第1章:誘拐事件は危険な出会いの始まり
その頃、リエは牢屋の中で周囲を見渡して、状況を把握しつつあった。
(この牢屋にいるのは、私を含めて三名。マフィアの関係者を除いて…向かい側の牢屋に女性が二人。隣の部屋に二人…これで全員ですね)
おそらく、行方不明になっている他の女性達だろう。
まだ、売人(バイヤー)に売り渡されていなかったのが幸いだ。
「それでは…ヘレンさんとセリアさんは、偽の求人広告に騙されて、こちらに?」
「…ええ、指定された住所に行ったら、怖い顔つきの黒い服装の人達に口を布でおおわれて。気づいたら此処にいたの」
「あの人達…誘拐した私達に『暫く我慢すれば、いい就職先へ送ってやる』って言ったの。
『帰してください』って懇願する人も勿論いたわ…でも、殴って黙らせたのよ!」
ひどすぎるわ…とセリアはその時の事を思い出したのか、眉を潜めてスカートの裾をギュッと握りしめる。
「暴力で人を支配するなんて…確かに紳士として、いえ人として許されない事ですね」
「…どうにかここから逃げ出さないと。こんな所にいたら何をされるか分からない」
セリアは、不安そうに視線を斜め下へ向ける。
「でも…あの人達、こっちが何も言わなければ、暴力を振るいませんし、食事も三食出してくれる。もしかしたら、本当にいい職場を紹介してもらえるかも…」
その時、ヘレンが顔を少し俯けたまま、意外な言葉を口にした。
彼女の言葉を聞いたセリアとリエは大きく目を見開く。
「ヘレンさん、何言ってるの! そもそも、私達誘拐されたのよ。そんな事する人達が本気で、私達の職場を探してくれる訳ないじゃない!」
「でも、此処から逃げたとしても…私達の居場所なんてない…ッ!」
セリアが必死に反論しようとしたら、ヘレンが声を荒げた。
大人しそうな印象の彼女が感情を奮い立たせて言い返してきた事に、セリアはビクッと口を噤む。
「ガヴァネスなんて…いくら知識があったって、プライドがあったって…所詮、雇い主から『貧乏人』って蔑まれて、使用人からも小馬鹿にされる…。
子どもの授業が終わったら雑用させられるか、家族に手紙を書くしかない…一人ぼっちで誰一人、味方してくれない…ッ…」
ヘレンは以前まで勤めていた上流階級の家庭での嫌な事、苦しかった事を曝け出すと、ポロポロと涙をこぼして、泣き出した。
「…でも、父や母に迷惑をかけたくなくて…いつも手紙には嘘しか…書けない。私みたいな年齢の人を雇ってくれる家庭なんて…ほとんどないし…
だったら…外国でもなんでもいいから、そこで仕事について…仕送りできれば…って」
「…私の勤めていた家庭もそうだった。
『若い娘だから』って夫人から白い目で見られたり、年齢の近い男爵から…『愛人にならないか』と言い寄られたりした」
事情を語るヘレンに触発されたのか、セリアも勤め先での辛い体験を話す。
「まあっ…! それでいかがなされたんですか?」
はしたないと思いつつも、リエは思わず聞き返してしまった。
「…その…本当に恥ずかしい事なんですけど、足踏んづけて顔に拳を叩きつけてしまいました」
「…す、すごい…」
視線を逸らして頬を紅潮させながらも、前の職場を辞めされられた理由を語ったセリアに、ヘレンも涙が止まり、ドン引きしている。
どうやら、セリアという女性は意外と口よりも先に手が出てしまうタイプのようだ。
「…お二人の話を聞いていると、英国の女性進出の難しさを感じますね」
「…リエさんは、どうしてガヴァネスになったの?」
やっぱり家庭の事情から…とセリアが尋ねると、リエは緩慢に首を左右に振る。
「少々、特殊な事情です。まだ語る段階ではありませんので保留にしていただけますか?」
「…あっ、その嫌な事思い出させたならごめんなさい」
「いいんですよ。ただ…まだ此処では口外できないだけで」
リエがそう言いかけた時、ドンドンッと鉄製の扉をノックする音が響いた。
鈍い音を立てて扉が開くと、一人の男性が顔を出した。
派手なスーツを身にまとった如何にも、マフィアらしい顔立ちの30代の男だ。
今までの黒ずくめの服を着た下っ端ではなく、上の立場の人物だと…推測した。
「新入りのレディは誰だぁ?」
「あら、私の事ですか?」
顔面蒼白のヘレンと顔を強張らせているセリアがハッと息をのんだ。
如何にも極悪そうな顔の男相手に、リエは怯える様子もなく、朗らかに笑みを浮かべて小さく挙手する。
男は、リエの上から下までじぃーと舐めまわすように見つめる。
「こりゃいい…なかなかの上玉じゃねえか! リーダーの夜枷の相手にするにゃ勿体ねえな」
「なっ…」「夜枷だなんて…!」
「リーダー…このお屋敷のご主人様の事でしょうか?」
「へっ、案外肝も座ってるな。手始めに30分後に俺が手解きをしてやるよ」
男はきひひっと下品な笑みを浮かべて、一度去っていった。
「…どうやら、このままだと私は美味しく食べられてしまいますね」
「私達もいずれ…娼婦にされてしまうのね」
「そ、そんな…」
薄々予感していたのか、セリアはままならない現実に打ちひしがれたように顔を歪める。
ヘレンにいたっては絶望を目の当たりにして、さらに泣き崩れてしまう。
「お二人とも、顔を上げてください」
悲観している二人に対し、リエは凛とした口調でそう言った。
「諦めてはダメですよ。この状況をピンチととるかチャンスをとるかによって…道は分かれてしまうのだから」
「…で、でも、こんな所からどうやったら脱出できるの…? チャンスだなんて…到底ありえない…」
泣きじゃくるヘレンに対し、リエはハンカチを差し出した。
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