな体の震えが止まるまで、ゆっくりと髪を梳いていた。


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