逃避行

「小エビちゃ〜ん、ほらほらぁ、早く早く〜♡急がないとぎゅーって絞めちゃうよ〜」

後ろから聞こえるのは心底楽しそうな声。
突然始まったこの終わりの見えない追いかけっこ、文字通りの本気の鬼ごっこの方が表現的には近いかな。
ことの始まりは放課後にレポート提出し終えた達成感の中1人で歩いてたら遠くからこの人が走ってきて、開口一番「小エビちゃん見ーっけ、ねぇ鬼ごっこしよ?オレが鬼!捕まえたらどうしよっかなー、んー……じゃあオレの寮に持ち帰って、小エビちゃんに好きな事をする!」とか凄い笑顔で言ってきて、本当に突然の事過ぎて流石に冗談だろうと思って「いやまたまた」って言いながら笑ってたもののどうやら正真正銘のマジなやつだわコレというのに気がつき、とは言っても今更時すでに遅し過ぎるし魔法もろくに使えない自分がどうしろと?という気持ちで逃げ方なんてイマイチ分からずおろおろしていた所、その様子に痺れを切らしたフロイド先輩が流れるような綺麗な動作で放った魔法による人体への攻撃が自分の顔の横スレッスレを飛んで行って腰が抜けるかと思った。


「次は片足、その次は胴体、その次は?どこにしよっかなぁ」


蛇に睨まれた蛙の如く全身の筋肉が強ばって動けずに居る自分に向かってそう言ったフロイド先輩の目は何故か恍惚としていて、その様子を確認して一瞬にして死の一文字が頭に浮かんだ。
そして動物的本能からだろうか、反射的に足が動いてその場から逃げるように走っていた。

尚、この本気の鬼ごっこが始まって既に10分位が経つけどフロイド先輩は絶対に本気を出していない。
見たら分かる、魔法も使えない、身体能力だって自分よりも遥かに格下で劣る相手に超満面の笑みを向けて後ろを悠々と走ってるあの人が、自分という玩具を逃がし勝負に負ける訳が無いんだよね。

好きな事する!ってさっき宣言されたんだっけ?何されるのか予想したってこっからここまで全部ろくな事じゃない。
というかまず純粋に怖い!
誰か助けてほしいとすら思う。
行く宛もなくひたすらに走り続けて息を吸って酸素を取り込む度に、酸素が通る喉も痛いし肺が悲鳴を上げている気がするしでとにかく息が辛い。
こうやってうだうだと思考する、つまり脳を使うという行為だって脳みそでは酸素を使うのだから辛くなって当然だ、消費量と取り込んだ量が比例してない、酸素が圧倒的に足りない。

疲れた、でも死にたくないと必死になればなる程後ろの鬼畜なドSは楽しくて仕方がないらしい。

絵に描いたような悪循環負のスパイラルじゃないかー!と叫び散らしながら走ってやりたい、けど何度も言う通り酸素が無いから出来ない!

……というかそもそも誰かと上手い事出会えたとして助けてくれるのかな、ここの人達で助けてくれそうな人って限られてない?
そんな考えが頭に過って冷や汗がどっと溢れる、やばい、助けてくれそうなメンツでこの時間にここら辺歩いてそうな人なんて頭に思い浮かばない。
いや待ってやだ助けて助けてくださいというかまずは今ここでこのタイミングで出会って!
後ろは見たくない、小エビちゃ〜んと呼ぶ声がどんどん近付いたり遠のいたりしてるのが更に恐怖心を煽る。
ア゙ーージャックとかエースとかデュースとかハーツラビュル寮の先輩メンツとか歩いてないかな、1番いいのは先生方!
今流れ続ける汗のようにダラダラと止まらない願望を頭の中で並べて念じていたら後ろから声が。


「小エビちゃんの為に今から40秒だけ待ってあげるー、オレ超優しーい!逃げられると良いねぇ〜」


……逃げられるといいね?40秒で?というか何、半端な数字なのが余計に怖いんですけど、え?逃げられる訳ないって分かってるくせに。
睨んでやろうと思ってちらっと後ろを見たらのんびり屈伸しててギョッとした、何で準備体操してるの?本気の前兆?逃がす気あるの?ゼロだよね?
とりあえずお互いの姿を視界から消そう、すぐ目の前のその曲がり角を曲がって……!
全速力のまま走り抜けて曲がり角を駆け抜ける、曲がってからすぐに来てないか怖くなって後ろを見たけど大丈夫、来てない、当たり前だけど大丈夫。


「!」


次はどこに行こう?逃げ場なんてあるのかとか考えながら前に向き直った瞬間、思い切り誰かとぶつかってしまった。


「すっ、み、げほっ、すみませっ……!」


立ち止まったせいで一気に足が疲れて座り込みそうになる、吸い込んだ酸素が肺へとどっと雪崩るように入ってきて咳き込んでしまいながら前を見る、そこに居たのは


「おお?誰かと思えば監督生。そんなに急いでどうした」


リリア先輩だった。


不思議そうに「よしよし」と言いながら背中をぽんぽん撫でてくれるけどどこまでも酸素を求める肺のおかげで呼吸が整わない、から説明が出来そうにない。
けど急がないと。


「ごめ、なさっ、は……あの、急がないと、ふっ……ふろ、フロ、イド、先輩から今、逃げててっ……」


必死に伝えてたら声高らかに告げられる「20〜!」というカウトダウン、肩がびくっと震える。
え?残り半分しかない。
ダメだ早く、ホントに急がないと、そう思うのに足が動かない、いやいや動いてもらわないと困る命かかってるんだって分かってる自分?


「フロイド、と言うとオクタヴィネルのあの双子の片割れか」


相変わらずこの場や雰囲気にそぐわないようなマイペースさでのんびりした口調のまま頷き、顔を覗き込んでくる。


「して、因みにじゃが捕まるとどうなる?」


どうなる?
何されるか分からないけど可能性として死んじゃうかもしれないですって言っても大丈夫なヤツだよねこれ?ダメ?頭が回らない。


「30!」


あと10秒しかない!
唇も脳も止まってたのにそのカウントダウンを聞いた瞬間突き動かされるように口が動いた。


「つ、捕まると、寮に!持ち帰り?するっ、て、それの後、フロイド先輩が自分に、好きな事をするって、楽しそうに、言ってて、それで、あの……っ、あと10秒しかないのに、動かない、足が……!」


もうダメだ、このまま死ぬしかない。
大して距離も開けられなかった。
グリムのツナ缶、誰かがやってくれるよね。
そんな事を思いながら諦めと絶望と普段運動をして来なかった自分に対しての八つ当たりとで俯きキツく目を閉じる。

そしたら低いけど柔らかい温もりを両手に感じて、それに対して驚いて思わず閉じていた目を開く。
自分の両手をそれぞれの両手で繋ぎながらニコニコ微笑んでくるリリア先輩の顔が近くにあった。


「そう悲観をするでないぞ人の子よ。とりあえずアレから逃げたいということで良いな?うむうむ、わしとしても聞いた限りではその展開は少し面白くないというもの、ならば協力するしかあるまい!」


近いとか顔が良いとか、普段なら色んなこと考えられただろうけど今はそんな事よりあの190超えの長身からは考えられないような軽やかに走る足音が近付いてくる事による恐怖心と、未だに酸素が足りないせいでまともに頭が回らない。

訳も分からないままとりあえず言われた事に対して小さく頷いたら信じられないほど凄い穏やかな声で「あい分かった」と一言。

え?え?何?何が?何が分かったの?

意味が分からず困惑してたら後ろからどんどん近付いてくる急速に走り抜ける音と「小エビちゃーん!」と自分を楽しそうに呼ぶ声。

緊張で心臓が大きく波打つ、何されるんだろう?せめて痛いのはやだな。

縋るような気持ちでリリア先輩を見たら、お互いに向けた視線が絡んだ瞬間今までにない位の笑顔を浮かべてくれた。


「それでは監督生、わしと逃避行と洒落込むかのぅ!まぁいつもは探すというか追いかける側じゃが今回は逃げる側、このわしがエスコートしてやろう!」


まるで離さないように、離れぬようにとでも言うかのように両手は確りと繋いだまま、自分を呼ぶフロイド先輩の声に対して負けない位に声高らかにそう告げながら、いたずらな、それでも楽しそうに笑うその顔は本当に無邪気で……顔が良いだけあって可愛くて、時間が止まったかと錯覚するぐらいに見惚れてしまう程だった。

その僅かコンマ数秒後ぐらいに自分の背後からは思わず背筋が凍るような雰囲気を滲ませたような怒声が聞こえて、慌てて振り返ろうとした時には視界がぐるんと反転してしまい背後を見る事は叶わず、大体2秒後くらいにはいつものオンボロ寮の自室の中に立っていた。


「……ゔ……」


視界がぐわんぐわん回るように揺れ続けるそのせいで足元がふわつく、崩れるように倒れそうになった所をリリア先輩が抱きとめる形で肩を貸してくれた。
何と言うか……三半規管をぶん殴られたような感覚。


「おっと……すまん。何せ急いでおったし咄嗟の調整の配慮が出来んかった」


クスクス笑いながらゆっくり誘導して椅子に座らせてくれて「可愛い子鹿に水でも持ってくるか?」とからかいながら聞いてくれたけど首を横に小さくゆっくりと振りながら「大丈夫です」とだけ告げる。

多分、よく聞く空間転移タイプの魔法かな?初めて体験したけどもう二度とやりたくない。
見てる限りではわあ移動が楽そう〜とか考えてたけど……魔法使えなくて良かったかも。


「ふむ、視界は……ふらつきが残るが会話はしっかり出来ておるし大丈夫じゃろう」


さっと健康診断みたいなことしてくれるの凄いな、手慣れてる感ある。
……でも……今は良くても……結構怒ってたからな……。
思い出すだけでも震えるような怖いドスの効いた声だった。


「……この時間はオクタヴィネルでは開店準備時間にあたるはず、あそこは寮長が時間に対して厳しい面もある……ここまでは流石に追って来んじゃろう」


……リリア先輩はそう言うけど本当にそうだろうか?
怒声は本当にマジなやつだったし、そもそもオクタヴィネルでのフロイド先輩の立ち位置って別にフラフラしてても構わない枠じゃなかったっけ?というかそう本人が言ってたし、アズール先輩とかジェイド先輩もそう言ってなかった?

今日だけ違う所に泊まる……は無理かな、時間的にももう夜が近い、私情で転がり込むなんて常識的に考えたって普通に迷惑になる。
マジフトして遊んでるらしいグリムもそろそろ帰ってくるだろうし……等々色々考えていたら頭をまた撫でられた。
椅子に座っているので見上げる。


「言わんとする事は分かる、じゃがやってしまった事は仕方なかろう。先の事を延々と考えたとて答えが未来にある以上意味は無い。そうじゃろう?それともお主、わしが知らんだけで実は予知能力でもあるのか?」


うりうりわしゃわしゃ撫でられる。
ごもっともだ。
先の事を考えてても仕方ない、確かにそう。
もうやっちゃった事だし……なるようになるかな。
分かりました、と素直に頷いたらいい子いい子とかされて、こんなの何年ぶりにしてもらったっけ?と思わず心が温かくなってしまった。


「それにアレは酷い気分屋と聞く、もしかしたら今頃新しい玩具でも見つけて飽きてたり忘れていたりするやもしれん」


何だろう、この人が言うと妙な安心感とかがあるせいで……本当にそんな気がしてくる。
心に余裕が出来て笑ってしまった。
微笑んだまま頷きじっとリリア先輩を見つめる、きっと今の自分の心境を察してこれだけ優しくしてくれてるんだろうな。


「今日は本当にお世話になりました、それとありがとうございます、もう大丈夫です」


そう言って立ち上がってゆっくりお辞儀をして見せたら、リリア先輩も頷いてくれて、更には笑顔を浮かべられて相変わらず良い顔だなと見惚れてぼうっとする。
そんな自分に一歩近づいた後「おやすみ、どうかいい夢を」と囁くように言いながら流れる所作で手の甲に口付けられてしまい、うわやばいな流石余裕のある先輩はやる事が違うと思ってつい「ヒェ」と声が漏れた情けない自分を見つめて満足気な表情で手を振り、一瞬で目の前から消えてしまった。
……マジックかな……?


「おーい、帰ったゾー!」


タイミング良く玄関先から聞こえてきたいつもの元気な明るい声に大きく返事を返す。
……さて、明日の自分の命やいかに?


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