第9話【黎明王の推測、兎の懸念】
自分が「ノーバディ」と知ったのは8歳の夏の時期だ。
夢で頻繁に姉さん…コゼットと交流を深めていくにつれて、彼女と私のある共通点が分かった。
「私…覚えていないの」
姉さんは、ある人の記憶が欠如していた。
そう、父さんの記憶が…。
生まれてから8年間の記憶がほとんど抜けおちていたのだ。
ザァアアアア
私の脳裏に、またしてもある映像が浮かび上がる。
姉さんは、家の傍に佇む大きな木の枝に吊らされたブランコに座っていた…不機嫌そうな顔で。
その背後から歩み寄る一人の男性。
『コゼット』
藍色の長い髪と翡翠色の瞳。
その顔立ちは、目があった瞬間に心に刻まれ、忘れる事が困難な程の美丈夫である。
姉さんと同じ色の男性…この人が父さんだろう。
何故って分かるかって? “なんとなく”。
敢えて言うなら、纏う空気が似通っているという事。
『…何拗ねている』
『……』
『町の小僧共にいじめられたのか』
『ちがう』
後ろにいる父さんの方を振り向かず、姉さんは背を向けたまま答える。
父さんは、娘のその態度に表情を変える事無く口を再度開いて尋ねる。
『…マリエルの事か』
『……』
沈黙は肯定と受け取るぞ、と腕を組んで父さんは呟く。
補足説明するなら『マリエル』というのは、母さんの名前だ。
『おかあさんは、おとうさんと仕方なくけっこんしたって…本当?』
震える声で紡いだ姉さんの言葉。
それを聞くや、初めて父さんは大いに眉を寄せた。
『誰に言われた…』
『…よく町でおかいものしに行く時にあうおばさん達』
姉さんは、ポツリポツリと話していく。
大好きな母さんと城下町に買い物をしに行く…それは姉さんにとって一番楽しいイベントだ。
いつも、顔を合わせる町の人達は気さくに接してくれる。
でも、一部の人は父さんの事を悪く言う。
名の知れた傭兵である一方、数々の屍を生みだしてきた恐怖の対象として見られていたから。
そんな彼を上手く手懐けるために、国の宰相は母さんに縁談をもちかけ、半ば強引に結婚させられてしまったのだと…噂されていた。
可哀そうに…という同情の眼差しと、父さんを悪く言われる事が、姉さんにとっては苦痛でしかなかった。
『おとうさんは…おかあさんの事あいしていないの?』
涙目で実の娘からこんな発言をされて、ショックを受けない父親はいないはずだ。
すると…父さんは、顔を俯けている姉さんの頭をガシガシッと撫でまわす。
『ふぇ…?』
『他人の言葉を真に受けるのか? お前は…』
小さな姉さんを、呆れ交りの眼差しで見下ろす父さん。
『俺は、あいつ以外を伴侶にする気はない』
『それって…』
『俺の妻は、マリエル以外にありえないと言っている。これで満足か?』
『……おかあさんのこと大好きってこと?』
おそるおそる尋ねると、父さんはフッと失笑する。
『その通りだ』
*** ***** ***
姉さんがなくした父さんの『記憶』を、私がもっていた。
タカさんも、その可能性が高いと言っていた。
私は、姉さんに謝った。
父さんの記憶を奪う形になってしまった事を…。
「リーシェはわるくない。あやまらないでいいよ」
姉さんは、少し淋しそうに笑って許してくれた。
だから、私は大声をあげて泣いた。
【あの事件】で傷ついて、弱音を吐けずに心の奥底で孤独に苛まれている姉さんの代わりに…。
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