ふたつめ
ブランコ
つい先日会ったばかりの人が、倒れていた。
驚きで声を出せないまま抱き起こすと、弱々しく謝られた。四階の廊下で倒れていたので、近くの部屋まで入ってベッドに休ませたところ。
「フレア、無理したの?」
二ヶ月ほど療養していたらしく、挨拶をしたときもあまり元気ではなさそうな印象を持った。血色が悪いようには見えなかったが痩せすぎているように見えるし、階段をのぼるのが辛そうだった。そして今は顔色も悪い。
「すみません……迷惑を……」
「ううん。みんなフレアのこと待ってたみたい……一人で居ると思わなかった」
「休むと……戻れそうになくて……心配を、かけたくなかったので…一人に……」
「それを無理っていうんだよ。こっちのが心配かける」
「すみません……」
灯火と八鐘に話してくる、と部屋を後にする。
フレアは、いわゆる正規の職員じゃない。派遣と同じお手伝いするための人だけど、派遣じゃなくて直で雇っている、つまりアルバイトの人。アルバイトといっても、みんなは待ち遠しくしていたようだった。体が弱かったわけじゃないみたいなんだけど、二ヶ月も療養するような体調不良でここまで弱ってしまうのか、と気持ちがざわざわしている。
玄関の掃除をしている灯火がいたから、二度手間になるしと保健室まで引っ張ってからフレアのことを話した。灯火があぁと頭を抱え、八鐘も難しそうな顔をした。
「俺も復帰は早いと思うんだよねえ。元通りになってからーとは、言わないけど」
「私もそう思いましたし、八鐘先生と説得を試みたんですが……大丈夫の一点張りで。雨丸のような無理をする人ではないしと折れてしまったのがよくなかった」
「なんか変だったよね、あの子。灯火が穴あけるなーって言ったからかな?」
「えっ」
「冗談。話を聞いたほうがいいかもね」
灯火は動揺を引きずりつつもうなずいて、私が休ませた場所を聞くと保健室を後にした。
「八鐘はいいの?」
「ん?あー。説得してきた二人につめられたら本人も辛いでしょ。灯火に呼ばれたら行くよ、意識朦朧で死にそうではなかったでしょ?」
「うん。……八鐘、フレアってどんな人?」
挨拶をしてからも中々会うことがなく、どんな人柄なのかは全然わからない。興味はあったけど、ずっと誰かと話しているフレアに近寄って個人的なことを聞くというのはおかしい。
「フレアねぇ〜。あの子はどうなんだろう……」
どうなんだろう。八鐘は私のことを見ているけど、私じゃないもの、もっと遠くを見ているような気がした。
「あの子がバイトちゃんなのは知ってる?」
聞いた。軽くうなずくと、八鐘もそれを返してくれた。
「フレアのフルネームは?」
それは知らない。フレアが全てじゃないなら、名字があるのかな。名字があるということは身元がしっかりしていることになる……と、内心驚きつつ首を横に振って否定した。
「イフレアエス」
八鐘の発した言葉は何を言ったのだろう。と、一瞬本当にわからなかった。呪文のような言葉は、フレアの本名。多分、私はぽかんとしていたのだろう、八鐘がうっすら笑っていた。
「純粋な人間なんだけどねー、なんか色々あるみたい。詳しくは話してくれないんだよね。言い切ってはないけど亜人排斥派っぽい言動もしてたことあるし、なんでここにいるのやら」
「フレアが?」
あんなに囲まれてたのに。想像ができなくて想像上のフレアが棒立ちになってしまった。
「正直、俺もよくわからんのよ。勤務態度は至って真面目、遊びには応えるし避けたり意地悪もしない。排斥派には見えないんだけどー、ちょろっと話してみたら獣系の子たちを亜人とは認めないって言うし、お仕事終わるとさっさと帰る。何でここで働いてるのかわかんないよねえ?」
個人シッターならともかく、こういう施設に非正規職員として勤める事で得られる賃金は多くない。理由もなくわざわざ亜人の保護施設で働くのは仕事に困るような身元の人が多いと思うが、身分証明がゆるくてもいい仕事は他にもある。
「それが、無理して仕事に復帰したがって、倒れる無茶をしてる。どーなってんだあの子?」
確かに、行動原理がわからない。
「まあでも……休む前、様子がちょっと変わってた気はするんだけどさ。休んでいる間に突然やる気に満ち溢れるもんかねえ」
仕事が終わってすぐに帰るのは悪い事ではないが、そうだった人が復帰を急いだ理由がわからない。まあ、私に関係がある事ではないのだ、これ以上聞いた話だけであれこれ考えるのはやめておこう。フレアが辞めない限り、ゆっくり知っていくことになるはずだ。
首を傾げていた八鐘にお礼を言うと、有り余る袖をひらひらと振って見送ってくれた。
いつの間にか増えていた、破損した布製品の修繕をしていた。私は糸と針で簡単にくっつけることしかできないけれど、どれだけしっかり直しても一時間後にまた破けている、なんていう事がよくある。シーツなどはしっかり直してもらうとして、エプロンなどの破けやすいものを選んでは糸と針を通してくっつけていく。染み付いた汚れがあるものなどはウエスにするので分けておく。そうして一時間ほど、十五枚を直して六枚ウエスに分けた。破損具合は様々で、すぐに直せるものと少し時間のかかる規模のものまである。
「ススは色んなことが出来るんだな」
隣にいる観客が私の手元を覗き込む。こういう時、どう返事をするべきなのかわからない。謙遜のような事実か、相手に話を逸らすか。
「エンジェルにも、ねいねにも出来るよ」
後者を選んでみた。ねいねは名前を呼ばれてウロウロするのをやめて、腕の隙間に頭と体をねじ込んできた。
「危ないよ」
と言いつつ、ねいねは話を聞く気がないだろうと踏んで腕を上げる。案の定、ねいねは膝の上に鎮座して満足そうにしていた。この子が飽きるまでは続けられないな、と一度作業の姿勢を解くことにした。
「僕にもできる?」
「見た目通りのことしかしていないから」
「ふふ。そうだな、やればできるかもしれない。ススは出来てすごいな」
できてすごい。実際にやっていることを褒められているのかな。
「ありがとう。仕事だから」
「ちょっとくらい喜んでもいいのに。しかも仕事じゃないだろう」
仕事じゃない、なんてことはない。私も善意でここまでしない。なぜ仕事ではないと言うのだろう、と問いかける気持ちでエンジェルを見る。エンジェルは端麗な顔をゆるめてこちらを見ていた。
「仕事だよ。私、そんなに頑張る性格に見える?」
「見えるよ」
そうも素直に言われると背骨がぴりぴりする。落ち着かなくてねいねのつむじに手を置くと、一瞬耳が真っすぐに立ち上がってからゆっくりと、猫でいうイカ耳のような形になった。
「照れた?」
「いや……気まずい?」
「なぜだ。確かに、直していることもあったが……大体、新しいものを用意していたんだ。手間だからと」
「まあ、確かに手間だけど……でも、新しいものが苦手な子が多いし、流石に大きいものは直したほうが安いし」
「それを当たり前としているの、ススだけだと思うな」
「当たり前ではないよ、時間が無かったらそうする」
「ん-もう、ああ言えばこう言う」
エンジェルが大げさに面倒臭そうな、そんな笑みを浮かべている。その手前で、ねいねの耳がドーベルマンのような形に立ち上がって、器用さに声が漏れた。
「見てエンジェル、ねいねの耳」
「見ているよ、器用だね」
同じ感想を持てて嬉しくなった。注目が集まったことへの反応なのか、ねいねからぎゅーんと謎めいた擬音が聞こえた。
「僕はさ、ススに興味があるんだ」
和やかな空気の中で、紙を一枚落とすようにエンジェルが呟いた。
「興味?私、そんなに面白いかな」
「うん。ススはよくわからない」
「私自身もよくわかってないよ」
私の返事に目を伏せて、口元はゆるやかな曲線を描いて。
「そのよくわからなさを、解釈したいんだ」
私は観察対象だと言われたような気がする。面と向かって真っ直ぐに言われると、仕返しではないが同じ興味を向けたくなる。
「私も、気にしていい?」
「ん?」
「エンジェルが何になるのか」
何かになりたいエンジェルが、どうなるのか。何になるのか。私の言葉に、エンジェルは少しの間驚いたような、何か落としたような顔をしていた。
「気になるの?」
そして本当に興味があるのか、と問いかけるような言葉が返ってくる。私は元々思っていたことを口にしただけだ。
「よくわからない私より、よっぽど面白いと思うな」
少しの間、ねいねの発する擬音以外に、何も聞こえなかった。もう一度ねいねのつむじをつつく。
「ふふ、ふは、あはははっ!」
何だか愉快そうなエンジェルの笑い声が響いて、ねいねはそれにびっくりしたようだ。耳が跳ね上がったあとに、濁点のついた鳴き声で抗議していてる。エンジェルは笑いながらねいねの頬を指で撫でた。
「そう、ふふ。僕が何になるのか気になるのか」
「何かになりたいんでしょう?」
何になりたいのかも知らないけれど。この強く濃い輝きを持つ存在が一体、何を目指したいのか。まあ、そんなエンジェルの指に噛みつくねいねを見ているとそうやって興味を持つのも私くらいなのかもな、と思う。この人から、どうも足が浮くような不思議な気配を感じているのは、私だけなのかもしれない。
「僕が地を這う肉塊になったとして、興味を持ってくれるのはススだけかもしれないな」
そんなことにはならんだろう、と言うのはやめておいた。別に本気で言っているわけでもないだろうし。
「蹴とばされないように拾い上げるよ」
「まあ、優しいのね」
小鳥のような茶化した声だった。エンジェルは何だか満足そうにしているけれど、私はよくわからないままだ。この一か月間でエンジェルについての情報はほとんど増えていないのだ。保護されていて、先生側の手伝いをしつつ学校に通っている素行の良い人、くらいなもの。話す機会もあまりなかった。珍しく連絡の意味を持たない声をかけられて驚いたほどに、エンジェルが干渉してくることはなかったのだ。
そしてわかった事といえば、やっぱりよくわからないという事だけ。アルとも違う、何を考えているのかが想像できない。表情も行動も、演技じみて見えるほど綺麗だからだ。
ただ、何となく。単に人に声をかけるということがそこまで得意じゃないのかもしれないな、と頭に浮かんだ。その根拠はまだついてこないけれど。
「ねいね、そろそろ許してくれないかな」
ぼんやりしている間に、エンジェルが困った顔をしていた。ねいねがずっと指を嚙んでいるらしい。むーと低いうなり声が続いている。
「ねいね」
名前を呼んで耳を手のひらですっぽりと包み込むように握ると、口がかぱっと開いた。痛そうな噛み痕が残っている。それを見てから手を離すと、ねいねが私を見上げた。
「ずー」
不満そうに唸るねいねの髪の中に指を通して、マッサージするように若干揉みながら撫でる。耳が脱力してくたっと斜めになった。ねいねから出ている音が消えるまで撫でていたが、エンジェルはそれをじっと見ていたようだ。
「ねー」
すっかり機嫌が良くなったねいねが、私の片手をぎゅっと握った後に、エンジェルの服をつかんだ。
「やるー」
やる。さっきまでの修繕をしてみたいのかな、と裁縫箱を近くに寄せると、ねいねは興味ありげに覗き込んでた。エンジェルもやる?と聞いてみようと出しかけた声を、飲み込んだ。
エンジェルの後ろ、というか部屋の出入り口に、まだ顔色の悪さが残るフレアが立っているのが見えた。私が後ろを見ていることに気が付いたのか、エンジェルも振り返って姿を確認して小さく声を漏らしていた。
「フレア」
果たして用事があるのは誰なのか様子を見ている間に、エンジェルが声をかける。その声をまるで入室許可のようにして、浅く頭を下げてからこちらに歩いてくる。足取りはしっかりとしているようだった。
「お邪魔して、申し訳ありません……少し、よろしいでしょうか」
それはどうやら、エンジェルに対して話しかけているようだった。ちらりと私とねいねを見て、申し訳ないというのは本心らしい表情をしている。
「フレア、体は大丈夫なのか?あまり良くなさそうだと聞いたけれど」
「お気遣いいただきありがとうございます、ご心配をおかけして申し訳ありません」
明るい茶色の髪を垂れ下げ、畏まった様子で頭を下げている。フレアは、ここまで他人行儀に話す人だっただろうか。挨拶の時も、ここまで畏まってはいなかったと思う。
「フ、フレア?なんで、そんなに……」
エンジェルが動揺している。エンジェルに対してそうだったわけでは無さそうだ。フレアはどこか居心地が悪そうに目線を逸らし、頭を下げている。はっきり言って、おひるねの庭においてはかなり異常な状態だ。
「それを、含めて。お話したいことがあります」
その声は、とても重く感じた。
不安そうに表情を歪めたエンジェルがフレアと部屋を去るとき、ついて行こうとしたねいねを止めた。何を話すのだろう、と考えてもわからない疑問を遠くの方に投げ捨てて、膝の上へ律儀に戻ってきたねいねと一緒に、エプロンの修繕作業に戻ることにした。
あの後、何を話していたのかを聞くことは無かったが、結局フレアは、もう半月ほど休養することになったと成祈が教えてくれた。
